新しい地球に集う会

早いもので2024年も1ヶ月が過ぎました。昨年から世界で何百年に一度の大きなシフトが起きていることに気づいている人も多いでしょう。世界の力バランスが長く続いた西欧支配から、グローバルサウスといった南半球へ、そして米国の一極支配からいくつもの国が台頭する多極型へと今世界がシフトしています。

私はいつも文明の崩壊は軍事的、または経済的な理由だと思っていました。しかし、イギリスにいてつくづく感じるのは、そういっただけの理由ではなく、簡単に言ってしまえば「強い者の奢り」とものごとの見方や考え方を変えられない「硬直した価値観」も大きな理由であるということです。

どういうこと?と詳しく書くと、論文になりそうなので、そのあたりをお話ししたり、考えたり、シェアをするズームグループを作ってみたいと思いました。その名も「新しい地球に集う会」。

私が独断と偏見で選んだ動画(アフリカやインドのYouTubeチャンネルなど)や個人的に信頼している専門家(コロンビア大学の経済学者Jeffery Sachs など)、フリージャーナリストの動画や記事を日本語にしてシェアします。日本語にするといっても、記事をまるごと翻訳したり、動画に字幕をつけたりできないため、大雑把にポイントのみお伝えするレベルとなります。それでも、日本のマスコミにはない情報がたくさんお伝えできると思います。

そして最も大切なこととして、なぜセラピストの私がこれをやりたいのか?

端的に言えば、冒頭に述べたように今世界は大きな変革の時期にあると思うのです。そこで単に世界で今起きていることを知るだけではなく、まず、

◉この大きな変化の中で「自分の内なる力に目覚める」こと

そして、例えば、世界の紛争をウクライナ側につく、イスラエル側につくというような「どちらかの側につく」という姿勢から、

◉そのような分離を超えて、すべては「私たち人間の問題」として見ていく、

◉そしてより良い世界を構築するために(ニューアースへと移行するために)「共感と愛を養う」

という方向に歩みたいと思っているからです。

ということで、もし共感してくださったらぜひ一緒に新しい地球に向かって歩んでいきませんか?

《詳細》

◇日程:2月から毎月一度第4水曜日の日本時間夜8時〜9時

◇内容:

・30分ほど私が独断と偏見でピックアップした世界の話題について

・後半30分ほどを3つのポイントから自分を見つめ、分離、恐れを共感、愛へと変えていく

◯この集いに向いている人

・世界の動向に興味がある

・人のこころの動き、しくみに興味がある

・トラウマの癒しに興味がある

・悟り(非二元)の教えに興味がある

・新しい愛ベースの生き方に興味がある

◯この集いに向いていない人

・政治論争をしたい人

・自分の見方、考えを主張したい人

◇参加費:無料

◇申し込みフォーム:https://www.form-answer.com/applications/6MPEX

✳︎メルマガ登録完了の自動返信メールが届きます。

集いの前にリマインダーとともにズームのリンクをお送りします。

私たちは“過去”の投影を“いま”全力で生きている〜愛への帰還を始めよう〜

先日あるキャンプに参加してきました。この過去3年間を振り返って、今後どう個人の自由を確保していくのか? 個人の主権とはなにか?、健康について、トラウマの癒やしについて、新しいお金の制度についてなど広範囲に渡ってのセミナーや討論が盛りだくさん。

また、なつかしいキャンプファイアーをしたり、踊ったり、歌ったり、心から楽しんできました。ですが、今回はその内容ではなく、キャンプで起きた出来事から書いてみたいと思います。

2日目のランチタイムでたまたま近くに座っていた女性が、“今回のイベントのスピーカーはほとんど男性ばかりで、すごく男性主導のイベントだと思う。もっと女性を出してほしい。”と怒りを顕にして話しかけてきました。

私自身は男女比はまったく気にしていなかったし、そう言われて振り返っても、多くの女性スピーカーやファシリテーターがいるなと思ったので、一瞬頭が???となってしまいました。

その時はセラピストの癖で、“この人めっちゃ怒っているなぁ。あの怒りを解放しないと、そのうち体に来るぞ”と思ったあと忘れていました。

しかし最終日に、今回のイベントを企画した男性が最後のトークをしていたところ、例の女性が急に立ち上がり、“なんであなたばかり話をしているのよ!あなたの話はたくさん聞いたから、もう聞き飽きたわ!もっと女性のスピーカーを出しなさいよ!”と叫んだのです。

このときは、ランチタイムで話したときよりも怒りの形相が激しく、まくし立てているという感じでした。

私のブログの読者さんはお分かりだと思いますが、これは見事な「投影攻撃」ですね。100万歩譲って、この男性がイベント中に一番多く話をしていたとします。(確かに代表として司会役も努めていたので、年中顔を出しているようには見えました。)

で、それが良くないと思っても、怒って怒鳴りつける必要はないでしょう。フィードバックとして伝えれば良いだけです。

また、企画者と参加者という立場でほとんど交流もないので、彼女がこの男性に対してここまで怒りを持つ理由もないはずです。

ということで、自分が誰かに嫌悪感や怒りを持ったら、相手がどんなに悪く見えても、とりあえず自分を見てみる・・・というルールに戻りたいのです。

この女性とはもう話ができないので、推測しかできませんが、私が真っ先に思ったのは、“どの男性がこの女性を傷つけたのだろうか?”でした。またこの怒りの度合いの強さから、おそらく長期に渡って傷つけられたはずです。

それによってできたビリーフ(例:男性は私を支配する、私は無力だ、などなど)とそこにある感情を癒やしていないと、それを私たちは外に投影します。つまり、たとえば男性を「私を支配する」人と見るわけです。で、それを真実だと思い込む。

本人が心からこの企画者が悪いと信じている様子から、男性に対する何らかのビリーフはこの女性の一部になっているでしょう。(潜在意識にしっかり組み込まれている)

さて、ここが人間関係の面白い?ところですが、この企画者の男性は、ずっと子供の頃から引っ込み思案で、クラスでもほとんど発言してこない大人しいタイプだったそうです。それが、自分に対してたくさんの癒やしやワークをしたことで、人前で発言できるようになったとのこと。

それが、4年ぐらい前のことだそうです。で、いくら癒やしてきたとはいえ、このように正面から“あなたの話なんか聞きたくない”と叫ばれてしまえば、かなり痛いはずです。

しかし、素晴らしいと思ったのは、体が固まって緊張している様子ではありましたが、人前で話ができるようになるまで自分がどれだけワークしてきたか、そして、“誰かが僕の言葉を聞きたくないという理由だけで、僕は決して黙らない”と返したことです。

面白いと書いたのは、このように私たちの人間関係は、自分の傷を相手にぶつけ、またそれは相手の傷を刺激するということです。

ところがよくあるのは、自分が傷ついていることも相手の傷を刺激していることも私たちは気がつかず、彼は支配的な人だ、彼女は面倒くさい人間だなどとそれぞれに思い、自分の投影だということも気づかず、それが実際に起きている現実だと思って生きていることです。

でも現実(事実)は、“代表の男性がマイクを持ってみんなの前で話をしている”だけです。このシンプルな出来事からこれだけのドラマが生まれるわけです。もちろん私たちもまったく同じことをしているのですが、ある意味この叫んだ彼女は分かりやすくそれを見せてくれたと思うのです。

というわけで、家族内も会社内もこのような「投影合戦」(と私は呼んでいます)だらけで、心の傷が深いほどドラマが激しくなります(笑、経験たっぷり)。

さて、分かりやすいので彼女の例をそのまま使ってしまうと、男性に対するネガティブなビリーフよりも、最終的に自分に対するビリーフが最もドラマを作ります。

つまり、男性との関係に対して“自分がどうか”ということです。例えば、(男性に対して)自分は、“支配される”、“攻撃される”という思いがあって、支配される私は“弱い私”、“無力な私”などといったビリーフができます。

こういったビリーフができる理由が当然あり、実際に誰か(男性)が過去に彼女を何らかの形で傷つけたのでしょう。しかし、じゃぁ、“私は弱い”が真実か?と問えば、どうでしょう?

それは絶対的な真実?それとも経験から生まれた思い込み?

過去の経験は今どこにも存在していなくて、“弱い私”は今どこに実際に存在しているでしょうか?記憶も思い込みも実際に今存在しているでしょうか?

すべて頭の中だけですね。頭の中にイメージとして残っているだけです。それ以外にはどこにも一切存在していません。でも、私は弱いという感覚はものすごくリアルで、現実味が私たちにはあるんです。だから、頭の中のイメージだとは思いにくい。

そして、こうやって私たちは自分に対する思い込みを全力で生きて、それが自分だ、それが自分の環境だ、これが私が生きていかなければいけない現実だと思い込むんです。

勘違いして欲しくないのは、頭だけで理解して、そうだよね、そんな自分は存在していないよね、苦しんではいけないんだと思ってしまわないことです。

エゴはなんでも、すべきとかこっちが良いことだと解釈しがちです。頭の中のイメージでしかないという事実と自分がでも苦しんでいる事実は共存していて良いんです。事実を理解した上で、じゃぁ、どうして頭の中のイメージがこれほどリアルなんだろう?と見ていくことが大切ですね。

頭では理解したのにまだ苦しくて、だから探求して、その中で自分を理解し、本質を理解し、そして結局愛がすべてを癒やし、恐れは夢で、自分は過去の投影を生きていたこと、そして愛だけが実体であると経験的に学んでいく・・・。

それが私たちみんなが歩む愛への帰還。

自己を深く見つめて、そして自己のない本質へ目覚める。

だからまずは自分がどんなドラマを作っているのか?なぜそのドラマが生まれるのか?そこから始めてみよう♪

自分という存在もこの世も幻想って感じられる?そして幻想なら人を殺しても良いの?

この世が幻想だということは、非二元やスピリチュアルの世界で言われますが、実際にはものすごく実感しずらいでしょう。ほとんどの私たちにとっては自分が経験していることは、リアル以外の何ものでもないはずです。

で、それが見えてくるためには、空の領域に達しないと〜とか、自分がいないって分からないと〜とかあるかもしれません。

しかし、私たちは本質からできていて、本質の場にしかいないので、実はものすごく近いというか、近すぎるぐらいです。

ということで、その近すぎる本質に気づくには、ただ座ってみる。

思考を一切はさまずに本質(気づいている意識)に寄り添っていくと、自分の呼吸と外の音の間にあったはずの距離がなくなる。

そして、そこにひたすら居続けると、自分と思っていたもの(体の感覚、感情、思考)がすべて観察できる対象であって、しかも他の対象物(部屋の中の音とか)と分離できないことが見える。

そうやって自分という分離した個が消えていく。所詮「私という個がいる」という思考に支えられていただけで、もともと私はいないから。

自分が消えるとそこにあるのは、膨大な事象の流れ。ある現象が現れて、流れて、動いているのみ。

今までの自分の「過去」はリアルだったけど、すべて流れて消えていき、一秒前さえも存在していない。はかない記憶として残っているだけ。朝起きたときに記憶としてしか残っていない夢と同じ。

でも、一つだけ、ずっとあるのは、それらに気づいている意識。

そして、そこに居続けると、現象は気づいている意識そのものだと分かるだろう。

そう、気づいている意識しかなくて、それが私たちの本質。

そこから「あゆか」を眺めてみよう。あゆかはいつも愛されていて、守られていて、すべての失敗も間違いもあらゆることが許されている。

そこから、世界にある戦争や痛ましい事件を見てみよう。すべての傷は癒やされ、すべての悲しみは受け入れられ、優しく本質に戻っていく。

すべてが幻想なら、すべてが癒やされて、本質に戻るなら、世の中を良くしなくても良いよね?極端な話、人を殺しても良いよね? すべて許されるんだよね?

そんな質問にお答えしてみました。ナチュラル・スピリットさんのインタビュー動画、よろしかったらぜひ御覧ください。

知識人から観察者へ〜目覚めへのステップ

恥ずかしいぐらい久しぶりですが、あまりに納得の行く言葉を見つけ、シェアせずにはいられなくなりました(笑)。

とりあえず原文をご紹介しましょう。これは和尚ことバグワン・シュリ・ラジニーシの「Awareness」という本からの抜粋です。(英文の下に訳文をつけました。)

If you become a mind, you lose consciousness – mind means sleep, mind means noise, mind means mechanicalness. It is knowledge that keeps you asleep; hence, the more knowledgeable a person is, the more asleep. Innocent villagers are far more alert and awake than the professors in the universities and the pundits in the temples. The pundits are nothing but parrots; the academicians in the universities are full of nothing but holy cow dung, full absolutely meaningless noise – just minds, no consciousness.

思考中心になると気づきの意識を見失う。思考とは眠っているということ、騒音であるということ、そして機械的ということだ。

知識があなたを眠り続けさせる。つまり、知識があればあるほど眠りが深くなる。無邪気な村人のほうが大学の教授、寺院にいる権威者よりもよっぽど警戒力があり、目覚めている。権威者(知識人)はオウム以外の何者でもなく、大学の研究者たちの中身はまったくもって空っぽ、またはまったく意味のない雑音でいっぱいで、せいぜい牛のフン程度のものがあるだけだ。ただ思考だけ、気づきの意識はまったくない。       (あゆか訳)

う〜む、大学の研究者たちの頭の中身は牛のフン程度って、だいぶ手厳しい(笑)。ちなみに私の両親とも大学教授でしたが、この文章を二人に読み聞かせたらたぶん笑って賛成する気がします。

さてイギリスでは、2021年の6月にマスク義務やすべての感染対策が解除になりました。一応お願いベースは残っていましたが、お願いはほぼスルーされ、だいぶ前にコロナは終わっている感じです。今はインフレと光熱費の高騰でみんなの頭はいっぱい。

ですが、この文章を読んだとき、コロナ禍に間中にずっと感じていたことが見事に書かれていると思ったのです。何かというと、私たちがいかに報道(他者の言葉など)を鵜呑みにしているかということです。聞いたままを事実として受け止める。自分自身の観察よりも、報道を頭の中でコピペしていく。

例えば、”感染者数が増えています”と報道されると、頭の中で”感染者数が増えているんだ”とコピペされ、そのまま終わり。権威者が言っているのだから、専門家が言っているのだから正しいに違いない。だから、自分で考えなくて良い。

ちなみに、この話を先日お話会でしたところ、自分はそうではない!と言われましたが、ここは一般的(自我の傾向)なお話しをしています。また、コロナ禍を例に出していますが、普段からこの傾向は私たちとても強いです。(私ももちろんやっています)

つまり、ここで起きていることは、コピペして他者に考えを委ねる。抜けているのは、ほんと?という疑問を持つこと、そして自分で観察し、感じて、考えること。

一方例えば、カナダではトラック運転手たちが、外に出られない子どもたちや家族に会えない老人たちが病んできている、ここまで自由を奪うほど猛毒なウイルスではないのじゃないか?と疑問を持ち大規模なデモが起きました。

トラックの運転手が知識や教育がないということではなく、デスクワークではない体を使っている仕事の人のほうが肌感が生きているのではないかと思うのです。

和尚は続けて、動物のほうが目覚めている、周囲の出来事に注意を向けていて、観察を怠っていないと書いてあります。つまり、動物は思考にハマらない分、ありのままの今ここにいるということです。

ですが、私たちは情報や知識、論文などのほうをより重視し、そっちが正しいとしてしまうことで、自然を観察する力、自分で考える能力、共感する心などを失ってしまいがちです。

さて、ここでもう一つ動画を紹介させてください。”科学って何?”というタイトルです。

Allen Savory – What Is Science?

短いので翻訳してみました♪

科学とは何だろう? 人は科学に対して曖昧な言い方をするが、科学とは一体何なのだろうか?

大学で修士や博士号を得た人が自然の現場にやってきても、彼らは精査が入った論文以外は何も信じない。論文しか受けつけないのだ。観察しよう、考えよう、討論しようといってもやらないのだ。

”これは精査されていますか?”としか聞かず、それが彼らにとっての科学なのだ。まったく持って嘆かわしいことだ。若く優れた頭脳を持って大学に入ったのに、脳が死んだ状態で卒業していく。それが今の学問。もし、論文が精査されていれば、彼らがその結論は正しいと判断する以前に皆が同じ結論に達したということになる。

これによる意図しない影響は、新しい知識や新しい科学的な洞察が生まれた時、それらが精査されているということはあり得ないということだ。つまり、新しい発展、科学にとっては非常に大きな発展をブロックしてしまっていることだ。(信じない、取り上げないという点で)

科学の新しい発見を振り返ってみれば、それらはほとんどいつも科学の主流ではなく、隅っこから違った見方をするところから生まれてきているのだ。高度な腕のキャンドル職人が、電球を思いつくことはあり得ない。新しい発見はその世界の中ではなく、そこを破った外側から生まれて来るのだ。

こういった自分自身の愚かさで、私たちは自分たちを破壊してしまうだろう。(アラン・セイボリー 2020)

あまりに賛成で何も付け足すことはありませんが、最後の言葉は本当にそうだなと思ってしまうのです。実際に起きていることを見る能力がなくなっていくことで、まずほんとうの危険と嘘の危険の区別がつかなくなること。

そして、今ある情報や知識の外に無限とある可能性を見過ごしたり、否定したりしてしまうこと。

ちょっとネガティブに書いてきてしまいましたが、最終的に、私たちは生命のエネルギーという本質から生まれ、本質そのものですね。なので、あまりに本質から離れると、本質に戻りたくなる、目覚めたくなる衝動も起き上がってくるに違いないと思うのです。

最後にまた和尚の言葉、”人は自分の思いに自分が気がついている分だけ目覚めている”

私たちの中には、自分がまったく気づいていない育った過程で刷り込まれた思い、価値観、ビリーフがたんまりとあります。これらも言い換えれば、周囲の言葉や出来事をそのままコピペして、出来上がっているものです。

ということで、まずは自分が自分の思考、ストーリー、意味づけ、解釈、価値観にしっかり気づくこと。そして、そこからまず自由になって、一緒に目覚めへと歩む仲間を増やして行きたいですね。

グレート・リセット〜狂気からの目覚め〜

このコロナ騒ぎが始まってから少し残念に思っていたのは、いわゆる非二元のティーチャーたちがこれほど世界規模の大騒ぎに何も言及していなかったことです。

もちろん、非二元の観点からすれば、この大騒ぎも生まれては消えてく幻想であり、究極には何も起きていない夢物語です。それはある意味、究極の救いとも言えるでしょう。しかし、世界を巻き込むストーリーのエネルギーはものすごく大きく、私たちは全身全霊巻き込まれ、思いや感情に完全に支配されがちです。

ので、一切触れずにいてくれることは、ある意味「正気な場所」を思い出させてくれ、そこはで心静かに過ごせる唯一の場として非常に大切です。

ですが、一方で「正気な場所」と「騒動でめちゃくちゃな世界」と二つに分けられないということがまさに非二元(二つに分けられない、二つではない)なわけで、現象の世界で起きていることをまったく無視することもできないわけです。

そんなところに!なんと、エックハルト・トールがラッセル・ブランドというイギリスの有名なコメディアンのYouTubeチャンネルにゲスト出演していたのです。

タイトルは、”グレート・リセットが起きる”

その前にまず個人的に、私はコロナの初期からデータが示すコロナとマスコミと政府、医療界が騒ぐコロナのギャップに驚きと憤りを感じていました。先ごろ日本の財務省がまとめたデータでも、重症化率、致死率ともインフルエンザよりも低いと出ています。(文末のリンク参照)

また死者の平均年齢が世界的に80代というデータがある中、子供たちに一番我慢を強いるような施策がマッチしないし、施策自体が人間の自然体に反するものが多いことに懸念を感じていました。

しかし、そんな声を出そうものなら(FBにはちらほら投稿していましたが)、バッシングの嵐や陰謀論者のレッテルを貼られてしまう傾向が強くがあった(ある)と思います。

そんな状況の中エックハルト・トールの言葉にはとても勇気づけられたのです。動画から下記にポイントを並べてみます。

・今起きている多くのことはあまりに狂気じみているから、それに対して疑問を持つ必要性がある。だが、腹を立てたり、攻撃的になる必要はなく、好奇心に留まること。あなた(ラッセル・ブランド)は人々を目覚めさせることへ大きく貢献している。もし、メディアがあなたを陰謀論者と呼ぶなら、それは良いサインだ。そう呼ばれるならあなたは正しいことをしているに違いない。

・狂気が集合意識のなかで増え続け、人類のかなりの多くの人が集団的精神病状態に陥っている。しかし、こういうことは人類史上起きるもので、今危機的な動乱に突入しているものの、一方で何千年と続いてきた自我の状態から抜け出す大きなチャンスでもある。

・グレート・リセットが起きるが、これはある一定の団体(国際経済フォーラム WEF)が計画しているようなものではなく、多くの人が目覚めてきているため、彼らが驚くようなまったく違うグレート・リセットを私たちは経験するだろう。

・疑問を持つときに一定のグループや誰かを悪魔化(悪魔のように悪い間違った人たちとして見ること)してしまうと、あなたも同じレベルの意識にとどまってしまう。彼らが現実だと思っていることを否定せず、耳を傾けること。そして彼らに質問を投げかけることが大切。

・政治家やメディアがやっていることは、丁寧に言えば“眠っている(無意識)”、直球で言えば、これ以上にない愚かさ。大学の学位は持っているかもしれないが、知恵がまったくない。知恵とは、一つのことを攻撃することに集中するあまり(コロナだけに集中した対策をするあまり)、その結果がもともとの状態より経済的にも心理的にももっとひどい状態をもたらすようなことはしない。

・コロナ禍は、計画されたものであると言う声があるが、私に言わせれば、それらの人たちは、無意識で非常に愚かだということだ。頭は良いかもしれないが、知恵がない。知恵とは気づきの意識から生まれる。知恵が伴わない知識は、逆に危険で自己破壊的である。

・コロナ禍などの出来事の背景に利権をもったグループが背後で操作していることは疑いないだろう。しかし、彼らはあまりに無意識で自分が何をやっているのか分かっていないのだ。イエスが十字架にかけられたとき言った言葉通りである。神よ彼らを許し給え、自分たちがなにをやっているのか分かっていないのだから。

ポイントだけ書くつもりが、良いことばかり話しているので、けっこう訳してしまいました(笑)。

さて、エックハルト・トールが言う「狂気じみた中で疑問を持つこと」「腹を立てたり、攻撃しないこと」という点を見てみれば、感染対策はやり過ぎではないか?という「疑問を持つこと」自体が許されない、怒りの攻撃に合ってしまうことが狂気だと思うのです。

狂気というのは、感情に支配され、自分と違う観点を許さず、攻撃し、抑圧してしまうことだとしたら、実はこれは人間がずっとやってきたことでしょう。それが、今回のコロナ禍やロシア・ウクライナ問題でも表にわかりやすく出てきたのだと思うのです。

コロナ禍が始まって以来、政府もマスコミも一つの見方だけを喧伝し、疑問を持つ人(それがその分野の権威であれ)や違う見方をする人たちを排除したり、仕事を奪うなどしてきました。私が生きている中でこれほど政府やSNSの検閲がすごかったことはないなと思うのです。(政府やマスコミの考えに賛成している人は気づかないと思いますが)

さて、ちょっとここで立ち止まってみると、このような傾向は、実は私たちは一番自分に対してやっているんですね。自分の中が一番戦争しているんです。

「私はこうあるべき」(優しくあるべき、役立つ人であるべき、などなど)というビリーフが私たちの中にあり、そうじゃない自分がいれば、攻撃し、無意識に見ないようにする(=抑圧する)、と、同時に外から自分を守ろうとする。

またはネガティブなものでも、例えば、「私は無力だ」というビリーフがあったとして、無力じゃない自分というのは一見グッドニュースなはずです。しかし「あなたならできる」と言われても、突き放されたような気になり、なんで助けてくれないの?できるわけがない!とムッとしてしまったり。と同時に、無力な自分をダメな自分だと攻撃する。

はぁ、人間って面倒くさい(笑)。

ちなみに、こういったことは全員やっています。これが何千年も続いたエゴ状態ですね。

話をグレート・リセットに戻して、コロナ禍でも戦争でも基本的に「恐れ」が社会を支配してしまいます。そして、私たちが自分の中で起きている戦いに気づかない(無意識)でいればいるほど、狂気の波動に引っ張られ続けるでしょう。

そしてそういう人が多いほど、エックハルト・トールがいう集合的狂気が出来上がるのです。

ということで、人類の目覚めはやはり自分からしか始められないですね。まずは、自分が通常だと思っている状態は、かなり狂気な状態であると認識すること。(だから苦しむし、戦いが終わらない)

そして、気づきの意識(アウェアネス)を高め、智恵を得ていくこと。つまり、自分が何を考え、何を感じているのか?それはどこから来ているのか? 恐れ? それとも自分らしさから?と振り返ってみること。

ストーリーに巻き込まれている時に、どんな自分で一番いたいのか?と問いかけてみる。自分の思いや感情、ストーリーにきちんと気づき、そして吟味、選択できること。

それが目覚めの第一歩ですね。

社会に合わせるのではなく(狂気に留まるのではなく)、自然を感じ、謳歌し、真実のエネルギーに合わせて行きたいですね。

☆動画URL

☆財務省のまとめ

森田洋之医師のブログで分かりやすく財務省の上記のデータがまとめてあります。https://agora-web.jp/archives/221120081928.html?fbclid=IwAR1KOSA1ebohenfPjgH4tLtLLYstht9gUbyUYoshBPeNJnYPnJWiaFx1orI

お金をどう考える?~非二元の観点から~

なぜかブログでご報告することは忘れていましたが、ノンデュアリティのYouTubeチャンネルをやっております。そちらにお金と非二元というお題で話してほしいというリクエストを頂きましたので、早速取り上げてみました♪

もしまだYouTubeチャンネルに気づいていませんでしたら、いくつか既にアップしてありますので、ぜひ他の回もご覧ください♪

そして、ブログを書き始めるぞ!と言った後にまったく更新しておりませんが、そのうち再開するかと思いますので、気長にお待ち頂ければ幸いです。

ということで、今回は動画の方でお楽しみください!

世界が大きく変わるとき~心のしくみから見る~

このところ世界の動きに心を奪われ、仕事ができません。(笑)

もちろん世界は常にいろいろ起きていますが、今起きていることは、私が知っていた世界から、まったく未知の世界へとシフトであると感じるのです。スピリチュアルな世界では地球が5次元にアセンションしているといったか話がありますが、信じる信じないは別にして、何かが大きく変化してきているのは確かでしょう。

とりあえず見える現象として、今、西欧一極支配が終焉を迎えていることを強く感じ、それはまた既存の価値観の崩壊を表していると思うのです。

最近大英博物館の前を通ることが多いのですが、見も蓋もない表現をすれば、ある意味展示物のほとんどは大英帝国が世界中から盗んできた盗品です。しかし、イギリス人的にはそれらは誇れる勝利品で恥じるものではありません。

またイギリスは、コモンウエルスという54ヵ国のかつて植民地にしていた国々と今も連携し、女王が定期的に訪問したりしています。で、もちろんこれらの国々にイギリスは「領土拡大」の野望と、それらの国の資源やイギリス経済への利益獲得のために侵略したわけです。

なぜこんな話をしているかというと、帝国主義による植民地支配は終わっていても、帝国マインドは現在のイギリス人の中に深く残っているなぁと感じるからです。(イギリスだけでなく、欧米全般)

少し前にインドの外務大臣のインタビューの一部分がSNSに出回っていました。インタビュアーの、“ウクライナの問題を考えて、インドは中国と長年国境の件でもめています。今日明日とは言いませんが、将来アメリカ(西側)につくか、中国側につくかという決断を迫られると思うのですがどうでしょうか?”という発言に対して、

“その質問自体があまり賢いものではない。西欧は「自分たちの問題は世界の問題、でも世界の問題は自分たちの問題ではない。それがあなたのことであれば、あなたの問題。でも、それが私の問題であれば、(あなたも含めて)私たちの問題」という思い込みを作り上げてきた”

これは、まさに私もずっと感じていたことでした。欧米中心に政治やすべてが回っているという思考。

ロシアのウクライナ侵攻に関しても、以前から起きているイエメン、シリア、パレスチナなどに関しては、自分たち(NATO)が爆弾落としているからでもあるけど、市民がどれだけ殺されていようと対岸の火事です。あなたたちの問題。でも、ヨーロッパで起きているウクライナのことは世界の問題。

インタビュアーはさらに、“アメリカ(欧米民主義の国)と中国といった対立軸があるのは事実なんだから、インドはどちら側につくか立場をはっきりさせないといけまんよね?”と大臣にせまったのに対して、

“その質問そのものに賛成できないんです。ウクライナと関係なくインドと中国の問題は以前からあり、どちらの側に立って自国の政策を立てるかということではない。私の国は世界人口の5分の1を占め、経済規模も世界第5位だ。だからどちらの側につくこともなく、自分たちの政策を決める権利がある。状況をきちんと把握して、自国にとって良い選択をするまでだ。”

これ重要です。あっさりと読んでしまうと当たり前のことを言っているようにしか聞こえませんが、ここに既存の価値観、世界観の崩壊を個人的には強く感じたのです。

今まで西側諸国が政治的、経済的なパワーを持ち、残りの国々に対して強い発言力を持っていたパワーバランスが崩れてきている兆しでしょう。

また、先ごろゼレンスキーがアフリカ連合の55か国をズーム会議に招待したところ、当日参加は4か国のみでした。これは世界は欧米の顔色を見なくても回っていける状況にフトしている現れかなと思うのです。

さてここで、話が心のしくみに飛びます。

西欧には未だ強い帝国主義マインドがあるけど、私たちは人間の心理として心の深いところで自分が何をやったか知っていて、罪悪感も持っているものです。意識上ではどんなに自分を正当化しても(またはすればするほど)、罪悪感はガッツリ残ります。

そして、抑圧した思いは他者に投影され、つまり誰かが帝国主義者に見え、そしてその人に自分の罪悪感を投影し、ひどく嫌うということが起きます。

先月ブッシュ元大統領が、自分の財団でスピーチした際にロシアを批判するつもりが、“一人の人間の決断による、非合法で残虐なイラクへの侵攻、あっ、ウクライナへの侵攻”と言い直した部分が話題になっていました。いわゆるフロイトの失言(Freudian Slip、心に本当に思っていることがうっかり無意識に出てしまうこと)というやつです。

これは、大量殺りく兵器があるかもという推測で、「自由と民主主義を守るため」にイラクに侵攻し、結果100万人の市民が殺されたことに対して深いところでは罪悪感があることの現れかなと思うのです。

ロシアのウクライナ侵攻に関しては、NATOの東方拡大、2014年のマイダン革命で親露派の大統領が国外に追放されたこと、またミンスク合意の不履行が原因だという専門家も多い一方で、メディアは「プーチンが帝国主義者で悪魔だから」という理由のみ報道しています。

私の周囲のイギリス人もほぼ99%の人がこの見方をしており、NATOの拡大が・・・と言っただけで、ロシアのプロパガンダだ!と言われてしまいます。しかし、自分の罪悪感を投影しているのでなければ、頭ごなしに否定はしないものです。考えてみるぐらいの余裕はあるでしょう。

また、私たちは自分の中にある思いは他の人の中にもあると思うくせがあります。つまり、自分たちが帝国主義で他国を支配してきたので、ロシアもそうに違いないとみなすわけです。

また、現在までずっとアフリカや中東、アジアの国の政治に介入し続けてきた”アメリカ帝国主義”があり、そういった見方からどうしても抜けきれないのだなと思うのです。

データがないので分かりませんが、おそらくNATOの爆撃で死んだ市民の数は、ロシアや他の国の軍隊と比べてダントツに多いでしょう。これらの攻撃はすべて「自由と民主主義を守るため」なので、西欧的にはOKです。

こういう話を仲の良いイギリス人と話すと、「でも、じゃぁ、共産主義や独裁者の国に住みたいの?」とか言われ、ポイントが理解されません。(ポイントは、じゃぁ、それで他国の政治に介入して市民殺して良いの? 帝国主義とどこが違うの?です。)

しかし、もし私が「それも帝国主義だよね」と言えば、恐らく発狂するなと思うので、いつもそこで会話は終わります。自分が忌み嫌っているプーチンと同じだなんてあり得ない!という怒りです。繰り返しますが、投影していなければ冷静に聞け、違う意見を話し合うことができます。

さて、話を欧米一極支配の斜陽に戻すと、インドはイギリスの植民地であったところから、欧米の意向にまったく沿う必要もないぐらい力をつけてきたことをインタビューは物語っているでしょう。それはインドだけではなく、アフリカや南アメリカもその傾向が出てきています。

そんな状況を見ていると、一つの文明が崩壊するときとは、さらに強い文明が生またからというよりは、既存の価値観から抜けきれずに変化についていけない結果ではないのか?と思うのです。

振り返って、我が国日本。東京と香港の区別がなかなかつかないイギリス人が多い中、メディアのロシア悪報道を見ていると、気持ち的には西欧とガッツリ並んでいるつもりでいるでしょう。

政治、経済、世界の動き、最終的にいつも「人の心」が動かしているものです。言い換えれば、私たち一人一人の心が変われば、情勢は変わっていきます。

戦争は”人”の心が起こしているものですよね。誰が悪いという悪人探しやどっちが悪いという判断よりも、どういう心が争いを生み、どういう心が平和を作るのかを考えたいなとつくづく思う今日この頃です。

長くなりました。世界も国家も、そして最終的に自分個人の人生も私たちの思いが作り上げていて、ほんとうの意味では犠牲者も加害者もいないことが見えてくると良いですね。

★ノンデュアリティの動画を定期的に配信しています★
https://www.youtube.com/watch?v=CzyDr-vfmcM

◎インド外務大臣のインタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=nLXUOKjW7CQ

◎ブッシュのスピーチ
https://www.youtube.com/watch?v=wUEr7TayrmU

ウクライナ・ロシア戦争の報道

報道というのは、ほんとうに大きな影響があるものだんだとコロナ禍でつくづくと思い知らされましたが、ウクライナとロシアの戦争でもそれを強く感じざるをえません。

最初に私のスタンスをいえば、軍事侵攻には基本的に反対です。なので現在世界のいくつもの地域で市民が攻撃され、建物が破壊されていますが、それらのすべての侵攻、攻撃にも反対です。(特に英米のイラク侵攻は今でも大反対です)

しかし、ヨーロッパで起きているということで、西側の報道はロシアのウクライナ侵攻のみに集中していますね。西側にとって冷戦時代からロシアは敵であり、ハリウッド映画でもいつもロシア人はスパイや悪人として描かれてきました。

なので今回も、ゼレンスキーはヒーロー、プーチンは悪人という映画か漫画のようなストーリーが展開されています。

と書くと、一方的に侵攻しているロシアの肩を持つのか!と叱られそうですが、このブログの目的は、どちらかの肩を持つというより、私たちはこの戦争を公平にみているのか?にあります。冒頭に書いたように、私はいかなる侵攻も正当化したくありません。

ただ、ロシア側の報道がぜんぶプロパガンダで、西側の報道はすべて正しいというのも非常に偏りがあると思うのです。西側は西側で当然自分の側に立ったものの見方しかしません。

紛争地の交渉に30年以上関わってきたアメリカ人のウイリアム・ウリー(William Ury)さんという方のインタビュー動画があります。私はイギリスでmediator(仲介交渉人)の資格を持っていることもあり、この国際紛争の仲介交渉のプロの意見を非常に興味深く視聴しました。

長い話を短くすると、彼によると紛争解決のために大切なのは、まず「聞く能力」であるということです。相手の立場に立って話を聞いて、相手の立場から世界を見る能力。

そして、世界はロシアに対して厳しく対応すればするほど良いと思っているけど、一番良い交渉とはロシアにとって一番簡単(easy)にしてあげることだというのです。これはもうほんと目から鱗ものでした。

彼曰く、相手がYesと言いやすい交渉をして、相手の現在の戦略を捨てさせることだというのです。これは人間の心理をよくわかっている人の発言ですね。

残念ながら、西側の報道はプーチンやロシアを悪者扱いにするだけで、聞く耳を持つという態度はどこにも見られません。それどころか報道全体がロシアを理解するなんてもってのほかで、ヘイトだけを煽りまくっている状態は心から残念です。

ベルリンの壁が崩壊したとき、ゴルバチョフは東ドイツから軍隊を引き上げた際に“ここから1ミリも東にNATOが勢力を広げてはいけない”と発言しました。ところが、NATOはそれを無視してどんどん勢力拡大を続け、今やロシアの玄関先にまで迫っています。

ヨーロッパの地図を眺めながら、NATO加盟国が年々拡大していった状態を見ると、自分がロシア側だったら、これはかなり嫌かもと思ってしまいます。プーチンもNATOの拡大に関して、ロシア存亡の危機だと何度も言っています。自分たちはあなた方の国境に迫っていないですよ、とあるインタビューでも語っていました。

一方NATO側からすれば、ロシアの脅威がある限り、拡大は仕方がないことなのだ!となるのかもしれません。しかし、ここでもポイントは、私たちは両方の言い分を公平に聞く耳を持っているか?ですね。

ちなみにアメリカ軍事国際関係の専門であるジョン・ミアシャイマー教授のシカゴ大学での授業は事実ベースでとても分かりやすいです。彼は、NATOの政策(西側の政策)の失敗が今回の戦争をもたらしたと主張しています。メディアでは取り上げられない一つの見方として参考になるかと思います。(ブログ末にリンク添付)

NATOの拡大や2014年のオレンジ革命、そして国内ナチスの影響など振り返れば、ハリウッド映画のようなウクライナ善、ロシア悪といった見方を超えた、今に至る要素はあちこちにあったでしょう。ジョン・ミアシャイマー教授の言葉を借りれば、西側はクマの目を突き続けてきたとのことです。

さて、私は市民だけではなく、兵士が負傷したり、死んでしまうのもものすご〜く嫌です。どちら側にしろ、私たちと同じ人間です。なので、やはりどちら側にも立ちたくないし、平和派で貫きたいと思うのです。

誰かを敵対視し、憎むことがなんの解決にもならないことは、人類は今までの歴史を通してよく知っているはずです。ところが、毎日同じ“ロシア悪報道”がされると、私たちの心の中に憎しみもどんどん刷り込まれてしまいます。

こうやって刷り込まれた結果、ジョン・ミアシャイマー教授のような西側にも落ち度はあったという見方は、今更とても受けつけられない雰囲気がバンバンにあります。今のイギリスでロシアにも言い分があると言ったら、非国民扱いされそうなぐらいです。

こうやってみると、人間のほんとうの敵は相手ではなく、憎しみと不理解、自分を振り返る能力の欠如かもしれません。

また、わたしたちにとって最も難しいことは、自分は正しいという思いから抜け出すことですね。もちろん自戒も込めてですが、自分が正しいと強く信じている限り、相手の言葉は耳に入ってこないものです。

ジョン・ミアシャイマー教授の戦争を終わらす提案の一つがウクライナの中立化です。ウイリアム・ウリーは、結局すべての戦争は最終的に交渉で終わるのだから、もう今交渉するべきであると主張しています。

しかしそれも、報道が一方だけ悪者にしている限り、なかなか実現は難しいでしょう。

一見話は飛びますが、コロナ禍では、例えばワクチンを打たない人を我がまま、非科学的、人種差別主義者とレッテル貼りをし、悪者扱いするのみで、どうして打ちたくないのかという理由に耳を傾ける姿勢はまったくありませんでした。

こういった分離と憎悪を煽るエネルギーがいわゆる権威者たちから発せられ続けられきましたが、今回の戦争報道も同じようなエネルギーの延長線上にある気がします。しかし一方で、分離感が強まれば、私たちの中にある本質のエネルギーのつながりたい、仲良くしたい、笑い合っていたいというエネルギーもより目覚めていくでしょう。

ということで、まずは自分から。自分の中に敵はいるだろうか? 自分の中に自分を嫌い、許していない部分がないだろうか? 自分が嫌っている部分の声に耳を傾けている?と振り返ってみたいなと思うのです。

というのも、自分への否定やヘイトが減っていくと、どれだけ報道が煽ったところで、自分が反応できなくなるからです。違和感がすごく出てくるはずです。

私たちの多くが報道にそのまま流されてしまうのは、やはり私たちが自分の中に恐れや自己嫌悪的な思いを無意識にいくつも抱えているからでしょう。

“戦争で最初に犠牲になるのは真実だ”(The first caualty of war is truth)という言葉があります。

自分が自分に耳を傾け、理解し、そして自分に正直でいれば、錯綜する情報や出来事の中でハートが真実に反応していくようになるでしょう。

報道や人から言われたことを鵜呑みにするよりも、自分の中でじっと感じて、そして自分はどうありたいか、自分の中のパワーに目覚めたいですね。


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◎ウイリアム・ウリー(William Ury)インタビュー
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コロナからウクライナ〜心穏やかに生きるには〜

イギリスではコロナの規制がすべて解除されたとたん、ロシアとウクライナの戦争の報道でまたも不穏な雰囲気に包まれております。

そんな不安から不安へと綱渡りしているような社会情勢の中、なるべく心身ともに穏やかに過ごしていきたいものですよね。

同じ建物に住むある友人が、ウクライナ問題が心配で不眠になったというので、“今現在具体的にはどんな脅威がある?ガスの値段の高騰?”と聞いてみたところ、一瞬キョトンとして黙ってしまいました。

マスコミが描く世界に自分は生きていると私たちは感じがちです。連日トップニュースで報道されれば、まるで自分が戦争の脅威の中にいるように思えてきてしまうのも理解できます。

コロナ禍のように、連日感染者数が報道されると、周囲に感染者が一人もいなくても、ウイルスが充満しているように感じてしまうのと同じでしょう。

また、“報道”というのは事実を伝えるものであるので、余計現実味が高いですよね。しかし、マスコミの報道もやはりストーリーにしか過ぎないんです。

報道も起きているものの切り取られた一部であり、どうしても編集者のバイアスが入ります。事実をどう編集するかによって、まったく違う報道(ストーリー)が出来上がってくるんですね。

それは、一つの出来事を複数の人が同時に体験しても、皆違うバージョンの記憶になっているのと同じです。

ので、マスコミから伝わる報道(ストーリー)と“今ここにあるもの、起きていること”を区別することは、正気でいるための一つのコツでもあるでしょう。

ちなみに、私の“今ここ”は、自分が部屋にいて、パソコンを打っていて、外から遠くにヘリコプターの音がして、室内は適温で心地よい。以上。終わり。

この状態が続いて欲しいとか、4月からガス代が大幅アップってニュースが言っていたから、部屋が暖かくて心地よいなんて言っているのも今のうちかも〜とか、そういう思考に囚われなければ、いまここの真実はシンプルです。

もちろん、今まさに銃で打たれているかもしれない人たち、拷問にあっているかもしれない人たち、家や家族が爆撃されたかもしれない人たちが地球上にたくさんいるわけです。

でもそれを恐れるのではなく、そこに愛を広げていくことをイメージすると、心はやはり穏やかになっていくはずです。もしかすると、そんなことが起きてしまっていることへの怒りや悲しみも湧いてくるかもしれません。

それはそれで出てきた感情を受け入れ、理解してあげる(自分の感情へ理解を示す)。受け入れることによって、一見ネガティブな感情の中にも愛があることが見えてくる。(愛しているから悲しい、愛しているから怒りが生まれる)

最終的に恐れや分離、苦しみを癒せるものは愛しかなく、そこに戻っていくことが人類の苦しみを癒す唯一の方法かと思うのです。

では、具体的にどうやっていくかというと、やはり自分から始めることが一番ですよね。ちょっと振り返れば、私たちの中には自分を否定している声、深く傷ついた部分などがたくさんあり、ある意味自分の中に敵や争いを年中抱えているようなものです。

例えば、こんな自分は嫌いだ!とか、自分を否定する思いは、その部分の自分を敵視しているようなものですね。または、私は無力だという思いがあったとしたら、自分を外界から守らないといけない、そのためには周りから自分を防衛したり、自分を傷つけそうな人を攻撃しないといけない心の状態が生まれます。

防衛と攻撃と書くと、大げさな感じに聞こえますが、私たちが日常で年中やっていることです。

例えば、“〜〜をやっておいてと頼んだのに、また忘れちゃったの?(怒)”と責められると、“こっちだって忙しいんだよ。そういうきつい言い方しないでよ!”と、自分を守りながら相手を攻撃する。

または、“私はなんであのとき気がつかなかったのだろう、どんなバカなんだ〜〜!”という思いは、あるべきはずの自分(気づけていたはずの自分)とバカな自分が言い争いしているのと同じですね。

こういった声が自分の中にたくさんあれば、コロナや戦争以前に心は疲弊してしまいますよね、ということで、自分の心を癒やし、愛を増やしていくこと。自分自身との関係を友好にし、自分の中の敵を減らしていくこと。これが平和への近道。

そして、もう一つは自分の本質に目覚めること。

自分は分離した個であるという感覚がある限り、自分と相手、自分と社会という対立した世界観がありますね。そして、たいていの場合は自分は小さくて、社会は大きい。世の中のどこかに自分に害を与えるもの、または与えてくる人がいるという感覚が付随してくるものです。

でも、自分の本質とは、一切分離もなければ、敵も争いもない。それどころか、時間も空間もない絶対的な平和、愛です。

自分の中の敵が減っていき、リラックスした愛ある思いが増えていけば、心は自然に周囲にある愛に呼応していくでしょう。恐れのストーリーがしっくりこなくなり、引きずり回されることが減っていくでしょう。

戦争のある一方だけを悪者のし、敵対視して分離感を強めたり、どうなるのだろう?と不安を増やすよりも、これを逆にチャンスにして、自分が「愛」であるためには、自分のどこを見つめると良いのだろう?と振り返ってみれると良いですね♪

その上で平和を求めて、声を挙げたり、自由に自分を表現していけると愛のエネルギーが広がって、新しい地球にシフトできるかもしれませんね。

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時間もなく、苦しみもなく

突然ですが、「時間がなければ苦しみはない」終わり。

これを読んで、“そりゃそうだ、でも時間ってあるし・・・”と思う方が一番多いかもしれません。

私はこれがほんとうに腑に落ちたとき、なんでこんな明白なことに気づくのに何年もかかったのだ!バカバカと自分の頭をぽこぽこしたい気分になりました。

とりあえず、ご説明させてください。

そのためにまず、過去も未来もないとイメージしてみませんか? 

過去の出来事にまつわる記憶がまったくなくて、同じように未来もぜんぜんない。

ほんとうにない!ゼロ!消えた(笑)!

イメージできましたか? 

過去と未来が消えたとき、私たちの悩みや問題はまだ存在しているでしょうか?

例えば、「私は無力だ」という思いを持っていたとしても、過去と未来がなければ、その思い自体の意味がなくなりますね。

または、過去に誰かに傷つけられた、自分が誰かに酷いことをした、間違った選択をしてしまった、などなど過去の出来事に対するネガティブな思いも消えてしまう。

当たり前じゃないか・・・と思うかもしれませんが、ぐっとこらえてついてきてください。

で、そうなれば、今は過去の結果ではなくなります。また、未来も今の結果ではなくなりますね。

エックハルト・トーレは「今ここ」には悩みや問題はないと常に言っていますが、この意味が以前はまったく分かりませんでした。というのも、「今」の意味を時間系列の中で考えていたからです。なので当時は「でも、今借金があれば問題じゃない?」とか思っていたのです。

しかし、エックハルト・トーレがいう「今」とは、時間の流れの中にある今ではなく、実体の場を指していたのです。

例えば、過去と未来はどこに存在するでしょうか? 私たちが絶対にあると信じて疑わない過去と未来はどこに存在するでしょうか?

・・・・・・・・・私たちの頭の中だけですね。

また、過去と未来を実際に経験することはできるでしょうか? 誰も一度もしたことがないはずです。

つまり、私たちがいう時間とは、頭の中だけに存在して、誰も経験をしたことがないんです。

では、頭の中にあるものは実体があるのでしょうか?

記憶はイメージや思考や感情、感覚で成り立っていますね。

例えば記憶のイメージは絶対的なものでしょうか?それとも自分バージョンの映像でしょうか? 同じ出来事に対して、兄弟で記憶がぜんぜん違うことはそれなりにないでしょうか?記憶は基本的に主観的な自分バージョンです。

これは絶対的なものとはいえないですね。

歴史も勝者によって書かれるというように誰かの記述であって、絶対的な真実ではありません。

過去や未来が頭の中にしか存在しなくて、記憶や歴史が真実ではないのなら、時間や記憶って何なのでしょうか?

それでは、「今」はどうでしょうか?今にいることはできますか?「今」は捉えた瞬間には過去になっているはずです。時間は一度も止まっておらず、流れっぱなしですよね。流れ続けるものに「今」は実際には存在しないはずです。

頭で捉えないで、ぜひ実際に自分で観察してみてください。自然観察です♪

では、過去も未来もなく、今もないなら、一体「私」は存在しているのでしょうか?しているとしたらどこに存在しているのでしょう?

私たちの経験の中に“唯一まったく流れないもの、変化しないもの”、頭の中ではないものがあります。それはそれらのすべてに気づいている意識です。何かが流れていると分かるには、流れていないものがないといけません。

時間が流れていることに気づいている自分。でも、その自分は流れていない。動いていない。

流れない、動かないということは、今しかないということです。今しかないんです。これがエックハルト・トールのいう「今」です。

では、振り返って、いわゆる「私」や「私の人生」というもの。これはすべて「過去、今、未来」という時間軸の中にしかありません。でも、存在していませんでしたね?

今というのは、時間軸のストーリーがない場所(場所じゃないけど)を指しているんです。ストーリーがないところ。

一旦ストーリーがないところに立ったとき、目の前に見える流れていく事象は、次々と現れる未知な現象となります。次の瞬間に角から自転車が現れるかもしれない。またはある新しい思いが浮かんでくるかもしれない。次の瞬間に何が起きるかはいつも未知。

そうやって見ていくと、人生は自分がコントロールしてなんとか幸せに、または安心安全にしていくものではなく、一つ一つの出来事、現象が生まれてくる愛おしいものになります。

出来事が悲しいことだったとしても、辛いことだったとしても、なぜか現れてきた生命のストーリー。「私」という愛おしい主人公がいるストーリー。

理由はわからないけど、生まれてくるストーリー。そして、そのストーリーに気づいている時間を超えた自分。

色即是空=ストーリーを生きる自分(色)は、すなわちストーリーに気づいている自分(空)である。この二つを分けることはできない、二つではない。非二元(二つに非ず)。

私たちの一番の勘違いは、この二つの自分が同じ個の自分だと思っていること。さて、こっちへ行くと話がいつまでも終わらないので話を戻します。

実体である「今」には悩みはない。時間軸のストーリーから解放されているから。じゃぁ、「今」に目覚めれば悩みなくなる?ある意味そう。でも、色の自分が癒やされていないほど、個の自分のストーリーにはまってしまう。だから癒しも大切だと思うのです。

長々と書いてきましたが、実体のない私は、「私の人生」を行きている私と常にともにあって、決して離れることはない。実体の私とは「永遠の無条件の愛、生命」。

私たちはみな守られている♪ ストーリーから離れて、愛を感じてみませんか?

 

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