誤解されたと思ったとき・・・

ロンドン郊外の今日の気温はなんと18度。みんな頭が夏モードなので半そで来ているけど、寒そうに見える。

さて、今日のお題は「誤解」。何を隠そう、私は誤解されるのはすごく嫌なんです。たぶん、私だけではなく、きっと多くの人が自分が誤解された、誤解によって批判や否定をされたと思えば、その誤解を解きたくなるはずです。

とりあえず、私はすぐにどう誤解を解くか?と考えてしまいます。言い換えれば、防衛ですね。私は悪くないのだと証明して、自分を守りたい。

で、ただ誤解を解こうとするだけではなく、ついでに“そんな誤解するなんてアホじゃないか、お前こそ間違っている!”と怒りも湧いてきます。つまり、相手を攻撃したくなる。

例えば、“そんなことをするなんて、なんて卑怯な人間なのだ!”と言われたとして、自分は“えっ、そんなつもりじゃなくて、それはこういうことで・・・”とすご~く言いたくなるし、誤解だとわかっていても、腹が立つし、傷ついたりもします。

えっ、私のどこが卑怯なの?私は卑怯じゃない!あなたは間違っている!!みたいな。と、同時に、ひょっとして私って卑怯? そう思って振り返ってみると、確かに自分には卑怯なところもある。言われても仕方ないのか、でもなんかモヤモヤする・・・。

というわけのわからない感情と思考の樹海の中をいつの間にかさまよい歩いていたり・・・・。

もちろん、自分の思いや事実を説明することは、自分を大切にするという観点でしたほうが良いと思うのです。

でも、自分にも卑怯なところがあるし・・・とか思ってしまうと、それもどこまでして良いのか分からなくなるかもしれません。

また、もし相手に自分の思いを伝えたとしても、“なるほど、自分が間違っていました。ごめんなさい”と言ってくれる確率がどれぐらいあるかどうかも大変怪しい。

どちらかというと、相手に言い返される確率のほうが高いかも。そして、相手との行く先が見えない戦い?(対立、分離)がやはりモヤモヤと続く。

言わなくてもモヤモヤ、言ってもモヤモヤ。

どうしたらこのモヤモヤした樹海から抜けだすことができるのでしょうか?

ということで、誤解されたと思ったとき、心の中で何が起きているのか、少し見ていきませんか?

例えば、あなたは卑怯な人間だ!と言われとき、これはある意味、本当は黄色のジャケットを着ているのに、“なにその赤いジャケット?”と批判されたような気分になっているはずです。(この例え良いのだろうか?)

なので、“私は赤いジャケットなんか着ていない!これは黄色だ!”とすごく言いたくなるみたいな。でも、その訴えもむなしく、その人の中で赤いジャケットを着た自分が勝手に一人歩きしているような感覚・・・。

つまり、誤解を解かない限り、卑怯な私がある種の実体をもってきてしまうような落ち着かない感じ。人から押し付けられた自分像が自分自身よりも大きくなっていってしまうような恐れ。ほんとうの自分自身が間違った自分像に消されていくような感覚。

モヤモヤ、モヤモヤ。

このとき私たちを救ってくれるのは、もちろん、自分をきちんと見つめて、“私は黄色のジャケットを着ている”ときちんと事実確認をすることですね。つまり、私は私の真実をちゃんとわかっているということ。

これが私だ、私は真実を知っているから大丈夫。真実は必ず私を守ってくれるという原点に戻っていくことでしょう。

黄色のジャケットとは、自分の真実、自分のまっすぐな情熱、自分のビジョンです。そして、それを日々生きているということ。(黄色のジャケットを毎日着ているということ)

なので、相手に伝わらないとき、誤解が解けないと感じたき、最も大切なことは、自分がこれらを忘れないでいることだと思うのです。

そうすれば、押し付けられた自分像は自分の中で影響力を失っていくでしょう。

しかし、それがあやふやであれば、あなたは~~~な人です、と言われるたびに、私たちの心は右往左往してしまうはずです。

さて、自分の真実、情熱、ビジョンとは一言でいえば、その人なりのハートのことです。バラがバラになり、タンポポがタンポポになるように、その人が持っているもっともナチュラルでその人の中にある自分らしい開き方、その人なりの色、パッションです。

ところが、私たちはどちらかというと、ハートよりも自分像をベースに生きてしまっていることが多いものです。

例えば、自分は大した人間ではない、取るに足らない存在だといった自分像があった場合、その思いにふさわしい行動をし、その思いにふさわしい経験をしていきますよね。つまり、ハートよりも自分像のほうが人生を歩いているわけです。

でも、自分像というのは、よく見てみると、そこには思い込みと感情、そしてイメージがあるだけです。つまり、どれも実体のないものです。

しかし、本人にとってはそれは事実そのもので、それが現実だと思って真剣に生きてしまうわけです。もちろん、自分はそういう人間だと思い込むほどの環境や出来事があったからで、そう思ってしまうことが悪いわけではありません。

刷り込まれた思いに心の傷がたくさんついているほど、私たちはハートよりも自分像を生きてしまうでしょう。しかも、ハートを育てるよりも、ポジティブな自分像を作る(変わりたい、違う自分になりたい、良い自分になりたい)ほうに邁進しがちです。

でも、自分像を生きるとは、思い込みが一人歩きしているような状態です。なので、それがたとえポジティブなものでも、そのポジティブなイメージを守る必要がでてきます。

でも、もし思い込みではなくハートを一人歩きさせたら?

そのとききっと私たちはイメージという実体のないものを超えて、生命という確かなものが私たちを支えてくれるでしょう。

あっ、でも、癒しの順番として、まずはポジティブな自分像に落ち着くちというのは十分にありです。そしてそこからハートにシフトしていくのも良いですね♪

ハートというもっとも存在の真実に近い場所、強さと優しさの源、そこに何度も立ち返りたい。

誤解を解く戦いから自分を解放し、正気に戻れる場所、そして本当に自分でいられる場所♪

うっすら不幸感と炎上のしくみ

世の中を見まわして、なぜこんなに生きづらい人が多いのだろう?
なんか社会がギスギスしている感じがするのはなぜ?
なぜYouTubeのコメント欄にはびっくりするような誹謗中傷があったりするのか?
そして何よりも、私はなぜ幸せな感じ、平和な感じがしないのだろう?

と思ったりすることは、おそらく誰にでもあるでしょう。

ということで、いきなり悟りと非二元の世界に飛んじゃう。

非二元本である「奇跡のコース」には、「罪悪感」を癒す大切さが何度も出てきます。私たちの心の深層にある罪悪感を癒すことが本質への目覚めにつながると・・・。

ここでいう罪悪感とは、何か悪いことをしでかしてしまった罪意識というよりも、“何か自分には欠けているところがある”、“なんか自分はうまくやれていない”といった、自我の根底にある自己否定を指しています。

自分の本質である「純粋意識」、仏教でいう「空」という、分離もなく、身体や思いでもなく、そして時空もない、純粋意識な意識そのものである自分を忘れ、自分は分離した存在であるという勘違いをしたとたん、「全体でない、何かが欠けた分離している私感覚」が生まれます。

つまり、人生が何一つ始まる前に、この勘違いから生まれた罪悪感が私たちの中にすでにビルトインされているんです。

そして、生まれ育つ過程で、 “頑張らないといけない”(=今のままではダメ)と思わされたり、家庭環境が暴力に満ちていたり、または衣食住に欠けていたり、または学校でいじめに遭ったりなど、私たちの中にもともとビルトインされている「自分ダメ感、自分足りない感」がさらに強化されてしまいます。

このように大きくなってしまった罪悪感は、普段、うっすらとした不幸感や不満、または不安や恐れ、怒りといった形で表面に現れてきます。しかし、日常の忙しさの中で私たちはそれらの感情に気づくことはあまりありません。

たとえ気がついたとしてもどうしたら良いかわからず、せいぜい気をそらす何かを見つけるぐらいです。

ですが、この私たちの中にある未処理の罪悪感は、必ず外に向かい、攻撃する相手を見つけ出そうとします。(もちろん無意識)

なぜなら、誰か、または何かを攻撃することで自分が正当化され、自分が悪いのではないと落ち着けると無意識に思うからです。こうして無意識下で、常に「攻撃レーダー」が作動し始めます。

そしてまずは、一番身近な人がターゲットになります。ので、夫や妻、子供など家族が犠牲になること多しです。(たいていはお互いに攻撃し合う)相手の言動のいろいろなことが気に食わない、腹が立つ、許せない、おかしい・・・と、心の中が戦争状態になります。

ですが、家庭内での戦争に勝てなかった場合、くすぶりはさらに増えていきます。すると次に犠牲になるのが、職場の人々や近所の人など次に身近な人たちですね。または始めから、家庭と会社の両方で同時に戦っている人もとっても多いです。

しかし、なかなかそこも勝てる場所ではありません。そんなとき、誰か芸能人のスキャンダルでも起きれば、よっしゃ~!と罪悪感は勇んでコンピューターに向かい、自分が会ったこともない人を攻撃します。

つまり、炎上とは罪悪感のはけ口とも言えますね。どこかに吐き出さないと苦しい。心が平和で幸せな人にとってはそんなことをするほうが疲れるはず。

または特定のグループや民族を常に敵対視することもありますね。自分自身はその人たちから直接にはなんの被害も受けていないのですが。

しかし、罪悪感は自分が直接にはまったく何も被害を受けていないという事実はまったく無視し、他の罪悪感と呼応し合います。集団化してしまうんです。

グループの中で誰か一人がほかのメンバーを批判し始めると、他の人も一緒に乗って一人を攻撃するとか、大人の世界でもありますよね。

さて、でも残念ながら、どんなに自分の考えが正当に見えて、どんなに相手を攻撃したところで、私たちの心はまったくスッキリしません。なので、攻撃が終わらないし、罪悪感はうろうろとさまよい続け、不幸感はやっぱり残ります。

ということで、ほんと~にスッキリして心が平和でいるにはどうしたら良いのか?

そうです。皆さんもお分かりのように内なる罪悪感を癒すことです。

ここで難しいのは、相手や社会や状況を長い間批判してきたことで、自分の中に正論や怒りもしっかり育ってしまっていることです。

なのでまずは、正論の後ろに隠れている声、怒りを癒してあげることが必要なんですね。“なんで話聞いてくれないのよ~”、“私をバカにするな!見下すな!”、“いい加減にしろ!甘えんな!”といったような声です。

そして、それらの声の下にあるのが、“私を受け入れてほしい”、“私を認めてほしい”、“私も助けが欲しい”といったような声。

そしてそのさらに下にある声が、“私はそもそも受け入れてもらえない人間だ”、“誰も私のことなんか重要視しない”、“助けてくれる人なんていない”というような声。

そしてその下に(場合にはよってはもっと下に)やっと罪悪感の声があります。“私は存在自体が迷惑”、“私は透明人間”、“私は天から見放された存在だ”・・・。

そもそもこの声が生まれた理由には、その人特有のストーリーがそこにあります。それを丁寧に癒してあげたとき、そこから生まれていたいくつもの思いや感情も一緒に癒されていくんです。

どんな汚い言葉、キツイ言葉、乱暴な言葉が表面上に発せられていようが、最終的に傷ついた子供の声にたどり着くんですね。

もし、みんなが自分の中の罪悪感を見つめて、傷ついた子供の声を癒してあげることができたら、世の中はもっと生きやすくなるだろうと思うのです。

そして、さらに言えば、もし私たちが自分の本質を思い出すことができたら・・・・。ということで、最後にまた非二元に飛びます。

「本質の私」に立ち戻れば、どんなにリアルな思いも感情も最終的にすべて実体のないものです。移り変わりものはすべて基本的には存在しておらず、究極的には何も起きていません。(空)

あなたは悪夢を見ているだけで、ほんとうは暖かいベッドの中にいつもいるのだよと、「奇跡のコース」がいうように、自分を傷つけた相手も、傷ついた自分というのも存在せず、私たちは本質的に大丈夫なんです。

ということで、幻想とはいえ、「ユニークな個である自分」の大切な人生を時々本質に立ち戻りながら自分を表現していけると良いですね♪

自我、観察者、本質という三つの私♪

毎日、毎日朝目が覚めてから夜熟睡するまで、ず~~っとある「私という感覚」。実はこの「私という感覚」、当たり前すぎてスルーされていますが、ここにすべての秘密が隠されています。うふ♪

もちろん、真実への秘密です♪

この「私という感覚」、私たちはそこに「一人の私」しかいないと思っているものです。でも、よ~く見ていくと、そこには三つの「私」が同時に存在していることが見えてくるはずなんです。

一つは「思いや感情そのものの私」、“私は悲しい”、“私は惨めだ”など感情や思考と完全に同化している私。つまり、70億人のほとんどの人が「私」だと思っている私。

この私の中には「コメンテーター」がいて、そんな自分を一見冷静に見ているフリをしたりもします。例えば、 “私よりもっと大変な人がいる、悲しんでいてはいけない”、 “うまく行ったこともある、自分は惨めなんかじゃない”、“あまり嬉しそうにしたら子供っぽいから押さえよう”などなど。(でも、心の中は本当の意味ではスッキリしない)

自分の言動をチェックし、コメントしまくる声です。自分を励ましたり、さらに踏みつけたり、または分析したり、原因探しをしたり、かなり忙しいです。

ここにすでに二人の自分がいるように見えますが、思い、感情を無条件に信じているということで、同じ私です。

さて、二つ目の私とは、思いや感情をほんとうの意味で冷静にかつ客観的に観察する「観察者の私」です。

例えば、“なぜ私は惨めだと思うのだろう? 私は惨めだって本当だろうか?”、“今私の中で悲しみが起きている”など、コメントなしに純粋に観察できる私。

このとき、思いや感情への同化ははずれ、無条件に信じるということもなくなります。瞑想やマインドフルネスで、この二つ目の自分が主体となってくると、体もだいぶ落ち着きていきますね。

一つ目の私が黙り始め、二つ目の私も限りなく静かになり、深い平和や愛を感じ始めることが悟りだと思っている人もそれなりにいますが、違います。

なぜならまだもう一つの私がいるからです。

では、三つ目の私とはどの私でしょう?

そう、この二つの私に「ただ気づいているだけ」の私です。「私」に関するあらゆることに気づいている意識です。でも、そこには当然思いも感情も感覚も一切ありませんね。それらはすべて一つ目と二つ目の私に属しているものですから。まったくの「空」です。気づいているという以外は。

また、そこには「個」という概念も、時間も空間もなく、いわゆる「私」を超えた私です。

この三つ目のまったくの「空」で「気づいている」だけの私は、観察者である自分にも気づいていて、もちろん感情の波に溺れてもいなければ、思考のパニックにも陥っていません。

それが私たちの本質で、ほんとうの私ですね。ほとんどの人がスルーしている私です。気づいているだけで何もないから、自分にまとわるあらゆるストーリーから自由である私です。

こうやって見て行けばお分かりのように、私たちが一つ目の私に完全に同化してしまったとき、一番苦しい状態になります。客観的な目もなくなり、主観的な思いだけが暴走し、その思いそのものになってしまう。苦しくてたまらない状態とは、この状態なんです。

また、同化すればするほど、自分がなんで苦しいのかもわからなくなり、「ただとにかく苦しい」、「ぜんぶが辛い」みたいに苦しみの海のなかに溺れていってしまいます。

この状態でなんとか自分で自分を癒そうと頑張っている人がけっこういますが、溺れている人が溺れている自分を助けるのはほとんど無理です。たいていは、自分の思いを無条件に信じたままやってしまうので、その時点でアウトです。

話を戻して、もっとも苦しい状態から抜け出すには、そうです。まずは二つ目の私の視点を持つこと。

思いを無条件に信じることを辞め、湧いてきた感情を静かに眺める。そして、今までとは真逆のことをしてみます。つまり、それはほんと?と疑ってみるんです。(バイロン・ケイティのザ・ワークもお勧め)

無条件に信じていた状態から、疑ってみる状態へのシフトは非常に大きいです。これは自我の解体の始まりです。

ちなみにオープン・アウェアネス・ダイアローグ」の「オープン・アウェアネス(Open Awareness)とは、気づきの意識、この三つ目の私のことです。

開かれた気づきの意識の中で、この“それはほんと?”と問いかける役をセラピスト、またはご本人がします。

それを「気づきの問いかけ」と呼んでいますが、いくつかの問いをすることで、それが実は思い込みだった、分厚い投影だったということに自ら気がついていきます。コメンテーターの介入はゼロ値です。

思い込みには、その思い込みを支えているたくさんの他の思い、感情の蓄積、記憶、またはトラウマなどがあります。なので、セラピー(EFTやマトリックス・リインプリンティング)もともに使うことでそれらが解消され、癒しが起きるんですね。

目覚めとは、まず自分は思いや感情に深く同化しているということを認識することから始まるでしょう。「同化」と「無条件に信じる」は同じ意味です。湧いてくる思いをすべて受け入れ、信じまくっている。

なので、二つ目、三つ目の私の視点を自分の中に育てていくこと。三つ目の視点とは、いわゆる非二元、悟りの視点です。一番見過ごしていた視点です。

気づいているだけでそこに一切何もない(空)から、掴むことができない。だから自我は見過ごすし、探しに行ってしまう。

でも、これはなぐさめでもなんでもなく、譲れない事実、真実として、本質の私は、笑っちゃうぐらい身近に、というか一つ目と二つ目の私そのものでもあり、常に今ここにあります。

自我が持つたくさんの思い込み(ドラマ)を解体すればするほど、それが本当の自分であることが、もっとわかりやすくなっていくでしょう♪

最も自然な生き方♪

先日、ある本を買いに久しぶりに書店に立ち寄り、ついでに自己啓発のコーナーやスピリチュアルコーナーや、そして大してやらないくせに必ず立ち寄るお料理コーナーなどを見て回っていました。

そうやって見て回っていて、自分自身の内側がものすごく変わってきたことに気づいたのです。例えば以前は、自己啓発コーナーなどは生き方のヒントの宝庫で、なにか自分の人生に役立つものがあるはずという期待でワクワクしていたコーナーでした。

また、スピリチュアルのコーナーは、存在のしくみ、なぜ私はここにいるの?という根本的な問いに答えてくれるもの。宇宙、世界、自分についての謎を見せてくれるもので、そこで理解したことは、まさに私の生きる土台となっていました。

でも、すべて過去形で書いているように、あれだけ大切だったものに驚くほど興味を失っている自分がいたのです。

興味を失う=それらが大切ではない、ということではまったくありません。私たちは宇宙の星々や社会の出来事、価値観やものの見方などに大きく影響を受けて生きています。

そういう意味で、日々の暮らしという最も大切なところに深く関わり合うような、これらのことはもちろんとても重要です。なので、興味がないからまったく気にしないということではないんです。

もしビジネスに不安を覚えたら、成功している人からアドバイスをもらいたいし、部屋を整理するならプロのコンサルを受けたいし、社会の出来事は知っていたいし、なるべく良い波動でいたいしと、表面上はまったく同じ自分がいるんですね。

でも、それらはすべて“あるようにある”もので、ビジネスがうまくいかない、人間関係に歪みが出た、社会に様々な出来事が起きる・・・、こういったことは、右にでも左にでもいかようにも現れるものなんです。

根本的には私がコントロールできるものではなく、様々な要因が一瞬一瞬変化しながら、タペストリーのように関係し合い、出来事として現れてくる。そして、それらの出来事をどう解釈するかは、単なる思考の意味づけでしかない。

ある出来事を失敗と意味づけても、学びと意味づけても、またはチャンスだと意味づけても、出来事そのものはあるがままにあるだけ。

これは自我の目線で見ると、一見なんだか虚無的で、無力な感じがするかもしれません。でも、生命(=純粋意識)という本質の目から見れば、大いなる救いであり、生命への信頼となるんです。

なぜなら、自分は大海に翻弄される小さな存在ではなく、ダイナミズムな動きであり、その動きの根源、大海そのものだからです。

しかし、自分が人生、世界という大海の中の小さな存在だと思っている限り、私たちは「生きる指針」という浮き輪が必要かもしれません。

ある人にとってはそれは宗教の教えであり、ある人にとっては親から代々受け継いできた教え、またある人にとっては社会の常識、ある人にとっては自己啓発、そしてある人にとってはスピリチュアルな指針などなど、その浮き輪がなんであれ、それをしっかりとつかみ、人生という何が起きるか分からない荒波の中をなんとか生き抜いていく。

しかし、自分が大海であるという視線からすれば、波はいかようにも変化し、方向を変え、大きくなったり、小さくなったり、濁流に飲み込まれたり、静かになったり、それが生きているということ。そして、そこに恣意的なコントロール(制限)は一切なく、生命の動きがあるのみ。

あゆかという小さい私に戻っても、それはやはり同じで、あゆかは生命の発露の一つであって、私という小波からどんな思考が発露し、どんな行動が出るのか、それはあゆかのコントロールを超えているんです。

ここまで書くと、おそらく“じゃぁ、無差別に子供を殺すのもその人のコントロールを超えているから仕方がないの?”という疑問がわいてくるかもしれません。

生命とは基本的に生きようとし、生きることを支え、伸びよう、成長しようとするものなはずです。そして、一つの形として表現しつくして“死”という次の生成へと移行していきます。

人間も自然の一部として同じはずです。

でも、私たちが何らかの理由で心の闇に陥り、結果、生命の発露としての自分を忘れ、本質から遠ざかってしまったとき、生命を閉ざすような「不自然」な動きが生まれるのでしょう。

ある意味、苦しみとは自然な生命の動きから離れていますよというメッセージですね。

ということで、やっぱり、今はシンプルに生命の流れ、生命の発露によく耳を傾け、自分の中の不調和や苦しみの中身を見つめていきたいなぁと再確認したのです。

生命の発露に耳を傾けるとは、例えば、どうしたら良いかわからないとき、自分にとって最も正直な感覚で、批判や否定のない、地に足の着いたエネルギーを自分の中に見つけ出すことです。

誰も悪者にせず、状況や自分を否定することなく進んでいける感覚です。それに従っていれば、結果がどうであれ、生命が私をどこへ連れていくのかは、100%おまかせ♪

あらゆる意味づけや結果から解放され、生命にゆだねられる心地よさは何事にも変えられないものですね♪

プライドと自分らしさとハートの声

人生の途中、途中で道を変えたくなることって、たぶん誰にでもあることでしょう。でも、変えたいけど、その次がどうしたら良いか分からない・・・という人も多いかもしれません。今の仕事を辞めたいけど、かといって次に何をしたら良いか分からない・・・みたいな。

自分が何をやりたいのか分からない。いろいろ趣味や興味はあるけど、仕事にするほどなのか分からない。日本だけでなく、イギリスにもそういった悩みを持つ人は多く、それなりの年齢の人でもインドに自分探しをしに行ったりしています。(なぜかインド)

でもなぜ、そもそも私たちは自分が情熱を持てるものが分からないのでしょうか?

そうやって振り返ってみると、私たちは“与えられる”ことに慣れすぎているのかも・・・と思うのです。

例えば、学校へ行けば、学ぶことを与えられ、それをどれだけきちんとこなすかが大切。自分で学びたいことを考える、選ぶという機会はほぼありません。(フリースクールなど以外は)

そして学校を卒業して、会社に就職すれば、今度はそこで仕事を与えられる。与えられた仕事がどんなに高度な知識やスキルが必要であったとしても、その仕事そのものやそれがやれる環境は与えられていて、それをこなしていけばお給料がもらえます。

こうやって、目の前に与えられたものをこなすことに集中し、他者(学校や会社など)の都合に合わせていくうちに一体自分が何をしたいのかとか、自分らしさなどが見えにくくなってしまうのかもしれません。

ハートの声を聞こうというブログの記事を読んでも、ハートの声って何?どれ?これかなぁ~~?みたいな。

ちなみに、今自分がやりたいことに従えばハートに従っている、または、AとBを比較して、よりやりたい方を選ぶのがハートに従っていることなのだ、みたいに捉えている人をときどき見かけます。

しかしこの場合、それは単純にエゴが喜ぶことだったり、ただの欲望だったり、なにかまずいことを蓋するためだったり、けっこう危ういです。

では、ハートの声って一体なに?

例えば、たんぽぽがたんぽぽとして十分に咲いているとき、それは生命の発露そのものですよね。ハートって、本来もっともナチュラルで頑張る必要のないもの、生命が作り上げたその人の資質の声だと思うのです。

つまり、自分が持っている “らしさ”。自分らしさが発揮されていれば、どうしたってそこから自分なりの生き方も自然と現れてきます。

と、考えれば、ハートの声とは何がしたいのか?、これなの?あれなの?というものではなく、自分らしさってなんだろう?ということになるでしょう。その自分らしいエネルギーや感覚が語りかけてくるもの。

また、ハートの声とは生命の衝動でもあり、そこには智慧があって、分離を超えた視線があるはずです。なので、あれはダメだけど、こっちが良いみたいな二択や対立、否定の要素は入りませんね。

話は一見飛びますが、仕事の内容は何であれ、ある人は自分の仕事にプライドを持っていて、ある人はただやっているだけってなんだか分かりますよね。

で、いつも感じることは、それが時給1000円の仕事であれ、何であれ、プライドを持っている人は何かが違うなぁと。ほかの人と同じ仕事をしていてもなにかのプラスアルファがある。そして、当然その人にサービスして欲しい。

そのプラスアルファってなんだろう?と振り返ってみると、やっぱりその人らしさ、その人にしかできない味が出ているのだと思うのです。そしてまた、仕事にプライドを持っている人は、与えられた仕事であっても、それが“自分の仕事”になっているのが分かります。

ので、仕事が与えられたものなのかどうかよりも、仕事をどう捉えのるかがポイントですね。

ちなみにプライドといっても、勘違いした自信過剰的なプライドのことではなく、自分と仕事とそこに関わる人を尊重している、価値を置いているという意味でのプライドです。

本来は何をやっていても、自分らしさはどうしてもにじみ出てしまうものでしょう。

なのでプライドを持とうと頑張るということではなく、「今の自分」、「今自分にあるもの」を周囲に振り回されず、丁寧に大切に扱っていくだけで良いのかなと思います。

そこから自分らしさがにじみ出て、ハートが顔を出し、そして生命の流れに乗って、落ち着くところに落ち着いていくのでしょう♪

 

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はまりがちな心の上下関係

ゴールデンウィークの始めに開催したEFTプラクティショナー講座(なんだかすっごく楽しかった♪)も終わり、GWも折り返し地点になってきました。

そして、令和(私のパソコンは変換してくれない)の時代が始まりました~。それにしても、いつも上皇ご夫妻を見るたびに、良い夫婦だなぁ~とほっこりしてしまいます。

テレビをつけていると、上皇や天皇に対する丁寧な言葉使いとともに、自分を“下々の私たち”と呼んでいるのを耳にします。天皇は日本の象徴として、みんなが見上げ、そして敬う存在です。

とはいえ、例えば命の重さという点では、皇族も下々もまったく同じで、人間という観点では、基本的に「天は人の上に人は造らず、人の下に人を造らず・・・by 福沢諭吉」ですよね。

おそらくそれは上皇、天皇陛下ともどもよく理解していらっしゃるから、あそこまで真摯に公務を遂行できるのだと思うのです。ですが、振り返ってみると、役割の上限関係であるのに、私たちはなぜか自分の価値も下になっていないかなと思ったのです。

例えば、会社や学校、あらゆる場所で役職があり、雇用関係があり、制度的に上下関係はありますよね。でもそれはあくまでも制度上の上下関係で、どんなに新人、下っ端でも、人間としては自分の上に誰もいないし、自分の下にも誰もいないはずです。

ですが、役割の上限関係の中で上のあなたはこうあるべき、下のあなたはこうあるべき、といった役割重視が行き過ぎ、お互いを人間として尊重することを忘れてしまいがちかもと思うのです。

そして、その役割の上下関係のみにはまってしまい、心の主従関係がいつのまにか生まれてしまったり。特に自分が従の側になってしまうと、不自由さ、不公平感、無力感が生まれてきてしまうかもしれません。

恐らく多いのが、国家は自分の上で自分は下。本来は国民が主人ですが、なんとなく国家、政府が主人で、自分はそれに従う小市民みたいな感覚。

ただ、この場合の上下関係は、自分を下において従っているだけというのも、実は一見楽です。自分で考えなくて良いし、自分で動かなくても、責任を取らなくても良いし、国や会社が与えてくれるものを享受して、嫌だったら、不平不満だけ言っていれば良いからです。

しかし、このメンタリティは基本的に犠牲者意識にもなりやすいので、何かあれば権力への恐れや怒り、無力感、不公平感といったものに発展し、苦しみも生みますね。

また、役割の上下関係以外に自分の中で勝手に生まれる100%心理的な上下関係もあるでしょう。

例えば、主婦の人が働く女性に引け目を感じたり、または働く女性が子育て中の女性に引け目を感じたり。こんなとき、よく振り返ってみると、引け目を感じている自分は、その人たちの下になっているはずです。心の優劣関係。

そしてまた、もう一つ多いのが、自分が平均よりも上か下かという上下関係。このときなにが一体平均なのかは、実はかなりぼんやり。にもかかわらず、もし自分が平均より下であると思ってしまった場合はけっこうな苦しみなります。

そうやって振り返ってみると、私たちは人間として平等だね~という感覚よりも、いつも何らかの上下関係の中にいる場合が多いなぁと思うのです。状況や思い込みによって、上になったり、下になったり。

では、どうやったら、この心の上下関係から自由になれるのでしょうか?

まず、下にいるのが嫌だから上に行こうとする・・・、というのは、まさにこの上下関係のゲームにどんどんはまっていくだけでしょう。なんとか平均より上の私、できる私、ポジションが上の私・・・・。

でも、そもそもなぜ上の自分でいたいのか? できる自分でいたいのか?とよ~く見つめてみると、そうすれば自分が好きになれるから、そうすれば自分に自信が持てるから、そうすれば自分を肯定できるから・・・となっているはずです。

そして、自分を肯定できる人生は輝いていて、自分を否定する人生は生きる意味がなくなる・・・みたいな。

と分かれば、たぶん近道は今の自分を条件なしに肯定してしまうことですね。えっ?難しい? その場合は、条件なしにできない、なんらかの刷り込みや感情、ビリーフがごっちゃりついているからなんです。ので、それはほんとうは思考が作った幻想だよ~と見破るためにもセラピーお勧めです。

命という点ではみな同等で、そして一つの命の歩みが人生であるのなら、その命(あなた)の上にも下にも他の命はなく、それぞれにユニークな歩みがあるだけですね♪

 

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2019年5月25日(土)、26日(日)東京

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感情を追いかける果てにあるもの♪

ちょっといつもと違うトーンで♪

例えば、つきあっている人に振られて、すっごく悲しかったとして、
誰もが悲しい原因は振られたからと考えるけど、ほんとうに苦しい原因は、
振られたことで自分や自分の人生を否定してしまっていること。

もし、否定しなければ、それは人生を彩どる一つの経験。

もし数か月経って、自分を振った相手が“やっぱりあれは間違いだった、
もう一度つきあって”と言ってきたら、悲しみは吹っ飛び、ほとんどの人が
状況が変わったから、私は幸せになったと考えるだろう。

でも、実際は自己否定や人生否定をしなくて済むようになったから、
悲しみが解消されたということ。

自分を肯定できるか、否定してしまうかというスイッチがあるとしたら、
私たちのほとんどは、そのスイッチをほかの人が押していることになる。

つきあっている人や家族の言動、お金の量や職場での状況などなど。

意地悪で言っているのではなくて、そりゃそうだ。

おぎゃ~と生まれたとき、私たちは周囲に依存するしかなくて、
自分の安全と幸せは周囲にすべてかかっていたのだから。

周囲が自分を大事にしてくれていたら、自分は大丈夫、存在する価値がある、
周囲が穏やかで幸せそうだったら、世界は安全で自分は守られている。

ずっと他者や周りの状況に左右されてきたDNAが深く私たちの中に
刷り込まれている。

あなたを幸せにするのは、他人だよ、状況だよ~とDNAがささやく。

でも、ある日他人や状況に振り回されることに疲れ、また他人や状況を
変えられないと知って、私たちは苦しいまま立ちすくむ。

いや、苦しくてたまらないからネットで検索しまくったり、
本を読みあさったり、友達に相談したり、

あぁ、苦しみの中身がまったく分からなかったとき、
どれだけ外に答えを求めたことだろう。

無限にあるように見える情報社会のなかで、
自分の苦しみが和らぐような手掛かりがちっとも見つからない。

でも、ささやくような小さな声だたっけど、
自分の中にあった真実を求める声に気づくことができたは、
まさに恩寵であった。

どこを目指せば楽になれるのか、
時間はかかったけど教えてくれたからだ。

目指すのは、そう、自分の中。
それも思考や思いではなく、「感情や感覚」。

感情は魂の言語だ。何かについて自分にとっての真実を知りたいとおもった時には、自分がどう感じるかを探ってみればいい。(神との対話 ニール・ドナルド・ウォルシュ)

苦しい時、感情は苦しさでいっぱいで「魂の言葉」と言われてもピンとこないかもしれない。

でも、自分にとっての真実は感情を追っかけていくことで見つかるのだ。

そして自分にとっての真実が大きな癒しをもたらすことは意外に知られていない。

絶望や疎外感、空虚感、悲しみ、消えない怒り、後悔・・・・。

これらの感情には思考よりも確実に自分の真の思いを発していて、
これらの真の気持ちを聞いてあげること。

真の気持ちが気づかれて、受け入れられ、許されたとき、
それだけでも大きな癒しが訪れる。

でも、ほんとの癒しはここからなのだ。

それらの真の思いが受け入れられ、シフトしていったとき、
私たちは初めて「自分という感覚」に安全を見出せる。

他者や状況に依存してきて、すっかりスルーしてきた
自分という心地よさ、完ぺきさ、穏やかさ。

それは、出来事を自然に肯定できるような気づきとパワーを持ち、
状況に関係なく私たちは癒される。

そして、その自分という感覚から生まれてくるインスピレーション。
それは生命の息吹で、あなたの人生の道案内。

私たちが悩みから抜け出せないとき、またはやりたいことが分からないとき、
一番の理由は、なにかの思考にはまっているから。

でも、思考は言葉を持っているから、とっても説得力が高いし、分かりやすい。
また、思考は一度発動すると、答えが出るまで落ち着かない。
だから私たちは考え続ける。

そうやって思いに囚われていくうちに、私たちは思いと感情を混同していく。
どう感じましたか?という質問して、だまされたと感じました・・と答える人も多い。

魂の声と理性のおしゃべりを混同してしまうのだ。

まずは感情の声を聞き分けられるようになると、大きな一歩だろう。

そして、感情の声を聞いて、対話する術を知って欲しい。

私たちがみな自分の真実を聞けるようになるために。

ということでEFT講座。人類の必須科目にしたいな♪

ゴールデンウイークの始まりに一緒に魂の言葉と向き合ってみよう♪

 

PS:よくある質問 JMETのEFTは他とどう違うの?
EFTは団体によってやり方は様々です。JMETはオリジナル(国際基準)を尊重し、セラピストの考えや言葉を入れずに、ひたすら感情を追い続け、潜在意識の深いところへ到達するやり方を行っています。

 

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【申し込みフォーム】
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