時間もなく、苦しみもなく

突然ですが、「時間がなければ苦しみはない」終わり。

これを読んで、“そりゃそうだ、でも時間ってあるし・・・”と思う方が一番多いかもしれません。

私はこれがほんとうに腑に落ちたとき、なんでこんな明白なことに気づくのに何年もかかったのだ!バカバカと自分の頭をぽこぽこしたい気分になりました。

とりあえず、ご説明させてください。

そのためにまず、過去も未来もないとイメージしてみませんか? 

過去の出来事にまつわる記憶がまったくなくて、同じように未来もぜんぜんない。

ほんとうにない!ゼロ!消えた(笑)!

イメージできましたか? 

過去と未来が消えたとき、私たちの悩みや問題はまだ存在しているでしょうか?

例えば、「私は無力だ」という思いを持っていたとしても、過去と未来がなければ、その思い自体の意味がなくなりますね。

または、過去に誰かに傷つけられた、自分が誰かに酷いことをした、間違った選択をしてしまった、などなど過去の出来事に対するネガティブな思いも消えてしまう。

当たり前じゃないか・・・と思うかもしれませんが、ぐっとこらえてついてきてください。

で、そうなれば、今は過去の結果ではなくなります。また、未来も今の結果ではなくなりますね。

エックハルト・トーレは「今ここ」には悩みや問題はないと常に言っていますが、この意味が以前はまったく分かりませんでした。というのも、「今」の意味を時間系列の中で考えていたからです。なので当時は「でも、今借金があれば問題じゃない?」とか思っていたのです。

しかし、エックハルト・トーレがいう「今」とは、時間の流れの中にある今ではなく、実体の場を指していたのです。

例えば、過去と未来はどこに存在するでしょうか? 私たちが絶対にあると信じて疑わない過去と未来はどこに存在するでしょうか?

・・・・・・・・・私たちの頭の中だけですね。

また、過去と未来を実際に経験することはできるでしょうか? 誰も一度もしたことがないはずです。

つまり、私たちがいう時間とは、頭の中だけに存在して、誰も経験をしたことがないんです。

では、頭の中にあるものは実体があるのでしょうか?

記憶はイメージや思考や感情、感覚で成り立っていますね。

例えば記憶のイメージは絶対的なものでしょうか?それとも自分バージョンの映像でしょうか? 同じ出来事に対して、兄弟で記憶がぜんぜん違うことはそれなりにないでしょうか?記憶は基本的に主観的な自分バージョンです。

これは絶対的なものとはいえないですね。

歴史も勝者によって書かれるというように誰かの記述であって、絶対的な真実ではありません。

過去や未来が頭の中にしか存在しなくて、記憶や歴史が真実ではないのなら、時間や記憶って何なのでしょうか?

それでは、「今」はどうでしょうか?今にいることはできますか?「今」は捉えた瞬間には過去になっているはずです。時間は一度も止まっておらず、流れっぱなしですよね。流れ続けるものに「今」は実際には存在しないはずです。

頭で捉えないで、ぜひ実際に自分で観察してみてください。自然観察です♪

では、過去も未来もなく、今もないなら、一体「私」は存在しているのでしょうか?しているとしたらどこに存在しているのでしょう?

私たちの経験の中に“唯一まったく流れないもの、変化しないもの”、頭の中ではないものがあります。それはそれらのすべてに気づいている意識です。何かが流れていると分かるには、流れていないものがないといけません。

時間が流れていることに気づいている自分。でも、その自分は流れていない。動いていない。

流れない、動かないということは、今しかないということです。今しかないんです。これがエックハルト・トールのいう「今」です。

では、振り返って、いわゆる「私」や「私の人生」というもの。これはすべて「過去、今、未来」という時間軸の中にしかありません。でも、存在していませんでしたね?

今というのは、時間軸のストーリーがない場所(場所じゃないけど)を指しているんです。ストーリーがないところ。

一旦ストーリーがないところに立ったとき、目の前に見える流れていく事象は、次々と現れる未知な現象となります。次の瞬間に角から自転車が現れるかもしれない。またはある新しい思いが浮かんでくるかもしれない。次の瞬間に何が起きるかはいつも未知。

そうやって見ていくと、人生は自分がコントロールしてなんとか幸せに、または安心安全にしていくものではなく、一つ一つの出来事、現象が生まれてくる愛おしいものになります。

出来事が悲しいことだったとしても、辛いことだったとしても、なぜか現れてきた生命のストーリー。「私」という愛おしい主人公がいるストーリー。

理由はわからないけど、生まれてくるストーリー。そして、そのストーリーに気づいている時間を超えた自分。

色即是空=ストーリーを生きる自分(色)は、すなわちストーリーに気づいている自分(空)である。この二つを分けることはできない、二つではない。非二元(二つに非ず)。

私たちの一番の勘違いは、この二つの自分が同じ個の自分だと思っていること。さて、こっちへ行くと話がいつまでも終わらないので話を戻します。

実体である「今」には悩みはない。時間軸のストーリーから解放されているから。じゃぁ、「今」に目覚めれば悩みなくなる?ある意味そう。でも、色の自分が癒やされていないほど、個の自分のストーリーにはまってしまう。だから癒しも大切だと思うのです。

長々と書いてきましたが、実体のない私は、「私の人生」を行きている私と常にともにあって、決して離れることはない。実体の私とは「永遠の無条件の愛、生命」。

私たちはみな守られている♪ ストーリーから離れて、愛を感じてみませんか?

 

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コロナ禍に飽き飽きしている人へ〜目覚めちゃおう!〜

みなさん、いかがお過ごしでしょうか? ブログをそろそろ始めると言ったまま、まったくやっておりませんでした。世界の動きと非二元の真実のはざまでうろうろし、言葉がまとまりません。

さて、日本とイギリスを往復する生活をもう20年以上経ちますが、今回ぐらい世界が「同じ」だと感じたことはありません。というより、たいていは日本で話題になっていること、イギリスで話題になっていることがまったく違い、普段は同じ惑星か?と思うほど違うものです。

ところが、今回のコロナ禍ではメディアのあり方、それに対する人々の反応、社会の分断の様子が両国ともまったく同じです。例えば今なら、ワクチン推進派とワクチン慎重派の意見は、ものの見事にイギリスも日本も同じです。

もちろん、インターネットの情報を共有しているからとはいえますが、それにしてもここまで同じように人々が分断したことは私の経験ではないなぁと感じるのです。

そして、最近感じるのは、どの立場を取ろうと長く続くある意味非常事態に多くの人が疲れてきているなぁということです。完全にリラックスして自由に自分の好きなように旅行したり、人と会ったり、何も気にせず楽しむことがまだできないというか。

人間は社会動物なので、人間としての本能は人と混じり合うこと、会話すること、触れたり、群れて行動することです。が、その人間としての本能の真逆を長期間強いられると、当然自律神経は疲弊していきます。

とくにポリヴェーガル理論からすると、表情筋を動かすこと。口を開けて笑ったり、歌ったり、表情豊かに話したりすること、また深い呼吸をすることは、健康な自律神経を維持することに非常に大切です。(子供の場合は、健康な脳と自律神経の成長に大切)

ですので、パンデミックにあまり影響を受けない人たちでも、無意識に疲れはたまっているかもしれません。

また、感染が怖いと思っていようが、思っていまいが、マスク無しで自由に大きな声で会食するというのはなんとなくはばかれるかもしれません。こういったことが無意識のストレスになりがちですね。

しかし、一番のストレスの原因はやはり外の状況よりも自分がどう解釈しているかなのです。この話はブログで何度も書いてきましたので、ブログの読者さんはよく理解してくれているでしょう。そして、それは今回のコロナ禍でもまったく同じです。

世界中が同じ動きをしていようと、世間が通常でなかろうと、人間の自然な動きを抑圧されようと、一番疲れを生み出しているのはやっぱり自分の思考です。

自我には、ストーリーを生きるという大きな性質があります。ある意味ストーリーなしに自我は成立しません。「私」がいて、私が〜〜をする、私と他の人が〜〜である、私と社会が〜〜である、という「私の人生」というストーリーです。

そして、そのストーリーを作るためには自分のアイデンティティ、価値観、世界観、知識、情報などなどが必要になってきます。

自分がまずどういう人なのか?という自分への見方がオギャーと生まれてからすでに無意識下で形成されていきます。親の愛情をたっぷり感じていれば、「自分は大丈夫、自分はこの世にいて良い、世界は安全」という感覚が刷り込まれ、そこから「自分は受け入れられる人」「自分の存在は喜ばれる」などといったポジティブな自分像が生まれます。

一方、虐待やニグレクトがあれば、「自分は無力だ、徹底的に孤独だ、世の中は怖い」という感覚がコアとして刷り込まれ、「自分の存在は迷惑だ、自分はダメだ」などといったネガティブな自分像が生まれますね。

そして、この自分像をベースに世界観、価値観を作り上げ、情報を収集し、私の人生というストーリーを作っていきます。問題はこれも何度も書いてきましたが、私たちの人生を作り上げるこれらの自分像、価値観などが無意識のうちに作り上げられ、私たちはまったく気づいていないことです。

例えば、「自分は無力だ」という自分像がベースにあると、人間の関係の中で「自分はが馬鹿にされた、自分はいじめられた」という解釈が生まれたとします。実際は、単に相手の機嫌が悪く、八つ当たりされただけなのかもしれません。

しかし、自分の無意識の思いにまったく気づいていないために、その人にとって「馬鹿にされた」は事実、現実に見えます。自分像がポジティブな人は、同じ体験をしても「なんだこいつ面倒なやつ」という解釈になるかもしれません。

さて、話をコロナ禍に戻して、感染が怖い、怖くないも基本的に私たちの無意識の自分像や価値観から生まれた解釈です。でも、多くの人にとってそれは紛れもない事実、現実です。

感染が怖い人が作り上げる世界(ストーリー)と怖くない人が作り上げる世界(ストーリー)はまったく違うものでしょう。そして、それぞれがそれが現実だと思って生きているわけです。

ということで、過激な提案をさせてください♪

この際、ドバッとストーリーを捨てて目覚めちゃいませんか?

今世界で起きている分断は、ワクチン推奨派であろうが、アンチであろうが、両者が自分が見ているものが絶対的に正しい、絶対的に事実だと譲れないことにあります。

と、書きながら私のフェイスブックの投稿を読んでくださっている方は、私が感染怖くない派でワクチン慎重派なのをご存知でしょう。自分というストーリーの中であゆかはこのストーリーを好む傾向が非常に強いです。

と、同時にあゆかは自分が見ているものが実体のない幻想だとも知っています。それはあゆかに大きな安堵をもたらしてくれます。でも、同時にストーリーがすべて幻想なのではなく、その中に見え隠れする愛のみが実体だとも知っています。

だから、自分とまったく違う見方をする人たちを否定しないし、それを超えた愛を見つけ、それを見失わないように日々模索しているんです。

また、あゆかは目覚めているわけではありません。というより「私」はあゆかから目覚めるのです。

でも、とりあえずあゆかが「私のストーリー」の実体のなさを見抜いていくことは、目覚めへの一歩となります。そのために、自分の感じていること、見ていること、信じていることに固執しないで、オープンになっていくこと。

ということで、来月はじめに「目覚めへのご招待」ズームセミナーを行います。来年に予定している「空と色のセミナー」、「インテグレイテッド心理学講座」のご案内もしたいので、「無料セミナー」となります。

ご都合がつきましたら、ぜひご参加ください。

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◎日時:2021年11月7日(日) 19時半〜20時半

(質問の度合いにより延長あり)

お申し込みは特に必要ありません。時間になりましたら、下記のURLからお入りください♪

◎ZoomURL
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ミーティングID: 892 0681 5953
パスコード: 706532

自分にまつわるウソを見抜いて全体に目覚める♪

ブログを再開すると書いたのに、ぜんぜん再開しておりませんね。ごめんなさい!

というのも正直に書くと、このコロナ騒ぎ(?)にすっかり心を奪われております。というのも、ほとんどすべて忘れてしまいましたが、一応イギリスで食事療法と解剖生理学の資格を取っており、ウイルス、免疫、遺伝子ワクチンというトピックに興味が尽きず、毎日あれこれ記事やレポートを読んでしまっております。

また、このように世界中が同じ心理に巻き込まれるという、私が人生で経験したことがない状態にも心理セラピストとして、SNSなどで人々の生の声を観ているのがとても興味深く、人間観察が止まりません。

その上に、プライベートでも母の死(母の死は覚悟はしていたものの幼い頃のもっとも飢えたトラウマが刺激されました)や家の売買など、公私ともどもお腹いっぱい以上にいろいろ起きまくり、外側と内側でエネルギーがダイナミックに動きまくっています。

にもかかわらず、ある意味不思議なのは、出来事の現実味がどんどん薄れ、湧いてくる思考の薄っぺらさ感が増していき、多くのことが起きて心が奪われていると同時に、その幻想性も増していき、言葉にできない状態の中にいます。

そんなわけで、多くのことを語りたいような、語ることがまったくないようなよく分からないけど、心地は良いみたいな状態が続いています。

そんな状態のなかで、最近思うことは、自分がどう行きていくか?という問いは、最終的に自分を手放す方向へ行けるなぁということです。

説明させてください。

他者の意向や世間に流されず、自分自身をきちんと持って、自分らしく生きる生き方を自分に問いていく。それは、自分のハートとつながることでもあり、自分への愛、そして自分が持っている内なる力につながることでもありますね。

ほんとうの意味で地に足が着いた生き方です。

私たちは、このように自分と真につながったとき、深いところにある分離感を超えることができます。つまり、全体に目覚めるんですね。

ちなみに、自分とつながるという意味は、単に自分の好きなことを見つけるとか、人の意向は無視するとか、そういった表面的なことではありません。

自我が共有している深いところにある欠乏感、分離感のウソを見破り、自分一人でいるときに自分自身とともにいることに心から快適さを感じるという意味です。

自分一人では心もとない、寂しい、不安だ、自分はどこかがダメだ、自信がない、みんなに受け入れられたい、誰かに愛してほしい、なにか打ち込めるものが欲しい、食べていく不安をなくしたい、人生が思ったようにいかない・・・・などなど、私たちは自分や自分の人生のどこかに不安や不満、否定が走ってしまうものです。

そういったストーリーのウソを見抜いて、今シンプルにただあるがままの自分と地に足をつけてつながるという意味です。

ストーリーだらけの自分や自分の人生は、ドラマチックかもしれませんが、実は真の自分とかけはなれた世界です。(しばらくドラマを味わうのもぜんぜん面白くて良いと思います)

自分一人でいることが真に心地よいのは、ポジティブなストーリーを作れたからではなく、ストーリーがいかにはかなく、頼りなく、実体がないかを見抜け、そこから目覚めているからですね。

そして、そのシンプルな自分からピュアな情熱、ユニークな衝動が出てきて、それが人生を織りなしていきます。

では、どうやったら自分にまつわるストーリーから目覚めることができるのでしょうか? ストーリーと書いていますが、ほとんどの私たちにとってはそれは「事実」、「現実」です。

ほら!銀行に◯◯◯◯円しかない、お金がないのは現実だ!

上司が◯◯◯という暴言を吐いたのは現実だ!

私が親から虐待を受けたのはほんとうのことだ!

家が火事になったのはほんとうに起きたことだ!

私の成績がいつも低かったのは事実だ!

実際に起きた出来事をウソだと言っているのではないんです。(真の意味では何も起きていないけど)出来事に関して走りまくる思考が実体がなく、ウソだということなんです。

長年一緒に暮らしてきたペットが死んでしまった・・・。これは事実です。喪失感、寂しさ、悲しみが湧いてくる。これも人間として当然の感情ですね。

でも、そこに“私は一人ではいけていけない”とか、“もっと何かしてあげられたはずだ”とか、思いがついてきたとき、喪失感がピュアなものから重たい感情へと変わり、私たちの中にいつまでも留まってしまいます。

また、虐待といったトラウマは脳や神経を巻き込んでいつまでも私たちの中に留まるため、解放しない限り、トラウマが生み出すストーリーから抜け出すのは難しいでしょう。(自分を助けてくれる人はいない、私は無力だ、自分は存在しないほうが良い・・などなど)

でも、見捨てられた自分も無力な自分も、そして存在しないほう良い自分もまったくのウソです。ウソ、ウソ、大嘘!ぜ〜んぶ実体のないただの思い。ただ、体験とともに脳や神経に刷り込まれてしまったため、すごくリアルですね。(セラピーで解放できます)

ということで、自分とつながるということは、自分を見つめる、そして癒やしていくということでもあります。

そして、ストーリーが剥ぎ取られたあるがままの自分とは、実はもう個としての自分ではなく、あるがままの全体となります。個をつきつめて、全体に目覚める。

ある意味、自己の不在によって、一番自分に快適さを感じられる。究極の矛盾ですね(笑)

今、世界が大きく動いていて、変化のなかにあるなか、ある意味自分をシフトさせる、長年持ち続けた感情や思いを手放すには、ちょうど良いチャンスかもしれません。

ということで、ブログはまちまちになるかと思いますが、気長にお付き合い頂けると嬉しく思います。

真の私たちは、愛であり、平和であり、すべてを愛し、愛の中に消えていき、そして全体に目覚める♪

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自分から自由になる♪

「私という自己はいない」。前回の続きです。しかし、当然私たちは「(個)の自分がいる感覚」が満々にあります。 そして個がいる限り、分離があり、分離がある限り所有がありますね。つまり、私の思い、私の体、私の感情、私の人生、私の親、私のパートナー、私の子供、私の家、私の仕事、私の夢・・・・。

これ自体は何も悪くありませんし、分離のゲームを健全に生きるには、境界線を引くこともとても大切です。

しかし、この所有感覚が強ければ強いほど、私たちはこれらをコントロールする必要がでてきます。自分の領土、資源を守る、できればもっと領土を広げたい、自分の利権や権力を守る、それらは多ければ多いほど良い・・・。地球上で起きている争いの多くはここにあるとも言えるでしょう。

また、もっと個人のレベルでも、私の子供の進学はなによりも重要だ、私の老後はお金の心配がないようにしたい、などなど。言い換えれば、自分の人生は自分が思うようになっていないといけない・・・。

そしていろいろ思い通りにしない中で、実は最も大切なのが、どんな自分であるのか?なんです。自分は自分だけが所有していて、その自分は何よりも一番大切。馬鹿な自分ではなくて、優秀な自分でいたい。嫉妬しまくっている自分ではなくて、心優しい自分でいたい。孤独な自分ではなくて、みんなから愛される自分でいたい。

どんなに権力、財産、パワーを有していても、最後まで気になるのがどんな自分か?なんですね。例えば、もうすでに権力もお金もあるのに、さらに求めている人がいるとしたら、それはお金や権力が欲しいのではなく、「それができる自分」でい続けることが大切。

なぜならそれが一番の安心感と満足感を与えてくれるからです。つまり、良い自分でい続けること。(根本的には愛の欠如、そして本質からの分離を埋めたい)

ということで、個の自分が一番気にしているのは、自分という所有物をコントロールすることです。じゃぁ、どうやってコントロールするのか?

そう、こうやって良い自分でいたい、良い自分にするのだというミッションの元、私たちの中に「コメンテーター」が生まれるのです。これはオープン・アウェアネス・ダイアローグの講座の中(気づきの問いかけ講座でもやります)で説明している「もう一人の自分」です。

個の自分というのは、基本的に存在しない幻想の自分です。その「幻想の自分」の中に二人の自分がたいていどの人の中にもいます。

人生いろいろあるなか頑張って生きている自分とコメンテーターの自分です。コメンテーターは基本的に頑張って生きている自分の監視役です。

例えば、頑張って生きている自分がありのままでいると、コメンテーターが、“ありのままのあなたは受け入れてもらえないよ”とか、“ありのままでいると嫌われるよ”、“もっと笑顔を振りまかないと、そんな話題つまんないし”などなどと注意してきます。

または、やさぐれたコメンテーターなどは、“どうせ誰もあなたのことなんか好きじゃないんだから、ふてくされちゃえ”、“どうせ嫌われるんだから、その前にみんなを嫌ってやれ!”、“嫌われる自分なら知っているから、嫌われる振る舞いをわざとしちゃえば?”といったコメントもしてきます。

とにかく常に自分の言動をジャッジし、良い悪いのレッテルを貼り、誰よりも厳しく監視している自分です。

このコメンテーターの声が大きすぎると、自分を見つめるとか、自己ワークなどもなかなか難しくなります。例えば、悲しんでいる自分に対して、“もっと大変な人もいるんだから”とか、または自己啓発やスピにそまったコメンテーターは、“これもベストのタイミングで起きている”、“すべては学びだ”と語りかけてきます。

しかし、コメンテーターがやっていることは、そうやって悲しいというピュアな感情に蓋をしてしまっていることです。

ちなみに自己啓発、スピのコメンテーターは基本的に正しいことを言っていることも多く、また優しい言葉であることも多いでしょう。なので、非常に気がつきにくいのですが、自分がスッキリしていなければ、蓋になっているだけなんですね。

さて、このコメンテーターは自分だけではなく、周囲も監視しています。つまり人の目を気にしているのです。人からどうやって見られているか?は、自分という所有物を良くするために非常に大切です。

ところがここで一つ大きな問題があります。

それは、コメンテーターに見えている”人の目”は、ほんとうは自分の目だということです。つまり、ものすごく主観的な判断でほとんど役に立っていないんです。しかし、そこに気づいていないために自分で自分を縛るという一人芝居の苦しみ(または喜び)に陥ってしまいがちです。

例えば、抑圧投影を学んでくださった方はお分かりだと思いますが、“私は田舎者だから服装に気をつけるべき”という思い込みをコメンテーターが持っていたとしたら、他者の目がいつも自分の服装を見ている(ここが投影です)ような気がして緊張感がある・・・など。

ものすごく大雑把に言ってしまえば、コメンテーターの目が厳しければ、人の目も厳しくなり、コメンテーターの目が優しければ、人の目も優しくなりますね。

さて、話は一番最初に戻り、そもそも頑張っている私もコメンテーターの私もいないのなら、一体ここで何が起きているのでしょうか?

そこにあるのは、自分がいるという思い込み(思考です)、感情、体(体感)が複雑に絡み合い様々な反応をしている動きがあるだけです。そして、それらすべてに気づいている意識があり、気づいているのは幻想の自分ではありません。

わかりにくいでしょうか?追々説明させてください。

いずれにしても、頑張っている私もコメンテーターの私も気づきの意識の中で現れ、許され、受容され、無条件に愛されています。だからどんな自分でも大丈夫♪

コメンテーターでなく、本質である気づきの意識の視点に立ったとき、私たちは自分をコントロールし続けるストレスから解放されますね。

コメンテーターの自分から自分を解放し、本質の視点から自分を生きる♪

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私がいるという強い思い込み

何も思い通りにならなくても幸せになる。そのためにまず、前回当たり前を疑うということ事実と解釈を分けるという、目覚めのための2つのコツのお話をしました。ですが、これを目覚めのハウツーだと思わないでくださいね。そうではなく、これは自分を含めた「存在」そのものの“自然観察”なんです。

般若心経のはじめに「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時」とありますね。般若波羅蜜は原語でPrajnaparamitaで、その意味は「the wisdom of directly realizing the non-conceptual simplicity of all phenomena(すべての現象を概念なしに直接に気づく知恵)だそうです。

これは私の先生でもあるルパート・スパイラさんが教えてくれた「ダイレクトパス」とまったく同じことで、ありのままの現象を一切の概念を通さずに深く見つめていくということです。

それによって、釈迦は私たちの本質は空であると見抜いたということなのです。

つまり、解釈(概念)も、当たり前だと思っていること(深い刷り込み)もすべて横に置いて、ただあるがままを観察するということです。徹底的な本当の意味の“自然観察”です。

さて、そうやって自分を見ていったとき、「自分」という存在を構成しているものは、前回の記事に書きましたように、思い、感情(感覚)、体のみですね。

その中でも一番私たちが分離を感じさせるものは、やはり「体」に違いありません。自我の一番の恐れは死であり、最も強い欲望は、自己の存続です。つまり、体を生き残らせること。

インテグレイテッド心理学では、自我の根本の恐れ(=人間の根本の苦しみの源)は、身体と精神の死であるとお話ししています。つまり、食べていけなくなること、また、存在価値がなくなること(役に立たない私、愛されない私・・・・)です。

でも、もし私たちの安全と永遠の生が確実に約束されていて、それを十分に感じていたらどうでしょうか?

言い換えれば、食べていけなくなる恐れも不安もない環境が整っていて、自分の好きなことだけに打ち込める。また失敗しても、性格が悪くても、どんなダメダメな自分でも周囲にいつも100%受け入れてもらえる環境であったら?

どれぐらい私たちの苦しみは減るでしょうか? または苦しみは生まれるでしょうか?

一時期、“分離のゲーム”という言葉が流行りましたが、これはある意味真を突いた言葉ですね。なぜなら基本的に分離した自分というのは幻想だからです。でも、母親のお腹の中で胎児としての存在が始まってから、私たちが体に同化してしまうことはほぼ必然であり、その結果自分という個体がいると思い込むことは免れないでしょう。

ちなみにリバーシングというセラピーがありますが、胎児の頃を思い出してもらうと、両親の気持ちや自分が両親から祝福されて生まれて来るのか?それとも迷惑、邪魔に思われているのか?などを繊細に感じ取っています。

つまり、“自分”という感覚がすでにしっかりあるわけです。そして、胎児が一番気にしているのも、やはり自分の存続です。祝福されていれば、自分は安泰で生き残っていける。

もちろん、分離を感じさせるのは体への同化だけではありません。“私の思いは私にしか分からない”、“私が一人で部屋で経験していることに気づいているのは私だけ”、だから「意識が分離している」、「分離した個の意識がある」という感覚に私たちは落ち込みます。(そうじゃないの?と思った方、おいおいお話して行きます)

こうやって「私という分離した個体」がいると強く感じた私たちは、自分を存続させるために、「より良い私」、「より良い人生」に勤しむわけです。

そして、この生き残りのための「より良い・・・」が、多くの苦しみを生み出します。今のままではいけない、成績が悪いとダメ、能力がないとダメ、それなりの知識がないとダメ、こんな欠点があってはダメ、自分には魅力がない、つまらない人間だ、何も提供するものがない・・・、と自己否定のリストは永遠に続きます。

または、誤った人生、間違った人生、失敗した人生、どこかでおかしくなった、自分は頑張ってきたのにこんな人生になっている、思い描いた人生とぜんぜん違ってしまった・・・、もちろん、自分を肯定している人も自分の人生に満足している人もいらっしゃるでしょう。ですが、肯定できて満足している理由がある限り、幸せはその理由に依存してしまいます。

望んだことが手に入ったから、思い描いた通りにことが運んだから幸せ。もちろんそれ自体は素晴らしいことですし、大いに喜びを満喫することは心身ともに良いことですね。ですが、このブログが提案する何も手に入らないけど幸せ♪もぜんぜんありなのです。理由がなく幸せ。望んだ通りにまったく行っていないけど心が平和。決して逃げていかない幸せ。

もしそこに興味があるなら、まずは「自分」がどんな存在なのかを深く知ってみることから始まるでしょう。

一つは、今までお話してきた自我としての自分の構造(体、思い、感情・感覚)。そして、もう一つは、自分特有の精神構造(自分の歴史、信念、価値観、セルフイメージなど)をよく見ていくこと。

さて、それらを深く見ていく前に種明かしをしてしまいましょう。今それが分からなくてもまったくかまいません。種明かしとは、「私という自己はいない」です。非二元の探求をしている人はよく知っていることですね。(ただ、知っているのと分かっているのはまったく別の話)

自我にとって一番のショックは、思いも感情も体もあるし、山も木も海もあって、あらゆるものがあるけど自分だけ存在していなかった・・・という真実です。(ほんとうは事象すべてないけど)

でも、実際には個としての自分がいる感は非常に強いわけです。繰り返しになりますが、そこをなぜか?と深くみていくのが、苦しみを解いていく鍵であり、また理由なき幸せへの入り口なんです。

なぜないものが、これほどまでにあると感じるのか? ヒントは、私たちは苦しいときほど、分離感が強く、分離した自分がいると感じるものです。

さて、もし現在もやもやと苦しい、または絶頂に苦しい、またはひく〜いレベルで苦しい感じがする・・・などあったら、それが体のどこに感じているのか?を見てみましょう。そして、そこに向けて深呼吸をし、自分にとって安心安全なイメージをしてみましょう。そして、また深呼吸♪

これは苦しみをしのぐ緊急手当で根本の処置ではありません。本当には楽にはなりませんが、苦しみからの休憩にはなるはず。

真のあなたはいつも愛・平和・力♪

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当たり前の中にある真実♪

さぁ、またブログを再開していきます♪

これからのブログは本を書くような気持ちで書いていこうかなぁと思っています。ので、連載を読むみたいな気分で読んで頂ければと思います。(*^^*)

ということで、

あなたが求めているものは何でしょう?夢を実現させること?平凡な幸せ?自分らしくあること?手に入っていないものを得ること?病気が治ること?家族が幸せでいること?

私がブログでお連れしたい場所は、これらがどれも手に入らなくても大丈夫な場所です。(笑)もちろん夢に向けて歩むことは素晴らしいし、それをあきらめる必要はぜんぜんありません。でも、もし夢が叶っていないから、または人生が自分の思うようになっていなくて悲しいと感じていたら、それでも大丈夫だよ〜と言いたいのです。

自分や人生がどんな状態でも、私たちには平和な場所、愛を感じられる世界があるからです。絶望の向こうにある真実という究極に平和な場所♪ このブログはそんな場所へのご招待です。

そのためには、非常に矛盾する道をご提案させてください。どんなふうに矛盾しているか?というと、この場所にたどり着くために2つの同時のことをやって行きたいのです。一つは、自分を深くきちんと見つめること、もう一つは自分は存在しないことをきちんと知ること、です。

そう、自分を徹底的に見つめるんだけど、同時に自分が存在しないことも見ていく。そんな矛盾した旅です。

私のブログの読者さんは、非二元に興味がある方、深く探求している方も多いでしょう。ので、自己の不在(私はいない)は馴染みがある概念かもしれません。(概念ではないですが)。もし馴染みがない方も個の自分という幻想を超えた真実に興味があれば、ぜひお付き合いください。

ということで、今後このブログは癒やしと非二元の話しが交互になって行く予定です。

さて、何一つうまくいかなくても、何も手に入らなくても、平和で満ちた世界を知るために、持っていたいコツをちょっと書いてみます。

◎当たり前を疑う

真実を探す・・・、悟る・・・、というとある特定の瞑想や修行をする、またはヒーリング、波動を上げるマントラを唱えるなどなどいろいろやることで今とは違う状態に到達する、という考えがあるかもしれません。

しかし、実際は探さなくても良いし、到達しなくても良く、単純にあまりに当たり前過ぎて見過ごしている中に真実は見いだされます。ですが、私たちは真実はここにはなくて、どこかにあるのだと探しに出かけてしまいますね。

もちろん、これらは悪いことではないというか、これらの試みも役に立つに違いありません。ただ、必ず抑えておきたいポイントは、真実は当たり前の中にあるということです。

ということで、最も当たり前な感覚、“私がいる”という感覚をまず疑ってみたいのです。

では、これを疑って見るためのコツがまたさらにあります。それは、

◎事実と解釈を分けること

私たちが生きる上での大いなる勘違いは、解釈を事実だと思ってしまっていることです。私たちの多くが思考に頼って生きているため、思考による解釈、分析、レッテル、知識によって加工されたものが事実だと思ってしまうんですね。

この事実と解釈の混乱はあまりに私たちの中に深く入りすぎ、その区別がつく人はほとんどいません。というか、ほぼ100%に近い人が自分の解釈の中を生きています。

でも、この事実と解釈を混乱するところに苦しみがあり、ほんとうに求めているものを無意識に避けたり、自分に制限をかけたり、不要な恐れに閉じこもったりしてしまいます。

とはいえ、解釈を事実だと思い込んでしまう理由があり、それはある意味避けられないことです。ただ、その理由を解体していくことはできるんです。解体したときに、あぁ、事実じゃなかったのだと自分の夢から目覚めるんですね。

また私たちは、事実にレッテルを貼って会話しやすくすることもします。例えば、「学校」を例にとってみると、学校はレッテルですね。事実は「建物があって、その中に子どもたちがいて、勉強をしている」です。それを会話しやすいように「学校」というレッテルを貼っている(名前をつけている)んです。

そろそろ、何を当たり前の話を・・・と思い始めてきたでしょうか? だとしたら、コツの1を思い出してみてください。あまりに当たり前の中に真実がある。ということで、これは非常に重要なところなんです。

振り返って、“私がいる”。「私」は事実として存在するのでしょうか?それとも“私”は、“学校”のようにレッテルでしょうか?

「私」の構成要素は、思い、感情、体ですね。自分をよく見てみてください。自分を構成している要素で他に何かあるでしょうか?または、どれか一つが欠けても自分が成り立つでしょうか?

自分をどれだけ見つめても、実際にあるのは、思い、感情、体(感覚)だけはなずです。それを「私」としているんです。う〜ん、やっぱり当たり前に聞こえる?いえいえ、私たちは普段、自分はそれらの所有者だと思っているはずです。私の思い、私の体・・というように。思い、感情、体のほかに「私」がいると思っているはずです。

そんな当たり前を疑ってみたいのです。

なぜなら、それが真実への入り口だから♪

そして、そこから見える風景は私たちの世界観の真逆の世界♪

あなたが思っているあなたは、夢の中のあなたです。そこから目覚めていくこと。そのためには、夢の中の自分をよ〜く見つめてみること。

あなたは絶対大丈夫♪

ブログで募集していませんでしたが、昨年オンライン・インテグレイテッド心理学を開催しました。また、現在インテグレイテッド心理学を受講した方向けに「気づきの問いかけ」講座も募集しています。

今後、空と色のセミナーなどオンライン講座を予定しています。セミナー案内ご希望の方はこちらからご登録お願いいたします。

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私たちは自力でコロナ流行に気づけたか?

またも久しぶりのアップです。書きたいこと、伝えたいことは山ほどあるのですが、発信の方法をブログから動画か音声に変えていこうかなぁと考えています。

私は心理セラピストなので、自分では人とのやりとりが一番楽しい、そして自分が輝く(笑)と思っています。ただ、動画や音声の編集とかできないし・・・みたいな感じでストップしておりました。

ということで、皆さんにお聞きしたいのは、ブログ、動画、音声のなかで一番どれが皆さんはお好きでしょうか?よろしければコメント欄に叫んでみたください。

さて、コロナ禍がまったく収束しませんね。ロンドンはまたもロックダウンに入り、これで3回目。私は現在一時帰国していますが(無事陰性でした♪)、劇場やコンサート、ミュージアムの再開を心待ちにしている身としては、やはり気持ちが下がります。

ですが、どうでしょうか? もし、政府やメディアが一切コロナについて報じていなかったら? 私たちはコロナが流行っていることに気づいたでしょうか?

もし、私たちにインターネットやメディアというものがなく、自分や周囲の状況しか分からない状態だったら、同じ現実をどう捉えていたでしょうか? コロナに関するニュース、情報、知識をすべてを横において、ただ自分や周囲に起きていることだけに集中したとき、自力で気づけたでしょうか? それとも自分の日常が淡々と起きているだけでしょうか?

コロナなんてないようね、と言いたいのではありません。いつもながらの私たちは事実よりもストーリーを生きているという話をしたいのです。

ちなみに私が事実というとき、例えば、“私は人間です”も解釈であって、事実はそういった知識もない「ありのまま」を指しています。

では、新型コロナウイルスの事実というとデータのみになりますね。

陽性者数、感染者数、死者数、回復率、致死率、年齢別、基礎疾患の有無などなどといったデータです。そして、そこに危機だ、大変だ〜、このままでは〜〜といった解釈がつきます。

で、私たちは数字ではなく、解釈の方に反応しますよね。例えば、東京都の感染者700人、過去最多だ、広がっている、警戒しましょう〜!と聞けば、大変だ〜、気をつけないと〜という解釈のほうを信じて反応します。

しかし、同じ700人でも、人口1200万人のうちの700人です。不必要に恐れないで大丈夫ですよ〜という解釈もできます。これはこれで、大丈夫なんだ〜と信じて反応するでしょう。

下手すれば、数字も理由も聞いた瞬間に忘れて、危機だ!大丈夫だ♪という部分しか私たちは捉えていないかもしれません。

このブログの読者さんはよ〜く分かっていらっしゃると思いますが、自我とはこんなふうにほぼ100%事実よりも解釈(ストーリー)に反応し、解釈を事実だと思い込んでストーリーにどっぷりハマっていくものですね。

町を歩きながら、すべての人がマスクをしている光景を見ていると、全員がここまで同じストーリーを共有している姿もなかなか見られないなぁと妙にシュールな気持ちにもなります。みんな現実を生きていると信じて疑っていないでしょう。

ですがたとえ、そこが分かっていたとしてもなかなか事実に寄り添うのは難しいものです。どうしても、解釈との区別があいまいで、解釈を事実だと思ってしまう。

例えば、「感染が拡大している」は解釈だといえば、大方の人がまさか!と思うでしょう。ですが、これは解釈です。「拡大している」は解釈で、事実は数字があるのみです。増え方として許容範囲だとしたら、拡大という言葉は使わないかもしれません。

“私は人間だ”も解釈であるということを思い出していただければ、事実(ありのまま)のみにしっかり寄り添うことの難しさが分かりますよね。

ちなみに「私がいる」・・・・終わり、という世界はとても平和な感じがしませんか?自分についてのすべてのストーリーから解放される。レッテルや思い込み、過去の記憶や将来への思いなどなどあらゆるすべてを脱ぎ去ったありのままの自分。

こちらが実体で、他の全ては幻影なんです。でも、私たちは幻影こそ現実であると信じ、必死に生きてしまいますね。

さて、話をコロナに戻して、私のフェイスブック上には欧米の友人も多いのですが、マスク派、アンチマスク派などなどの反応は人間どこでも同じだなぁと思います。ですが、日本の独特のコロナストーリーだなと思うのは、コロナの陽性と分かったら世間に迷惑をかけるから謝らないといけないというヤツです。同じ「陽性だった」という事実に対してここはイギリスと日本のストーリーは随分違いますね。

ですが日本でも、検査で陽性だったという事実に、“お大事に”といういたわりの声をかけるというストーリー(=私たちが思う現実)も私たちは描けます。ただ往々にして、恐れベースのストーリーはいつも生きづらいほう、怒りや攻撃が進むストーリーになってしまうものです。

また、世界が一つの共有した幻影の中にいるとき、自分だけ違う解釈、または自分だけストーリーに入らないでいるというのは、家の一歩外を出ると難しいでしょう。

それでも私たちは集団の催眠から抜け出して、自分で解釈を選ぶことができます。そしてどんなときでも愛ベースでいらふれることを忘れないでいられると良いですよね。

とくにこんなときこそ、愛、力、生命といった私たちの本質を覚えておきたいと思うのです。

本質とつながりを失わないこと、これが私たちがほんとうは心の底で求めていることで、死なないために緊張して生きていくことではないでしょう。

ということで、今日も自分に優しく、思いっきり深呼吸をして、思いっきり笑って、お過ごしください♪

★集団の催眠とはコロナだけではなく、例えば「社会人たるもの・・・」「良い母とは・・・」など、社会が共有するビリーフも含めてです。

リセット~苦しみを伴う恩寵~

おぉ、こんなに長く書いていなかった!何度も書いていますが、今年はコロナ騒動が始まる前に13年続けた養成講座も閉じ、お休み年にする予定でした。ので、ブログも今年はすご〜くのんびり。ただ、フェイスブックはそれなりに投稿しております。

さて、2020年を勝手にリセットの年にしていましたが、蓋を開ければ、私個人だけではなく世界がリセットの年になっているようです。

いろいろなリセットがありますが、本物?のリセットには、それなりの恐れ、または今まで見てこなかった膿やネガティブな出来事が伴うことが多いかもしれません。

現在のコロナ渦も“とにかくお上の言うことを聞いていれば良いんでしょ”という思考停止状態に陥らず、私にとって一番大切なものは何か?、“私はどう生きたいのか?”と真剣に振り返ることができれば、今までの生き方をリセットできるとても良い時期かなと思うのです。

というのも、みんなが今まで通りに生きていない、または生きられない状態のときは、全体のエネルギー自体が不安定であり、ポジティブに言い換えれば、流動性が激しいからです。

ですが、リセット(変化)の過程では、今まで怖くて見てこなかったもの、避けていたことに直面せざるを得ないこともあるかもしれません。

または、自分の人生の土台を一旦ゼロにするとか、逆にコロナ渦によって自分の土台が崩される、言い換えれば人生に“リセットだよ!”とつきつけられることもあるでしょう。自分を今まで支えてきたもの(仕事や人間関係やいろいろ)の崩壊。

人生のリセットと目覚めとは実はよく似ていると思うのは、自我の目覚めも、自我が今まで信じていたことの根本的な崩壊だからです。目覚めるという言葉だけ受け取ると、とても気持ちが良くて、至高体験みたいなことを思い浮かべる人もいるかもしれません。

しかし、実際は非二元のティーチャーのアジャシャンティがよく使う言葉“fierce grace”(凄まじい恩寵、過激な恩寵)を伴うほうが圧倒的に多いでしょう。つまり、相当な心の痛みが伴うということです。

というのも、私たちはそれが好きか嫌いかにかかわらず、同じことの繰り返しということのなかに安心を感じているからです。自分が信じていること、大切にしていることがずっとそこにある、または自分があまり好きじゃないこと、好きじゃない人だけどずっと付き合っていて慣れているという安心感。

なので、それらが奪われ、安全だったものがなくなるというのは、実は私たちにとって非常に恐ろしく、またはトラウマが刺激されたり、ネガティブなストーリーでいっぱいになったり、かなり苦しくなります。

でもこの凄まじい恩寵は、私たちを裸にし、すがるものを取り上げてしまう分、人生に“降参”せざるを得なくなりますよね。(目覚めに向かう、または抗い続けて苦しむ)

さて私の場合、仕事だけではなく、パートナーシップのリセットも始まり、お休み年のはずだったのに人生がドラマチックに動いております(笑)。簡単に書くと、長年ともに暮らしたソウルメイト2と別れることになり、一冊目の本に書いたソウルメイト1が人生に舞い戻ってきたという展開です。

このへんのところは、過激な恩寵という観点からまた本でも書いてみたい。

と言いつつ、私のストリーをちょっと書くと、幼少の頃けっこうなニグレクトを経験してしるため、潜在意識の深いところで「自分は放置されている、誰も助けてくれない、自分は危険だ、攻撃から自分を守ることができない」という深い思い込みがありました。(まだ少しある)

これは、単に思い込みというより、私のコアであり、私の世界観であり、生きるベースでもあったのです。なので、20代の頃はほんとうに生きづらく、でも理由がまったく分からないと思っていました。

ので、ソウルメイトをそんな不幸感や危険から救ってくれる存在とみなし、他の人はどうせ私に興味ないし、本気で私を心配してくれるはずがないと決めつけていたのです。

もちろん、これらの思いは無意識に持っていたもので、意識上に現れてくるのは、“彼は私に興味があるだろう?”、“何を言えば、自分にもっと興味を引いてくれるのだろう?”、“こんなことを言ったら嫌がられないか?”みたいな思いがわんさか。

で、そういった現実を生きて行く。しかし、実際の体験から生まれた思い込みは、私達にとって非常にリアルなため、どうしてもそれが現実だと感じてしまうんですね。

しかし、これはまったくのストーリーであって、そんな現実(誰も私を守ってくれないとか)はどこにも存在していません。にもかかわらず、私たちは潜在意識の中にある思い込み(ストーリー)を無意識に、しかし全力で生きているんですね。

ですが、それらの無意識の思いやストーリーをきちんと出してあげて、見つめ、対話し、癒していくことで、無意識に握りしめていたストーリーは崩壊していきます。

ある意味、真のリセットとは自分のコアになっている信念、アイデンティティの崩壊や手放しかもしれません。自分がなにものか分からなくなるし、生きる意味や生き方も分からなくなるでしょう。魂の闇夜ともいえるでしょう。

でも、そんなとき道しるべにできるのは、やはり私たちの本質の光。どんなに混乱していようと、将来が不安であろうと、または過去からの恐れ、過去への後悔などなどがあろうと、それはすべてストーリーであって、私たちはそこにい続ける必要はまったくない。

私たちの本質はストーリーのない常に静寂な愛。ここに寄り添いながら、自分らしく生きる。そのあとは生命に丸投げ、おまかせしちゃいましょう♪

※一冊目の本のタイトル「「運命の人」と出会うスピリチュアル・レッスン 英国流ソウルメイトの探し方 (大和出版)」

かなり不思議な体験だったと自分では思っています。そして言い訳ですが、タイトルは自分でつけていません(笑)。またこれはスピ系の本で、非二元を知らなかった時期に書いています。

愛されていないという悪夢から目覚める

今日のイギリスはとってもさわやかなお天気です。というか、すっかり秋の気配を感じています。

さて、私たちの多くはおそらく、自分が相手から好かれているか、受け入れられているか、愛されているかということが気になるものでしょう。

分離した個として生きている限り、受け入れられること、愛されることは生き残っていくためにもとても大切なことです。受け入れられている、愛されている、自分の居場所がある、自分は求められている・・・、これによって分離している世界の中で私たちは温かみ、安心、つながりを感じることができますよね。

でも、もし好きな相手が冷たかったら、別れることになったら、周囲の人がとげとげしかったら・・・。自分の居場所がない感じ、自分の存在が忘れられた感じ、孤独、世間は怖くて危険な場所にとたんになってしまいます。

つまり、自分の安全、幸せは相手や周囲次第ということですね。

そこで無意識のうちに私たちは相手をつなぎとめておくため、周囲に受け入れられるために自分を磨いたり、役立つ存在になろうとしたり、相手が喜ぶことをしたり、いろいろと頑張ります。

私はありのままの自分はつまらなすぎて、人が相手にしないと深く信じ込んでいた(こう信じ込んでいたことも気づきませんでしたが)ため、友人関係を続けるためには、相手のニーズに答え続けることだと無意識に信じていました。

ので、友達に頼まれたことはすべてやり、ノーと言うことをまったく知らなかったのです。もちろん嫌だなぁと思うときや疲れるときも山ほどありましたが、人間関係ってそんなものと思っていたのです。

小さいころにニグレクトを経験していたため、とにかく一人ぼっちになることを避けていたんですね。しかし、問題は一人ぼっちを避けていたその下に、愛されたい、必要とされたい、いつも私を見ていて欲しいという大きな飢え(=ニーズ)があったことです。

問題と書きましたが、もちろんニーズあることが悪いわけではありません。ほぼすべての人にあり、ニーズができた状態をよく見れば、そこに誰も悪い人はいなんです。

ただ私の場合、その後その飢えが刺激されるたびに、死にたくなるほどの苦しみを何回も体験し、また普段もどこかで薄っすらと生きづらさを抱えていたなぁと思うのです。

さて、このニーズが大きいほど、私たちは愛、受容、安心安全を強く求めます。当然ですよね。そして、愛されていると感じれば、恍惚の嬉しさを感じ、病みつきになります。(ストーカー問題はここにあり)また、他者や世界をその目を通して解釈していきます。

相手が自分に何を言ったか、どんな振る舞いをしたか、相手や周囲の動向に敏感になります。そして、いちいち解釈するんです。

その解釈も自分のメガネを通しているので、彼が~~って言ったということは、私のことを考えていなからだ・・・、仕事を割り振られなかったのは、私の仕事ぶりが信頼されていなんだ・・・などとたいていネガティブになります。

自分の解釈ですが、私たちのほとんどは、それが自分の解釈というより、“実際に起きていることだ、事実だ”と思ってしまうものです。

私は最近、「誰も人生なんて生きてなくて、みんな自分の思考を生きているだけ」と少々乱暴なことを言っています。実際、ほとんどの人が自分が解釈したことを事実としてその世界に生きているだけなんです。言い換えれば、事実ではなく、自分の思考(解釈や意味づけ)を無条件に信じて生きている。では、人生を生きるってどういうこと?事実を生きるということ?

それはおそらく一瞬、一瞬が真新しい瞬間であって、一瞬、一瞬に生命の匂い、エネルギーを感じて生きるということでしょう。自分の心の傷や過去の出来事によって生み出された古くて繰り返されている思考ではなく、生命が送ってくれる愛から来る思考で人生を創造していくこと。

じゃぁ、その区別はどう分かるの? 生命が送ってくれる愛ベースの思考は、ニーズや期待がなく、ありのままを愛している思考です。

私自身のニーズはいくつかのトラウマともつながり、幼い私は怯えきっていて、一人ぼっち、そして世界とのつながり(愛)と完全に分離していました。セッションを受けたり、自己ワークしながら地道に癒しを繰り返し、最終的には非二元の理解の中で幼いトラウマの私は癒されていきました。(やっぱり癒しと非二元の両方って良い♪)

ニーズが癒されると見えてくるのは、愛とは愛されることで手に入るものではなく、人を無条件に愛することで知るものだということです。そこでほんものの安心安全と平和、無くならない愛を得るんですね。

だから、ほんとうに大切な問いは、私は愛されているか?ではなく、私は人を無条件に愛せるか?だなぁとつくづく思うのです。愛される私になるのではなく、愛することができる私になっていく。

さてそれじゃぁ~と、いきなり無条件に人を愛そうと頑張る前に、まずは、自分が条件をつけてしまうところを見ていくと良いですよね。なぜならそこに自分のニーズ、心の飢えが隠れているからです。

ということで、まずは自分のニーズと出会い、受け入れ、理解していくことが第一歩でしょうね♪

すべての人が十分に愛に支えられている、自分は一人ぼっち、愛されていないという悪夢があるだけ。

追伸:今回のテーマもインテグレイテッド心理学オンライン講座で詳しくご説明します。ご興味がありましたら、ぜひPC越しに交流いたしましょう。

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社会が変わるときこそ、過去や未来から自分を解放しよう♪

今年は仕事の分量を5分の1ぐらいにし、まったく新しい人生設計でいこうと思っていた矢先にコロナ騒ぎが始まりました。ある意味、タイミング的には良かったかもしれません。が、世界の変動と自分の人生の転換期が重なると、思考がいつもよりフル回転し始めます。

ということで、思考の観察。というか、ただ眺める。実はこれは私の長年の習慣で非二元や悟りなどほとんど知らなかった頃、ロンドンの本屋さんでまったく知らない人にエックハルト・トーレのThe Power of Nowを薦められたのがきっかけで始まりました。

それまでただ考えているという状態が当たり前だったため、考えていることをいちいち眺めるのは相当な努力が必要でした。しかもかなり地味な作業で、退屈でもあり、思考が大好きな刺激(分かったぞ!そうか!などのワオ!体験)もなく、やる気を維持するのはけっこう大変でした。

しかし、あれから十数年。眺める癖がついたおかげでかなり自分との距離ができ、そのため逆に自分との付き合いもだいぶ良くなりました。そしてつくづく思うのは、私たちは誰も人生を生きておらず、みな自分の思考を生きているだけだなぁと。(思考が現実を作るという話ではありません)

ほとんどの私たちの人生とは、生まれてくる思考に乗っ取られた人生であり、自分の思考ワールドに囚われた人生なんですね。なので、英語では悟りのことをliberation(解放、自由)といったりもするのでしょう。自分の思考から解放され、真の自由を見出す・・・。

また、思考から解放されると、もれなく時間からも解放され、時間がいかに存在しないかもはっきりと見えてくるでしょう。

過去の思い出とか未来への夢、または不安といった思考自体は、“今”現れてくるかもしれません。でもそれらは記憶という形や将来へのイメージとして存在しているだけで、そこに実態はありませんね。

ただ、その過去の思い出に感情がたくさん紐づいていれば、体も反応し、非常に実態感が強くなります。その最たるものがトラウマで、トラウマは私たちを過去に引き戻し、そしてそっちが現実だと強く主張します。

また、私たちが無意識に抱えているたくさんのビリーフ自体が過去の経験による産物です。幼い時に突然母親が自分を置いて去ってしまった経験があれば、“私の存在は無用だ”とか、その人それぞれですが、何らかのビリーフが強烈に出来上がります。

で、私たちはそのビリーフをベースに人生を生き続けるんですね。つまり、過去を生きているということです。

また、未来に関しても先が見えなければ見えないほど、思考は安心安全をどこかに求めます。

“こうしておいたほうが良いかな”、“あれをやっておけば大丈夫かも”、“こうなったら良いな”、“うまく行かなかったらやばいぞ”・・・。

未来への思考はとくに“自分の望む人生を創るミッション”にいそしみやすいので、それはまた“自分の人生をコントロールする”という方向にあっという間に行きやすいです。

しかし、人生なかなか自分の思うようにコントロールできず、そこで悩んだり、苦しんだり。こんなふうに私たちの多くは過去をベースに現在を解釈し、未来へのコントロールを握りしめて生きているものです。

でももし、それらから一切解放されたら? 自分の思考ワールド(=投影)から自分を自由にできたら?

私たちはそこで初めて“生命”、“現実”と出会うのです。自分の思考を生きるのではなく、生命を生きる。これ何も思考を持たないとか、過去や未来を考えないという意味ではまったくありません。思考の幻想性を真に知れば良いんですね。思考は正しくも間違ってもいなく、何も真実を指していないとはっきり見抜けていれば良いんです。

でも未来への考えを信じないといっても、目的や目標って必要じゃない?と思われるかもしれません。例えば、コロナ禍のためにお店の経営が傾いてしまったとして、売り上げを目指すという場合。

もちろん、一見経営を良くするという結果を目指すのですが、でも、私たちがやることは瞬間、瞬間を生きることなんです。経営状態改善という方向性に向けて瞬間、瞬間現れているものに過去や未来を投影せずに、シンプルに対応していく。

湧いてくるアイデア、現れてくるTo Do Lists、過去に戻ったり、先走ったりせず、目の前に現れてくることをシンプルに丁寧に生きて行く。

そのうち、このアイデアどこから湧いてきたの? To Do Listsをこなそうという行動はどこから来たのかな?自分の中?それとも?と深く深く見ていくうちに、そこにはコントロール主(自分)というものはいなくて、生命のエネルギーが生み出していることが見えてくるでしょう。

そしてたぶん、私たちにとって一番平和や幸せに近い場所はここであって、そして変革の中を一番スムースに移行できるのだと思うのです。だから生命の声が聞こえる自分でいたいなぁと思うのです。

とはいえ、何度も思考にはまりながらデコボコに進んでいくのが私たちですね。自分に優しく行きましょう♪

 

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