愛への一番のガイド役~それは見たくない自分~

なぜだか分かりませんが、警察の不祥事みたいな動画を先日見ていました。不祥事をあばいて、正義を通そうと頑張る側、必死に不祥事を隠す側・・・。おそらく人類が始まってから、ずっとあっただろう戦いです。

で、これも人類始まってからありがちだと思いますが、隠す側が権力者で、だから隠せ通せてしまうみたいな。そして、庶民は泣き寝入り・・・。

一見外側から見ると、庶民は弱い犠牲者側のように見えるでしょう。実際、人生は翻弄され、目に見えたダメージを受けているので、そう思うのは当然です。

話は少しずれますが、実際自分の中にある犠牲者意識にワークをしていると、あっという間に人類の犠牲者意識(集合的意識)につながってしまいます。人類の歴史を振り返れば、支配される側のほうが圧倒的に多いので、人類として犠牲者意識が集積されてしまっていてもまったくおかしくないなぁと思います。

ちなみに、一番最初そこにつながったとき、わぁ~手に負えないと思いましたが、そこはある意味個を超えた純粋意識の場でもあり、私はあっという間に愛と受容のエネルギーにも包まれました。

こんなふうに書くと、なんだか違う次元にアクセスしたとか、スピリチュアルな話に聞こえるかもしれませんが、普通に地味なセラピーのワークをしているだけです。(フォーカシングやマトリックス・リインプリンティングなど)

さて、話を戻します。

一見、強いのは不祥事を隠している権威側、弱いのは犠牲者側に見えるわけです。

でも、こころのしくみから見ると、守ろうとすることで圧倒的に自分を弱めてしまっているのですね。地位や収入、世間の評判とか、そういったものを失うことからなんとか自分を守ったかもしれません。

ので、外側から見れば、引き続き安定した人生を送っているように見えるでしょう。しかし、“私は本当は不祥事を働いた”という事実に毎日向き合うのは辛いので、たいていは理由をつけて抑圧し始めます。

つまり、そこは絶対に見たくないゾーンになるんです。で、見たくないゾーンが私たちに何をするかというと、実は、私たちをコントロールし始めるんです。

ないことにしたものに、逆に私たちは支配されてしまうのです。このケースの場合、人それぞれでしょうが、どんな感じになるかというと、まず、自分は悪くないという仮面をしっかりつけ続ける努力をしないといけなくなります。

無意識の努力ですが、かなり疲弊します。そして、ちょっとでも悪い自分になりそうな状況があれば、必死に守り、攻撃しないといけませんね。

そして、潜在意識のある意味怖いところは、もともとの一つの出来事だったことを広く一般化してしまうことです。つまり、最初は不祥事という出来事だったのが、いつの間にかいつでもどこでも悪い自分になってはいけなくなるんです。

すると家庭でも、自分が悪いと言われているような気がする(←脅迫観念状態になります)だけでも、反応してしまったり。

どんな形で出るかは、人それぞれです。ですが、ポイントは、表向きは安定した暮らしを維持したのかもしれませんが、心の中は毎日防衛と攻撃だらけで、精神的にはかなり疲れる状態になってしまうんです。

でも私たちは、たいていこんな心の動きには気づかず、不幸感やイライラ感などがただ高まっていくだけです。

ですが、確実にその人の精神や人生の輝きを奪い、弱点となってしまうんです。

ちなみに、例えば愛する家族を守るとか、そういうケースの守るではないことはお分かりかと思います。

例えば、家族を守った自分をないことにしなくても良いわけです。そういう意味で、“ないことにしておきたいもの”を守っているという場合です。

例えば、ネガティブなセルフイメージもそうです。“私は頭が悪い”、“私はいなくて良い存在だ”、“私は罪深い”、“私は醜い”といった思いと向き合っていたくない、または、頭が悪い私をダメだとまた否定する、などです。

“否定する”と“ないことにする”は、ある意味同じです。この場合はなんとか“できる私”にならないといけないんですね。で、そうすると同じようなことが心の中で起きます。

つらつらと説明してきましたが、これは決して理論でも私の考えでもなく、心の観察と自己ワークやセッションからの経験を書いています。

現場のセラピストですので、心理学の理論、データ、分析などにはあまり興味がないんです。なぜなら、セッションでほとんど役に立たないから、終わり。

さて、また話を戻して、私も自分が不誠実だなと感じることがあります。本当のことを言っていない、自分を守ろうとしている・・・と。そんなときはやっぱり心が落ち着かず、体に力が入りません。

例えば、本当はすごく腹が立っているのに、寛容な自分にみせたいなど。些細なことに聞こえますが、いつもやってしまうとやはりすごく疲れてきますよね。

あとは、自分が傷つかないように心を開かないようにしておく、がっかりしすぎないように期待を持たないようにしておく、というような形で自分を守ったりすることも、私たちはよくやると思います。

弱い自分、悲しむ自分をないことにしたいんですね。でも、ハートを閉じてしまうことで、実は恐れがひどくなり、希望を持たないことで、うっすらとした憂鬱が私たちを支配し始めます。

じゃぁ、どうすれば良いのでしょうか?

すべての平和は、防衛や攻撃ではなく、「対話」から始まる。

ということで、「ないことにしたい自分」との対話が最初のステップです。

その自分をどうにかしようとするのではなく、理解しようとすることから心の平和は始まります。
で、対話を続ければ、どこにたどり着くと思いますか?

そうです。最終的には、弱い自分や悪い自分というものは存在しなかったと分かるはずです。
そしてそのときに、本当の意味で私たちのハートが開き、いろいろな幻想が落ちます。

ということで、見たくない自分とは、実はどんな聖人の言葉よりも一番パワフルに私たちを愛へと導いてくれる存在ですね♪

 

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ペインボディに気づく♪

この仕事をしていて、最も難しいなぁ~~と感じるのは、本当はかなり苦しんでいるのに自分が苦しいのだということが認識されていないケースです。

ので“苦しい~~!”と言っている人は、実はかなり良い感じなんですね。それが他者の注目を引くために使われていない限り、正直ですし、基本的に癒しのオープンです。

では、ほんとうは苦しいのに、なぜそれが認識されないのかというと、例えば“私はもう充分癒しをしてきて良くなった”とか、“悟りを実践しているから見なくても良いのだ”といったような思考で説き伏せてしまっているからです。

つまり言い換えれば、思考に同化し、感情や感覚がちゃんとキャッチできていないんですね。

思考に同化しすぎると、同化しているという認識も失ってしまい、感情や経験のすべてなにもかもが思考に吸収されてしまいます。

なので例えば、“~~されてどう感じましたか?”という質問にも、“まただっていう感じです。”と、感情や感覚ではなく、思い(思考)が返ってきたりします。

そこで、“まただって”思って、どう感じましたか?と尋ねると、この質問にしばしば沈黙が起きます。えっ、まただって感情じゃないんだ~というような。

なので、こちらで例えば、悲しいとか腹が立つとか?と助け舟を出して初めて、あぁ、悲しい感じです、と感情をやっと認知できるんです。

でも、こうやってせっかく感情を引き出しても、なんでだろう?あのせいかな?などと理由、原因探し、または分析などの思考にあっという間に飛んでしまい、また感情を尋ねて、でもすぐ思考に戻ってしまう・・みたいなやりとりはセッションでも年中あります。

で、同化している思考が、他者を悪く見ている、自分を否定している、または何かに不安や恐れを抱いているといったことであれば、まだ不幸感が認識されやすいのですが、悟りやスピリチュアルなメッセージの場合、それはほぼスルーされてしまいます。

例えば“私がいない・・・ということが見えてしまったら、まともな人生を生きられなくなってしまうのではないか?”というノンデュアリティへの疑問のふりをした不安のストーリーになって現われたり。

または、“自分が恐れを感じたとしたら、それは分離感のせいなのだから、すべては愛だと分かれば、恐れは消えるはずだ”といったような完全に思考の理解によってスルーされたり。

先日、フェイスブックに投稿した記事にこんなご質問を頂きました。

“私の理解不足で、最近、疑問に思うことがあります。悟りや奇跡のコースでは、この苦しみや出来事は幻想だから、このことを現実のものとしてはいけないと。ゆるしの実践をしている友人がいます。その友人は最近、病気になりました。病気も幻想だから、ないものとしている。長年、家族から否定的なことを言われても、幻想だからとゆるしの実践をしています。”

これなどは、真実のメッセージが思考活動に呑み込まれてしまった例かなと思います。「苦しみや出来事、病気は幻想である」という思い自体は真実を指しているだけに、余計気づきにくいでしょう。

しかし、幻想の終わりとは、言い換えれば本質(愛)の始まりです。そして本質は言葉(=思考)では決して現せないものであって、「苦しみや出来事、病気は幻想である」と単に思っただけでは、肝心の本質はすっかりスルーされたままです。そして「ないことにする」という行動だけが残る。

もし、本当に幻想が幻想だと見抜けていれば、出来事も体もないことにするのではなく、本質(=愛)が体現されたものとしてきちんと向き合い、ケアするはずです。

でも、もしこの方が実は思考に同化してしまっているのだと気づかなければ、そしてまた許しも“幻想なのだから許そう”というような思考でやっていたとしたら、苦しみは認知されずに、放置されたままになってしまうでしょう。

人づての話なので、まったく間違っているかもしれませんが、ただ、このようなケースはけっこうあるかと思います。

で、でもやっぱり、どこかで自分がハッピーではない、すっきりしない、変わった感じがしない。どんなに知識が増えて、しくみが分かったとしても、心の中は何も変化していない。
密かに怒りや苛立ちが高まってくるけど、それも認識されない。

エックハルト・トールのいう“ペインボディ”の出来上がりです。

ネガティブな感情の集積が、まさにその人そのものとなり、生き物として人生を生きている状態です。

つい、自分のフィールドである癒しや悟り中心に語ってしまっていますが、思考にしか意識がいかなくて、ネガティブな感情をためこんでいる人は世の中にごまんといますよね。

では、どうすれば良いのでしょうか? もちろん、答えは一つではありません。

でも、とりあえず、思考という妄想やストーリーをがんがん生み出すものから、もう少し言葉数が少ないものに注意を向けてみませんか? つまり、「体」です。

一日のうちに数秒でも良いから、何度か体に意識を持っていくんです。長くやるよりも、回数が多いほうが効果的です。

体に感じられる感覚、感情があれば、そこで分析やレッテル張りに走らず、「好奇心」を持って、その感情や感覚が動くままに自由にさせてあげます。

理想的には、落ち着ける時間と場所があれば、それらの感覚や感情とダイアローグを持ってみることです。ただそれは、“どうして?なぜ?”という質問ではなく、“望んでいることを教えて?”、“言いたいことがあったら、100%受け入れるよ”といったようなダイアローグです。

この問いに頭で答えるのではなく、感覚に集中したまま、しっくりくる返事が現われてくるまでただそのままでいます。(これは、多少経験がないと難しいかもです)

ペインボディは基本的に理解してもらいたがっているんです。かたくなになっていることが多いのですが、本当は受け入れて欲しいんですね。

ということで、セラピストの半澤久恵さんが書かれた、ちょうど良いブログの記事がありますので、それを最後にご紹介させてください。自分の中にあった感覚とのダイアローグが物語り風になっていてとても読みやすいです♪ 題して「村に虹をかけた男の子」のお話。

PS:マトリックス・リインプリンティングRFTでは、こんなジャーニーが山ほどあります。もちろん、大切なことは、自分の中に受容のエネルギーが増え、ペインボディが薄くなっていることですね♪

賢者の言葉よりも聞きたい言葉♪

この仕事を始めてから、例えばフェイスブックでシェアされている感動的な言葉に複雑な気持ちを抱いてしまったりします。

例えば今日たまたま拾ったのは、イギリス人の友人がシェアしていたものです。(日本語訳しました)

一日でも後悔しないでいこう
良い日は幸せを与えてくれ
悪い日は経験を与えてくれ、
最もひどい日はレッスンを与えてくれる
そして、最良の日々は思い出をくれるのだから

個人的にはおぉ良い言葉だ~、トイレに貼っておきたい!と思ったりします。

じゃぁなんで複雑な思いになるのかというと、美しくて正しいと感じる言葉ほど、抑圧の道具にも使われやすいからなんです。スピリチュアルやノンデュアリティのメッセージなども。

ひどい一日だった・・・という本当の思いを抑圧して、“でもこれはレッスンを与えてくれているのだから”とか、“起きていることが起きているだけ”とか、良いことにしてしまうというような。

でも実際は“ひどい一日だった、もうたまんない、やっていられないわぁ~~~”と本心を認めてあげるほうが楽になる早道ですね。もちろん、単に愚痴って叫べば良いということではなく、きちんと本心を深く見ていってあげるということです。

すると、やっていられないわ~~の叫びの下に、“誰か助けて”という声が隠れているかもしれません。その声をちゃんと受け止めてあげたとき、本当の意味で気持ちが落ち着きます。

でも実は単に気持ちが落ち着くだけではないんです。で、それはもう少し後で触れることにして、他には説教系?のようなものもみかけます。

例えば、 “人と比べることは愚かなことです。”とか、“怒りは人を苦しみの牢獄に閉じ込め、許しは人を解放し、心を温める。”(By あゆか 今、でっちあげました)みたいな類です。

まったく無自覚に人と比べていたり、ただただ誰かを悪者にして怒りを抱いている場合は、これらの言葉にハッとするかもしれません。それはそれでお役目を果たしているでしょう。

しかし、人と比べないように頑張るとか、怒りを持ちながら無理やり許そうとするとか、失敗が目に見えていることをチャレンジしてしまうと逆に不幸です。

これも、どうしても人と比べてしまう理由や怒りが手放せない原因をちゃんと見てあげたほうが、逆に早道です。

ので、私がこういったメッセージをもし書くとしたら、

“賢人の言葉よりも、自分の中にある言葉に耳を傾けよう”

となるかもしれません。(そのまんまだ)

でも、この違いは実はとっても大きいんですね。

前者は、他者の言葉を頭で捉えて、頭で納得し、それを自分の考えとして採用するという、すべてが思考レベルでの試みになります。

誤解して欲しくないのは、もし、どの言葉でも自分が楽になる、心が晴れるということでしたら、とりあえずガンガン採用してください。ポイントとしては、ただそれだけでどうにかしようとしないほうが良いかも~ということです。

話を戻して、一方、自分の中にある声を聞くというのは、思考Aを思考Bに変えるのではなく、気づかずに信じ込んでいた思いからの同化がはずれるんです。

自分の中の声を聞くには、なるほどそうか~と頭のレベルだけで終わらず、自分の感情にも寄り添っていかないといけせん。そしてそのためには体に寄り添うことになり、思い、感情、体と三つのレベルでワークすることになります。

で、よくあるのは、誰か助けてという声の下に、どうしたら良いか分からないという声、そして例えば目隠しして歩いているような自分のイメージ、さらにその下に、“分からない私でいるのは嫌だ!私はほんとうは違う!”という真の声・・・・。

いくつもの声が抑圧されたまま、思考のレベルでなんとかしようとしても、それはとても浅い試みとなってしまいます。

ちょっとここで私の大好きなエックハルト・トールの言葉を借りたいと思います。

“自分の中にネガティブな状態があると気づいても、それは失敗ではない。それどころか成功である。それに気づかない限り、内面の状態と同一化したままであり、それがエゴとの同一化なのだから。”*「ニュー・アース」P130

つまり、抑圧された思いたちに気づかない限り、私たちはそれらにすっかり同化し、エゴに同化したままだということです。それはある意味思考の催眠状態にいるのと同じです。

ですが、隠れていた思いや感情がきちんと認識されたとき、もうそれらに同化することは難しくなります。もちろん、このレベルの思いは気づいても、感情がついている限り、セラピーなどを使わないと外れない場合が圧倒的に多いです。

それでも、無意識に同化している状態に比べれば、はるかに楽。

ですので、気分が落ち着くだけではなく、自我の幻想を崩すことになるため、もっと根本的な癒しになるんです。楽になるだけではなく、物の見方、感じ方がぐんと変わります。

思考に同化している限り、本当の意味の変化を知ることはできないでしょう。

なので、思考を観察する状態に自分を持っていくこと。そして、できれば、心の奥深くにある思考を観察できる状態になること。

なぜなら、気がついていない思いほど私たちは強く信じ、同化しているからです。そして、それを通してものごとを判断し、反応し、人生を体験しています。

では、どうやったら、自分の心の奥深くの思いを見つけられるのか?

正直言って、簡単ではありません。自分がスルーしている思いに自分で気づくのは至難の業です。ヒントは、とりあえず本心をきちんと把握し、そこにある感情、感覚の声を頭で考えずに拾っていくことです。

こういう授業が義務教育であったら良いなぁと妄想します。

とりあえず、自分の声(言葉)も忘れずにね!というご提案でした♪

 

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クリスマス難民のあなたへ♪

クリスマスやお正月の時期は、もしかするといつもより人と自分を比べてしまうかもしれません。特に独身者や単身者は、家族でワイワイしていない自分・・・が身に染みる季節かもしれません。

イギリスで貧乏学生をしていた頃、クリスマスの日は電車も一切動いておらず、家で一人で過ごすしかない状態でした。そんなとき、アンソニー・デ・メーロの「Awareness」という本に“クリスマスは、自分の頭の中にしか存在しないって知っている?”という言葉があり、目を開かされたものです。

そのとき、「クリスマスを外国で一人ぼっちで過ごす私」という思考がパラパラと落ちて行ったのです。

とはいえ、それですっかり孤独が癒されたわけではありませんでした。ですが、それなりに楽になったしとテレビを観て気を紛らわしてその日は過ごしました。

その後、どれぐらい経ったとか、まったく覚えていませんが、人と比較されて傷ついたことをテーマに自分を見つめていたことがありました。今振り返れば、このときのワークはその後の私に大きな影響を与えくれたような気がします。

当時他者の批判に敏感だった私がよりにもよって、“~~さんと比べて溝口さんはぜんぜんダメですね。”みたいな分かりやすい比較と否定の言葉に、気持ちがどん底状態に陥ってしまったのです。

で、その晩は眠れない、眠れない。思考は、私にも良い所があるとか、相手は私のことを誤解しているだけだとか、なんとか気持ちを静めようと頑張りますが、やっぱりすっきりしません。

ということで見つめていくと、まず、相手へのものすごい怒り。その怒りを自由にしてあげ、しばらく罵詈雑言を放ち、そして泣いたらかなりすっきり。(当時はEFTを知らなかったので、あるワークショップで習った、怒りを体で表現するという方法をやりました。始めて見たときはかなりひいたエクササイズでした。)

すっきりした~と思ったのですが、なんかやばい感じが・・・・。

これは今ならはっきり分かるのですが、一つの感情や思いが解放された直後にやばい感じがでるときは、基本大物の登場です。

ただ、その当時はそれを知らなかったので、???な状態のまま、そのやばい感じに寄り添うことにしました。で、今でもお気に入りのツールであるフォーカシングをやってみたのです。

すると、そのやばい感じは、暴力的なほどの怒りになり、そこで再び怒りを体で現すということをやってみると、なんと手にナイフを持っているようなジェスチャーで自分の首を何度も刺そうとするのです。

うひぁ~~、エクソシスト?憑依された?殺される~?

恐怖が走る中、とりあえずそのジェスチャーを続け、私は必死にそれが“なくなる”方法を模索していました。しかし、その怒りとジェスチャーはまったくびくともせず、ひどくなるばかり。

詳しい流れは覚えていませんが、何かを問いかけた瞬間、 “そんなに私を嫌わないで”という声が浮かんできたのです。そして、“息も絶え絶えで死にそうなんだから”という声も聞こえてきました。

そこには、すべての人から嫌われていると信じ切っている私がいたのです。そんな自分が自分の中にいたとはまったく気づいていませんでした。モンスターのように思えていた怒りは、死にそうなほど自己価値が落ちて、なんとか生き延びようとしているもがきだったのです。

そのとき、イメージの中でその自分をしっかり抱きしめたい衝動にかられ、気がつけばモンスターはいなくなっていました。

癒しとは、ネガティブな感情を解放してくことだと思っていた私に、これは大きなレッスンとなりました。またなぜ、フォーカシングが「過激な受け入れ」を教えているのかも深く腑に落ちた瞬間でした。

一連のワークが終わった後、例の比較の言葉は楽しくはありませんが、単にその人の考えというニュートラルなものになりました。(今なら、マトリックス・リインプリンティングを確実に使うところ、たぶんもっと楽になります。)

ある意味ほっとしたのは、比較したり、されたりしたときの解決方法は、もっと良い自分になることではないんだとはっきり認識できたことです。

ところが、楽になっていたのは比較されて傷ついた心だけではありませんでした。それまでいつもうっすらとあった孤独感が和らいでいる、というかほとんどない。これは嬉しい副産物でした。

自分の中に放置している自分がいる、否定している自分がいる、見捨てられた自分がいる、これらの自分が「孤独感」というサインを送っていたのです。

自分の中の否定された部分は、孤独を生み出したり、比較されて怯えたり、いろいろな形で出ることも見えてきました。

しかし、おそらくここで私が一番学んだことは、「私は私から逃げなくて良いし、戦わなくても良い」ということだったでしょう。

つまり、「受け入れると良い」と頭では知っていたけど、結局、いつの間にかネガティブな感情から逃げたり(頭で説得したり、納得させたり、何かで気を紛らわしたり)、またはなくす(あっちへいけ!)ために受け入れようとしていたことがよく分かったのです。

真の受け入れとは、ネガティブな感情の奥をよく見ること。その下に隠されている言葉を聞いてあげること。そして、自分の中のすべての自分ともう一度家族になること。(それが私たちの本質だから)

それはもう一つのカミングホームとも言えるでしょう。自分の中の忘れ去られていた自分が「わたし」という家に帰ること。

これは一見、非二元の真実(私はいない)の真逆のように見えるかもしれません。でも、自我が「空」に憧れる大きな理由の一つは、もうこんなうんざりするような感情から逃れたいということだったりします。

でも、「わたし」という家にすべての私を受け入れたとき、「わたし」はわたしをあきらめ、生命にゆだねることがもう怖くなくなるんです。なぜなら、もう守るもの、とどめるものがなくなるから。

そして、本当のカミングホームが起こる♪ (*^_^*)

すべての私にハッピー・クリスマス!

 

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理想と現実のギャップに悩んだら?

おぉ、一か月近く更新していませんでした。いやぁ、公私ともども日本にいると忙しいです。

さて、先日、一橋大学×東工大の大学院の学生さんにインテグレイテッド心理学(来年名前が変わります)の講義を1日させて頂きました。好感触でとても楽しかったです♪

で、学生さんと話をしていて、私自身もほんとそうだったのですが、やっぱり「理想の結婚像」とか「理想の人生」とかいろいろ描くわけです。

こんなふうな家庭が欲しい、こんなふうな人生にしたいという漠然としたイメージですね。これは人間がほぼ全員やることでしょう。

ですが、そのイメージ自体は基本、とっても大雑把でぼんやりしたものです。

「笑顔が絶えない明るい家庭」とか「自分らしさを活かしていきいきと」とか。(←学生さんたちがこう言っていたわけではありません)

でも、例えば笑顔が絶えないって、実際に現実にはどういうこと? パートナーの仕事が忙しくなって相談する時間がなくなっても笑顔でいられる? まったく意見が合わないことがあっても?

自分らしさを活かすって、具体的にどんなこと? 何をしていること? いきいきしているってどんな状態のこと?

せっかくの楽しいイメージに重箱の隅をつっついているようですが、なんでこんな話をしているかというと、イメージはやっぱりイメージなんです。そこになんの実体もないんですね。

ですが私たちは、それがあたかも現実味があるように思えたり、またはそうなるべきだと強く思ってしまったりします。結果として、多くの人がイメージと現実とのギャップに苦しんでしまうんですね。

で、それでもイメージが間違っているのではなく、現実が間違っていると私たちは思いがちです。

なので、必死にイメージに合うように現実を持って行こうとして、ここでまたさらに苦しんでしまう・・・・。

でも例えば、「明るい家庭」を理想像としながら、心の深いところで「誰も私のことを気にかけない」みたいなビリーフを抱えていたとしたら、パートナーのちょっとした言動が、自分を愛していないように見えるかもしれません。(←投影)

そうすると、「明るい家庭にしたかったのに、彼の愛情が薄いからできない(怒り!)」など、イメージとかけ離れた現実にがっかりとなりがちです。

さて、そもそも、イメージとは頭の中の「絵」ですね。感情や感覚と違って、頭の中に描ける「かたち」です。「笑っている」とか「いきいきしている」といった、気持ちが高揚したり、幸せを感じたりする「絵」です。

こういったイメージにくっついてくる気持ち良さが曲者なんです。このせいで私たちはコロッといイメージに騙されてしまいます。

ほんとうは幸せの根源は常に自分の中にちゃんとあるのに、イメージの中にだけあるように感じてしまうんですね。

とくに今の現状を悩んでいたり、不満や不足を感じていれば、「こうだったら良いのに・・・」というイメージを私たちは必ず持つはずです。で、そのイメージとのギャップに「はぁ~~」とため息をしてしまうみたいな。

つまり、私たちは「イメージ」を目指し、「イメージ」とのギャップに苦しみ、でもつい「イメージ」を追ってしまうんです。

ちょっと意地悪ですが、このイメージという言葉を「幻想」という言葉に置き換えてみると、

私たちは「幻想」を目指し、「幻想」とのギャップに苦しみ、でもつい「幻想」を追ってしまう・・・。

どうでしょう?

えっ? じゃぁ、なにかポジティブなことを描いたり、目指したりするのは無意味なの?と思われるかもしれません。

もちろん、そうではありません。というか、イメージを抱かないようにするというのは不可能でしょう。(勝手に起きるし)

ですが、実体のないものを生きる動機にしてしまうのもやはり危ういものですね。じゃぁ一体何が一番頼りになるのでしょうか?

となると、やっぱり同じ答えしかありません。それは、自分が一体ほんとうは何を求めているのか?ということ、イメージではなく、自分の深いところからくる感覚、思い、衝動。

結婚であるなら、自分が一番求めていることは何? もし、子供たちと楽しく暮らしている私であるなら、そこに何を求めているの? 「イメージ」や「かたち」ではなく、もっともっと深いところから来るものは?

信頼?無償の愛の感覚?つながり?

社会やマスメディアは、いかに「良いかたち」を作るかが幸せだ!と刷り込んできます。なので、自分の深いところに本質の声があるということを知らない人もとても多いです。

そのため、何を一番求めているの?という質問にも、非常に上っ面なぼんやりとした答えが返ってくることもとても多いです。頭の中のイメージを単に文章化しているだけというか。

ですが、自分が真に求めていることがクリアになれば、それがすでに「自分らしさ」であり、また自分を深く受け入れていれば、それがすでに「愛の発動」であって、そこからどんな人生が織りなされていったとしても、自分らしさと愛は消えないんですね。

ということで、これも耳タコだと思いますが、「感情・感覚」と仲良くなること。思考は同じところをぐるぐるしたり、衝突する思いの間で揺れたりしますが、感情・感覚は一貫していて、嘘がありません。

そして、自分が自分をどこまで条件なしに受け入れているのか?受け入れられていない自分はどんな感情を抱いているか?よく感じてあげるんです。

思考も大切な人間活動の一つですが、感情・感覚が私たちに示してくれるものもとても大きいんです。幸せは思考でするものじゃないですしね♪

最後にイメージはいつも過去か未来に飛んでいますね。いまここにないものではなく、いまここにあるもの(特に自分の中にあるもの)をしっかり見て、やっていく。終わり。

あぁ、人生ってそれぐらいシンプルだよって、大学生の時に誰かに教えて欲しかった・・・。
(ピンとこなかったかもしれないけど)

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感情解放のツールEFTプラクティショナー講座♪

東京:2017年2月10日~12日(下田屋寛子)

福岡:2017年3月18日~20日(西川佳宏)

※東京の2月の講座を受けた方は、3月のマトリックス・リインプリンティング
(講師:溝口あゆか)も受講して頂けます。(若干お席あり)

誰かのことで苦しいときは・・・

私たちが誰かについてあれこれ考えているとき、心配していたり、腹が立っていたり、気にしていたり・・・。

当然、私たちはその人について自分は考えていると思っているわけです。ある意味その通りですよね。○○さんは、ああで、こうで、そして・・・といろいろ思いを巡らすわけです。

ですが、ああで、こうで、そして・・・の部分は、100%自分の考えです。

それは分かっているさ、と思われるでしょうが、ここがミソなんです。とりあえず、「自分の考え」と手のひらに書いてみてください(笑)。

では、その自分の考えはどこから生まれたのでしょうか?

もちろん、自分です。

自分から出てきたものです。

つまり、相手について思っている、語っていると私たちは思いがちですが、実は自分はどうか?という「自分のこと」を語っているんです。

まだ分かりにくいかもしれません。ちょっと例を挙げてみましょう。

“○○さんは、どうしても自分の思い通りにしないと気が済まなくて、ほんといつも振り回される。他の人の気持ちを考えられないし、それに気づいてもいない。そして・・・・”

こんなとき、私たちは完全に○○さんについて考えていると思っているでしょう。でも実際は、たとえば、

“私は思い通りにされるということに非常にこだわっている。正直大嫌いだ。というのも、普段感じないようにしている、ほんとうは無力な自分が刺激されるからだ・・・・”
(これは一つの例です)

などといった「自分はこうなのだ!」という話が無意識のレベルにガツッとあるんです。

その人が、思い通りにしようとする○○さんのことを力を込めて話をすればするほど、聞いているほうは、“なんかよく分からないけど、この人、そこにこだわりがあるんだな”と感じたりもするかもしれません。

または、

“娘が東京でちゃんと一人でやっていけているか不安だ。変な詐欺や事件に巻き込まれないだろうか。きちんと食事はとっているのだろうか?”という思い。

この場合も娘についていろいろ考えているように見えますが、たとえば、

“私は娘の自立を信頼できない。もっと言えば、私は自分を信頼できない。信頼できるものが何もないから、いろいろなことが不安だらけだ”
(これも一例)

などという「私はこうです」という話だったりします。

こんなふうに、自分は他者について考えていると思っていても、実際は「自分のこだわる点はどこか?」という話だったり、「私はこういう人です」という話だったりするんですね。

で、何を言いたいかと言うと、“○○さんは、どうしても自分の思い通りにしないと気が済まなくて・・・”と考えているとき、私たちはおうおうにして、それは100%相手の問題だと思ってしまっているということです。

でも、誰かについて思いを巡らしていて、怒りや恐れ、不安や心配、嫉妬やねたみなどが出てきて苦しいのなら、それは「自分のこだわり」「自分の心の傷」「自分の恐れや不安」などなどが発動しているからですね。

なので、実際は相手は関係なくて、自分のこだわりや心の傷、恐れの中に私たちはどっぷりつかってしまっているわけです。

かつて、夫が浮気性だということでかなり苦しんでいる方のセッションをしたことがあります。パーティーへ行くと夫が女性の肩に手を回したり、楽しそうに話したり、自分をほったらかしにして楽しんでいるということで、離婚寸前の状態でした。

セッションルームでは、夫への怒りがすごく、夫がいかにひどいかということを必死に私に説得しようとしていました。

クライアントさんが求めていることは、自分への賛同や理解だというかことは分かるのですが、同意をしてしまうと、「相手が悪い」ことが決定されてしまいます。

なので、私はこういうとき、「謎の微笑」という武器(笑)でイエスともノーとも言わず、いつもかわすようにしています。

ただ、あまりに相手が悪いというエネルギー(思い)が強いとき、自分を見てもらう方向へ持って行くのは至難の業です。それよりも、ひどい相手によって傷ついた私を癒して欲しい、という気持ちが強いんですね。

でも、この方向では決して楽にならないんです。癒しとは、相手は悪者ではなかったし、自分も悪くなかったと、自分の中に悪者がいなくなったときに本当の意味で完結します。

ということで、もし誰かについてあぁだ、こうだと考えが止まらなくて苦しいとき、手のひらの文字を思い出してみると良いかもしれません。

自分の頭の中から相手が消えて、自分がスルーしていた自分の声を聞き始めたとき、それだけでもだいぶ心が落ち着きます。

そして、自分の中にあった恐れや怒り、不安などが癒されたとき、内側に優しくて、前向きな健全さが感じられるはずです。

それでも相変わらず相手の言動は不愉快かもしれません。平気になりましょうという話ではまったくありません。悪者じゃないけど、言動は好きじゃないというのもぜんぜんOKですし、相手にそう伝えても良いわけです。

ただ、もう苦しんでいないし、自分の心の中が変われば、そこから出てくる言葉や言い方、声のトーンなども自然と変わりますね。それが相手への変化を起こすかもしれません。(または、起こさないかもしれません。相手次第)

そして、どっちもOK♪

さて、今日からまた気仙沼でメンタルケアプロジェクトを開催します。熊本でも素晴らしい出会いがいくつもありました。親しい顔たち、新しい顔たち、またお会いできるのが楽しみです♪

 

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「ノンデュアリティと癒しのカフェ in 名古屋」

2016年12月3日(土)13:30~16:30

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ショートセミナー≪ビリーフが遺伝子をコントロールする?≫

波動から見る心と体の癒し

2016年12月18日(日)13:30~16:30

講師:溝口あゆか・西川佳宏

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一般社団法人ハートレジリエンス協会認定心理セラピスト養成講座

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自我がうすうす知っていること

例えば、相手が自分を認めてくれない、バカにしている、なめている、評価してくれないと私たちが感じたとき、たいていすごく嫌な気分になったり、傷ついたり、腹が立ったりしますよね。

で、インテグレイテッド心理学では、これは自分の投影ですよ~と話をしているわけです。正確に言えば、認めてくれないように感じる、バカにしているように見える、なめられているような気がする、評価してくれないように聞こえる、などなどです。

つまり、感じる、見える、気がする、聞こえるという自分の主観の世界です。

自分はつまらない人間だと深いところで思っていれば、相手の言動が自分をバカにしているように見えたり、聞こえたりするわけですね。

で、その思いが変われば、たとえ相手がほんとうに自分をバカにしようとしていたとしても、不愉快でしょうが、「相手の問題」だと分かるわけです。

なので、どうしてもそういう風にしか見えなくても、感じているのが自分である限り、それは投影だよ~~と分かることが、まず癒しの第一歩なんです。

が、自分中心の解釈しか知らない自我(私たち)にとって、自分の感じていることや経験していることはリアルな事実であって、それが投影だと見抜くのは非常に難しいです。

でも、“うわぁ~、相手は自分のことをバカにしていたんじゃなかった~~!!!まじ~!たまげた!”という体験が一度でもあると腑に落ちやすくなります。

しかし、そもそもなぜ自我は、他者が自分のことをどう見ているか、どう思っているかにそこまで反応するのでしょう?

インテグレイテッド心理学では、それを「自己価値の死」「肉体の死」の二つに恐れがあるからとお話ししています。

他者から受け入れられない→一人ぼっちになる→生きていけない→死、みたいな。

これは何度やっても、セミナーの参加者全員が必ずここに行きついています。

分離している自分、大きな世界の中で生きている小さな自分が生き残るには、他者から良く思われていなければいけない、願ばくは、普通以上に受け入れられているほうが良い、そうすればさらに生き残り率が上がる・・・・。

つまり、バカにされて腹が立つのは、深いレベルでは、生き残りの不安を刺激されるからですね。ですからある意味、人間としては普通の反応です。

さてでも、ここでの話題はバカにされていないのに、勝手にバカにされていると思って怒ったり、傷ついたりしているケースです。究極の一人芝居ですが、この状態が一番苦しいです。

苦しいから、セッションを受けたり、セミナーへ出かけたりしますが、セラピストのささいな言動に腹が立つ、セミナーの講師の言ったことが気に入らなかった、受付の仕方が悪い・・・。あらゆることに反応し、怒りをさらにためていってしまいます。

苦しいから行くけど、またそこで怒りをためる・・・・という悪循環です。本人は、相手が悪いと信じて疑っていないために苦しみは非常に大きいです。

さて、ここから一気にノンデュアリティに飛びます。皆さん、シートベルトをお締めください(笑)。

生き残りとも関わってきますが、自我は深いところで「自分が空っぽ」だと分かっているんです。

自分の頼りなさ、どこに立っていたら良いのだろう? 永遠の暗闇に消えてしまうのではないか? 薄皮一枚でなんとか存在している感じ。私は役に立っている、受け入れられているとか、存在していて良いというストーリーがないと自分はどう立っていられるだろう?

なので、深いレベルで常に自分の存在なんとか証明していたい、自分はいるんだ、生きているんだと感じていたいという思いがあります。

人生がうまくいっていたり、他者との強いつながりがあったり、自分が好きだと思えているときは、この感覚はあまり感じられないでしょう。

でも、自己否定が激しいと、それはこの感覚とマッチし、加速していきます。存在していたいのに、私はダメダメ人間だと自分で自分の存在を否定してしまう。

もちろん、ぜ~~んぶ、潜在意識の深いところで起きています。

とにかく、自分はダメダメ人間だけど、なんとか薄皮一枚の思いで存在していられる。その思いとは、ジャン!、「私は犠牲者だ」

私が悪いのではなくて、世間や他者が悪いからこんなみじめな自分、ダメにされている自分、誤解される自分、理解されない自分でいるしかない・・・・。

このとき、やっと薄皮一枚でつながっている「私は犠牲者だ」という思いを癒すことは、まずものすごい抵抗があります。というか、たぶん、もしそんな話でもしようものなら怒られます。悪いのは相手なのに!!!

さて、このように、自我は自分が空っぽだとうすうす知っていますが、見過ごしているのは、その空っぽさに逃げ込む(ゆだねる)ことが本当は一番の救いだということなんです。

例えてみれば、小波が自分は空っぽだと思っていて、必死に形を保とうとしているけど、もしそれをあきらめて空っぽさに身を投げたら、消えちゃうどころか自分は大海だったと知るという感じですね。

つまり、自我が描いている最悪のシナリオは消えてしまうことですが、実は大海に戻るだけなんです。そしてそこは実は自分が一番求めていた愛、受容の場。

と書くと中には誤解する人もいるかもしれませんので、付け加えておくと、肉体の死(自殺)ではそれは決して見えてこないんです。ここで言っているのは、自己否定や犠牲者意識を手放す(握りしめていたものをあきらめる)という話です。

または、自己受容、自己愛を高めていくことで、自己を超えていく・・・。だから、奇跡のコースでは、「罪悪感を癒す」ということが繰り返し書かれているのだろうと思います。

いずれにしても、他者が悪く見えているとき、それも絶対相手が悪いと確信しているときほど、もし楽になりたいのなら、相手に怒りをぶつけたり、責めたりすることをあきらめてみること。

そして、ストーリーもあきらめ、「感情」に目を向けることです。(怒り、悲しみなど) そして、その感情が持っている感覚の中に沈んでいきます。無抵抗に。あたかも自分は存在していないかのように。空っぽになってしまうんです。(これが降参=受容♪)

こうしてストーリーから自分を解放し、自分の中にあるものに身をゆだねたとき、やっと空回りから抜け出せ、本質、そして癒しへ帰るスタート地点に足を踏み出すことができるでしょう。

多かれ少なかれ、皆が深いところで感じている空っぽさ。一番感じたくない感覚。

でも、その先に実は愛と受容がある♪

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