時間もなく、苦しみもなく

突然ですが、「時間がなければ苦しみはない」終わり。

これを読んで、“そりゃそうだ、でも時間ってあるし・・・”と思う方が一番多いかもしれません。

私はこれがほんとうに腑に落ちたとき、なんでこんな明白なことに気づくのに何年もかかったのだ!バカバカと自分の頭をぽこぽこしたい気分になりました。

とりあえず、ご説明させてください。

そのためにまず、過去も未来もないとイメージしてみませんか? 

過去の出来事にまつわる記憶がまったくなくて、同じように未来もぜんぜんない。

ほんとうにない!ゼロ!消えた(笑)!

イメージできましたか? 

過去と未来が消えたとき、私たちの悩みや問題はまだ存在しているでしょうか?

例えば、「私は無力だ」という思いを持っていたとしても、過去と未来がなければ、その思い自体の意味がなくなりますね。

または、過去に誰かに傷つけられた、自分が誰かに酷いことをした、間違った選択をしてしまった、などなど過去の出来事に対するネガティブな思いも消えてしまう。

当たり前じゃないか・・・と思うかもしれませんが、ぐっとこらえてついてきてください。

で、そうなれば、今は過去の結果ではなくなります。また、未来も今の結果ではなくなりますね。

エックハルト・トーレは「今ここ」には悩みや問題はないと常に言っていますが、この意味が以前はまったく分かりませんでした。というのも、「今」の意味を時間系列の中で考えていたからです。なので当時は「でも、今借金があれば問題じゃない?」とか思っていたのです。

しかし、エックハルト・トーレがいう「今」とは、時間の流れの中にある今ではなく、実体の場を指していたのです。

例えば、過去と未来はどこに存在するでしょうか? 私たちが絶対にあると信じて疑わない過去と未来はどこに存在するでしょうか?

・・・・・・・・・私たちの頭の中だけですね。

また、過去と未来を実際に経験することはできるでしょうか? 誰も一度もしたことがないはずです。

つまり、私たちがいう時間とは、頭の中だけに存在して、誰も経験をしたことがないんです。

では、頭の中にあるものは実体があるのでしょうか?

記憶はイメージや思考や感情、感覚で成り立っていますね。

例えば記憶のイメージは絶対的なものでしょうか?それとも自分バージョンの映像でしょうか? 同じ出来事に対して、兄弟で記憶がぜんぜん違うことはそれなりにないでしょうか?記憶は基本的に主観的な自分バージョンです。

これは絶対的なものとはいえないですね。

歴史も勝者によって書かれるというように誰かの記述であって、絶対的な真実ではありません。

過去や未来が頭の中にしか存在しなくて、記憶や歴史が真実ではないのなら、時間や記憶って何なのでしょうか?

それでは、「今」はどうでしょうか?今にいることはできますか?「今」は捉えた瞬間には過去になっているはずです。時間は一度も止まっておらず、流れっぱなしですよね。流れ続けるものに「今」は実際には存在しないはずです。

頭で捉えないで、ぜひ実際に自分で観察してみてください。自然観察です♪

では、過去も未来もなく、今もないなら、一体「私」は存在しているのでしょうか?しているとしたらどこに存在しているのでしょう?

私たちの経験の中に“唯一まったく流れないもの、変化しないもの”、頭の中ではないものがあります。それはそれらのすべてに気づいている意識です。何かが流れていると分かるには、流れていないものがないといけません。

時間が流れていることに気づいている自分。でも、その自分は流れていない。動いていない。

流れない、動かないということは、今しかないということです。今しかないんです。これがエックハルト・トールのいう「今」です。

では、振り返って、いわゆる「私」や「私の人生」というもの。これはすべて「過去、今、未来」という時間軸の中にしかありません。でも、存在していませんでしたね?

今というのは、時間軸のストーリーがない場所(場所じゃないけど)を指しているんです。ストーリーがないところ。

一旦ストーリーがないところに立ったとき、目の前に見える流れていく事象は、次々と現れる未知な現象となります。次の瞬間に角から自転車が現れるかもしれない。またはある新しい思いが浮かんでくるかもしれない。次の瞬間に何が起きるかはいつも未知。

そうやって見ていくと、人生は自分がコントロールしてなんとか幸せに、または安心安全にしていくものではなく、一つ一つの出来事、現象が生まれてくる愛おしいものになります。

出来事が悲しいことだったとしても、辛いことだったとしても、なぜか現れてきた生命のストーリー。「私」という愛おしい主人公がいるストーリー。

理由はわからないけど、生まれてくるストーリー。そして、そのストーリーに気づいている時間を超えた自分。

色即是空=ストーリーを生きる自分(色)は、すなわちストーリーに気づいている自分(空)である。この二つを分けることはできない、二つではない。非二元(二つに非ず)。

私たちの一番の勘違いは、この二つの自分が同じ個の自分だと思っていること。さて、こっちへ行くと話がいつまでも終わらないので話を戻します。

実体である「今」には悩みはない。時間軸のストーリーから解放されているから。じゃぁ、「今」に目覚めれば悩みなくなる?ある意味そう。でも、色の自分が癒やされていないほど、個の自分のストーリーにはまってしまう。だから癒しも大切だと思うのです。

長々と書いてきましたが、実体のない私は、「私の人生」を行きている私と常にともにあって、決して離れることはない。実体の私とは「永遠の無条件の愛、生命」。

私たちはみな守られている♪ ストーリーから離れて、愛を感じてみませんか?

 

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