知識人から観察者へ〜目覚めへのステップ

恥ずかしいぐらい久しぶりですが、あまりに納得の行く言葉を見つけ、シェアせずにはいられなくなりました(笑)。

とりあえず原文をご紹介しましょう。これは和尚ことバグワン・シュリ・ラジニーシの「Awareness」という本からの抜粋です。(英文の下に訳文をつけました。)

If you become a mind, you lose consciousness – mind means sleep, mind means noise, mind means mechanicalness. It is knowledge that keeps you asleep; hence, the more knowledgeable a person is, the more asleep. Innocent villagers are far more alert and awake than the professors in the universities and the pundits in the temples. The pundits are nothing but parrots; the academicians in the universities are full of nothing but holy cow dung, full absolutely meaningless noise – just minds, no consciousness.

思考中心になると気づきの意識を見失う。思考とは眠っているということ、騒音であるということ、そして機械的ということだ。

知識があなたを眠り続けさせる。つまり、知識があればあるほど眠りが深くなる。無邪気な村人のほうが大学の教授、寺院にいる権威者よりもよっぽど警戒力があり、目覚めている。権威者(知識人)はオウム以外の何者でもなく、大学の研究者たちの中身はまったくもって空っぽ、またはまったく意味のない雑音でいっぱいで、せいぜい牛のフン程度のものがあるだけだ。ただ思考だけ、気づきの意識はまったくない。       (あゆか訳)

う〜む、大学の研究者たちの頭の中身は牛のフン程度って、だいぶ手厳しい(笑)。ちなみに私の両親とも大学教授でしたが、この文章を二人に読み聞かせたらたぶん笑って賛成する気がします。

さてイギリスでは、2021年の6月にマスク義務やすべての感染対策が解除になりました。一応お願いベースは残っていましたが、お願いはほぼスルーされ、だいぶ前にコロナは終わっている感じです。今はインフレと光熱費の高騰でみんなの頭はいっぱい。

ですが、この文章を読んだとき、コロナ禍に間中にずっと感じていたことが見事に書かれていると思ったのです。何かというと、私たちがいかに報道(他者の言葉など)を鵜呑みにしているかということです。聞いたままを事実として受け止める。自分自身の観察よりも、報道を頭の中でコピペしていく。

例えば、”感染者数が増えています”と報道されると、頭の中で”感染者数が増えているんだ”とコピペされ、そのまま終わり。権威者が言っているのだから、専門家が言っているのだから正しいに違いない。だから、自分で考えなくて良い。

ちなみに、この話を先日お話会でしたところ、自分はそうではない!と言われましたが、ここは一般的(自我の傾向)なお話しをしています。また、コロナ禍を例に出していますが、普段からこの傾向は私たちとても強いです。(私ももちろんやっています)

つまり、ここで起きていることは、コピペして他者に考えを委ねる。抜けているのは、ほんと?という疑問を持つこと、そして自分で観察し、感じて、考えること。

一方例えば、カナダではトラック運転手たちが、外に出られない子どもたちや家族に会えない老人たちが病んできている、ここまで自由を奪うほど猛毒なウイルスではないのじゃないか?と疑問を持ち大規模なデモが起きました。

トラックの運転手が知識や教育がないということではなく、デスクワークではない体を使っている仕事の人のほうが肌感が生きているのではないかと思うのです。

和尚は続けて、動物のほうが目覚めている、周囲の出来事に注意を向けていて、観察を怠っていないと書いてあります。つまり、動物は思考にハマらない分、ありのままの今ここにいるということです。

ですが、私たちは情報や知識、論文などのほうをより重視し、そっちが正しいとしてしまうことで、自然を観察する力、自分で考える能力、共感する心などを失ってしまいがちです。

さて、ここでもう一つ動画を紹介させてください。”科学って何?”というタイトルです。

Allen Savory – What Is Science?

短いので翻訳してみました♪

科学とは何だろう? 人は科学に対して曖昧な言い方をするが、科学とは一体何なのだろうか?

大学で修士や博士号を得た人が自然の現場にやってきても、彼らは精査が入った論文以外は何も信じない。論文しか受けつけないのだ。観察しよう、考えよう、討論しようといってもやらないのだ。

”これは精査されていますか?”としか聞かず、それが彼らにとっての科学なのだ。まったく持って嘆かわしいことだ。若く優れた頭脳を持って大学に入ったのに、脳が死んだ状態で卒業していく。それが今の学問。もし、論文が精査されていれば、彼らがその結論は正しいと判断する以前に皆が同じ結論に達したということになる。

これによる意図しない影響は、新しい知識や新しい科学的な洞察が生まれた時、それらが精査されているということはあり得ないということだ。つまり、新しい発展、科学にとっては非常に大きな発展をブロックしてしまっていることだ。(信じない、取り上げないという点で)

科学の新しい発見を振り返ってみれば、それらはほとんどいつも科学の主流ではなく、隅っこから違った見方をするところから生まれてきているのだ。高度な腕のキャンドル職人が、電球を思いつくことはあり得ない。新しい発見はその世界の中ではなく、そこを破った外側から生まれて来るのだ。

こういった自分自身の愚かさで、私たちは自分たちを破壊してしまうだろう。(アラン・セイボリー 2020)

あまりに賛成で何も付け足すことはありませんが、最後の言葉は本当にそうだなと思ってしまうのです。実際に起きていることを見る能力がなくなっていくことで、まずほんとうの危険と嘘の危険の区別がつかなくなること。

そして、今ある情報や知識の外に無限とある可能性を見過ごしたり、否定したりしてしまうこと。

ちょっとネガティブに書いてきてしまいましたが、最終的に、私たちは生命のエネルギーという本質から生まれ、本質そのものですね。なので、あまりに本質から離れると、本質に戻りたくなる、目覚めたくなる衝動も起き上がってくるに違いないと思うのです。

最後にまた和尚の言葉、”人は自分の思いに自分が気がついている分だけ目覚めている”

私たちの中には、自分がまったく気づいていない育った過程で刷り込まれた思い、価値観、ビリーフがたんまりとあります。これらも言い換えれば、周囲の言葉や出来事をそのままコピペして、出来上がっているものです。

ということで、まずは自分が自分の思考、ストーリー、意味づけ、解釈、価値観にしっかり気づくこと。そして、そこからまず自由になって、一緒に目覚めへと歩む仲間を増やして行きたいですね。