ウクライナ・ロシア戦争の報道

報道というのは、ほんとうに大きな影響があるものだんだとコロナ禍でつくづくと思い知らされましたが、ウクライナとロシアの戦争でもそれを強く感じざるをえません。

最初に私のスタンスをいえば、軍事侵攻には基本的に反対です。なので現在世界のいくつもの地域で市民が攻撃され、建物が破壊されていますが、それらのすべての侵攻、攻撃にも反対です。(特に英米のイラク侵攻は今でも大反対です)

しかし、ヨーロッパで起きているということで、西側の報道はロシアのウクライナ侵攻のみに集中していますね。西側にとって冷戦時代からロシアは敵であり、ハリウッド映画でもいつもロシア人はスパイや悪人として描かれてきました。

なので今回も、ゼレンスキーはヒーロー、プーチンは悪人という映画か漫画のようなストーリーが展開されています。

と書くと、一方的に侵攻しているロシアの肩を持つのか!と叱られそうですが、このブログの目的は、どちらかの肩を持つというより、私たちはこの戦争を公平にみているのか?にあります。冒頭に書いたように、私はいかなる侵攻も正当化したくありません。

ただ、ロシア側の報道がぜんぶプロパガンダで、西側の報道はすべて正しいというのも非常に偏りがあると思うのです。西側は西側で当然自分の側に立ったものの見方しかしません。

紛争地の交渉に30年以上関わってきたアメリカ人のウイリアム・ウリー(William Ury)さんという方のインタビュー動画があります。私はイギリスでmediator(仲介交渉人)の資格を持っていることもあり、この国際紛争の仲介交渉のプロの意見を非常に興味深く視聴しました。

長い話を短くすると、彼によると紛争解決のために大切なのは、まず「聞く能力」であるということです。相手の立場に立って話を聞いて、相手の立場から世界を見る能力。

そして、世界はロシアに対して厳しく対応すればするほど良いと思っているけど、一番良い交渉とはロシアにとって一番簡単(easy)にしてあげることだというのです。これはもうほんと目から鱗ものでした。

彼曰く、相手がYesと言いやすい交渉をして、相手の現在の戦略を捨てさせることだというのです。これは人間の心理をよくわかっている人の発言ですね。

残念ながら、西側の報道はプーチンやロシアを悪者扱いにするだけで、聞く耳を持つという態度はどこにも見られません。それどころか報道全体がロシアを理解するなんてもってのほかで、ヘイトだけを煽りまくっている状態は心から残念です。

ベルリンの壁が崩壊したとき、ゴルバチョフは東ドイツから軍隊を引き上げた際に“ここから1ミリも東にNATOが勢力を広げてはいけない”と発言しました。ところが、NATOはそれを無視してどんどん勢力拡大を続け、今やロシアの玄関先にまで迫っています。

ヨーロッパの地図を眺めながら、NATO加盟国が年々拡大していった状態を見ると、自分がロシア側だったら、これはかなり嫌かもと思ってしまいます。プーチンもNATOの拡大に関して、ロシア存亡の危機だと何度も言っています。自分たちはあなた方の国境に迫っていないですよ、とあるインタビューでも語っていました。

一方NATO側からすれば、ロシアの脅威がある限り、拡大は仕方がないことなのだ!となるのかもしれません。しかし、ここでもポイントは、私たちは両方の言い分を公平に聞く耳を持っているか?ですね。

ちなみにアメリカ軍事国際関係の専門であるジョン・ミアシャイマー教授のシカゴ大学での授業は事実ベースでとても分かりやすいです。彼は、NATOの政策(西側の政策)の失敗が今回の戦争をもたらしたと主張しています。メディアでは取り上げられない一つの見方として参考になるかと思います。(ブログ末にリンク添付)

NATOの拡大や2014年のオレンジ革命、そして国内ナチスの影響など振り返れば、ハリウッド映画のようなウクライナ善、ロシア悪といった見方を超えた、今に至る要素はあちこちにあったでしょう。ジョン・ミアシャイマー教授の言葉を借りれば、西側はクマの目を突き続けてきたとのことです。

さて、私は市民だけではなく、兵士が負傷したり、死んでしまうのもものすご〜く嫌です。どちら側にしろ、私たちと同じ人間です。なので、やはりどちら側にも立ちたくないし、平和派で貫きたいと思うのです。

誰かを敵対視し、憎むことがなんの解決にもならないことは、人類は今までの歴史を通してよく知っているはずです。ところが、毎日同じ“ロシア悪報道”がされると、私たちの心の中に憎しみもどんどん刷り込まれてしまいます。

こうやって刷り込まれた結果、ジョン・ミアシャイマー教授のような西側にも落ち度はあったという見方は、今更とても受けつけられない雰囲気がバンバンにあります。今のイギリスでロシアにも言い分があると言ったら、非国民扱いされそうなぐらいです。

こうやってみると、人間のほんとうの敵は相手ではなく、憎しみと不理解、自分を振り返る能力の欠如かもしれません。

また、わたしたちにとって最も難しいことは、自分は正しいという思いから抜け出すことですね。もちろん自戒も込めてですが、自分が正しいと強く信じている限り、相手の言葉は耳に入ってこないものです。

ジョン・ミアシャイマー教授の戦争を終わらす提案の一つがウクライナの中立化です。ウイリアム・ウリーは、結局すべての戦争は最終的に交渉で終わるのだから、もう今交渉するべきであると主張しています。

しかしそれも、報道が一方だけ悪者にしている限り、なかなか実現は難しいでしょう。

一見話は飛びますが、コロナ禍では、例えばワクチンを打たない人を我がまま、非科学的、人種差別主義者とレッテル貼りをし、悪者扱いするのみで、どうして打ちたくないのかという理由に耳を傾ける姿勢はまったくありませんでした。

こういった分離と憎悪を煽るエネルギーがいわゆる権威者たちから発せられ続けられきましたが、今回の戦争報道も同じようなエネルギーの延長線上にある気がします。しかし一方で、分離感が強まれば、私たちの中にある本質のエネルギーのつながりたい、仲良くしたい、笑い合っていたいというエネルギーもより目覚めていくでしょう。

ということで、まずは自分から。自分の中に敵はいるだろうか? 自分の中に自分を嫌い、許していない部分がないだろうか? 自分が嫌っている部分の声に耳を傾けている?と振り返ってみたいなと思うのです。

というのも、自分への否定やヘイトが減っていくと、どれだけ報道が煽ったところで、自分が反応できなくなるからです。違和感がすごく出てくるはずです。

私たちの多くが報道にそのまま流されてしまうのは、やはり私たちが自分の中に恐れや自己嫌悪的な思いを無意識にいくつも抱えているからでしょう。

“戦争で最初に犠牲になるのは真実だ”(The first caualty of war is truth)という言葉があります。

自分が自分に耳を傾け、理解し、そして自分に正直でいれば、錯綜する情報や出来事の中でハートが真実に反応していくようになるでしょう。

報道や人から言われたことを鵜呑みにするよりも、自分の中でじっと感じて、そして自分はどうありたいか、自分の中のパワーに目覚めたいですね。


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◎ウイリアム・ウリー(William Ury)インタビュー
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愛に飢えて愛を拒否する

無力感や犠牲者意識のある意味すごいところは、他者の優しさや親切も“自分は不当に扱われている”と歪んで解釈してしまうことだなぁとつくづく思うのです。

例えば、無力感が強いと無意識に他者が自分によくしてくれること、自分が思うように動いてくれることをものすごく期待してしまうんですね。そうでないと自分は生き残れないので。そして、その期待が“してくれないと困る”に変化してしまい、助けてもらっても、その人の中ではやってくれて当たり前みたいに感じてしまいます。

しかも、助け方が自分が思うようなものと違うと、ここで犠牲者意識が顔をだし、私は分かってもらえていない、私は尊重されていない、お前は間違っているみたいな気持ちに満々になったりします。そして、相手に不満をぶつける。大人の場合、めっちゃ正論を持ち出してきます。

そして、これらぜ~~んぶ無意識です。

一方助けたほうは、時間を割いて手を差し伸べたり、または金銭的な援助をしたにもかかわらず、文句を言われたり、悪者扱いをされてしまったりするわけです。そうなれば当然、もう関わらないという決心をしてしまうので、その人から離れて行ってしまいますよね。

私がいまでも時々思い出しては心の中で謝っている出来事があります。20代後半の頃、長時間労働の超安月給で家賃を払うといくらも手元に残らず、お金に苦労していたため、自分は会社と社会の犠牲者だと満々に思っていました。

そんなとき、住んでいた建物が打ち壊されることになり、引っ越しを余儀なくされてしまいました。大家さんはきちんと立退料を払ってくれた(額は覚えていませんが、かなり良心的な額だったという記憶)のですが、そのとき、私はその好意を当たり前だと感じ、自分は立ち退きの犠牲者だと思い込んでしまいました。

ので、せっかく大家さんが自宅に呼んでくれて、相当な額を現金で渡してくれたのにもかかわらず、私はずっと仏頂面でいたのです。大家さんの良心(愛)を完全に無視した行為です。

こうやって、無力感や犠牲者意識は、愛を完全に見失い、マイナスな点だけがクローズアップされ、さらに犠牲者意識を膨らませていきます。

そんな状態はやはり生きづらくてたまらないので、セラピーを受けに行ったり、スピリチュアルにはまったり、または悟りを求めたりする人もいるでしょう。(またはネットで攻撃相手を見つけてぶつける)

ところが、この犠牲者の思いが強すぎて、セラピストやティーチャーにも同じような投影をしてしまいます。そこでまた絶望し・・・という苦しみのスパイラル。

また、普段感謝の心がいっぱいあって、愛を感じていたとしても、他者の言動や出来事によって、同じ負のスパイラルに陥ってしまうことは誰にでもあります。

特に私たちは自分が期待していたものと違う言動を相手がとると、えっ、なんで?、どうして分かってくれないの?どうしてそんなふうにするの?と、割と簡単に犠牲者意識に転げ落ちるものです。とくに、その期待が自分にとって大切なことだったりすると。相手は意外に良かれと思って行動しているかもしれないのに。

ちなみに、犠牲者意識を持ってはいけないとか、克服しなければいけないとか、そういう話ではまったくありません。自我にとってそれはほぼ無理です。そうではなく、犠牲者意識のしくみを知って、苦しくないほうへ自分を持っていきませんか?というお誘いです。

さて、相手の言動は100%相手に属しています。たとえ、どんなひどい言葉を自分に吐いてきたとしても、その言葉がその人の口から出たということは、相手のものですよね。

もし、今誰かに“お前の母さん、でべそ~”と言われても、不愉快だとは思いますが、犠牲者意識に陥ることはないでしょう。なぜなら、それは相手の問題だし、相手がそういう思いを持っていると分かるからです。

まったく同じように、“あなたは空気が読めなくて困る”と言われたとしても、それは相手の思いですよね。が、犠牲者意識は、それを“空気が読めないって言われた~~”と自分事、自分のものとして受け取ってしまうんです。

しかももし密かに“自分は空気が読めない”と思っていたとしたら、図星過ぎて痛くてたまらないでしょう。たちまち被害者意識が大発動です。

でも、しくみをきちんと理解していることで、被害者ストーリーに巻き込まれず、なぜそこに被害者意識があるのかを見ることができるんですね。

で、見て行くと、そこにはもれなく愛に飢えた思いがあって、その思いを理解し、受容してあげます。ので、癒しとは「奇跡のコース」が言うように、愛を防いでいるものを取ってあげることだとつくづく思うのです。

というのも、私たちは愛という大海の中にいつもいることが真実だから。

愛に飢え、愛を見失った犠牲者意識から愛へと目覚めて行くことも、一つの目覚めですね♪

 

 空と色のワンデーセミナー in 東京 

本質である私(空)と個である私(色・しき)について改めてガッツリ知ってみよう♪

詳細とお申込みは、下記のセミナー詳細をクリックしてご覧ください。

セミナー詳細はこちら

【日 程】
● 色(しき)のセミナー:2020年4月25日(土)10時半~16時半
自我のしくみを知ろう!(残席4名)

● 空(くう)のセミナー:2020年5月16日(土)10時半~16時半
(キャンセル待ち募集中)

【場 所】
早稲田奉仕園(地下鉄東西線早稲田駅)
https://www.hoshien.or.jp/map/

【参加費】
一つのみ参加の場合: 9,000円
両日とも参加の場合:16,000円

 

※コロナウイルスの影響が数週間前よりもだいぶ広まってきているようです。開催は春ですので、政府が集会一切禁止といった処置をとらない限り開催いたします。しかし、万が一開催できない場合は、それぞれ4回のオンラインセミナーに変更いたします。詳しくはお申込みの際に自動返信に掲載してあります。

それ、ストーリーです♪~苦しいものほど幻想~

こちらのブログ以外に「気づきのダンス」というブログも書いているのですが、だんだん二つを区別するのが難しくなってきた今日この頃です。

とはいえ、心の苦しみをマスターや非二元のティーチャーたちに訴えている人を見ると、真実が最終的に人を苦しみから解放するとしても、かなりの場合、悟りや非二元よりも癒しを目指したほうが早いなぁと思うのです。

苦しいということは、ものすごく簡単に言えば、歪んだ思考にはまっているということですね。そして、問題は自分の思考が歪んでいるとは微塵も感じられず、それが現実だと思ってしまっていることなんです。(みんなやっています。わたしもやっています)

例えば、“自分はずっと仕事もしていないし、家族の負担になっているだけで、まったく役に立っていない人間だ、そんな自分が生きていても価値があるのだろうか?”と毎日、悩み、苦しみ、鬱っぽくなっていたとします。

この人にとっては、仕事していないという思考もぜんぶが紛れもない事実なわけです。で、これを事実だとした上で考え方や見方を変えようと努力したり、「私はいない」というメッセージを利用して、役に立っていない自分なんて本当はいないから大丈夫♪みたいに思おうとしたりしてしまいます。

でも実はこれは、かなり無理があります。なぜなら、やっぱり自分の思考を信じているからです。

ところが、例えばバイロン・ケイティ風に、“自分はずっと仕事をしていないってほんと?”、“家族の負担になっているってほんと?”、“まったく役に立っていないってほんと?”とじっと思考を見て行くと、思考がいかに大雑把であって、また刷り込まれた思い込みまみれで、ありのままに対して物語を作っているだけかが見えてくるはずです。

ちなみに“自分はずっと仕事をしていないってほんと?”という問いに、“たまにはしていた・・・”とか、そういうことではありません。それでは、同じストーリー上にいるだけです。

ありのままに実際に起きていることは、“自分が家にいる、自分が食事を作っている、自分が・・・”という淡々と動きの連続が起きているだけです。

でもここで、「人は仕事するべきだ」「働かざるもの食うべからず」とか、社会全体の深い深い刷り込みがあるから、“仕事をしていない”というストーリーが生まれてくるわけです。そして苦しむ。

私が癒しのほうが早いというとき、セラピストさんがちちんぷいぷいと癒してくれるという意味ではなく、自分を徹底的に見つめたほうが早いということなんです。

仕事をしていないという思考を事実としたまま、マスターやティーチャーたちの言葉を聞いても、この歪んだ解釈が邪魔することはとってもありがちです。また、悟りや非二元に対しての思い込みもガッツリ持っていたりするものです。

なので、もし苦しみから抜け出すことが目的なのであれば、自分の内側を見て行く作業のほうが圧倒的に早く、効果的だろうなと自分自身の体験からも思うわけです。

ただ、難しいのは、潜在意識に抱えている思い込みの量のほうが圧倒的に多く、また自分の気づいていない思いに自分が気がつくこと自体が非常に難しいことです。

かつてイギリスでカウンセラーの資格を取るために、私は一年間に50セッションを受けたことがあります。必須課題だったので、仕方なく受けた始めたのですが、受けてみると、ものすごい思い込みの数々・・・・。

顕在意識(気づける思い)のレベルだけでも、そうとうな思考量と思い込みとストーリーがぐっちゃぐちゃにありました。(私はこれを思考の樹海と読んでいます)

これで思考の樹海はかなり整理されましたが、カウンセリングだけではなかなか潜在意識の深層までたどり着けません。ので、その後、いろいろなセラピーを学び、自分でも「気づきの問いかけ」を編み出し、かなり深い自分の心層まで行けるようになりました。

さて、今まで自分がまったく気づいていなかった部分を、私はよく「置き去りになった自分」と言ったりします。というのも、苦しみを生み出している部分は、必ず愛を求めているからです。

ずっと愛を求め続けて、まったく気づいてもらえず、抑圧されたままで、絶望や孤独に陥っている私です。

例えば、依存症や摂食障害といった症状も、たいていはこの「置き去りになった自分」の叫びが引き起こしています。

また、愛を求めているということは、言い換えれば自分否定があるということですね。自分否定が強ければ、自律神経も交感神経モードになりがちです。つまり、誰かが自分を攻撃する(批判する、責める、文句を言う、認めてくれない、排除する、などなど)という恐れと、だから自分を守る(人と会わない、心を開かない、などなど)というのが普通の状態になってしまったりします。つまり、生きづらいという状態です。

そして自己否定が強いほど、自分を見つめることにも大きな恐れが生じてきます。大っ嫌いな自分なんか見たくない、情けない自分なんか見たくない・・・・。

自分を見つめたくないとき、つまり内側に行きたくないとき、私たちは当然外に求めていきます。

すごいマスター、すごいメソッド、すごい何かで癒されないだろうか・・・・。

または、人生を自分の思い通りにすること、何かを得ること、環境を変えることなどなど。

でも、自分を見つめて分かってくるのは、ダメな自分とか情けない自分というものは単なる思い込みだったということです。決してダメな自分を良い自分にすることではくて。

さて、「仕事をしていない自分」に話を戻すと、この思いが苦しみを生み出しているのなら、そこには必ず「置き去りになった私」がいます。なぜなら、自分に価値があると思っていれば、仕事していない自分もぜんぜんOKです。お金が必要であれば、どう対処するか考えるだけですね。

問題=対処するものであって、問題=苦しいではありません。

ので、その置き去りにされた私と対話すること。

愛に飢えて孤独と絶望にいる部分に気づき、理解し、受容してあげること。このとき、はじめて握りしめていた「仕事をしていないダメな自分」というストーリーが崩壊して行くんです。

つまり、事実ではなくて幻想だったと“経験的に”分かるんです。癒しとは、事実が幻想として崩壊していくこと。

そして、崩壊した先にありのままの空間、私の本質である気づきの意識と出会うこと。

本質は思っているよりもうんと身近にありますね♪

 

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投影と思考の現実化は似て非なるもの

投影という言葉から「思考が現実化する」という話だと勘違いする人はけっこういらっしゃいます。でも、これらは基本的にぜんぜん違う話なんです。

とりあえず、思考が現実化するのかどうかと言えば、人はたいてい自分が考える通りに行動するので、行動すれば結果につながり、そういう意味では思いは現実化するでしょう。

ただ、私たちは表面的な思いより潜在意識の思い(無意識のビリーフ、価値観、思い込み)のほうにより沿って行動しています。ので、一見自分の思いとちぐはぐな結果を得ているように見えることはよくあります。

そこであなたの思いが現実化しているのですよ・・・というのは、ある意味有効です。

でも、自分の思いが目の前にある現象すべてを作り出していると思ってしまったら、そこは少し気を付けないといけません。

インテグレイテッド心理学では、事実と解釈に分けるエクササイズを必ずします。例えば、夫が家事を手伝わないという悩みがある人の場合、たいていはそれが事実だと思っているんですね。

ですが、実際に旦那さんが何をしているのか?とお聞きすると、例えば夫はリビングでテレビを観ている、だったりします。つまり、現象としては「夫がテレビを観ている」が起きているんです。

それを“家事を手伝わない”と解釈しているんですね。もちろん、自分は子育てでいっぱいいっぱいだ、または共稼ぎで自分も仕事で疲れている、などなどそう解釈する理由はあるでしょう。

現象自体は、「夫がリビングでテレビを観ている」ですが、自分の気持ちとして手伝って欲しいと思っているだけですよね。

まったく同じ現象に対して、夫は働きすぎだ、健康が心配だと思っていたら、手伝わないという解釈ではなく、今日は残業がなくて良かったという解釈になるかもしれません。

ポイントは、現象はそのときの自分の事情や思い込みでいかようにも解釈されるということです。

ので、思考が現実を作るという以前に私たちは、そもそも現実(現象)を自分の思い込みや事情を通して歪んでみてしまっていて、たいてありのままを見ていなんですね。

例えば、ぜんぜん嫌われていないのに、自分は嫌われていると思い込んでしまっている人など見かけたことはないでしょうか?

その人にしてみれば、嫌われているは現実なわけで、自分はAさんに嫌われるという現象を生み出したと思ってしまうかもしれません。そして、自分はAさんに嫌われているという現実を生きていると思い込む。

こんなふうに私たちが現実だと思っているものの99%ぐらいが自分の解釈です。いやいやもっと事実を正確に捉えているはずだと思った方は多いでしょう。でも、がっつり吟味してみるとほとんど自分の解釈だらけです。

なので、バイロン・ケイティのザ・ワークは、どんなテーマに対しても、“それはほんと?”という質問で始まります。それぐらい私たちは常に解釈しかしていないからです。

ちなみに事実と解釈を分けるエクササイズでも、最初は自分の解釈をどうしてもそれは事実だと言い張る人続出です。それぐらい私たちは自分の解釈(投影)の中に生きているんです。

ので、まずは自分の投影にワークをし、それは事実ではなく自分の思いだったと認識し、その思いが出来てしまう大元を見つけ、そもそもそういう解釈が出なくなるまで癒す。

そのとき初めて、自分の思いと事実の区別がはっきりできてきます。ありのままの事実が見えてくるんです。そして、たいてい事実は中立で平和です。

また例えば、妻と娘を交通事故で失った夫にそれはあなたの思考が生み出した現実です、とはとても言えないですよね。言えないだけではなくそもそも間違っています。

ある一つの現象は、そこには関わる人すべての思いや感情がタペストリーのように関わり合って生まれているはずです。

ティク・ナット・ハンの本の中に(どの本だったのか記憶にないのですが)、私たちが食べるパンはパン職人や小麦粉を作る人や小麦を育てる人が関わっていて、私たちはそういったつながりのなかに生きているというようなことが書かれていました。

パンを食べるというシンプルな現象にも大勢の人の思考が関わっているんです。思考だけでなく、様々な感情やパッションも。

私の人生もいろいろな人と関りを持ちながら、交響曲のように出来上がっていて、音楽のように常に流れ、変化しています。

さて、実はある意味ここからが本番です。

思考が現実を作るという場合、その前提が「分離した個が思考で現象を生み出す」になっています。私という分離した個の存在が自分の思考で現象を創り出すわけです。

でも、分離した個の存在というものが、そもそも実体のない幻想だとしたら?

また、自分は分離した個の存在であって、体と思いと感情の存在であると信じ込み続けることが、ほんとうに救いや幸せ、平和に行きつくのでしょうか?

それよりも、自分が分離した個であるという夢から覚めることが、真の平和につながるのでは?

あゆかを創造したのは、あゆかの思考ではなく、生命のエネルギー、本質である私(I AM)です。その無限の生命のエネルギーとして私は深く考え、深く感じ、愛をベースに生きているか? 自分の思考を見張るより、その問いを自分に投げかけていきたい。

そしてもし、真の平和を求めるのなら、自分の思考を見張るよりも、たぶん本質を知ることなのだろうと思うのです。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

今年からインテグレイテッド心理学は1年間のオンライン講座となります。

また、ノンデュアリティと癒しのカフェオンライン講座も予定しております。

詳細はまだ未定ですが、講座のご案内希望される方はこちらへ。↓

https://www.form-answer.com/applications/AEPPX

 

失敗しても、間違えても、幸せになれる道♪

今年を振り返ってみても、たくさん間違えました、失敗しました。

そして、たぶん来年も間違えるし、失敗するけど、でも同じだけ間違えても2倍以上良い年にするコツをシェアさせてください。

ヒントは“頑張るポイントをシフトする”。ということで、

例えば、

失敗する、
間違える、
勘違いする、
誤解して誰かを責めてしまう、
誰かを傷つけてしまう、
などなど、

私たちはこういうことをしてはいけません、と教わっていますよね。
確かに、人を傷つけるということはできるだけ避けたほうが良いに違いありません。

でも、私たちはどうしてもぜんぶやってしまうというのも事実です。特に誰かを傷つけるというのは分かりにくく、自分ではしていないつもりでも相手が傷ついてしまっていることはよくあることですね。

例えば、親子の場合でも、子供に良かれと思ってやった言動に子供が自分の気持ちを否定されたと感じて傷ついてしまう・・・など、どの家庭にもあるかなと思うんです。

何が言いたいかというと、私たちはどうしても間違えたり、失敗したり、気づかぬうちに誰かを傷つけたりをしてしまう、完ぺきな人間として人生を終わらす人はいないという事実にまず目覚めたほうが良いかもということなんです。

なので、間違えないように頑張るよりも、間違えたという事実を認めるように頑張る・・・のほうが建設的だなぁと思うんです。

“間違えることは悪いことです。人間失格です・・・・”、みたいに教育されてしまうと、自分が間違えたという事実を認めにくくなりますよね。

特にもともと自己価値が低ければ、自分が間違っているなんて絶対認めたくことです。ので、うすうすどこかで自分が違うのかも?と分かっていても、絶対相手が悪いことにし続けてしまうでしょう。

私も自分が嫌になるほど、年中間違えたり、失敗したり、誤解して誰かを悪く見てしまったりなどなどしています。後で分かって、もう手を合わせて謝るしかないみたいな。

で、昔は自分の間違いを認めるのが痛すぎて、速攻で蓋をしていたものです。ですが、今は潔く?速攻で認めちゃいます。でも、そのおかげでめちゃくちゃ楽になりました。

自我は間違えない人でいるこで自己価値が保てて、安泰だという勘違いをしてしまいますが、実際は間違いを認めることで真実が瞬足で味方になってくれるんです。

真実が味方になる・・・ということは、自動的に真実の持つゆるぎない力強さ、受容、平和が自分のものになるということですね。

ので、温かい懐に落ちたような楽さを感じます。

振り返ってみると、この自分が何かまずいことをしたという「罪悪感」は、いろいろな感情の中で最も向き合いにくいものかもしれません。

怒りや悲しみといった感情よりも、罪悪感はある意味自己否定に直結する分、とっても難しい。

でも、罪悪感を抑圧すると、ほぼもれなく罪悪感を感じさせる相手に嫌悪感を感じるようになり、相手をさらに攻撃し始めます。

例えば、離婚した人が実家に戻り、しばらく両親の世話になるという場合。離婚という失敗をした自分、親に迷惑をかけている自分という風に思ってしまった場合、その罪悪感に向き合いたくないから蓋をしてしまうと、逆に親を責めてしまう・・・みたいな。

で、そんな自分がまた嫌になり・・・という悪循環に陥っていく。

でも、もし“自分は自分の人生をうまくやっていけなかった”(←もちろん、これも思い込みで、離婚は失敗ではありませんが)と心から受け止めてしまえば、とりあえず悪循環は終わります。

そして、自分を許してあげるんです。これも心から。許しているフリではなく。

よく罪悪感をなくしてしまうと、また同じことをしてしまうのではないか、他者に対して傍若無人になってしまうのではないか?とおっしゃる人がいます。

が、ポイントは、間違いを「認める」にあります。罪悪感をなくして、なかったことにするではないんです。

認めて、許して、罪悪感を手放す。悪循環を断ち切る。

間違いを素直に認めている人を攻撃するのは難しい、というより、助けてあげようかなぐらいに人はなるものですよね。だから、みんなが優しくなれる。

ということで、年末の大盤ぶるまい、

あなたの(私の)間違い、
勘違い、
誤解、
無知、
理解不足、
他者への批判、攻撃
知らずに傷つけてしまったこと

ぜんぶ、まとめて認めちゃいます!
そして、ぜ~んぶまとめて許しちゃいます!

来年もきっとまた間違えるでしょう、失敗するでしょう。
でも、今度は心から認められるから、許せるから、
来年は真実ともっと近く歩めるはず。

真実の懐を感じながら、そのうち存在の温かい懐のほうが、
自分だったと気づくまで♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

本質の自分を年明けに一緒に本質を感じてみませんか?

お部屋変更しました 参加募集中

日程:2020年1月5日(日)13時半~16時
場所:あうるすぽっと(有楽町線東池袋)
https://www.owlspot.jp/access/
参加費:5000円

申し込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/9EKAF

安心したいなら自分を守るより大切なこと

悟りとか非二元とか聞くと、日常生活とはあまり関係ないことのように思えるかもしれません。が、やっぱり私たちの心の悩みから社会の歪みまでやっぱり密接に関係していると思うのです。

まず、多くの私たちは自分は個として存在している、自分と世界、自分とほかの人というように、自分とほかのものは分離していると強く感じているはずです。で、その世界観(幻想)の中で一番必要なものって何でしょう?

そう、まずは安心安全でいること。

振り返ってみれば、どうして好きでもない仕事を続けるのか?
どうして自分を押し殺してでても人に合わせるのか?
と考えてみれば、それはとりあえず食べていける安心、受け入れてもらえる安心があるからですよね。

その証拠にもし誰かに“あなたは自由ですよ。好きなように生きて行けるのです”と言われ、さぁ、自由の一歩を踏み出そうとすると、きっと恐れが湧いてくるはずです。

その恐れってなんでしょう?
失敗するかもしれない恐れ、
みんなに笑われる恐れ、
先が見えない恐れ、
自分には能力がないかもしれない恐れ、

人それぞれいろいろな恐れが湧いてくるでしょう。

そこでついとりあえず安心安全な「今の状態」にいたくなる。

実は脳科学の観点からも自律神経の観点からも人間(哺乳類)は、安心安全を求めるように出来上がっているんです。死ぬほど大雑把に書くと、危険だと感じたり、恐れを感じると、脳や自律神経が戦うか、逃げるか、またはフリーズするかというモードになります。

しかし、安心安全だと感じられると、社会迷走神経(詳しくはポリヴェーガル理論をご参照ください)になり、このとき脳も神経もバランスの取れた健全な働きをします。

つまり、単に精神論だけではなく、身体的にも私たちは恐れのほうへ向かうのを良しとしていないんです。ということで、心と体の両方が“安心安全でいたい”というのですから、自分の快適ゾーン(それが嫌な状態であっても)から踏み出すのは難しいですよね。

でも私たち(自我)が集団で勘違いしているのは、安心安全が分離した自分を守ることにあると思っていることです。

分離していて、しかも死がある(永遠の存在ではない)自我にとっては、食べて行けるという身体の生き残り、受け入れられているという精神の生き残りはとても大切です。(インテグレイテッド心理学で詳しくお話します)

自分の生き残りのために、自分を守っていく・・・・。ん?それのどこが悪いの? ある意味本能ですから、どこも悪くありません。

でも、“自分を守る”は、往々にして“自分、または自分の家族だけとりあえず良ければ・・・”という思いになりやすく、そしてそれはまた、“自分さえ良ければ”につながりやすいですね。

また、お金がある、パワーがある、権力がある・・・・などは、すべて生き残り率をうんと高めてくれると自我が思ってしまうものです。

しかし、もう一度脳科学と自律神経の話に戻ってみると、安心安全をいつ哺乳類が一番感じ、したがって、脳や神経が安心安全モードになるかというと、それは周囲とつながっていると感じるときなんです。

どんなに経済的な環境がそろっていても、どんなに良い子と周囲に思われていたとしても、親の愛を感じられなければ、子供の脳や神経は決して“安心安全”モードにはなりません。

つまり安心安全のキーワードは、“自分を守る”よりも“つながり”となります。そこで、一番最初につながりたいのが「自分自身」です。

私たちは毎日自分のことを考えているので、自分とはつながっていると思い込んでいるものです。

でも、自分の本心を知らないとき、私たちは自分とつながっていません。また、自分の感情に気がつかない、自分が疲れているかどうかも気がつかないとき、または、自分を責めたり、否定したり、自分にウソをついているとき、私たちは自分とつながっていませんね。

自分とのつながりを失えば失うほど、心も身体もバランスを崩し始め、そこから心の病やまたは身体の症状として現れてきます。

また、その状態で他者と交わるとか、社会の中で活躍するというのは、エネルギーが反対に向きすぎて難しいでしょう。

ということで、やっぱり自分との対話はとっても大切。自分の本心を知って、受け止めてあげること。自分の中の否定や批判、抑圧、抵抗をと対話して、紐解いてあげること。

そうするうちに人とのつながり、社会とのつながりが自然とできるようになりますね。人間も哺乳類で、基本的に群れて生きるように作られていると思うのです。なので、本来はつながっているのが自然な姿で、そこに安心安全を感じる生き物でしょう。

とはいえ、昔のように部落を作って住みましょうとか、大家族に戻りましょうとか(私は好きですけど)、そういうことを提案しているのでもありません。

人とのつながりを感じられるのは、理解、共感といったものです。それが広がった社会であれば、精神が前向きで、そして脳も活発に効果的に機能し、活力満ちた世界になるはず。

ひるがえって自己責任論は、つながりがなく、一人で頑張れ、一人で責任取れという脳や神経が緊張し、疲弊したり、フリーズしていく社会だと思うのです。

さ~て、ここまで書いて本当は一番書きたいことを我慢してきました。

それは、もちろん“私たちの本質”というもの。いきなり飛びます♪

自分の中に必ずある真の安心安全な場所。 “人生”を経験している誰かはいないということ。すべては神の夢(リーラ)であると知っている場所。

奇跡のコースの言葉を借りれば、“あなたは悪夢を見ているだけで、一度も暖かいベッドから離れたことはない”

本当はいつも安心安全♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

今日の記事とリンクしているセミナーをもっと細かくお話しさせて頂きます。

人の心が病むのはなぜだろう?
なぜ、被害妄想や強迫観念、パニック障害、依存症や鬱になるのだろう?

心の病はたまたまなるものではないはず。だとしたらどういうメカニズムでどのように健康状態から病の状態へ移行していくのだろうか?

心のしくみ、脳や自律神経の機能、悟りの真実の観点から。

2019年11月30日(土) 13時半~16時半
“治療効果が上がる心理セラピー”
OAD(オープン・アウェアネス・ダイアローグ)
無 料♪
医療法人むつみホスピタル
徳島県徳島市南矢三町3丁目11-23

詳細はこちら

癒しても癒しても終わらないワケ

☆今回はいきなり本質から入って、そして自我と癒しのお話♪

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本質を見過ごしている限り、癒しは永遠に終わらないだろう。

本質を見過ごしている限り、幸せはいつも桃源郷の中にあるだろう。

分離した自分がいるというものすごく精密かつ巧妙にできている幻想の中で、私たちは自分の癒し、自分の幸せを求める。

もちろん、ものすごくリアルな世界の中で心軽く、幸せに暮らすことも“ある期間”は可能だ。でも、生命の性質に従って、すべては移り変わり、生まれては消えていく。または、幸せが絶望に、絶望が幸せに移り変わっていく。

分離を信じている時点で、私たちは本質を見失っている。

自分がいると思っている時点で、私たちは本質を見失っている。

自分の人生が確実に存在していると感じている時点で、私たちは自分の本質を見失っている。

“私が悟るのだ”、“私が癒されるのだ”と思っている限り、その旅は永遠に終わらないだろう。

それよりも、その“私”が幻想であると目覚めたとき、私たちは本質の手の中に落ちていく。

でも、

“私”にはたくさんの大切なものがあって、それを手放すことはとうていできない。

私の愛する人、愛するもの、私のいきがい、私がこれまで積み上げてきた成果、私の夢・・・。

これらは、“私”のとても大切な宝物。私がいないなんてわかったら、これらはすべて霞の中に消えていってしまう。こんなに頑張ってきた私がいないなんて虚しすぎる。

こうやって、“私”は本質に目覚める幸せを願いながらも、自分の夢の中に戻っていく。本当は、本質が夢も生きがいもすべて与えてくれると知らずに。

夢の中で真の幸せは見いだせないと本当に分かるまで、“私”は何度も夢の中に戻っていく。

そして、それで良いのだろう。

植物が少しづつ芽を出すように、私たちの中の本質を呼ぶ声も少しづつ育っていくのだから。

だから、しばらくは夢の中から本質に憧れるのも良いのかもしれない。

本質をすっかり忘れ去って、夢の中の人生だけに囚われない限り♪

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ある程度、自分癒しをしていると必ずぶつかる壁が、“いつまで癒せば良いんだ、ワークしていると限りなく何か出てくる”、“前と比べるとずいぶん楽になったけど、コアの部分が変わっていない気がする”というものかもしれません。

これは私自身もずいぶん感じてきたことです。でも、自我がどう自我として存在しているのか?が見えてくればくるほど、癒しが終わるはずがないなということも分かるんです。

ということで、なぜ? なぜ終わらないの?

というのも、自我とはある意味、分離感をベースに存在している投影マシーンだからです。

もう少し説明しましょう。

分離感とは、「私と世界」、「私とあなた」、「私とそのほか」というように、私以外の何かが自分の外に存在します。

なので、必ず世界やあなた、そのほかのものを解釈せざるを得ません。

そして、自我とは、「思い」と「感情、感覚」、そして「体(分離の象徴)」で構成されていますね。

体が、私は分離している~と主張し、思いと感情が世界や他者を解釈していきます。ある自我は、世界は楽しいと解釈し(投影)、ある自我は世界は恐ろしい場所だと解釈(投影)します。

こう書くととてもシンプルですが、体がどれだけ緻密に出来上がっているか(体に関して解明できないこともまだたくさんあります)、また、思いや感情の体系がどれだけ複雑であるか、そして心と体のつながりなど、細胞の機能から心の微細な動きまでを考えてみれば、自我とは非常に優れた生命の創造物だと分かるでしょう。

AIなど足元にも及びません。

でも、この精密な投影マシーンは、その精密さゆえに自分が存在していると勘違いしてしまいます。当たり前です。名前だって与えられますから。

そして、自分癒しを始めると、ついこの精密な思考・感情体系と体がピカピカになって、癒すところがない状態になるはずと思ってしまう。

ところが、分離していることがベースになっている限り、どうしてもそこには恐れがあります。

そして、恐れがある限り、自我が思い描く(少なくとも私は思い描いていた)、いつも穏やかで楽しい私はどうしても実現しません。

分離とは言い換えれば、「飢えと恐れ」ですので、自分が分離していると思っている限り、これはどこまでもつきまといます。

じゃぁ、本質に一気に目覚めてしまえば、自我の苦しみぜんぶチャラになるんじゃない?と思われるかもしれません。

残念ながらこちらもノーなんです。(この点は長くなるので、違う機会でまた書いてみたいです)

空(気づきの意識)と色(自我)は、分けることができず、自我意識を完全に消すというのは、夢物語です。

自我意識がある限り、自我のなかにトラウマがあれば、それは強力に自我を夢に戻します。または大きな抑圧された飢えがあれば、いくら真実が見えていても、無意識に自分も人も傷つけてしまいがちです。

では、どうしたら良いのでしょう?

自分の中にある緊張した感覚、そこにあるストーリー、思い込みを見つめ、癒し、そして気づきの意識にくつろぐ。癒しと本質への目覚めの両輪でいくんです。

そのうち、癒されない苦しみでさえ、生命の表現として慈しむことができるようになるまで。そして、それはぜんぜん難しいことではない♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

自分の本質について、癒し、自我、人生についてのお話会です。

10月の会は満席となりました。

11月10日(日)、12月22日(日)も同じ場所、同じ時間で開催いたします。

次回案内ご希望のかたは申し込みフォームからどうぞ♪

日程:10月20日(日)13時~15時半(満席)

11月10日(日)10月上旬、募集開始予定
12月22日(日)11月上旬、募集開始予定

場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html

参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/F4TPE

あなたが本当に求めているもの♪

ものごころがつき始めたような小さな頃。

きっとみんなにあったと思う。うっすらと。

なんか違うところに自分がいるような、

なんか自分にはほんとうの場所があるような。

でも、人生はすでに始まっていて、自分はもうここにいるしかないという感覚。

微かだけど、何かを忘れてきた感覚。

そして、その何かこそがリアルなものであるような感覚。

成長するにつれ、私たちは“私の人生”にどんどんはまっていき、人生はリアル以上にリアルになり、小さい頃の感覚は遠い彼方にあたかも幻想のようになって消えていく。

でも、日常の忙しさの中で、人生の喧騒の中で、ふとそんな感覚が一瞬でもよみがえってくることがあるかもしれない。何か自分が大切なものを忘れている感覚。

癒しの真の目的は、その忘れてしまった本質をもう一度思い出していくことだろう。

人生の中で起きる不条理、愛する人との別れ、裏切り、ただ仕事をこなす日々・・・。自分はなぜなんのために生きているのだろう?

そんな思いが横切っても、答えなんかあるわけないと払拭して、スーパーの買い物袋に食品を詰めていく。

日常すぎる日常。

でも、ふとそんな瞬間があったとしたら、私は品物を詰めているあなたの横に立って“一緒に帰ろう”と言いたい。“どこへ?”とあなたは聞くかもしれない。

私は言うだろう。“あなたが私で、私があなたであったところへ”と。

そしてそれは、“いまここに、まさにいまここがその場所だよ”と。

この日常過ぎる日常の中で、あなたと一緒に微笑んで一緒に本質を思い出したい。

なんていったって、分離は幻想だから。

これはありきたりの真実♪ 荘厳なスピリチュアルでも、到達すべき悟りでもない。

そしてそれはあなたが一番心の底から求めているもの。いつもいつも。

分離から本質(愛)に目覚めることを。深いところで熱く恋焦がれるように。

それをあなたはずっと勘違いしてきた、自分の欲しいものはパートナーの愛だ、成功だ、お金だ、夢が実現することだ、いきがいを感じることだ・・・と。

違うよ。あなたが求めているものはぜんぜん違うもの。

私たちは私たちの夢を長く見過ぎた。もうそろそろ目覚めるころだって、本質が呼んでいる。

そう、幼い時、うっすらと自分は違う場所に来たように感じたあの感覚。

それは目覚めへの鍵♪

でもね、私たちは決して違う場所にきたのではなかった。人生にはまったのではなくて、分離という幻想にはまっただけだった。

だからあれは、真の自分を忘却の彼方に見失っていった感覚。

ほんとうは私は初めから正しい場所にいて、そう、私は常に本質とともにいた。

真の癒しとは、忘れた感覚をもう一度呼び覚まし、分離したと思った幼心を暖かく包みなおしてあげることだろう。

ケセラセラ、“私が大きくなったら可愛いくなれるの?お金持ちになれるの?”

幼い少女の胸は人生への期待と魅惑、そして不安でつまっていて、そしてその胸は大人になるにつれ、いくつもの傷を抱えてしまったかもしれない。

人生の裏切りが大きすぎて抱えきれず、倒れてしまったかもしれない。

だから、癒しとは人生を生きる中で身にまとっていたたくさんの苦しみのストーリーのベールを落としてあげること。

ストーリー(思いや感情)を改善するのではなくて、ストーリー(思いや感情)をはがして取っていく。

そして、人生に好奇心を抱いていた幼いあなたに戻っていくこと。

あなたの胸を温めてくれたたくさんの人やものごともあったことを思い出していくこと。

そして最後に、リアルだと思っていたものが幻想で、幻想だと思っているものが実体であると気づいて、あなたは微笑む。

あなたは私、私はあなた。

それがカミングホーム。私たちは100%祝福されている♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

久しぶりにリアルお話会を開催いたします。

自分の本質について、癒し、自我、人生についてのお話会です。

満席となりました。

キャンセル待ち&カフェ案内ご希望のかたは申し込みフォームからどうぞ♪

日程:10月20日(日)13時~15時半

場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html

参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/F4TPE

誤解されたと思ったとき・・・

ロンドン郊外の今日の気温はなんと18度。みんな頭が夏モードなので半そで来ているけど、寒そうに見える。

さて、今日のお題は「誤解」。何を隠そう、私は誤解されるのはすごく嫌なんです。たぶん、私だけではなく、きっと多くの人が自分が誤解された、誤解によって批判や否定をされたと思えば、その誤解を解きたくなるはずです。

とりあえず、私はすぐにどう誤解を解くか?と考えてしまいます。言い換えれば、防衛ですね。私は悪くないのだと証明して、自分を守りたい。

で、ただ誤解を解こうとするだけではなく、ついでに“そんな誤解するなんてアホじゃないか、お前こそ間違っている!”と怒りも湧いてきます。つまり、相手を攻撃したくなる。

例えば、“そんなことをするなんて、なんて卑怯な人間なのだ!”と言われたとして、自分は“えっ、そんなつもりじゃなくて、それはこういうことで・・・”とすご~く言いたくなるし、誤解だとわかっていても、腹が立つし、傷ついたりもします。

えっ、私のどこが卑怯なの?私は卑怯じゃない!あなたは間違っている!!みたいな。と、同時に、ひょっとして私って卑怯? そう思って振り返ってみると、確かに自分には卑怯なところもある。言われても仕方ないのか、でもなんかモヤモヤする・・・。

というわけのわからない感情と思考の樹海の中をいつの間にかさまよい歩いていたり・・・・。

もちろん、自分の思いや事実を説明することは、自分を大切にするという観点でしたほうが良いと思うのです。

でも、自分にも卑怯なところがあるし・・・とか思ってしまうと、それもどこまでして良いのか分からなくなるかもしれません。

また、もし相手に自分の思いを伝えたとしても、“なるほど、自分が間違っていました。ごめんなさい”と言ってくれる確率がどれぐらいあるかどうかも大変怪しい。

どちらかというと、相手に言い返される確率のほうが高いかも。そして、相手との行く先が見えない戦い?(対立、分離)がやはりモヤモヤと続く。

言わなくてもモヤモヤ、言ってもモヤモヤ。

どうしたらこのモヤモヤした樹海から抜けだすことができるのでしょうか?

ということで、誤解されたと思ったとき、心の中で何が起きているのか、少し見ていきませんか?

例えば、あなたは卑怯な人間だ!と言われとき、これはある意味、本当は黄色のジャケットを着ているのに、“なにその赤いジャケット?”と批判されたような気分になっているはずです。(この例え良いのだろうか?)

なので、“私は赤いジャケットなんか着ていない!これは黄色だ!”とすごく言いたくなるみたいな。でも、その訴えもむなしく、その人の中で赤いジャケットを着た自分が勝手に一人歩きしているような感覚・・・。

つまり、誤解を解かない限り、卑怯な私がある種の実体をもってきてしまうような落ち着かない感じ。人から押し付けられた自分像が自分自身よりも大きくなっていってしまうような恐れ。ほんとうの自分自身が間違った自分像に消されていくような感覚。

モヤモヤ、モヤモヤ。

このとき私たちを救ってくれるのは、もちろん、自分をきちんと見つめて、“私は黄色のジャケットを着ている”ときちんと事実確認をすることですね。つまり、私は私の真実をちゃんとわかっているということ。

これが私だ、私は真実を知っているから大丈夫。真実は必ず私を守ってくれるという原点に戻っていくことでしょう。

黄色のジャケットとは、自分の真実、自分のまっすぐな情熱、自分のビジョンです。そして、それを日々生きているということ。(黄色のジャケットを毎日着ているということ)

なので、相手に伝わらないとき、誤解が解けないと感じたき、最も大切なことは、自分がこれらを忘れないでいることだと思うのです。

そうすれば、押し付けられた自分像は自分の中で影響力を失っていくでしょう。

しかし、それがあやふやであれば、あなたは~~~な人です、と言われるたびに、私たちの心は右往左往してしまうはずです。

さて、自分の真実、情熱、ビジョンとは一言でいえば、その人なりのハートのことです。バラがバラになり、タンポポがタンポポになるように、その人が持っているもっともナチュラルでその人の中にある自分らしい開き方、その人なりの色、パッションです。

ところが、私たちはどちらかというと、ハートよりも自分像をベースに生きてしまっていることが多いものです。

例えば、自分は大した人間ではない、取るに足らない存在だといった自分像があった場合、その思いにふさわしい行動をし、その思いにふさわしい経験をしていきますよね。つまり、ハートよりも自分像のほうが人生を歩いているわけです。

でも、自分像というのは、よく見てみると、そこには思い込みと感情、そしてイメージがあるだけです。つまり、どれも実体のないものです。

しかし、本人にとってはそれは事実そのもので、それが現実だと思って真剣に生きてしまうわけです。もちろん、自分はそういう人間だと思い込むほどの環境や出来事があったからで、そう思ってしまうことが悪いわけではありません。

刷り込まれた思いに心の傷がたくさんついているほど、私たちはハートよりも自分像を生きてしまうでしょう。しかも、ハートを育てるよりも、ポジティブな自分像を作る(変わりたい、違う自分になりたい、良い自分になりたい)ほうに邁進しがちです。

でも、自分像を生きるとは、思い込みが一人歩きしているような状態です。なので、それがたとえポジティブなものでも、そのポジティブなイメージを守る必要がでてきます。

でも、もし思い込みではなくハートを一人歩きさせたら?

そのとききっと私たちはイメージという実体のないものを超えて、生命という確かなものが私たちを支えてくれるでしょう。

あっ、でも、癒しの順番として、まずはポジティブな自分像に落ち着くちというのは十分にありです。そしてそこからハートにシフトしていくのも良いですね♪

ハートというもっとも存在の真実に近い場所、強さと優しさの源、そこに何度も立ち返りたい。

誤解を解く戦いから自分を解放し、正気に戻れる場所、そして本当に自分でいられる場所♪

うっすら不幸感と炎上のしくみ

世の中を見まわして、なぜこんなに生きづらい人が多いのだろう?
なんか社会がギスギスしている感じがするのはなぜ?
なぜYouTubeのコメント欄にはびっくりするような誹謗中傷があったりするのか?
そして何よりも、私はなぜ幸せな感じ、平和な感じがしないのだろう?

と思ったりすることは、おそらく誰にでもあるでしょう。

ということで、いきなり悟りと非二元の世界に飛んじゃう。

非二元本である「奇跡のコース」には、「罪悪感」を癒す大切さが何度も出てきます。私たちの心の深層にある罪悪感を癒すことが本質への目覚めにつながると・・・。

ここでいう罪悪感とは、何か悪いことをしでかしてしまった罪意識というよりも、“何か自分には欠けているところがある”、“なんか自分はうまくやれていない”といった、自我の根底にある自己否定を指しています。

自分の本質である「純粋意識」、仏教でいう「空」という、分離もなく、身体や思いでもなく、そして時空もない、純粋意識な意識そのものである自分を忘れ、自分は分離した存在であるという勘違いをしたとたん、「全体でない、何かが欠けた分離している私感覚」が生まれます。

つまり、人生が何一つ始まる前に、この勘違いから生まれた罪悪感が私たちの中にすでにビルトインされているんです。

そして、生まれ育つ過程で、 “頑張らないといけない”(=今のままではダメ)と思わされたり、家庭環境が暴力に満ちていたり、または衣食住に欠けていたり、または学校でいじめに遭ったりなど、私たちの中にもともとビルトインされている「自分ダメ感、自分足りない感」がさらに強化されてしまいます。

このように大きくなってしまった罪悪感は、普段、うっすらとした不幸感や不満、または不安や恐れ、怒りといった形で表面に現れてきます。しかし、日常の忙しさの中で私たちはそれらの感情に気づくことはあまりありません。

たとえ気がついたとしてもどうしたら良いかわからず、せいぜい気をそらす何かを見つけるぐらいです。

ですが、この私たちの中にある未処理の罪悪感は、必ず外に向かい、攻撃する相手を見つけ出そうとします。(もちろん無意識)

なぜなら、誰か、または何かを攻撃することで自分が正当化され、自分が悪いのではないと落ち着けると無意識に思うからです。こうして無意識下で、常に「攻撃レーダー」が作動し始めます。

そしてまずは、一番身近な人がターゲットになります。ので、夫や妻、子供など家族が犠牲になること多しです。(たいていはお互いに攻撃し合う)相手の言動のいろいろなことが気に食わない、腹が立つ、許せない、おかしい・・・と、心の中が戦争状態になります。

ですが、家庭内での戦争に勝てなかった場合、くすぶりはさらに増えていきます。すると次に犠牲になるのが、職場の人々や近所の人など次に身近な人たちですね。または始めから、家庭と会社の両方で同時に戦っている人もとっても多いです。

しかし、なかなかそこも勝てる場所ではありません。そんなとき、誰か芸能人のスキャンダルでも起きれば、よっしゃ~!と罪悪感は勇んでコンピューターに向かい、自分が会ったこともない人を攻撃します。

つまり、炎上とは罪悪感のはけ口とも言えますね。どこかに吐き出さないと苦しい。心が平和で幸せな人にとってはそんなことをするほうが疲れるはず。

または特定のグループや民族を常に敵対視することもありますね。自分自身はその人たちから直接にはなんの被害も受けていないのですが。

しかし、罪悪感は自分が直接にはまったく何も被害を受けていないという事実はまったく無視し、他の罪悪感と呼応し合います。集団化してしまうんです。

グループの中で誰か一人がほかのメンバーを批判し始めると、他の人も一緒に乗って一人を攻撃するとか、大人の世界でもありますよね。

さて、でも残念ながら、どんなに自分の考えが正当に見えて、どんなに相手を攻撃したところで、私たちの心はまったくスッキリしません。なので、攻撃が終わらないし、罪悪感はうろうろとさまよい続け、不幸感はやっぱり残ります。

ということで、ほんと~にスッキリして心が平和でいるにはどうしたら良いのか?

そうです。皆さんもお分かりのように内なる罪悪感を癒すことです。

ここで難しいのは、相手や社会や状況を長い間批判してきたことで、自分の中に正論や怒りもしっかり育ってしまっていることです。

なのでまずは、正論の後ろに隠れている声、怒りを癒してあげることが必要なんですね。“なんで話聞いてくれないのよ~”、“私をバカにするな!見下すな!”、“いい加減にしろ!甘えんな!”といったような声です。

そして、それらの声の下にあるのが、“私を受け入れてほしい”、“私を認めてほしい”、“私も助けが欲しい”といったような声。

そしてそのさらに下にある声が、“私はそもそも受け入れてもらえない人間だ”、“誰も私のことなんか重要視しない”、“助けてくれる人なんていない”というような声。

そしてその下に(場合にはよってはもっと下に)やっと罪悪感の声があります。“私は存在自体が迷惑”、“私は透明人間”、“私は天から見放された存在だ”・・・。

そもそもこの声が生まれた理由には、その人特有のストーリーがそこにあります。それを丁寧に癒してあげたとき、そこから生まれていたいくつもの思いや感情も一緒に癒されていくんです。

どんな汚い言葉、キツイ言葉、乱暴な言葉が表面上に発せられていようが、最終的に傷ついた子供の声にたどり着くんですね。

もし、みんなが自分の中の罪悪感を見つめて、傷ついた子供の声を癒してあげることができたら、世の中はもっと生きやすくなるだろうと思うのです。

そして、さらに言えば、もし私たちが自分の本質を思い出すことができたら・・・・。ということで、最後にまた非二元に飛びます。

「本質の私」に立ち戻れば、どんなにリアルな思いも感情も最終的にすべて実体のないものです。移り変わりものはすべて基本的には存在しておらず、究極的には何も起きていません。(空)

あなたは悪夢を見ているだけで、ほんとうは暖かいベッドの中にいつもいるのだよと、「奇跡のコース」がいうように、自分を傷つけた相手も、傷ついた自分というのも存在せず、私たちは本質的に大丈夫なんです。

ということで、幻想とはいえ、「ユニークな個である自分」の大切な人生を時々本質に立ち戻りながら自分を表現していけると良いですね♪