誤解されたと思ったとき・・・

ロンドン郊外の今日の気温はなんと18度。みんな頭が夏モードなので半そで来ているけど、寒そうに見える。

さて、今日のお題は「誤解」。何を隠そう、私は誤解されるのはすごく嫌なんです。たぶん、私だけではなく、きっと多くの人が自分が誤解された、誤解によって批判や否定をされたと思えば、その誤解を解きたくなるはずです。

とりあえず、私はすぐにどう誤解を解くか?と考えてしまいます。言い換えれば、防衛ですね。私は悪くないのだと証明して、自分を守りたい。

で、ただ誤解を解こうとするだけではなく、ついでに“そんな誤解するなんてアホじゃないか、お前こそ間違っている!”と怒りも湧いてきます。つまり、相手を攻撃したくなる。

例えば、“そんなことをするなんて、なんて卑怯な人間なのだ!”と言われたとして、自分は“えっ、そんなつもりじゃなくて、それはこういうことで・・・”とすご~く言いたくなるし、誤解だとわかっていても、腹が立つし、傷ついたりもします。

えっ、私のどこが卑怯なの?私は卑怯じゃない!あなたは間違っている!!みたいな。と、同時に、ひょっとして私って卑怯? そう思って振り返ってみると、確かに自分には卑怯なところもある。言われても仕方ないのか、でもなんかモヤモヤする・・・。

というわけのわからない感情と思考の樹海の中をいつの間にかさまよい歩いていたり・・・・。

もちろん、自分の思いや事実を説明することは、自分を大切にするという観点でしたほうが良いと思うのです。

でも、自分にも卑怯なところがあるし・・・とか思ってしまうと、それもどこまでして良いのか分からなくなるかもしれません。

また、もし相手に自分の思いを伝えたとしても、“なるほど、自分が間違っていました。ごめんなさい”と言ってくれる確率がどれぐらいあるかどうかも大変怪しい。

どちらかというと、相手に言い返される確率のほうが高いかも。そして、相手との行く先が見えない戦い?(対立、分離)がやはりモヤモヤと続く。

言わなくてもモヤモヤ、言ってもモヤモヤ。

どうしたらこのモヤモヤした樹海から抜けだすことができるのでしょうか?

ということで、誤解されたと思ったとき、心の中で何が起きているのか、少し見ていきませんか?

例えば、あなたは卑怯な人間だ!と言われとき、これはある意味、本当は黄色のジャケットを着ているのに、“なにその赤いジャケット?”と批判されたような気分になっているはずです。(この例え良いのだろうか?)

なので、“私は赤いジャケットなんか着ていない!これは黄色だ!”とすごく言いたくなるみたいな。でも、その訴えもむなしく、その人の中で赤いジャケットを着た自分が勝手に一人歩きしているような感覚・・・。

つまり、誤解を解かない限り、卑怯な私がある種の実体をもってきてしまうような落ち着かない感じ。人から押し付けられた自分像が自分自身よりも大きくなっていってしまうような恐れ。ほんとうの自分自身が間違った自分像に消されていくような感覚。

モヤモヤ、モヤモヤ。

このとき私たちを救ってくれるのは、もちろん、自分をきちんと見つめて、“私は黄色のジャケットを着ている”ときちんと事実確認をすることですね。つまり、私は私の真実をちゃんとわかっているということ。

これが私だ、私は真実を知っているから大丈夫。真実は必ず私を守ってくれるという原点に戻っていくことでしょう。

黄色のジャケットとは、自分の真実、自分のまっすぐな情熱、自分のビジョンです。そして、それを日々生きているということ。(黄色のジャケットを毎日着ているということ)

なので、相手に伝わらないとき、誤解が解けないと感じたき、最も大切なことは、自分がこれらを忘れないでいることだと思うのです。

そうすれば、押し付けられた自分像は自分の中で影響力を失っていくでしょう。

しかし、それがあやふやであれば、あなたは~~~な人です、と言われるたびに、私たちの心は右往左往してしまうはずです。

さて、自分の真実、情熱、ビジョンとは一言でいえば、その人なりのハートのことです。バラがバラになり、タンポポがタンポポになるように、その人が持っているもっともナチュラルでその人の中にある自分らしい開き方、その人なりの色、パッションです。

ところが、私たちはどちらかというと、ハートよりも自分像をベースに生きてしまっていることが多いものです。

例えば、自分は大した人間ではない、取るに足らない存在だといった自分像があった場合、その思いにふさわしい行動をし、その思いにふさわしい経験をしていきますよね。つまり、ハートよりも自分像のほうが人生を歩いているわけです。

でも、自分像というのは、よく見てみると、そこには思い込みと感情、そしてイメージがあるだけです。つまり、どれも実体のないものです。

しかし、本人にとってはそれは事実そのもので、それが現実だと思って真剣に生きてしまうわけです。もちろん、自分はそういう人間だと思い込むほどの環境や出来事があったからで、そう思ってしまうことが悪いわけではありません。

刷り込まれた思いに心の傷がたくさんついているほど、私たちはハートよりも自分像を生きてしまうでしょう。しかも、ハートを育てるよりも、ポジティブな自分像を作る(変わりたい、違う自分になりたい、良い自分になりたい)ほうに邁進しがちです。

でも、自分像を生きるとは、思い込みが一人歩きしているような状態です。なので、それがたとえポジティブなものでも、そのポジティブなイメージを守る必要がでてきます。

でも、もし思い込みではなくハートを一人歩きさせたら?

そのとききっと私たちはイメージという実体のないものを超えて、生命という確かなものが私たちを支えてくれるでしょう。

あっ、でも、癒しの順番として、まずはポジティブな自分像に落ち着くちというのは十分にありです。そしてそこからハートにシフトしていくのも良いですね♪

ハートというもっとも存在の真実に近い場所、強さと優しさの源、そこに何度も立ち返りたい。

誤解を解く戦いから自分を解放し、正気に戻れる場所、そして本当に自分でいられる場所♪