悟りよもや話

悟りというと、瞑想とかヨガの修行とか、またはチャクラの浄化とかカルマの解放とか、何かをして悟るというイメージを持つ人も多いかもしれません。

そういう意味では、私の場合、それはやはり「セラピー」だったといっても決して過言ではありません。

とはいえ、悟りのマスターの中には、セラピーをやっても悟れないよ~という話をする人もそれなりにいます。なぜなら、セラピーは「私のストーリー」を改善することが目的で、「実は私はいない」という流れにならないからです。

ただ、私が当時からある意味不思議だったことは、カウンセリングの授業で学ぶ心理学よりも、悟りのマスターが話すエゴのしくみのほうが、よっぽど自分にも、そして実際のカウンセリングの場でも役に立ったことでした。

ですので、奇跡のコースやバイロン・ケイティ、エックハルト・トーレといった人たちの本は、ものすごく参考になりました。ちなみに、インテグレイテッド心理学はそうやって生まれた心理学です。

しかし、今になってみれば、自我の目線で自我の働きを知ろうとするよりも、気づきの意識の視点から自我を眺めた方がよっぽど分かるなぁということが分かります。

さて、当時もう一つ疑問だったことが、バイロン・ケイティにしても、エックハルト・トーレにしても、鬱のどん底でいきなりある日悟ったということでした。

当時はたまたま運が良い宝くじに当たったような人たち・・・みたいに考えていましたが、今ではその理由も分かる気がします。

というのも自我の死は、本当の自分である「気づきの意識」の誕生だからです。もう少し説明させてください。

彼らの自伝を読むと、バイロン・ケイティは鬱の症状がひどかったときに、自己価値も地に落ちるだけ落ち、自分はベッドに寝る価値もないと思い込み、床に寝ていたそうです。エックハルト・トーレもベッドから何週間も起き上がることもできなかったそうです。

では、突然一体何が起きたのでしょうか?

これは私の説ですが、自信はそれなりにあります。自我があまりに自分自身を保つのに苦しくなってしまったとき、自分を相手にしていることがもはや大変すぎて、精神的に自分を完全に放棄してしまう・・・ということが十分あり得ます。つまり、それは「自我の死で」す。

自我が死んだとき、そこに残るのは「気づきの意識」だけしかありません。つまり悟りです。

念のため自我の死であって、肉体の死ではありません。

ちなみに、私は生まれる直前の記憶もあり、また臨死体験もしていますので、体を持っていない時も意識がしっかりあったことを経験しています。ですので、自殺(肉体の死)が苦しみの終焉にならないことは明らかだと思っています。

また話を戻して、ただこの「自我の死」は意識的に行うことはかなり難しいでしょう。自分をなくそうとする自分がいるので、その自分がいる限り、自分をなくせない・・・というサイクルに陥っていまいます。なので、これを意識的にやろうとすると、単に自分をあきらめた自分がいるだけになりがちでしょう。

さて、このように鬱のどん底から目覚める人もいれば、ガンガジのような方もいます。

ガンガジなどは、幼少時代の家庭環境のためにいろいろ深く悩むことが多く、スピリチュアルな道に入ったものの、最終的には心から愛する夫とかわいい娘、平均以上の経済的余裕を手に入れました。ところが、私はまだなにか欠けている感覚がある・・・ということで、心から自由になりたいとパパジのもとを訪れたのです。

つまり、死ぬほど辛くなっても、すべてを手に入れても、自我が求める行先は最終的に同じなんですね。でも同じなら、ガンガジルートがいいなと思う人は多いかもしれません。(笑)

ここで話がやっと最初に戻って、私の場合、苦しみのどん底というような辛さもなく、すべてを手に入れた感もなく、そういう意味で中途半端な状態だったと思います。

ただ、最初は楽になりたくて、途中からは「自分を見つめる」のが趣味になり、思い込みを解放し(←悟り用語では“心の浄化”)、過去生も含めた感情や思いを癒し(悟り用語では、“カルマの解消”)・・・とセラピーでせっせと自己ワークを何年もやっていました。

で、知らなかったのですが、これは「プログレッシブ・パス」というものだったのです。

ラマナ・マハルシ(インドの悟りのマスター)から、西欧ではジーン・クライン、フランシス・ルシール、そして私の先生であるルパート・スパイラと「ダイレクト・パス」という流れがあります。

「ダイレクト・パス」は、本当の自分は何か?を直接体験を通して理解し、それがしっかり分かった後に自我意識に戻されてしまう思いや感情を見つめ、解放していくというものです。

一方、「プログレッシブパス」は、自分を見つめ、心を浄化し、カルマを解放して・・・などなどを行い、ようやくマスターから本当の自分とは?という教えをもらう、という道筋です。こちらのほうが一般的に多く、インドではグルを囲んだコミュニティがいくつもできました。

ですので今でも多くの人が、悟りというと何かをして到達するもの、というイメージを持っているでしょう。自分は欠けている、不完全だと信じている自我にとってはある意味分かりやすい話です。

いずれのパスにせよ、共通点はどちらも自分の経験を深く見つめるということです。

自分を見つめずに、悟りのテクニックや理解に走ってしまった人々にもそれなりに会いますが、自分の思考を観察しきれていないため、逆に自分の「悟り論」に振り回されているなぁと思います。

自我の死が、本当の自分の誕生であれば、自我が心の底から求めていることは、自分の死であるという、それはまるでせつないドラマのような話かもしれません。

しかし、実は自我というものも存在しておらず、自我の死とは、言ってみれば個としての自分がいるという思い込みの解放です。

根深い、根深い思い込みですが、それが見抜けたら、人生に深刻になる無意味さに笑がこみあげてくるかもしれません。または、主体なしに経験だけがあるミステリーに圧倒されたり、またはずっと昔からよく知っていたなつかしい感覚に包まれるかもしれません♪

いずれにせよ、個から全体への大きなシフトです☆

明日から3日間、EFTの講座でお会いする皆様、とても楽しみにしております!

お知らせ

☆☆☆☆☆☆ 次世代癒しのシンポジウム開催! ☆☆☆☆☆☆

2014年11月30日(日)

4つの次世代癒しのツールについて
物質から波動へ
分離から統合の治療へ
エネルギー、ストレス、ビリーフから健康を考える

☆☆☆☆「悟り(非二元)について語ろう」in 名古屋☆☆☆☆
2014年1221日(日)13151650