インテグレイテッド心理学

本日よりインテグレイテッド心理学講座の募集を開始いたしました~!(と昨晩書いて、今朝見たら、全講座すでに満席となっていました。ありがとうございます!)

心理学というと、普通は学問を指すわけですが、インテグレイテッド心理学は心理学といいながら、まったく学問ではありません。私自身はアカデミズムもそれなりに好きなので、心理学系、哲学系の本なども昔はよく読んだものです。

ただ、このブログにも何度も書いておりますが、今まで何千というセッションをしてきた経験上、理論や分析がまったく役に立たないことはもう心底身にしみております。

で、私が密かに疑問を抱いているのは、過去の著名な心理学者たちは、自分自身の心の深いところをどれぐらい分かっていただろうか?ということです。

大学で心理学を教えている教授も、自分の心の深いところにどんな思いや感情があるのか知っているかな? 心療内科や精神科の先生はどうだろう?

聞いたことがないのでもちろん分かりませんが、もし、これらの専門家が自分自身の心の中にある闇、抑圧された思いや感情、それらがどう自分のものの見方、感じ方に影響しているのかが分かっていれば、もう少し世の中には楽になっている人が増えているはずではないか?と思ってしまうのです。

かつて私自身、自分と向き合おうと思ったとき、“嫌なことを思い出さなければいけない”、 “惨めな自分を見たくない”、“自分が思っている以上に私はダメかもしれない”・・などといった思いがわんさか沸いて、決心したのに半年以上始められませんでした。

しかし、なんとか重い腰をあげて、いやいや向き合ったとき、そこにあったのは、置き去りにされた傷ついた自分とそこに付随している感情や思いがあるだけでした。

自分と向き合うとは、つまり、泣いている自分、忘れられた自分、心細い自分、一人ぼっちの自分・・・を救いに行ってあげることなんだとよ~く分かったのです。

これらの自分を“ネガティブな感情”、“ネガティブな思い”とさらに批判し、向き合うなんてとんでもない!と、抑圧してないふりをしていたから、苦しかったわけです。

で、抑圧されたものは必ず周囲に投影されますので、例えば人間関係であれば、あの人は私を軽く見ている、あの人は私を信頼していないなどと感じたり、人生のあれこれにふか~い投影をし、苦しみを強めていたのです。

そういう意味で、インテグレイテッド心理学は、私たちのこころのしくみ、そして心の深いところを見ていくものです。

そして、多くの人にできれば経験してもらいたいなぁと思うことは、自分の深いところを見ていけば行くほど、どんなネガティブな感情の下にも必ず愛があるということです。最後はそこにしか行き着かないんですね。

“すべては愛である”と頭でいくら理解してもまったく意味がありませんが、こうやって経験していくことで、自分の体験として分かってくるんです。

“愛ってなんですか?”という質問を頂くたびに、まずは自分の中にある愛を感じて欲しいと思うのです。それを幾度も経験すれば、だんだんそれは「私の中の愛」ではなく、ただある普遍の愛だと分かるはずだからです。

もちろん、これを実感しても、何かが起これば感情的に巻き込まれることもあるでしょう。しかし、大丈夫感がそれを支えてくれるので、回復力がまったく違います

さて、話を戻します。

インテグレイテッド心理学のもう一つの特徴は、ご存知の通り、悟り(非二元)をベースとしていることです。「奇跡のコース」に記述されていた自我の働きがあまりに目からウロコだったため、当初はほぼそのまま採用していました。(最近はだいぶ変化しました。)

そして何よりも私にとって大きかったことは、それによってセッションで結果を出せるようになったことです。一見当たり前のことですが、一人の人間が苦しい状態から楽になっていく過程をサポートするのはけっこうな仕事です。

かつて自分の勉強のためと思い、ロンドンにあるアルコール依存症回復センターでボランティアをしていたときがありました。しかし、そのときセッションルームで話される数々の悲惨なストーリーの前に、私は無力感に打ちひしがれていたんです。知識はいろいろあるけど、なにを聞いたら良いのかまったく分からなかったからです。

しかし、インテグレイテッド心理学を基に、まず自分の心を一年以上見つめたおかげで、セッションの効果が飛躍的にアップし、新規のクライアントさんを断るまでになりました。(長い話を超短くしています)

通常の心理学では、人を完全に「個」として扱います。個(分離)とは幻想であるという視点はほとんどありません。地球上の多くの人の世界観に反することは入らないんですね。

ところが、人間の根本的な苦しみはそこから始まるわけで、これを抜きに語るわけにはいかない!と心から思うのです。

また、自我(通常の私たち)が自我を観察することはかなり無理がありますが(自分が自分を見るのが一番難しいように)、自我の視点を離れたとき、つまり非二元の視点で自我を見たときに、もっと鮮明に自我の性質や働きがよ~く見えてきます。

なので、自我目線ではない悟りのティーチャーやメッセンジャーの話などは、非常に参考になりますね。(バイロン・ケイティ、エックハルト・トーレ、アジャシャンティなど)

ですがもちろん、この講座は悟りや目覚めを目指しているわけではありません、あくまでも私たちがどう楽に自然に生きていくか?がテーマです。

非二元とこころの癒しは、重なり合う部分もあれば、ベクトルが間逆に向いているときもあります。そういう意味で、両方を同時に語ることはほんと難しいなぁと感じることもしばしばあります。

でも、真実が癒しのベースになったとき、単純に傷ついた心を癒すだけではない、もっと深いレベルの癒しが実現できるでしょう。それは、深い深い夢から覚めていくことの始まりでもあり、埋もれていた真実の芽の誕生となるかもしれません♪

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心と身体のダイエット専門家の君崎綾子が講師を勤めます♪

非二元、心理学、そして癒し♪

偶然、同じような内容が書かれているコメントを同時に頂きました。ので、それについて書いてみようかと・・・。下記のコメントです。ありがとうございます!

1)私は心の癒しを何年かやってきて、かなりの変化があったのですが、途中で行き詰まってしまいました。コースをやっている方が「今までの二元のやり方は間違っていたんですよ」とおっしゃっていたのですが、それを聞いてショックでした。でも、そんなことはないのですね??「心理学は二元のやり方」と聞いたのですが、私は心理学が好きなんですよね(・-・;) 奇跡のコースをベースにしていれば、EFTやそのほかの心理療法なども真の癒しに繋がるということなのでしょうか・・?

2)心の病があるのですが、それはセラピーなどで治して良いのですね(二元?の世界の方法では病気は治らないとおっしゃる方も多いので)

実は、「二元のやり方」という言葉には初めて触れました。ので、解釈がぜんぜん間違っているかもしれませんが、勝手に書いていきます。えへへ。

で、もし、その二元的なやり方というのが、物質主義的な世界観に基づいているやり方という意味であれば、私もその考えに賛成かもです。

昨年、「次世代癒しのシンポジウム」というものを開催しましたが、心身の問題を肉体のレベルだけではなく、エネルギーのレベルでも見ていくことで、癒しが飛躍的にアップすると思っています。

心の病でも、原因が分からないにもかかわらず脳の問題として捉えているため、薬物療法しかないわけです。しかも、改善されるケースの方がまれで、ひどくなっている人も多いのが現状です。

しかし、もっとエネルギーの観点から見れば、今の医学では完全にスルーされている潜在意識(量子学的には、個人の意識をローカルフィールドと呼んでいます)に抑圧されている緊張、ネガティブな思い、感情などに光を当てられます。

そして、それがどう心身に影響を与えているのかをベースにしているのが、すっごく乱暴にまとめてしまうと「エネルギー医療」なんです。

なので、私自身は欧米では「エネルギー心理学」というカテゴリーにある、EFTやマトリックス・リインプリンティングが有効だと経験上とっても実感しています。

また、個人的には、通常の心理学に非二元的な要素が入ると、ぐっと深くなるし、変化も深いなぁと感じています。

つまり、大雑把にいえば、個人とは分離している実体のある存在であるという観点から心のしくみを見るのか、分離という幻想に陥っている実体無き存在という観点から見るのかという違いです。

後者の観点から心のしくみを見たほうがいろいろな意味で腑に落ちます。

そして、驚く方も多いかもしれませんが、カウンセリングとセラピーは基本的に別業界です。カウンセラーさんはあまりセラピーを使いませんし、セラピストさんはあまりカウンセリングをやらないという傾向があります。

しかし、明らかに二つを組み合させたほうが有効であって、どうしていまだに両方を同時に教えるコースがないのか不思議でたまりません。

ので、私の方程式(笑)は、

カウンセリング×セラピー×心理学×非二元=深い変化と癒し

です。

ということで、宣伝になってしまいますが、インテグレイテッド心理学はそんな心理学なんです。

以前にも書きましたが、かつて学んだ伝統的な心理学があまりにも役に立たなかったため、奇跡のコースと現場の経験をベースにまとめていったものです。エゴの仕組みを簡潔に、かつ深く見ていくものとなっています。

奇跡のコースにある「抑圧→投影→攻撃→防衛」の自我のしくみなどは、ほんと~~~っに実際のセッションに役立ちします。なので、またの名を「現場主義心理学」とも呼び、しかも毎年進化しています。うふふ。

もちろん、すべての人に必ず効果がありますとは言えませんが(そんなものないし)、変化を遂げた人、楽になった人、症状から解放された人はたくさんおります。

実際、この仕事を長年やっているのも、やっぱり自分にもクライアントさんにも成果が出ているということがとても大きいんです。じゃないとつまらなすぎてとっくの昔に辞めているでしょう。

宣伝終わり。

で、真の癒しが何を意味するかにもよりますが、心の苦しみを癒すキーワードは、

◎自我のしくみ
◎潜在意識
◎身体
◎エネルギー
◎流れ

だと私は思っています。大雑把な流れとしてはこんな感じです。

自我のしくみをよく知ることで、自分の何をどう見つめていけば良いのかが分かる

潜在意識にある、自分がまったく気づいていなかったネガティブな思いや感情をカウンセリング(問いかけ)で見つけていく。

身体に働きかけるセラピーで、ネガティブな感情を解放する。心の問題であっても、身体に働きかけることはものすごく重要

停滞していたエネルギー(ネガティブな感情)が解放され、生命のエネルギー(愛)が流れ始める。

私としては、最後の「流れ」がとっても大きいと感じています。なぜなら、生命のエネルギーに抵抗(抑圧)することで苦しみが生まれ、反対にそれが流れることで発展、変容、癒しが起きるからです。

また、このエネルギーそのものは愛でもあるので、頑張らずとも自然に自己愛、そして普遍の愛を自分の中に取り戻せるからです♪

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存在の耐えられない軽さ~意味や目的を超えて~

雑誌「スター・ピープル」の“ノンデュアリティ特集”以来、私の中で遠慮がなくなってきました。ので、今回も自我のこころと非二元について♪ というか、これからずっとになりそう。

さて、「わたし業」というのは、素晴らしくもあるけど、本当に大変な仕事(?)でもありますね。

「わたし」というのは、生きていく上で、基本的に精神的な支えが必要です。つまり、生きる意味とか目的、生きがいとかいったものです。

それらがいらない、という話ではありません。生きがいや生きる目的が、自分に力を与えてくれるのなら、しっかり握っていてください。

でも、生きがいや生きる目的には、いつの間にかたくさんの「べき」がつき始めたりもしますね。

例えば私の生きがいは、“お客さんの笑顔を見ること”だとしたら、そのためには、私は~~すべき、こうあるべき、あの人たちも~~であるべき、などといった思いが募り、知らず知らずのうちにストレスで一杯になってくるかもしれません。

達成する努力に加えてストレスがたくさんつき始めると、楽しいのか、苦しいのか分からなくなってくる人もとても多いです。

それでも、とりあえず目的に向かっている間は良いのですが、結局達成されなかったり、またはそもそもいきがいが持てなかったり、見つからなかったりすると苦しみになりますね。

または、目的を見事に達成したときも、その興奮が冷めると虚無感に陥る人もそれなりにいます。なので、すぐに次の目標が必要です。

振り返れば、私が一番落ち込んだのも、人生の目的がまったく見えなくなったときでした。病気になったわけでも、家が焼けたわけでも、愛する人を失ったわけでもなく、なにも大したことが起きていないのに、なぜ自分がこんなに苦しいのか分からず、どうしようもありませんでした。

なので、もし当時の私が“すべては意味や目的もなく、ただ起きている”という非二元のメッセージを聞いたら、ものすごく落ち込んだと思います。

とりあえず、“人生に意味や目的などない”と聞いて、ワクワクする人はほとんどいないはずです。

なぜなのでしょう?

毎日ぷらぷら生きているのでも良いはずです。なぜ、私はあんなに苦しかったのでしょう?

生きる意味や目的とは、私たちの多くにとって「存在の理由」になります。~~のために生きていこう!というような自分を持続させる動機になるんです。

自分が、立ち止まらずに前に向かっていけるために。

基本的に「わたし」(自我)とは、実体のない現われては去っていく一つの現象です。

その実体のなさを自我(私たち)は深いところでうすうすよく分かっているのです。

なので、自分の存在理由がどうしても必要となるんです。

苦しんでいた当時、オーストラリア人の友人が「存在の耐えられない軽さ」という本に夢中になっていましたが、まさにタイトルの通り、自我は自分の実体のない軽さに耐えられないんです。

でも、生きている意味、生きる目的、生きがいなどが、自分が生きている証、存在の理由となり、安心感をくれるんです。存在に重みがつくんですね。

でも自我が本当に落ち込むのは、「私はいない」という非二元のメッセージかもしれません。

生きがいや人生の目的がないよりも、自分がそもそもいないのですから、目的さえも持ちようもないんです。意味を見出すことも、それこそ意味がないんです。

なので一瞥体験をした人や非二元の教えに深く触れている人の中で、虚無感を持つ人も少なくありません。

自我って、存在してもしなくてもけっこう大変・・・。

ただ「私はいない」と知って、虚無に陥るのは、まだ自分がいるからです。

このとき、自我がまったく気づいていないのは、幻想の自分も含めて、すべては生きる意味とか目的といったものをはるかに超えた、神秘的で無限の愛である生命にしっかり支えられているということなんです。

というより、そっちが本来の自分だということですね。そもそも、生まれたということ自体が夢だったんです。(不生不滅)

当時の私に、もし何か言えるなら、まずは “あなたのハートを信頼して大丈夫。もがくのを辞めれば、必ず勝手に沸いてくるパッションがあるから。”とういこと、

でも、もっと本当に言いたいことは、

“ここは本来、生きがいや目的を超えた世界で、あなたはその世界そのものだよ。”

ということです。

最終的に個人の夢、目的、意味、情熱が手放されたとき、「わたし」のかわりに全体(生命)が生き始めます。

そのとき、意味や目的を必要とするのは、狭い世界で不自由なのだと気づくでしょう。

意味や目的に縛られないとは、言い換えれば、100%未知だということです。

生命が次に何を起こすか、皆目検討もつかないんです。

でも、何も知らないということがどれだけ自由で安心か、それが見えてきたとき、世界は虚無ではなく、神秘で親密なところになるはずです♪

※すべて手放したほうが良いとか、何をしたほうが良いかという話をしているのではありませんので、響くものだけただ受け取って頂ければ嬉しく思います。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ご覧頂いた方も多いかと思いますが、地球ひろしさんのearth TVに出演しました♪

「すべては愛の中で起きている」

非二元は癒しのツールになるか?

前回、「非二元のメッセージを癒しのツールにしないように~」と書いたところ、数名の方から「なぜ?」というご質問を頂きました。ので、今回はそのお返事です。

ところが、書き出そうとしたら・・・・、このテーマはとても深い!ということに気づきました。

まず非二元とは、基本的に「日は東から昇る」、「地球は丸い」、「主体はない」というように、シンプルに真実を語っているだけのものです。

なので、そもそも自我がより良く生きていくためとか、苦しみを和らげるためにあるものではないんですね。

ただ、「地球は丸い」に比べると、「主体はいない」「すべてはあるがままに起きている」といったことは、自我の錯覚=苦しみに大きくかかわっているために、癒しと結びつきやすいですよね。

実際、アメリカとヨーロッパで年に一回開催されている「科学と非二元の国際会議」では、毎回セラピーと非二元についてはテーマの一つになります。→★

非二元が真に理解されれば、分離感や死の恐れから解放されるわけですから、ある意味究極の癒しともいえます。

ただ、それは非二元の真実が理解され、その副産物としてついてくるという感じです。

そんなふうに考えていると、このテーマで両者はうまく交わったり、まったく矛盾したり、一筋縄ではいきません。

とにかく「私はいない」という話と、「私を癒す」という話を同時にするわけですから。なので、この文章も矛盾をどうしてもはらみます。

とりあえず今回は、非二元のメッセージを理解するにあたって、陥りがちな自我の性質をいくつか書き出してみます。(ぜんぶではありません)

◎非二元を二元的な視点で理解する。

自我は、二元の世界観しか知りません。なので、例えば「いまここ」という言葉を聞くと、時間と空間的な視点で解釈してしまいがちです。つまり、過去、いま、未来のなかの「いま」であると理解してしまうなどです。(ちなみに、この点について詳しくはこちらをどうぞ→★

◎達成する目標にしてしまう。

自我は、何かをして結果を得る、目的に到達するという考え方、やり方が深く刷り込まれています。ですので、悟りも同じように考えて、エクササイズなどをして「いつか悟った私」という未来を想定してしまいがちです。それによって、いまここに充分にある真実を見過ごしがちです。

◎生きるための「考え方」として採用してしまう。

自我は不安ベースなので、常に生き方の指針を探しています。特に悟りなどは生き方の指針としてベストのツールとして捉えがちです。ですので、たとえば“すべてはただ起きているだけ”というメッセージで自分がどう生きるべきか・・などと考えてしまいがち。

とはいえ、メッセージや悟りの考えが今の自分を楽にしているのなら、それはぜひ採用してくださいね。(*^_^*)

◎非二元の理解で癒せないものがある

イギリスで参加した非二元のミーティングで、ある男性が幼少の頃のトラウマを涙ながらに話していました。ティーチャーは、“誰が苦しんでいるのか?”という質問をし、そして、その感情に寄り添うことを促していました。

そのティーチャーは今でも尊敬していますが、その点だけは譲れず、セラピストとしてこれは無理すぎると思いながら聞いていました。ある意味、非二元の理解で癌やエイズを治そうとしているようなものです。

話はそれますが、トラウマはトラウマとしてセラピーを使って癒したほうが良いと思います。

で、話を戻して、このように自我は非二元のメッセージを参考にしたり、理解したり、実行したりすることで、苦しみから抜け出し、より楽で幸せな人生を想定します。

通常はこのアプローチでまったく良いのですが、非二元の真実に限っては、この姿勢そのものが真実への理解を塞いでしまうのです。

私自身の話になりますが、私の場合、真実への探求はエゴの取引がなくなったとき、ほんとうに始まったと言えるかもしれません。

そのときに強く湧きあがった思いは、“一生不幸でもいいし、苦しみがあってもいいし、何一つ良いことがなくてもいいから、とにかく真実を知りたい”というものでした。

自我が何かメリットを見出しているうちは、本当に求めているのはメリットで、真実ではありません。

また、真実がしっかり顔を出したと感じたのは、まるごとすべてをあきらめたときでした。自らあきらめたというより、あきらめの感覚が強く沸き起こったという感じです。

そのとき、お腹のあたりから「私の意志」という固いエネルギーが抜けていきました。

こう書くと、簡単にそれは起きたかのように聞こえるかも知れませんが、途中にたくさんの気づきやシフト、プロセスがありました。

とにかく自分をどうにかしようとしているうちは、自我がどうしても頑張ってしまい、真実を塞いでしまいます。

また、悟りを追い求めるあまり、一番肝心な自分の内側を見つめていないので、なかなか楽にもなれません。なので、頑張っている割には、欲求不満や苦しみが増してしまうことも多いです。

じゃあ、どうしたら良いの?と思われるかもしれません。

ということで個人的な意見としては、あなたが今求めていることが楽になることであるなら、きちとんと自分の内側を見つめていくタイプのカウンセリングやセラピーの方が早道だと思います。

それをしつつ、非二元のメッセージにも耳を傾けることは、プラスになるかもしれません。

一方、とにかく私は真実を知りたい!という方は、隠れたメリットがないのか、自分が真に求めているものは何か?を一度明白にしてみてはいかがでしょうか?

あなたが心の深いところで求めているもの。それがあなたの導き手ですね♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

地球ひろしさんのearth-TVに6月20日(土)夜9時より出演します!
当日質問をしたい方は、アフリカTVの無料アカウントで入るか、FB、ツイッターでチャットに入れるそうです。
 

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ストーリーを超えて

「魂のケア」は心のしくみ、「気づきのダンス」は非二元(ノンデュアリティー)と一応分けていますが、限りなくグレーの記事もあり、今日もそんな感じです。

で、自我のお話。

基本的に自我(=普段の私たち)は、ストーリーを生きることしか知りません。しかも、自分は「分離」していると本気で信じ込んでいるわけですから、当然不安ベースのストーリーが多くなります。

分離している私が、なんとか死なずに食べていけて、そして周囲に受け入れられなければいけないという不安のストーリーです。

なので、私たちの人生は「食べていくこと」と「受け入れられること」に相当のエネルギーが費やされていることでしょう。仕事を見つけること、続けること、グループの中で受け入れられること、価値ある存在でいること、役に立つ人でいることなどなど。

で、ある日の私のストーリーはこんな感じ。

さあそろそろブログの記事をアップしたいと思い、PCの前に座ったけど、何も浮かんでこない。あきらめて、夕食の買い物へ出かけたけど、まったく浮かんでこない。な~~にも。まぁ、そういう日もあるだろうし、インスピレーションが沸くかもと近くの公園に散歩に出かける。でも、微塵も書きたいことが浮かんでこない。これは今までにないことだ。

今までにない、今までにないっ!・・・だんだん、自我が心配をし始める。

“やっぱり10年も毎週長い記事を書いていると、さすがに空っぽになるのかな”
“忙しすぎて、インプットする時間がないから自分が枯渇してきたかも”
“もうそろそろブログを辞める時期かもしれない”(←理由探しと結論探し)

その間、太陽はさんさんと輝き、風はさわやかに吹き、穏やかな日は続く。

“でも、ブログを辞めたら、私の仕事は行き詰ってしまう”(←断定口調)

ネタ探しにネットサーフィンをして、同業者のブログを誰かが絶賛しているのを読んでしまう。

“確かにあの人は爽やかで面白くて、しかも深いからなぁ。私にはそんな能力はないな。”

急に自分が地味でつまらない人間に見えてくる。(←比較大得意)

その間、太陽はさんさんと輝き、風はさわやかに吹き、穏やかな日は続く。

しかし、自我のドラマはまだ続く。

“私も少し見せ方を変えたほうが良いのかも。真面目すぎだろうか。もっとカジュアルで軽い感じのほうがいいのかもしれない。”(←ありのままの私はダメ話。)

“最近良い記事書く人が増えてきたし、私はもう古い世代なのかな。私のブログなんて必要ないのかも。”(←自己否定、自己憐憫、お決まりのコース)

と自分を卑下していたはずが、ストーリーはマッハの勢いでドラマチックに逆転する。

“どうしてみんな私の記事の良さを分かってくれないのだろう? すごく良いはずなのに、なぜだ!!”(←犠牲者意識、責任転嫁=投影)

その間、太陽はさんさんと輝き、風はさわやかに吹き、穏やかな日は続く。

さて、私にとってブログは大切な仕事の相棒と言って良いでしょう。ブログを通して仕事が発展し、ブログを通して素晴らしい人たちに出会ってきました。

なので、ブログの記事に書くことが思い浮かばないという些細なことが、食べていけない不安を刺激し、こう書くと恥ずかしくバカバカしいストーリーが展開されてしまうのです。

もし、私の中に「ありのままの私は何も提供するものがない」とか、「私は理解されない」といったビリーフがあったら、私はこのバカバカしいストーリーにもっとどっぷりつかってしまったことでしょう。

でもその間、朝は夜になり、空はその模様を刻々と変え、風は向きを変え、すべては静かに移り変わっていきます。

何が言いたいかというと、ドラマチックになっているのは私の頭の中だけということです。

その後、実際にブログのアクセス数が大幅に減ることがありました。これは、自我にしてみれば、自我のストーリーが正しい立派な証拠になるでしょう。

しかし、辻褄が合う=真実とは限らないのですね。というか、自我の辻褄合わせは、ほぼ偏っています。

ある意味思考のすごさは、何も起きていないところに真実味のあるストーリーを作れ、そしてまだ起きていない未来を断定してしまうことでしょう。

“私がもしこうしたら、きっとこうなるから、やっぱりやれない・・・・”などなど、何一つ起きていなくても、私たちの行動を完全にストップさせることもできます。

“娘は大丈夫だろうか、今頃困っていないだろうか・・・・”、“試験に落ちた私は、やっぱり頭が悪くて、将来に夢などない”、“なんでメールの返事が来ないのかな、私が書いたことがまずかったのだろうか・・・”、“この子は片親で将来ぐれたりしないだろうか・・・”、

始まりは些細なこと、またはトラウマ的な大きな出来事、それが何であれ、一つの事実からからあらゆる無数の仮想ストーリーが生まれます。そして、仮想ストーリーは証拠となりそうなものを取り込み、私たちの中で“事実”となっていくんですね。

ストーリーの信ぴょう性を一番高めているのは、実は潜在意識にあるビリーフと感情ですが、今回はその話は長くなるので省きます。

いずれにしても、ストーリーに嘘が多いほど、苦しみも増えます。

でも、グッドニュースは、ストーリーがない場所が常にあって、私たちはそれそのものだということです。

ということで、明日はインテグレイテッド心理学の中級です。ストーリーから抜け出すエクササイズやそのコツを皆さんにシェアさせていただきます。お会いするのをドキドキしながら楽しみにしております♪

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ハートサークルでは、東京表参道でショートセミナーを毎月開催しています。

4月のセミナーは、ジャン!

ストレスと食べ過ぎ~つい甘いものを食べてしまうあなたへ~

自らの体験からくる実際的な話とコツが聞けます。単に克服しただけではなく、スキルと知識もある心と身体のダイエット専門家君崎綾子が講師を務めます。ご都合のつく方はぜひいらしてください。皆様の参加費は、ハートサークルの活動資金として使わせて頂きます。(*^_^*)

世界は幻想~戦争や犯罪をどう捉えるの?

今回はコメントにお返事いたします♪ コメントをありがとうございます!

真剣に自分の中で疑問に感じていることがあります。物質的視点かもしれませんが、犯罪や戦争、国際関係はどう捉えるのでしょうか。国境があり、意識の違いがある限り、欲がある限り、戦争や分裂は地球上から無くならないと思うのですが、それをどう落とし込んで生きていけば良いのか分かりません。

自分のワクワク感だけに従い、社会や現実には無関心というか焦点を合わせないように、今ここの自分とは無関係だから忘れたかのように生きたら良いのでしょうか。「人生に起きてはいけないことも、あってはいけないものもない」ということは俯瞰で見れば、戦争も犯罪も起こり得るし魂にとってはいち経験にすぎないと捉え、同じ地球上で起こっていることもただ単純に、これが現実だ、もしくはこれは幻想だと抵抗せず受け入れるものなのでしょうか。物質次元での平和や安全を願うのもエゴで執着なのでしょうか。(長いので後半削除しました。)

真剣に疑問をぶつけていらっしゃる様子がとても好感が持てますね♪

ただ、この手の疑問にお返事するのは、実はとても難しいのです。なぜならこの疑問は、私と世界、現実と幻想、物質次元とそうでない次元といった対立思考の二元の視点と、非二元の知識がごっちゃまぜになっているからです。また、本当は「気づきのダンス」のブログのほうで取り上げたいテーマかな。

と、前置きをしておいて、非二元のメッセージで最も大切なものの一つは、「自己の不在」だと私は思っています。個の「私」というものは存在しないんです。なので「溝口あゆか」は、架空の存在です。存在しません。

変化するものは全て、幻想、夢です。なので戦争や犯罪などが幻想であると同様に、私も質問者の方も幻想です。存在しません。(二回書いてしまった。)

現象だけが幻想で、自分は実在であるという話ではないんです。つまり、自分という実在が、世界や出来事という幻想にどう関わるか?という話ではないんです。

ついてきてくださっているでしょうか?

とりあえず続けます。

こういった話をすると、今度は「自分が存在しないなら、自分の人生もどうでも良いじゃないか、人殺しをしたってどうせ幻想なのだから。」といったことを言いだす人もいます。

これに対してムージーという覚者は、「ええ、でもそれで、幻想の警察に捕まって、幻想の刑務所に入っても良ければね」と答えていました。はは。

話を戻します。

さて、世界で起きる現象も幻想で、私もあなたも幻想であるのなら、何が一体実在なのでしょうか?

一つの記事ですべてを丁寧に説明するのは不可能なので、結論を先に書いてしまうと、それは「気づきの意識(気づきの存在、真我、ワンネスなど)」ですね。

で、インドの古い経典(ウパニシャッド)に次の言葉があります。ブラフマンとはここでいう「気づきの意識」のことです。

『世界は幻想である。
ブラフマンのみが現実である。
そして、世界はブラフマンである。』
(The world is unreal; Brahman is real; the world is Brahman)

気づきの意識という唯一の現実からすべての幻想は生まれ、だから、世界は気づきの意識(現実)でもあるんです。

例えば、大海(唯一の現実)と波(幻想)を対立させて考えられないように、現実と幻想も分けて考えられないのです。波は一瞬一瞬その形を変えます。なので、ある一瞬の波の形だけを指して、存在した、その波が起きたと言えないんです。でも、波は確実にあるんです。

「ない」と「ある」が同時に真実であるというのは、二元的な発想の自我には、非常に分かりにくいでしょう。でも強引に続けます。

ブラフマン、気づきの意識、真我、ワンネスなど言葉はなんであれ、その本質は愛や平和ですね。そして「世界はブラフマンである」ということは、架空の溝口あゆか、ご質問者、この記事を読んでくださっている皆さん、すべての人の本質も、愛、そして平和なんです。

ですから、どんなにひねくれた人でも、また傷つきすぎて怒りに支配されている人でも、深いところでは愛を求め、そして、愛が一番大切だと分かっているんです。

さて、「起きることは起きる」

これは、好き嫌い、良い悪いに関わらず議論の余地がない事実です。

「人生に起きてはいけないことも、あってはいけないものもない」というのは、起きたことに、“なぜ起きたのだ”とか、“こんなこと起きるべきではない!”と思ってしまうと、心に苦しみを生みますね、という視点から書きました。

戦争も犯罪も、起きているという事実はきちんと受け入れざるを得ません。なので起きるべきではない!と嘆く代わりに、それに対して自分のハートが何を求めているかを探ってみてはいかがでしょうか?

出来事は受け入れるけど、自分のハートの声は無視するというのは、おかしな話になります。で、純粋に深く見つめていけば、必ず本質からの欲求が見えてくるはずです。

そしてそれは、真の自分である愛や平和、受容、自由といったものに違いないのです。

マザー・テレサが、戦争反対運動には賛同しないけど、平和運動には賛同するといったのは、きっとこんな思いからなのかもしれません。

非二元(悟り)の教えを理解するには、主体と客体、私と世界、物質と非物質といった二元の考えから抜け出す必要があるでしょう。

まっ、でもそれほど非二元を追求しなくても、世界の平和を心から願うのでなれば(ハート)、考えすぎず、ただその思いにシンプルに従い、行動するのが良いのかなと思います♪

ちなみにハートサークルもそんな思いから生まれました。(ハートとハートがつながって輪になる、という意味。)今年も地道に活動いたします♪

後悔は過去ではなくて“今”の否定

久しぶりにロンドン市内に出たら、観光客で人口が二倍ぐらい増えていました。イタリア人やドイツ人の子供たち(修学旅行団体)があちこちに。しばらく市内に出るのは辞めよう。

さて、思考はほんとうにあることないこと思いつく能力があります。それはうまく使えば、ファンタジー小説はもちろん、音楽やアート、科学などに創造性として大いに発揮されますね。しかし、一方で日常生活の中で私たちを“推測”や“後悔”の世界にも連れ込んでしまいます。

例えば推測の場合、

“すぐにメールの返事がない。きっと私の書いたことに腹を立てているのだ”
“~~さんは、最近仕事がうまくいっていて忙しそう。私のことなんか忘れているだろう”
“私の将来なんてどうせたいしたものではない”
“日本の社会はますます変な方向へ行っている”

そして、この推測からまた様々な思いが生まれ、ストーリーが作られていきます。

“~~さんは、最近仕事がうまくいっていて忙しそう。私のことなんか忘れているだろう。どうして私はいつも人に大切にされないのだろう。みんな私のことを誤解しているのだ。でも、私も変わらなくてはいけない・・・”

“日本の社会はますます変な方向へ行っている。どうなってしまうのだろう。とりあえず収入が確保される状態にしておかなければ。今の仕事も良いところもあるから、やっぱり続けたほうが良いかな・・・。”

これはすべて妄想に基づいたストーリーです。真実味がとても高いですが、ウソがあちこちに潜んでいます。

昔、エックハルト・トールの「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」を読んだときに、“わぁ、本当だ、私は妄想の世界の中に生きている!”と私はお腹の底から納得し、それが“思考を眺める”習慣のきっかけとなりました。

眺める習慣はついていったのですが、もちろん引き込まれる思考のほうが圧倒的に多く、一応眺めているけど、苦しい・・・といったことを繰り返していました。

とくに私にとって難しかったのは、“後悔”を引き起こす思考です。後悔は、過去の時点で違う選択ができたはずだという妄想です。もちろん、できなかったのですが、思考はできたはずだと言い張るんですね。

この思考が出てくると、眺めていたはずが、いつの間にかストーリーの中にどっぷり。どうするべきだったかというストーリー、そしてそうしていたら今頃どうなっていたかというストーリー、そして今そうでないことへの嘆き・・・・どっと疲れる、といった状態でした。

ということで、自己ワークをしたのです。思考ができたはずだ!と言い張る理由は人それぞれ違うかもしれません。

私の場合は、“私は間違った選択はしない人”→“私は人から信頼され、頼られる人”というセルフイメージがその原因でした。このせいで、自分が“間違った”選択をすることが許せなかったのです。そこで、人から信頼されないとどうなるの?と尋ねてみると、“発言権がなくなる”→“隅っこに追いやられる”→“存在の価値なし”というシナリオが見えてきました。

そこで、“人から信頼され、頼られる人”でいるために長年頑張ってきた自分に労をねぎらい、ありがとうと心から感謝してみたのです。そうしていくうちに、頑張った感じが緩みはじめ、“間違った”選択をする自分がいてもいいよね、という気持ちも自然と出てきました。)

もちろん、頭ではいつも正しい選択などできるわけないし、間違ってもいいじゃないかとか、そもそも正しいとか間違いってないよねと思っているのです。ところが深いところではぜんぜん違う思いを持っていることは、よくあるんですね。

そして、そちらの思いのほうが本音です。で、その思いがドンと自分の中にある限り、妄想を見破ることはなかなか難しいです。

例えば、ここでスピリチュアルや非二元のメッセージを持ち出すことももちろんできます。“物事に正しい、間違いというものはなく、エゴがレッテルを貼っているだけ”、“すべては移り変わる幻想であって、何も起きていない。だから自分を責める必要もない”“というか、自分はいないのだから責める人もいない”などです。

これが本当に見抜けていれば、ワークもセラピーも必要ありません。人生は深刻なものから、リーラ(遊戯)に変わります。しかし、これを思考の理解だけでやってしまうと、自我を支えるこういったセルフイメージが見えてこないんです。

そして、いつまでもそれに振り回されてしまいます。自分の思考に深くはまったまま、スピリチュアルな探求をしている人に今までも大勢会いました。もちろん、真実が見えるときは見えるのでしょう。でも、逆に苦しくなっている人のほうが多いなぁというのが私の印象です。

さて話を「後悔」に戻して、こうやって見ていくとお分かりかと思いますが、最終的に後悔とは、過去のできたはずの選択に苦しんでいるのではなく、「(セルフイメージを壊す)そんな自分が好きになれない」、または「今の状態が嫌だ」という“今”の問題なんですね。

もし、現在の状態や今の自分に満足していれば、後悔はないはずです。

思考は、過去に何度も戻り、あの時~~~というストーリーを繰り返し、あたかも今はもう何もできないかのように私たちを思わせるかもしれません。

でも、自分の中に“今”握り締めている思い込み、“今”抱えている感情を癒すことで、私たちは過去から解放されます。そして、本当に“今”だけが残ります。

もしかすると、その今の状態があなたは気に食わないのかもしれません。(だから、そもそも思考が過去へ飛んで行ったわけですから。)

往々にして、今の状態が嫌なのは、人生はどうあるべきか、今の状態はどうあるべきか、という自分の思いに一致しないからですね。家族はみんな健康であるべきだ(あるはずだ)、お金のことで夢をあきらめるなんて嫌だ(自分の夢は実現するべきだ)・・・。

思考はものすごく説得力があるものです。でも、これらの思いに同化しなければ、今起きている出来事、状態の中にポジティブなもの、美しいもの、優しいものをもっと見つけられるようになるでしょう。

そうなれば、状況はどうであっても、ふっとした軽やかさが人生に生まれてくるでしょう♪

 

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フェイスブックでときどき非二元についてつぶやいています

自我を支えるもの

写真:山村琴美

写真:山村琴美

何度も品切れになりましたが、アマゾンが新刊の在庫をきちんと揃えてくれたようです。ということで(?)、今日はセラピーと非二元を絡めながら書いてみたいと思います。

まず、カウンセリングやセラピーにはいくつか罠があると思うのです。ちょっとリストアップしてみましょう。

 

  • 癒されていない自分は、幸せになれないと思い込んでしまう
  • ネガティブな感情や思いを悪いもの、怖いもの、取り除くべきものとしてみてしまう
  • 自分の過去を癒すことに必死になりすぎ、“私の人生”というストーリーに深くはまってしまう
  • 無意識にいつか癒しきった“いつもポジティブな私”、“幸せな私”を目指してしまう。
  • 症状や問題がアイデンティティになってしまう。例:強迫観念症の私、欝の私、苦しんでいる私など。

今日注目したいのは、最後のアイデンティティです。というのも、これが最も変化を起こすのに難しいからです。

ご本人はほんとうに苦しんでいるのですが、「症状が治る=自分がいなくなる」ことになってしまうため、無意識の抵抗が非常に強いからです。こんな場合、基本的にどんなセラピーも滑ります。

でもこんなとき、実は非二元の観点はとても役に立ちます。例えば、スコット・キロビーのメソッドなどもその一つです。

例えば“強迫観念症の私”というのは、ただの思いだね~と実感させることで、思い(アイデンティティ)との同化を切り離し、気づきの意識に寄り添うことでアイデンティティなしでもリラックスした感覚が得られるものです。(実際は、もっとステップがあります。また、強迫観念症の症状そのものには、マトリックス・リインプリンティングがお勧めです。)

基本的に自我は、なんらかのセルフイメージ、ビリーフ、つまりアイデンティティなしに機能することができません。“私は、○○だ”というアイデンティティがあるからこそ、“私の人生”を生きることができるわけです。

なので、アイデンティティ危機に陥ると、多くの人がパニックになったり、落ち込んだり、虚無感を感じたり、いろいろと苦しみます。

ですので自我は、どんなネガティブなアイデンティティでもないよりはましだ、と無意識のレベルで強く思っているんですね。

しかし、自我が気がついていないことは、アイデンティティは実はただの思いに過ぎず、自我が思っているほど、よって立てるものではないということです。

例えば、“私は一家を支える父親”や“私は優しい人”、“人と違うユニークな私”などなど、人それぞれにアイデンティティはあります。もちろん、アイデンティティを持つこと自体は、まったく問題ありませんが、気がついていないとそれが苦しみの原因になってしまうことも多いんです。

例えば、“一家を支える父親の私”が失業してしまうと、自己価値は地に落ち、とても苦しくなってしまうでしょう。また、“私は優しい人”だから、どんなに疲れていても人の愚痴は聞いてあげる、“ユニークな私”の気持ちはユニークすぎて誰も理解してくれなくて寂しい・・などなど。

いずれにせよ、自我はアイデンティティを必要としますが、意外に私たちは自分のアイデンティティ(セルフイメージ)に気がついていないものです。新刊にも書きましたが、私も“誰よりも人の心が分かる私”というセルフイメージを無意識に養っていました。

このようなその人そのものを形成しているビリーフ(私は“ひながた”と呼んでいます。)にセラピーを使うことは、とても有効です。生き方そのものが変わるからです。また、気がついていませんでしたが、自我の土台に直接ワークするため、実は自我の解体作業にもなっていたのです。

悟り体験を一度しても、たいていの人は自我の意識にすっかり戻ってしまいます。ルパート・スパイラやアジャシャンティなどの悟りのティーチャーは、自我の意識を支えるビリーフをよく見つめましょう、体に自我の残存(感情、感覚)が残っているから、それをよく見つめましょうといいます。

それを聞いたとき私は、なんだ自分が長年やってきたことではないかと思ったのです。

このような自我を形成する根本のレベルでワークすることは、ふか~いところで楽になれます。(時間はかかります) また、自分を癒せば悟れるということも全くありませんが、ただ、自我の分離意識もだいぶ和らぎます。ので、一石二鳥だなぁと自画自賛したくなったり。ふふ。

さて、英語で“spiritual bypassing(スピリチュアル・バイパッシング)”という言葉があります。非二元のセミナーでそれなりに耳にしますが、何かというと、自分の心に向き合うことを避けるために非二元やスピリチュアルなメッセージを利用してしまうことです。これも本人はたいてい無意識です。

例えば“すべてはあるがままで完璧”、“すべてはただ起きているだけ”といったメッセージを聞いて、自分の苦しみも“完璧なのだ”、“ただ起きているだけ”とやってしまうことです。

しかし、これは単に自分の思いや感情を抑圧しているに過ぎないので、苦しさは増してしまうでしょう。(そして、周囲に投影する)

以前にも書きましたが、イギリスの悟りのティーチャー、トニー・パーソンズは、“セラピーは牢獄を掃除するようなもの”と言ったりしています。自我というのは、牢獄のように狭く息苦しいところだから、そんな牢獄を掃除しているよりも、気づきの意識に目覚めたら?ということですね。でも、じゃぁ牢獄を出ても良いよと言われると、無限の自由も自我には怖いんです。

ためしに、「私は・・・」の後を空白にしてみてください。

「私は・・・」だけです。

思考が止まってしまいませんか? 自我にとっては非常に居心地が悪いはずです。(慣れれば、最高に休まる空間になりますね) なぜなら、よって立つものがなくなってしまうからです。何を基準に自分の振る舞いや考え、行動を決めたら良いのか分からない! どうしたら良いか分からないというのは、自我にとってはとても怖いことなんです。

真の自由を得るには、アイデンティティを捨てないといけません、という話ではありません。というか、それは不可能でしょう。思考は必ず沸いてくるもので、一つを捨てても自我は瞬時に何かしらのアイデンティティを身にまといます。

前回も書きましたが、今苦しいのなら、セラピーやカウンセリングを受けたほうが早いでしょう。マトリックス・リインプリンティングなどでも、無理なくセルフイメージを変えることができます。

話を戻して、アイデンティティはなくらなくても、それ自体は単に文字でしかないと見抜ければ、私たちはアイデンティティから自由になれます。そして、その上で自分のアイデンティティを生きるんです。自我を愛しながら、軽やかに、でも人間臭く♪

 

★ お知らせ ★

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スコット・キロビーのメソッドをコースプログラムに加えました!
(コース生の皆さんは勉強会でやりますね♪ )

「すべては幻想」教にはまらない!

写真:山村琴美

写真:山村琴美

あぁ、イギリスって面白い。先日ラジオを聴いていたらある大学で試験を実施していたところ、始まって少し経ってから生徒がくすくす笑い出したそうです。というのも、なんと答えが試験とともにホッチキスで止めてあったとのこと。で、その後がイギリスだなぁと思ったのですが、試験を一時中断し、一時間ほど生徒を散歩に行かせ、見た答えを忘れていることを祈って、一時間後に普通にまた同じ試験をしたそうです。はは!

さて、今日は頂いたコメントにコメントいたします♪ コメントをありがとうございます!

例えば医療関係の仕事をしていて、自分の一つのミスで患者に重度の障害を与えてしまったり、最悪死亡に至らしめた場合、患者本人、家族に「自分が人であるというのは思い込みです」「これは夢で、実際は何も起きていないのです」では通りません。また、医療裁判でも、そんな話は出来ませんよね。<省略>「命」の現場で実際に仕事をしている者は、どのように考えればいいのでしょうか?

とてもまじめなご質問なのですが、ある意味多くの人が陥りやすい罠にはまっている気配が感じられ、取り上げてみました。

まず、「何も起きていない」という意味は、頭のレベルで考えている“何も起きていない”とは、たぶんものすごく違うでしょう。何も起きていないけど、確実に経験があり、存在があり、でも、すべては現れ、消えていく幻想なのです。

頭の理解ではなく、体験的理解であれば、このご質問そのものが出てこないかなと思います。

基本的に頭のイメージで捉えられるものではないので、もし、「何も起きていない」をただ文字通り理解していたとしたら、それは間違った理解だと思って間違いないです。

さて、この方は、ご自分でそれは通らないよねと分かっていらっしゃるので良いですが、非二元のメッセージ、またはどんなメッセージや教えでも、ただ思考レベルで理解し、信じてしまうと地に足が着かなくなってしまいがちです。

実際、コメントの方が出してくださった例と似たような発想?質問?は、イギリスの非二元セミナーでもそれなりに耳にします。すべてが幻想であるなら、人を殺しても良いじゃないか、といったような。

そこまで極端ではなくとも、例えば大家さんに「私はいないのだと悟りましたから、来月から家賃は払いません」とも言えませんし、誰かをぼこっ!と殴って、「すべては幻想で、あなたの痛みも幻想です」とも言えないですよね。

で、どんなメッセージにしても、それをただ頭で理解して信じるだけなら、なんらかの宗教を信じてしまうのとまったく同じことです。

非二元の場合、「私は人ではない」教、「私はいない」教、もしくは「すべては幻想」教に入信した感じですね。

知らないうちに信者になっているケースがほとんどだと思いますが、それでも「教義」を軸に生きていこうとしたり、またはそういう世界観を生き始めてしまうケースはとても多いと思います。

例えば、“神に罰せられるから正しい行いをしよう”という神と私という世界観を生きるのと、“すべては幻想で私もあなたもいない、ただ愛があるだけ”という非二元の世界観(=思考)を生きることは、信じている中身が違うだけでやっていることに大きな違いはないんですね。

また、メッセージそのものがどんなに真実を伝えていても、それを自分の生きる指針、マニュアル、または世界観にしたとたん、密かに「べき」が忍び込んできます。

例えば、自己愛が高いと生きるのが楽になる!というメッセージも、それを自分の「教義」にしてしまうと、気持ちとしては、自己愛を高めたいかもしれませんが、無意識に自己愛を高めるべきになっているはずなんです。

なので、自己愛を高めようと必死に頑張り、思うように自己愛が高まらないと、自分を否定したくなってしまったり。ある意味教義に合わないからですね。“おかしい、これではいけない、私は幸せになれない”という声が高まってくるかもしれません。

自己を愛せない自分を受け入れよう♪というハートの声が、教義に隠されて忘れられてしまうんです。

または、“みんなも私と同じように世界を見るべき”とか、“すべては幻想なはずなのに、私は苦しんでいる、本当は苦しむべきじゃないのに、苦しんでいる私はまだまだだ”など。あっ、なんだか書いていて、自分が通ってきた道なので恥ずかしくなってきました。

とりあえず続けます。

一般的に、宗教は人の生きる道を説くものが多いでしょう。しかし、非二元のメッセージは人が生きる手本、生きる基準とするものではなく、ただシンプルに真実を指し示しているだけなんです。

ある意味、空は青いね、りんごは赤いね、太陽は東から昇って西に沈むねという感じで、事象はすべて幻想だね、と言っているだけなんですね。

言葉が見つからないので、教えと書いてしまいますが、実際は教えでも思想でも理論でもなく、シンプルな真実です。しかし、ある意味、見過ごされた真実です。

さてもし、自分のミスで患者さんに重度の障害を負わせたり、または死にいたらしめてしまったら、ハートは相手に何をしたいと感じるでしょうか?どんな自分でいたいと言うでしょうか?

心から謝ること?自分を許すこと?きちんと自分ができる範囲の責任を取ること?

ちなみに、私はどう考えたら良いかという提案は一切していません。それよりも、自分のハートに尋ねて、自分で考えて欲しい♪と思うのです。

自我にとって何かを理解できた、分かった、目からウロコ!という体験は、とても楽しく、すっきりするものです。なので、いつの間にか“理解したい中毒”、“もっと知りたい中毒”になりがちです。そして、理解するとそこで安心してしまい、体験的な理解に行かず終わってしまうこともとっても多いですね。

どんなメッセージも、自分のハートに響いたなら、それを自分の中に取り込んでいく価値は大いにあるでしょう。

でも、できれば体験的な理解になるまで丁寧に辛抱強く、“すべてが幻想って本当に感じられているの?”、“私はいないって本当に見抜けている?見抜けていないとしたら、何がそれを防いでいるの?”と正直に自分を振り返っていくと良いですね♪

 

私の思考が現実を創っているの?

写真:山村琴美

写真:山村琴美

さて、今回もコメントにお返事をさせて頂きたいと思います。下記のコメントです。ありがとうございます!

私は今、ある潜在意識についての理論を学ぼうとしています。それは、思考が100%現実化する、という前提でそのしくみについてです。例えば、インナーチャイルドを癒し、自分の感情を変えていくと、不登校だった子供が学校に行き始めた、ということが起きるなど…。なので、私の潜在意識、思考がこの現実を作っているのだという強い思いがありました。けれど、今日の記事を読むと、そうじゃないのかもしれない、と書いてあります。そしてなんとなく私も自分の思考という、肩の荷が降りたような楽な気持ちにもなりました。なので、高いお金を出して学ぶのはちょっと違うのかな…という思いが…。どう思われるでしょうか…?

ぜひ肩の荷を降ろしてくださいね♪

以前、アマゾンで私の本とこの“思考が100%現実化する”系の本が、「よく一緒に購入されている商品」としてセット買いができるようになっていました。う~ん、ぜんぜん違うのだけどなぁ、一緒に買う人が多いのかぁ・・・と実は不思議に思っていたのです。

たぶん、潜在意識にある思いによって世界を解釈するという話が、潜在意識が現実を作っているという話と同じように聞こえるのかもしれませんね。

また例えば、私の機嫌が悪くお店で店員さんにむすっとした態度を取ったら、店員さんにもむすっとした態度を取られた・・・。または、自分に自信がついてきたら、仕事の話が来るようになったということもあるでしょう。

しかし、それでも、私の思考が店員さんや仕事をくれた人の思考をのっとって、そうさせたわけではありませんね。彼らは、私の思考次第でなんとでもなるロボットではなく、こちらの態度に反応しただけです。

または願っていたことが忘れた頃にふっと叶ったということもありますね。それは私の潜在意識の思いが実現したといえるでしょう。しかし、それも私の思考がすべてをコントロールしたのではなく、生命のエネルギーとのコラボレーションだと思うのです。私の思いが生命のエネルギーに影響を与えることもあれば、与えないこともある。

さて、でもこれは現象レベルのお話です。「願いを叶える方法」という本を書いた頃は、非二元(悟り)の真実のレベルが私にはまだ見えていませんでした。告白してしまうと、今は願いを叶えるとか引き寄せとかまったく興味がなくなってしまいました。

で、非二元の(悟り)観点から見ると、この「思考が現実をつくる」という考えは、「私(主体)が思考(客体)を持っている」、または「思考(主体)が状況(客体)を作っている」という、主体と客体関係がある二元の世界観にもとづいていますので、この時点ですでにこの理論の有効性は崩されてしまいます。

この観点からどう違っているのかをもっと書こうと思ったのですが、ものすごく長くなるし、難しいと思いあきらめました。

しかし、非二元(悟り)の観点からではなく現象レベルで考えた場合でも、その「私の思考」はどの範囲の現実を指しているのか?を考えてみることができるかもしれません。

一つの出来事は、いろいろな要素が織り成すオーケストラのようなものです。例えば、不登校という状況を一つとっても、不登校の理由が、○○先生が恐いとか、××ちゃんたちにいじめられるといったことかもしれません。理由が何であれ、他者やある環境や、条件、状態いろいろな要素が関わっています。

例えば、○○先生が恐いのは、もしかすると○○先生の親が厳しかったからとか、××ちゃんたちがいじめるのは、××ちゃんのお父さんがアルコール依存症で怒りがたまっているからなど、出来事を追っていくいといろいろな要素が絡みどこまでも広がって行きます。

そうやってみていくと、私たちは“ここまでが私の現実”とはっきり区切ることはできないでしょう。私たちの毎日を見回しても、農業を営む人がいるから食卓にお米があり・・など、いわゆる“現実”を作っている要素は無数にあります。

思考は往々にして自分中心の狭いの範囲のことしか捉えらず、出来事には多くの要素があることを見逃しがちです。また自分から見て困っている事、自分から見て不完全な事というように、自分から見て間違っている、または正しいなど、「自分の考え」という小さな視点から状況を判断します。

基本的に思考は、物事を判断し、理論やカテゴリーに当てはめ(あいまいなものを嫌う、頭で捉えられないものに価値を置かない)、ものごとを「これは、これ」「あれは、それ」と区別し、分離させ、レッテルを貼り、基準、条件、価値観などをつくるという性質がありますね。

なので、“自分の思考は大丈夫か?”と「思考中心主義」になってしまうと、良い、悪いの基準や価値観に押し込められ、また分離感も強まり苦しくなってしまうものです。

またある意味、エゴ=思考ですので、自我が肥大化してしまう可能性もあるでしょう。

“私の思いで、すべての状況、人をコントロールできるのだ!うはは!”みたいな。

また、ハートをベースに世界を見るということが忘れられ、周囲とのつながりや無条件の愛といったエネルギーが隠れてしまうかもしれません。基本的にものごとを判断しないハートの無条件の愛と、ものごとの良し悪しを判断する思考は相容れないんです。

さて、ここまで自由に好き勝手に書いてきましたが、私の言葉を信じなくてもまったくかまいません。

私の見る真実は、溝口あゆかという現象はあるけれど、溝口あゆかという主体は存在していないということ。すべてがそうであるように思考もただ沸いてきては消えて行くはかないもの。どんな状況も変化し、思考がどんなレッテルを貼ろうとも、自我がどれだけもがこうとなるようになっていく。

本当の私は、状況のすべてを無条件で静かに受け入れる気づきの意識であり、そして同時に起こる事象のすべてでもある。それが見えたとき、悪い状態をなんとか良い状態にしようともがくストレスから解放され、大いなる生命が生み出すダンス(そしてハート)に身をまかせ、あなたはどんな状況でも心が軽いことにふと気づくでしょう。

自分が自分の人生をコントロールしていないことは、自我にとっては恐れとなりますが、本当の自分にとっては喜びとなります。

そして、思考がまったく見落としてしまうもの。それは、思考に気づいている意識。あなたは、思考(波)ではなくそれに気づいている意識(大海)のほうなのです。それが真のあなたです。そしてそこに創造の源と真のパワーがあるのですね♪

 

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多数のお申し込みありがとうございました♪