自殺願望・・命をかけて逃れたいものは?

写真:山村琴美

写真:山村琴美

先日夜遅く帰り、駅に降りたのが私だけでした。電車から降りる途中に高価なウイスキーが何本か入っている買い物袋を見つけ、駅のホームにいた夜勤の駅員さん二人に手渡したところ、袋の中を見た瞬間二人の顔が輝き、嬉しそうに顔を見合わせました。たぶん、このウイスキーが落とし主の手に戻ることはないでしょう。

さて、先日フェイスブックに投稿されていた『Saving 10,000 – 自殺者1万人を救う戦い』という映画を見ました。(ユーチューブにフルバージョンがあります)

この映画によると、日本の自殺率はフィリピンの12倍だそうです。一瞬、フィリピンのほうが貧困問題も深刻で絶望したくなるような状況が多いような気がしますが、この数字だけでも、経済状態と自殺率が関係ないことがはっきりしますね。

自殺に関しては、良いことなのか、悪いことなのかといった質問をときどき耳にします。このような質問を聞くたびに私は不思議な気持ちになります。良いか悪いか知ってどうするの?というのが、私の一番聞きたいところかもしれません。

私が自殺に関して一番知りたいことは、なぜ?なんで自殺したいの?どうしたの?なにがあったの? という質問への答えです。その人が苦しんでいる理由が知りたいのです。

で、自殺をしたい理由は人それぞれでしょう。また、自殺の心理に関しては、臨床の報告書や専門書、文献などもたくさんありますね。興味があるので読んだりもしますが、正直言うと、それらの文献は、死にたい気持ちでいっぱいの人を前にはほとんど役に立ちません。たぶん、倒産する会社の特徴や傾向といった分析やデータが、今まさに倒産しかけている会社の役にまったく立たないのと同じようなことかもしれません。

・・・話を戻します。自殺したい理由は人それぞれだと思いますが、彼らが死んでまで逃げようとしているものは、実は陥っている状況ではなく、自分の思考なんです。ある意味それこそ命をかけて必死に自分の思考から逃げようとしているんです。

たとえば、“これで私の人生もおしまいだ”とか、“生きていても意味がない”とかそういった思考から逃れようとしているんです。もちろん、本人たちはそれは思考ではなく、事実であり、状況であると思っているでしょう。

しかし、まったく同じ状況に陥っている二人が、同じ考えを抱くかというと、たいていは違う考えを持つんですね。そして考えが違えば、苦しみの度合いも違います。

自殺願望の例ではありませんが、三十代後半の頃、セラピストとしての収入もさほど多くなかった私は、将来食べていけるのかどうかを不安に思っていました。そこで、多くの人がやりがちな不安を解消するためにさらに頑張るのではなく、一度ちゃんと自分の中の究極の不安に向き合ってみよう思ったのです。

セミナーでもやったことがありますが、ワーストシナリオを描くわけです。すると私の場合、一文無しになって道端で途方にくれている、というシナリオになりました。が、そこで思ったのです。どこかに住み込みで働くということができるのではないか? 私のシナリオはそこで狭い部屋に住みながら働くというものに変わり、そして、そうだ!すべてを失ってもカウンセリング能力は私のなかに残るから、ここを訪れた人の相談にのろう・・・と考えているうちになんだか楽しくなってしまったのです。

人との交流、役に立っている自分というものが、なにもなくても支えてくれるのだなとよく分かったからです。

でも、もし私が道端で“何十年も頑張ってきたのにすべて無駄だった。なにやってもうまくいかない自分なんてくずだ。人生になんの意味もない”と強く思い込み、毎日そんな思いばかりが頭の中をぐるぐる駆け回っていたら、地獄になってしまうでしょう。

お釈迦様も言っていますが、苦しみは私たちの思考が生んでいるですね。そして、死ななくても自分の思考から自由になる手段はたくさんあるんです。

人がものすごく悩んでいるとき、カフェのような気軽に立ち寄れる雰囲気で話をゆっくり聞いてもらえ、セラピーやカウンセリングが受けられる場があるといいなと夢想したりします。また、悩んでいること自体を隠さなくて良い社会になって欲しいですね。

さて、話を進めます。ここからは目覚めの観点から書かせてください。

苦しみの根源は、思考にあると書きましたが、究極の苦しみの根源は、分離した自分がいるという錯覚にあります。ロンドンで開催しているカウンセラー養成講座のマニュアルには、下記の奇跡のコースからの引用文をいつも記しています。

癒しは、神と一体化する思いによって起こる。
なぜなら病(苦しみ)は、神と分離した思いから生じるから。

神という言葉が宗教臭いと思った方は、真の自分と置き換えて読んでも同じです。そして「分離した思い」とあるように、究極的に自我とはただの思いです。思いや感情、体は、分離した私のものだと勘違いした思いです。

真実は、私たちはただの一度も分離などしておらず、分離すること自体不可能です。波が大海から分離できないことと同じです。しかし、分離していると深く錯覚していれば、分離している自分を維持していく努力が必要になっていきますね。

そして、維持していく中で絶望したり、幸せをつかもうとしたり、とにかく多大なエネルギーがそこで費やされるでしょう。これが悪いことだと言っているのではもちろんありません。なぜなら、分離の錯覚も、深い絶望も、すべて真の私でもあるからです。

しかし苦しみからの脱却という点に絞れば、「私」がいなくなれば、「私の問題」も一緒になくなるんです。なくなるといっても、たとえばあった借金がなくなるわけではもちろんありません。分離した私がいるという錯覚から目覚めても、体が消えるわけでもないし、借金もそのままでしょう。

ただ、借金を巡る思いや感情が消えているはずです。誰かを責めるとか自分を責めるとか、または、借金が返せないから自分の人生は終わりだといった思い、それに伴う絶望や悲しみ、怒りなどなどがなくなるのです。

私がいないとき、あなたもいなくなります。なので、責める人がいなくなってしまいます。そして終わりになる人生というものも存在しないこともはっきり見えてきます。また、思考がいかに何も真実を現していないいい加減なものかもよく分かるでしょう

でも、思考は沸き続け、体も勝手に動き、物事は起き続けます。性格もそのままだし、つまらないジョークも相変わらず口から出てくるでしょう。

そして、借金であろうが、どんな状況であろうが、生命の流れに降参していれば大丈夫だと気づきます。状況の中でもがいたり、抵抗したりせず、与えられるものを受け取っていく軽さに変化します。そして絶対大丈夫なんです。

多くの人がこういった話に耳を傾けてくれるようになると、人の心が和らぎ、自殺者も減っていくのではないかなと思ったりします。

昨年書きました、こちらの記事も参考にしてみてくださいね。→★