ハートって一体なに?

先週の金曜日から、サマーセット州の片田舎のリトリートに参加しています!ルパート・スパイラという非二元(目覚め)を教えている先生(覚者)のリトリートです。彼の本は、来年3月に日本でも翻訳版が出ますので、このトピックにご興味がある方、ぜひお求めくださいね。

目覚めについてどんなことが語られているのかは、少しづつアプトプットしていきたいと思います。とにかく真実しか語らないルパートの言葉は、ときには、予測も準備もなくいきなり真実に連れて行かれた感覚になったり、興奮しまくっています。(笑)

多くの覚者のミーティングに出かけていますが、頭の理解ではなく、執拗に何度も経験に導ていくという点で、私は彼のアプローチが大好きです。

で、今リトリートのホールの食堂(写真)でこれを書いていますが、隣でオランダ人が三人、堰を切ったようにオランダ語で話をして盛り上がっています。昨日まで別々に行動していたので、オランダ人だけで固まらないようにしていたのかなぁと思います。

さて、今回もコメントにお返事させて頂きます。コメントありがとうございます。

前々から、ハートというのが何なのか、いまいち分かりません。思考ではないというのは分かっていたのですが、感情でもないとは恥ずかしながら初めて知りました。<省略>ちょうど最近、私も呼吸を観察して自分の存在を感じる練習をしていたところで、「いまここに存在している」という感覚は分かってきた感じです。それは、言葉のまんまに「在る」という意識というか感覚だけで、確かに思考でも感情でもないと思うのですが、ハートというのは、その「存在している」という感覚とも違うのですよね?自分の存在を感じていると、穏やかな喜びの感情が湧いてくるのと同時に、胸の辺りにワクワクを濃縮したような強い感覚がこみ上げてきて、溢れてしまうとどうしていいのか分からないので、抑えている自分を感じます。もしかしてこうした感覚はハートのエネルギーと関係があるのでしょうか?よければ「ハートとは何か?」についてどこかで取り上げていただけたら嬉しいです。

「ハートとは、何か?」を考えることは、ちょっと違いますが、ジョークのどこが面白いかを考えるような感じかもしれません。

「これがハートなのか?それともこっちなのか?」と考え始めたとたん、それはすでにハートの活動ではなく、思考の活動になってしまいますね。つまり、ジョークの面白さが失われるように、ハートの真実が、思考の狭いボックスのなかに入れられてしまいます。

とはいえ、このような疑問(質問)を持つこと自体は、と~ても理解できます。私もそんなふうに、最初は思考の疑問から始まり、ある程度理解を得てから、次にそれを体験にしていくという過程を繰り返していると思います。

で、せっかく、リトリート中でもあるので、ここでルパートの言葉を少し借りてみたいと思います。ある若い女性が“私は自分を完全に見失ってしまった感じがします。私は愛を感じられないんです。愛は一体どこにあるのでしょうか?”と質問しました。それに対してルパートは、

“愛とは感情ではないですよ。私はあなたを愛しています。でも他の人は愛していません。というのは、感情であって、真の愛ではありません。愛とは、分離感がなくなったときにそこにあるものです。愛、真実、美は、同じことを違う言葉で表現しているのです。”と答えました。

おそらく、誰もが体験しているかと思いますが、例えば、誰か(または、何か)と完全に理解し合えた、完全に共感し合えた、または共有できた(例えば、スポーツ観戦で勝利して、知らない人とも抱き合ったり、または、素晴らしい風景やアートの前に我を忘れたり、などなど)瞬間、私たちは、自分とその人、自分とその風景に間にある分離感をすっかり忘れているでしょう。

そんなとき、私たちは感動したとか表現すると思いますが、そこには愛も美も真実も同時にあるはずです。対象が、どんなに悲劇の映画だったとしても、深く感動したのであれば、そこには必ず美しさがあるはずで、美しさがあれば、真実、そして愛もあるはずです。

ただ、私たちがいちいち思考で、うん、愛もあるな、とか分析しないだけの話で、我を忘れるような深い感動の中には、必ず愛(=真実=美)がありますね。一番良いのは、自分でそんなときを思い出し、自分で確かめることです。(分析するとい意味ではなく)

一方、感情はある意味とても表面的なものです。楽しいことを考えると嬉しい気持ちになり、気がかりなことを考えると不安になり、と思考によってころころ変わります。これは、ハートというより、思考活動なんです。

そういう意味で、ポジティブなことを考えて楽しい気分になっていても、これは冊子「秘密の扉を開けよう」にある表で言えば、マインドのステージなんです。もちろん、心配事ばかりしているよりは、はるかに心身に良いですが。

ということで、

自分の存在を感じていると、穏やかな喜びの感情が湧いてくるのと同時に、胸の辺りにワクワクを濃縮したような強い感覚がこみ上げてきて、溢れてしまうとどうしていいのか分からないので抑えている自分を感じます。

とのことですが、この感覚は自分の存在を感じるたびに出てきますか?これを感じているときに穏やかで微妙かもしれませんが、力を感じられませんか? どうでしょうか?この答えは、自分で探るのが一番良いと思います。

ハートについて考えを巡らすよりも、感覚を味わいつくしてみてください。どうしていいのか分からないでいるのは、思考です。なので、思考にちょっと脇によってもらいましょう。

そして、その感覚を十分に味わった状態で生まれてくる思考はどんなものでしょう? 愛(=真実=美)から生まれる思いは、恐らく確信をともなっているでしょう。思考は、自分が主人だと思っているので、ハートでさえも自分のツールにしてしまいます。ということで下記のコメントです!

自分の体の感覚を感じて、自分のハートがokを出していれば、どんなやり方でもいいというのが正解でしょうか。あっ、正解を求めてるんですかね、私は。間違えないようにって。

思考のわなに気がついているのが、大変グッドです!このように思考は、ハートを使って、何が正しいか判断しようとか、自分のしていることや自分の選択が間違っていないかを確かめようとかするんですね。

しかし、これを反対にしてみたらどうでしょう? ハートを主人にして、思考をツールにするんです。私たちは、ほぼいつも思考活動に支配されています。しかし、例えば、前回の記事でご紹介したようなシンプルなエクササイズでも、思考活動からもっとハート活動にしていくことができます。

ハートという言葉を使っていますが、最終的に、ハートは体のどこかにあるかをとことん感じていけば、それは、無限であることが見えてくるはずです。分離感をもたず、無限であるエネルギー、それが真の私たちです♪

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思考の裁判官、ハートの裁判官

今回もコメントにお返事させて頂きます!今回は二つです。コメントありがとうございます!

傷つく言葉を言われたとき、傷ついた自分に原因があるんだ…だから、相手は悪くないと思って、悲しみをこらえてしまう癖があります。かといって相手を許せている訳ではなく。この気持ちはどこに納めればいいのだろうと思うことがよくあります。結局はいつも、私が悪かったから仕方ないか。なかったことにして笑顔でいるか。となってしまいます。これでいいのかなと不安も抱きながらですけど。

原因は自分にあるんだ・・で終わってしまうと苦しいでしょう。原因を探し、それを癒して始めて楽になれますね。

さて、私たちの中には二人の裁判官がいるようです。一人は思考の裁判官。もう一人はハートの裁判官。でも、私たちはつい思考の裁判官ばかりに従っていがちです。この方の場合、

裁判官:“判定を下します!傷ついたのはあなたの中に原因があるせいです。よって相手は悪くありません。従って、あなたは悲しむ権利も、相手を悪く思う権利もありません。”

裁かれた人:“ははぁ!仰せの通りです。これから、私は悲しみをこらえて生きていきます。相手にも決して何も言いません。”

思考の裁判官が仕切る社会は、とても厳しい社会です。「悪い」というレッテルを貼られたとたん、感情を出してはいけないし、思っていることを口にしてもいけないんです。基本的人権がない状態です。

一方、ハートの裁判官はどうでしょうか?ハートの裁判官は、すべての人の言い分をしっかり聞きます。悲しみの声、相手を責める声、言いたいことをぜんぶ聞くんです。そして、話を聞くだけではなく、もっと深いところにどんな思いや感情があるかもちゃんと探り出します。

もし、なにか問題が発生したとき、誰かが事実を隠していたら、真の解決はできないでしょう。すべての事実を明るみにしてこそ、根本解決ができますね。同じように、自分の深いところに抑圧されていた思いや感情がきちんと明るみに出されたとき、やっと真の癒しが起きます。

厳しい思考の裁判官が役に立つときも人生にはあるでしょう。しかし、ここでのポイントは、誰が原因を持っているか、誰に落ち度があるかなどではなく、「今、自分の中で何が起きているか?」なんです。

今まさに自分の中で起きている出来事(感情が沸いてきている、感覚が起きている、思いが走る、など)にきちんと目をむけずに、それを思考で抑圧しても先へ進めないんですね。

もし、怒りが沸いていて、お前なんか大嫌いだ!という思いがあったとしたら、体を使ったり、頭の中でのイメージを使ったりしながら、きちんと表現していくうちに、その下にあった真の思いや感情が出てくることはとても多いです。

私は、セラピーのテクニックを使いますが、ご自分でもできるかなと思います。(ただし、体の感覚に慣れていないと難しいかも) 感情は、原因を教えてくれるメッセンジャーです。ですので、感情の声をちゃんと聞いてあげてくださいね。(感情の声の聞き方やなど、関連記事を最後にリンクしました。他にもあるぞと覚えていらっしゃる方、コメント欄に記事のリンクを貼ってくださると嬉しいです。)

さて、関係しているようで、していないような・・・お次のコメントです!

私の父は、ある哲学者の教えに従っていて、なんでもポジティブに捉えろ!!といつもクチうるさく言ってきます。一緒に暮らしているおばあちゃんも、いつも来る叔母も、私も、私の父がとーっても自己中心的な生活態度をとっているとクチをそろえて言うときがあるのですが、私たちがそこは直してと頼んでも、それはお前たちがネガティブにとらえてるカラだ、もっとポジティブに考えろ、と、自分の自己中心的な行動までもポジティブにとらえ、反省しません。<省略>何か父に言える、アドバイスがあったらくださいm(_ _)m

ふ~む、お父様は、“そこは直して”というみんなのお願いをポジティブに捉えていらっしゃらないように見受けられますねぇ。ポジティブに受け取っていれば、“忠告してくれてありがとう”といったような返事になるはずですから。なんでもポジティブに捉えるということは、自分への批判や悪口も入らないと、“なんでも”ではないですよね。

“お前たちは、私の言動まるごとポジティブに捉えなければいけないけど、私はあなたの口から出る言葉を、必ずしもすべてポジティブに受け取るわけではない”では、言動不一致です。

ということで、お父様に“なんでもポジティブに捉えるという、お父さんの考えを実践してみようと思う。だから、お父さんが私のやることや言う事のすべて、例えば、ときにはお父さんに対してネガティブな言動をしている私もまるごと含めて、心の底からなんでもポジティブに受け取ってくれたら、私はやり方が見えてくると思う。”

というのはいかがでしょうか? で、反応に関しては一切責任を持ちません。(笑)

セッションでは、こういうアドバイスはまずしませんが、ブログなのでわざと書いてみました。どんな教えや思想も、真摯に深く自分を見つめなければ、結局、思考の遊びになってしまいます。

単純に、これはポジティブ、これはネガティブと頭で判断し、“あっ、ネガティブに捉えている!ポジティブに考えなくちゃ・・”というのは、すべて頭の中でごちゃごちゃやっていることです。これは、裁判官ならず、監視人ですね。

せっかく、ポジティブになろうとしていても、監視人が仕切っている限り、厳しいエゴ(思考)社会のなかでの管理されたポジティブな私です。ちょっとでもネガティブな思いが沸いてくると、叱責が飛ぶ社会です。

このコメントの方のお父様だけでなく、私たちは基本的にネガティブ打倒の思いで生きているでしょう。ネガティブな感情や不快なこと、苦しいことは、早く自分から取り除きたいし、ポジティブなこと楽しいことだけ人生に起きて欲しいんです。

そして、私たちは、どうして世の中にはこんなひどいことが、どうして私の人生にこんなことが起きるのか?と嘆きます。しかし、目覚めの意識は、どんな“いわゆる”ネガティブなことでも、それが起きることを許しているんです。ネガティブの存在をまるごと許し、批判したり、変えようとしたりしないんです。

これが、無限で無条件の愛です。

ただ、こう書くと、じゃぁ、戦争も飢餓も原発問題も許されているのだから、何もしなくて良いのか?という思いを持つ方がいつもいますが、そのとき、自分のハートはどう感じているでしょうか? 思考の判断ではなく、ハートが感じていることをしてみると良いかなと思います。

いずれにせよ、私たちはすべてが許されるという無条件の愛のなかに存在しているんですね。そして正確には、存在しているのではなく、それが真の私たちの姿なんです。

<関連記事>

解決の糸口は感情の中に
怒りの解放の仕方

誰がゲームを辞めるの?

ロンドンはオリンピック酔い(?)から、みなしらふに戻り、普段の生活を前に、あぁ~あ、ずっと酔っていたかったという声があちことで聞こえます(笑)。さて、今回もコメントにお返事させてください。コメントありがとうございます!

すべて幻想でゲームで、この世に生まれてきたことは、経験するためということを聞きました。楽しいことばかりではなく、苦しさも、死ぬほどつらいこともいろいろ。そのために生まれてくるのだと。でも一方で、もう本当の自分に戻りましょう、とか、自分と向き合って、もう辛いゲームは止めましょう、本当に自分とつながって楽になりましょうなどということもよく聞きます。<省略> 経験することが目的ならば、もうそういう経験は止めましょうといっているような感じのことに違和感を感じることがあります。<省略>やっぱり経験するためと言ったって、しんどいことは悪とみなしてしまうのかとか。ゲームであるなら、楽な方がいいから、それを選択するといいですよということですか?

とても鋭い観点です。このような疑問を持たれることは、素晴らしい!と思います。

で、ここには、とても微妙に入り込んだ誤解があります。このコメントの方が誤解しているということではなく、目覚めに関して、発信する側がときどき真偽をごっちゃにしている感があります。または「真の私」の定義が違うのかもしれません。いずれにせよ、当然受け取る側も誤解するでしょう。

とりあえず、まず誤解とは、「私は生まれてきた」という誤解です。真実は、「私は生まれてきたと思っている夢をみている」です。

言葉の限界がありますが、できるだけわかりやすく説明してみたいと思います。

「本当の私」とか「真の私」といった言葉がすでに混乱を招くなぁと思いつつ、他の言葉がないので私も使ってしまっていますが、「真の私」と言うとき、「個としての私」をさしているんではないんですね。

「真の私」とは、無限に開かれた状態です。人でも何かでもありません。英語では、Open Intelligence(開かれた知性)、Pure Awareness(純粋な気づいた意識)などと書かれたりもします。

そして、その無限に開かれた状態の中に、様々な現象が現れてくるわけです。そして、その無限に開かれた状態は、刻々と形を変え、動き、現れ、消えていく現象(人間ゲームとか)を観察しているんですね。そして、その観察しているほうが、真の私(あなた)です。

で、「ゲームをやっている私」は、現象のほうの私ですから、夢の中の私です。つまり、ゲームをやっている私は存在していないんです。

例えば、夜寝ているときに見る夢の中の自分は、実際に存在しているでしょうか? 朝、目覚めたとき、夢の中の自分はどこに行ったのでしょう? 夢の中にいた人たちや場所はどこへ行ったのでしょうか? そしてもし、毎朝目覚めるのではなく、長期間ずっと目覚めなかったら、あなたは夢の中の自分は現実に存在していると思ってしまうかもしれませんね。また、夢の中で体験したことを、実体験だと思ってしまうかもしれません。

それとまったく同じことなんです。目覚めたとき、あっ、はじめからゲームなんてしていなかった、今まで何一つ起きていなかったのだ、私は存在していなかった、というか誰も何も存在していないのだ・・・と気づくんですね。

奇跡の学習コースでも「この世には誰もいない(No one is out there )」と繰り返し言っていますね。(始め聞いたときは、意味がさっぱりわかりませんでした)

なので、「もうゲームからおりて」というとき、「誰が、降りるの?」というのが、私の最初に浮かんでくる質問です。で、それが個としての誰か、例えば、溝口あゆかがもうゲームからおりて、ただ愛であることに気づく・・・ということを意味しているのなら、そこが大きな誤解なんです。

真のメッセージは、「“ゲームをおりましょう”ではなく、“真のあなたは、そもそもゲームなどしていないことに気づきましょう”」なんです。

私も、人間レベル(夢の話)と覚醒の話を一緒の記事の中で書いたりしてしまうので、皆さんを混乱させてしまうのにだいぶ加担しているなぁと反省していますが、苦しんでいる方、悩んでいる方へ「自分を見つめると楽になりますよ」というメッセージは、完全に人間レベルのメッセージです。つまり、楽しい夢を見るためのメッセージです。(これからも続けます!)

話を戻すと、アセンションも壮大な夢で、無限にあるように見える宇宙さえも夢です。でも、仏教に「空即是色、色即是空」とあるように、空としての開かれた意識は、同時にこれらの現象(色)でもあるんですね。

無限で開かれた意識(覚醒した意識、開かれた知性、空など)と現象は、コインの裏表のように分けることができません。

ですから、決して現象を否定しません。それどころか、その驚異に感嘆し、すべてを受け入れ、すべてを愛しています。辛いことも、恐れも、喜びも、愛も。すべてのゲームを受け入れ、愛しています。

現象の中では、ゲームは永遠に繰り広げられます。でも、もし自分は個であるという幻想を抱いているあなたが、ゲームをしているという幻想(輪廻)から抜け出したかったら、あなたは、ゲームをしている存在ではなく、ゲームを観察している意識のほうだったのだ、ということに目覚めましょう、というのが古今東西の多くの覚者のメッセージですね。

「個としての私」がゲームを降りるのだ!と頑張ってたどり着く先は、「私は人間ゲームをおりた」という夢です。ここが多くの人がごっちゃにしているところでもあり、分かりにくいところでもあるでしょう。

もしかすると、今回の記事は、なるほど~!という人と、もっと混乱した~という人の二つにぱっかり分かれるかもしれません。が、こんな狭いスペースでは書き切れません。いずれにせよ、こうやって疑問を持ちながら真実にたどり着いていくんですね♪

さて、お知らせです!

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真実は、すべてはジョーク?

カウンセリングコースが、ロンドンか東京かということで、ご意見などいろいろ頂き、大変ありがとうございます! ぜひ参考にさせて頂きます。コース生の方々も、生の声をお聞かせくださり、本当にありがとうございました! 人それぞれが、違う事情、違うストーリーを持ってコースに参加してくださり、心から頭が下がる思いです。

さて、今回は、また「目覚め」(悟り、覚醒)に関して書きたいと思います。

「運命の人と出会うスピリチュアル・レッスン」にも書きましたように、「私はもしかして魂の存在で、肉体は仮の姿なのか?」というところから私の旅は始まりました。そして、今は、「真の私は肉体でも、魂でもなくて、それらを見ている意識だったのだ。」という体験にたどり着いのたです。

「私(または私の魂)が成長を目指して、頑張って歩んでいる、という私という「個」としての自分がいる」という分離の夢から覚めたら、当然「わたし」はいなくなっていました。旅の終わりに、自分がいなくなっているとは、まったく予想もしていませんでした(笑)。

「目覚め」に関して、混乱しがちな点は、「“私”が目覚める」、「もし、“私”が目覚めたら、“私の”人生はどうなるのか」など、「わたし」を前提で、目覚めを考えてしまうことです。

でも、目覚めとは「わたしがいなくなる」ことですから、当然、「わたしの人生」、「わたしの体」、「わたしの夢」、「わたしの~~」すべてがなくなります。そこに見えてくる風景は、すべてが現われ、消えていき、そしてすべてがそれで完璧で愛である状態です。

これは、「わたしは、宇宙との一体感を経験した」という類のいわゆる至高体験とも違います。至高体験自体は、貴重な体験であることには間違いありません。ただ、「わたし」がいるので、目覚めの体験とは違うでしょう。

「わたし」がいる限り、「わたし以外のもの」が存在します。つまり、分離感覚です。そして、分離感覚がある限り、必ず不安があります。これが、スピリチュアル心理学を受けてくださった方はご存知のように、人間心理の根本的な恐れの始まりです。

おっと、今日はそういう話がしたいわけではなく、

ある日、電車のなかで「どうして、~~さんの本のほうが、わたしの本よりあんなに売れるのだろう?わたしの本のほうがずっと良いのに」(←恥ずかしいけど、正直な思い)と考えていました。もちろん、エゴだということは分かっていましたが、それでも、そういう思考が沸いてくるのは、仕方がありません。

ただ、この日は次の思考も沸いてきたのです。

「溝口あゆかって誰?」

今まで何度も考えたことですが、この日は、この思いがまっすぐに問いかけてきました。そうすると、まず、わたしがうんうん考えているイメージが浮かび、そして「日本人」、「女性」、「カウンセラー」、「○年○月○日に~~という両親より生まれた」、などなど、わたしに関するレッテルが次々に現れてきました。

ところが、そのすべてのレッテルがとてもはかないもので、決して永遠には存在しないもの、という感覚も強く現れたのです。そして、そのレッテルがすべてなくなることをイメージすると、そこには誰もいなくなり、「それを見ているわたし」(観察する意識)だけが残りました。

で、その状態で、「溝口あゆかは、~~さんより、自分の本が売れて欲しいと思っている」と言ってみると、笑いと涙(笑い涙)がどっと溢れ、とまらなくなりました。

もう、ジョーク以外のなんでもない!と思ったのです。なんでその必要があるの?なんのため?そして、一体誰がそんなこと気にするの?

エゴ(わたしという意識、思考)は、生き残ることがとても大切です。ですから、自分が誰かより劣っているというのは、非常にまずいことです。なんとかして、自分より上の人に追いつき、できれば、追い越すほうがエゴには都合が良いんです。

または、「わたしはみんなから理解されているか」、「わたしは、みんなから受け入れられているか」ということも、非常に大切ですね。

で、普通どうするかというと、「理解されるわたし」、「受け入れられるわたし」、「優れたわたし」になることを目指して、困難な旅を始めるわけです。ものすごいエネルギーと感情、思考をここに費やします。そして、もしそれを達成したとしても、今度はその私をキープするのに、またものすごいエネルギーと感情、思考を使います。これは、重くて、大変な生き方ですね。

何を隠そう、「わたしは理解されない」という強くて頑固なコア・ビリーフを抱えていました(今も少しある)。すべてのコア・ビリーフがそうであるように、潜在意識の深いところにあり、まったく気がついていませんでした。意識上では、「理解しあえる友達がいて、わたしってラッキー」とのんきに思っていたぐらいです。

ところが、仕事、お金というテーマでワークを続けるうちに、このコア・ビリーフが何度も現われ、しかも、重たい感情も底なしに出てくるのです。それでも、根気よくセラピーを使ったり、またはただ感じ切ったりなどでワークし続けていきました。

底なしだと思っていた感情は、重ねてワークをするうちに、さすがにリラックスしていき、「理解されたほうが、嬉しいけどさ、まぁ、どっちでもいいんじゃない~」ぐらいになっていきました。ワークを始めた頃は、「理解されない」という潜在意識の声が出てきたとたんに嗚咽状態でしたが。

そして、電車のなかで今度は、「溝口あゆかは、みんなに理解されたい」とも言ってみると、やっぱり笑いと涙がこみ上げてきました。なんで? あぁ、バカバカしい、ハッハッハ! という感じです。電車の中でなければ、ひっくり返って笑っていたかもしれません。

このとき、エゴ(わたしという意識)はどこかに吹っ飛んでいた気がします。電車から降りて歩いていくうちに、エゴちゃんがしっかり戻ってきました。そして、探ってみると、やっぱりまだ「理解されない」という思いもうっすら感じられました。

でも、それでもぜんぜん良いんですね。何度も書いていますが、打倒ネガティブ!を目指しているのではありません。

ちょっと、あるネガティブな思いが手放せない自分をイメージしてみてください。そして、その自分と対話をしてみましょう。感情がいっぱい出てきたら、EFTなどを使ってみましょう。感情がすっかり解放され、にこやかな自分にイメージが変われば、それはそれで大変グッドです。

でも、まだその思いにしがみついている自分がいたら、その自分に向かって「ありがとう、愛しています」と声をかけてあげてみたらいかがでしょうか?そういう思いを握っている自分を受け入れてあげてしまうのです。

わたしは、自己愛を提唱していますが、「自分を愛さなければいけない」わけでは、もちろんありません。人間として生きていく上では、自己愛が高いほうがうんと楽しくて、楽チンです。

ただ、「目覚めの意識、空、知的エネルギー、神」である真の私たちの視点に立てば、自己嫌悪の沼に落ち込んでいようが、自己愛に満ちてルンルン生きていようが、どっちでも良いんです。どっちもOKで完璧です。

真のあなた(わたし)は、こういったことにまったく影響を受けず、まるまる大丈夫です!

答えを探すのを辞めてみる!

金環日食はご覧になりましたか? 私は・・・、忘れて寝ていました! 先週の水曜日、土曜日とセミナーに出席してくださった皆さんありがとうございます! 大阪の皆さん、明日お会いしましょう! 当日参加大歓迎で~す。申し込みなしで直接会場に来ていただいても大丈夫です。

さて、人生には、 “こういう場合は、どうしたら良いのだろう?”という疑問が浮かんでくる状況にたびたび遭遇するでしょう。で、自分では分からない場合は、なんとなく自分より知っていそうな誰かに聞こう!ということで、仕事柄、こういったタイプのご質問を比較的多く頂きます。

例えば、「自分に正直でいるのが良い」と知って、なるほどと納得したとします。で、自分に正直に!と実践していたところ、“ん? でも、どうしよう。この場合は、自分に正直にしていると、人間関係が悪くなるかもしれない・・・”という状況に出合ったりします。

すると、“こういう場合、本当のことを正直に言ったほうが良いのでしょうか?、それとも、とりあえずうまくつくろっておくほうが良いのでしょうか?”といったご質問などを受けるわけです。

セッションでは、そんなとき、私はにっこり笑って“さぁ、どうしたら良いと思いますか?”と逆にお聞きしてしまいます。というのも、カウンセリングとは、それをご自分で決められるようになるお手伝いをするのであって、私がその人がどうしたら良いかを決めることではないからです。というか、その方がどうしたら良いかなど、どうして私がわかるのでしょう?

しかし、こういったタイプの質問が耐えない理由は、結局、私たちはどこまでも「正しい答え」や「より優れた選択」があると思っているからなのでしょう。そして、これが正しいのだと確信してから、“安心”して行動に移りたいんですね。

しかし、分からないケースというのは永遠にあるわけで、そのたびに誰かに聞くか、本を読んで参考にするかしなければいけません。

すると、“こういう場合”や、“ああいう場合” に正しい選択ができる膨大な「ガイドブック」を自分の脳みそにたくさんインプットしておく必要性がうまれてきます。

そしてまた、「そんなときは、~~と考えてみましょう」とか、「それは、~~が良いのです」とはっきりと自信を持って答えをくれる人について行ってしまう可能性も大です。

エゴ(思考)は、はっきりとした答えをもらえると落ち着くので、そういう答えをくれる人が大好きです。しかし、ここで起きていることは、自分で学び取っていくチャンスを失っているということですね。外に答えを求めているうちに自分で考えなくなりますよね。

しかし、人生には「正しい答え」というものは存在しないんです。ここが、人間をやっている面白さでもあり、難しさでもあるかもしれません。

基本的に、正直に伝えても、伝えなくても、どっちでも良いんです。そのときそのときに応じて、自分がどうしたいかだけです。そして、もちろん自分が選んだ行動の結果は、自分が責任を持ちます。

で、もし、行動の結果が嫌だったら、次には違う選択をすれば良いだけです。こうやって自分の体験を通して、私たちは人生を味わい、成長し、自分なりの知恵と経験を積んでいくのだと思います。

ただ、ここで自分の感情や思いに振り回された選択よりも、意識的な選択のほうが、自分が中心にある選択となるでしょう。私たちが、自分の感情や思いに振り回されている状態のとき、選択しているという感覚もないほど無意識な状態で行動しているものです。

そうすると、次にもまったく同じ選択をしてしまう可能性が大です。そして、なぜまた同じ結果に?と不思議がったりしてしまいます。

例えば、仕事を最後まで終わらせないと気持ちが悪い、という場合、気持ちが悪いからどんなに疲れていてもついつい頑張ってしまっているときは、無意識の選択です。

でも、気持ちが悪いから終わらせたくなっている、とちゃんと気がついていて、よ~くそれを認識した上で、どうしようか?と決めれば、意識的な選択になり、自分が中心にあります。で、どうするかはほんとうにどっちでも良いわけです。

目覚めの体験をしてから、私は選択の呪縛(?)からだいぶ解放されてきました。その前までは、どうにかなるし、大丈夫という安心感もがしっとある一方で、正しい選択か良い選択をしないと、将来困ったことになったり、後悔したり、または取り返しのつかないことになったりして、嫌だろうなぁ、落ち込むだろうなぁ、できるだけ避けたいなぁと思っていました。

なので、真剣に悩んでいましたが、今では、まぁまぁ、いいんだよね~、どっちでも、ははは、みたいな感じになってきたのです。楽。

ただ、適当にいい加減に選択するという意味ではありませんよ。先ほども書いたように意識的にきちんと自分と向き合って決めますが、そこにストレスや不安はありません。

AかBかという選択があったとき、とりあえずBを選び、あとでAのほうが(一見)得していた、楽だった、スムースだったという結果になることもあるでしょう。または、極端な話、Bを選んだせいで、全財産を失った、はたまた命を失ったということさえあるかもしれません。そんなとき、私たちの中に激しい自己嫌悪や後悔とか自己批判や他者批判の思いが出てくるかもしれません。

正直なところ、全財産を失うより、激しい自己嫌悪のほうがうんと苦しいんです。私たちが真に恐れているのは、自分を否定しなければいけないことです。

さて、そんな現象が起き、さまざまな思いや感情が渦巻いて、苦しい思いをしているときでも、真の私は、そういったことにまったく動じることなく、静かにそれらを見ているんです。

真のスピリチュアルとは、「いつもかならずうまく行く方法」を教えるものではなく、すべての現象を生み出している源泉としての自分の真の姿を指し示してくれるものだと、私は思っています。

つまり、大海の渦に巻き込まれているとき、深海の静かで安全な場所への道を指し示してくれるものです。

人生がうまく行っているから、私はうまくやれているとか、状況がうまく行っていることを自分がちゃんとやれているかどうかの判断基準にしている人もそれなりにいらっしゃいますね。

それはもちろん間違いではありませんし、マインド(思考)にとらわれ過ぎているより、ハートに従っていたほうが楽しく、物事はスムースに行くでしょう。しかし、ハートに従っていれば、いつもうまく行くということでもなく、何かしらのチャレンジがあったりするものです。

正しい道もなければ、間違った道もなく、ただ違う道があるだけです。「目覚める」メリットは何ですか?というご質問を頂きましたが、積極的な良い意味で「どうでも良くなる」のもその一つだと思います。

つまり、選択の呪縛、正しい答え探し、将来後悔するかもしれない不安、いつもうまくいくことへの期待などなどから解放され、どさっ~と楽になれますよ~。

ということで、明日の大阪セミナー、そして、スピリチュアル心理学で皆さんとお会いできるのもとても楽しみにしております!