先週の金曜日から、サマーセット州の片田舎のリトリートに参加しています!ルパート・スパイラという非二元(目覚め)を教えている先生(覚者)のリトリートです。彼の本は、来年3月に日本でも翻訳版が出ますので、このトピックにご興味がある方、ぜひお求めくださいね。
目覚めについてどんなことが語られているのかは、少しづつアプトプットしていきたいと思います。とにかく真実しか語らないルパートの言葉は、ときには、予測も準備もなくいきなり真実に連れて行かれた感覚になったり、興奮しまくっています。(笑)
多くの覚者のミーティングに出かけていますが、頭の理解ではなく、執拗に何度も経験に導ていくという点で、私は彼のアプローチが大好きです。
で、今リトリートのホールの食堂(写真)でこれを書いていますが、隣でオランダ人が三人、堰を切ったようにオランダ語で話をして盛り上がっています。昨日まで別々に行動していたので、オランダ人だけで固まらないようにしていたのかなぁと思います。
さて、今回もコメントにお返事させて頂きます。コメントありがとうございます。
前々から、ハートというのが何なのか、いまいち分かりません。思考ではないというのは分かっていたのですが、感情でもないとは恥ずかしながら初めて知りました。<省略>ちょうど最近、私も呼吸を観察して自分の存在を感じる練習をしていたところで、「いまここに存在している」という感覚は分かってきた感じです。それは、言葉のまんまに「在る」という意識というか感覚だけで、確かに思考でも感情でもないと思うのですが、ハートというのは、その「存在している」という感覚とも違うのですよね?自分の存在を感じていると、穏やかな喜びの感情が湧いてくるのと同時に、胸の辺りにワクワクを濃縮したような強い感覚がこみ上げてきて、溢れてしまうとどうしていいのか分からないので、抑えている自分を感じます。もしかしてこうした感覚はハートのエネルギーと関係があるのでしょうか?よければ「ハートとは何か?」についてどこかで取り上げていただけたら嬉しいです。
「ハートとは、何か?」を考えることは、ちょっと違いますが、ジョークのどこが面白いかを考えるような感じかもしれません。
「これがハートなのか?それともこっちなのか?」と考え始めたとたん、それはすでにハートの活動ではなく、思考の活動になってしまいますね。つまり、ジョークの面白さが失われるように、ハートの真実が、思考の狭いボックスのなかに入れられてしまいます。
とはいえ、このような疑問(質問)を持つこと自体は、と~ても理解できます。私もそんなふうに、最初は思考の疑問から始まり、ある程度理解を得てから、次にそれを体験にしていくという過程を繰り返していると思います。
で、せっかく、リトリート中でもあるので、ここでルパートの言葉を少し借りてみたいと思います。ある若い女性が“私は自分を完全に見失ってしまった感じがします。私は愛を感じられないんです。愛は一体どこにあるのでしょうか?”と質問しました。それに対してルパートは、
“愛とは感情ではないですよ。私はあなたを愛しています。でも他の人は愛していません。というのは、感情であって、真の愛ではありません。愛とは、分離感がなくなったときにそこにあるものです。愛、真実、美は、同じことを違う言葉で表現しているのです。”と答えました。
おそらく、誰もが体験しているかと思いますが、例えば、誰か(または、何か)と完全に理解し合えた、完全に共感し合えた、または共有できた(例えば、スポーツ観戦で勝利して、知らない人とも抱き合ったり、または、素晴らしい風景やアートの前に我を忘れたり、などなど)瞬間、私たちは、自分とその人、自分とその風景に間にある分離感をすっかり忘れているでしょう。
そんなとき、私たちは感動したとか表現すると思いますが、そこには愛も美も真実も同時にあるはずです。対象が、どんなに悲劇の映画だったとしても、深く感動したのであれば、そこには必ず美しさがあるはずで、美しさがあれば、真実、そして愛もあるはずです。
ただ、私たちがいちいち思考で、うん、愛もあるな、とか分析しないだけの話で、我を忘れるような深い感動の中には、必ず愛(=真実=美)がありますね。一番良いのは、自分でそんなときを思い出し、自分で確かめることです。(分析するとい意味ではなく)
一方、感情はある意味とても表面的なものです。楽しいことを考えると嬉しい気持ちになり、気がかりなことを考えると不安になり、と思考によってころころ変わります。これは、ハートというより、思考活動なんです。
そういう意味で、ポジティブなことを考えて楽しい気分になっていても、これは冊子「秘密の扉を開けよう」にある表で言えば、マインドのステージなんです。もちろん、心配事ばかりしているよりは、はるかに心身に良いですが。
ということで、
自分の存在を感じていると、穏やかな喜びの感情が湧いてくるのと同時に、胸の辺りにワクワクを濃縮したような強い感覚がこみ上げてきて、溢れてしまうとどうしていいのか分からないので抑えている自分を感じます。
とのことですが、この感覚は自分の存在を感じるたびに出てきますか?これを感じているときに穏やかで微妙かもしれませんが、力を感じられませんか? どうでしょうか?この答えは、自分で探るのが一番良いと思います。
ハートについて考えを巡らすよりも、感覚を味わいつくしてみてください。どうしていいのか分からないでいるのは、思考です。なので、思考にちょっと脇によってもらいましょう。
そして、その感覚を十分に味わった状態で生まれてくる思考はどんなものでしょう? 愛(=真実=美)から生まれる思いは、恐らく確信をともなっているでしょう。思考は、自分が主人だと思っているので、ハートでさえも自分のツールにしてしまいます。ということで下記のコメントです!
自分の体の感覚を感じて、自分のハートがokを出していれば、どんなやり方でもいいというのが正解でしょうか。あっ、正解を求めてるんですかね、私は。間違えないようにって。
思考のわなに気がついているのが、大変グッドです!このように思考は、ハートを使って、何が正しいか判断しようとか、自分のしていることや自分の選択が間違っていないかを確かめようとかするんですね。
しかし、これを反対にしてみたらどうでしょう? ハートを主人にして、思考をツールにするんです。私たちは、ほぼいつも思考活動に支配されています。しかし、例えば、前回の記事でご紹介したようなシンプルなエクササイズでも、思考活動からもっとハート活動にしていくことができます。
ハートという言葉を使っていますが、最終的に、ハートは体のどこかにあるかをとことん感じていけば、それは、無限であることが見えてくるはずです。分離感をもたず、無限であるエネルギー、それが真の私たちです♪
★スピリチュアル心理学まだまだ募集中です!★
(念のため、ハートで生きるエクササイズは上級講座に含まれていますが、似たような
エクササイズは、基礎講座でもやります。)
★あゆかの部屋★
東京3月30日満員となりました。キャンセル待ち募集中
大阪は、あと数名空きがあります。