思考から目覚める♪

自分がなにを考えているのかに気づいていない人がいて、
それは、思考の中に深く眠った状態
自分のことも世界のこともほとんど見えない

自分がなにを考えているかに気づける人がいて、
それは、深い眠りからの目覚め
自分や世界を知り始める

さらに、自分がなぜそもそもそんなふうに考えるのか分かる人がいて
それは、目覚めた生き方へのシフト
自分や世界を深いレベルで理解する

あなたはもはや思いや感情の奴隷ではなく、
あなたの目には多くのことが見えてくる

でもさらに、深く深く思いを見つめ、感情を追っかけていく
そこには、まったく無視されていた無数の声たちがある
私の声、あなたの声、集合無意識の声

それらの声を前に、あなたは自分が何も知らないことを知る
分かっていたと思っていた自分でさえ、この尽きない無限のエネルギーの前に

一体自分は何者なのか???・・・・

それは、エゴが降参した瞬間
あなたの真の目覚めの始まり☆

~・~・~~・~・~~・~・~

多くの人が、自分の考えにまったく気がつかずに過ごしているでしょう。なので、気が付き始めるとかなり目からウロコ状態になります。

“私は、母として完璧ではなければいけないって思っていたんだ!”
“人に頼ってはいけないと思っていた!”
“お金は私を不幸にすると思い込んでいた!”
などなど。

気づくまでは、とにかく良い母になることに必死になっていたり、一人で頑張って疲れていたり、お金が欲しいと思いながら、お金が受け取れなかったり。

この自分の思いに気づいていないときが、一番混乱や苦しみを生みがちです。なのでこの状態のとき、一番他者のアドバイスや教えを求め、それにしがみつきます。

苦しいけど、疲れているけど、完璧でいなければ、人に頼ってはいけない、といった思いも活発に生きているため、自分ではどうしたら楽になれるのか分からない・・・という状態です。

このレベルの苦しみは、自分の思いに気づくだけでもだいぶ楽になるでしょう。多くのカウンセリングはこのあたりで終わりです。

でも、気づいただけでは楽になれないという人もとても多いです。それは、そもそも「私は母として完璧でないといけない」という思いが生まれた理由があるからです。

たとえば、親から完璧さを求められていたことが理由であった場合、親に受け入れられたいという衝動や焦燥感、または受け入れてもらえなかった悲しみや怒りがあります。感情がある限り、思いを手放すことはとても難しいんですね。

この場合は、当然感情を解放していくことでぐんと楽になっていきます。ここでセラピーが活躍します。

そして、このように表面的な思いだけではなく潜在意識の思いも自分で見られるようになると、他者の言動も同じように深いレベルで見ることができるようになります。

この状態になれば、不愉快な相手に対しても自分が巻き込まれなくなります。周囲や環境のせいにしなくなり、自分に中心があると感じられ、また一段ぐんと楽になります。多くのセラピーはここで終わりです。

でも、私は欲張りなので、さらに見つめていきます。

完璧でない私はどんな私?親に受け入れられなかったらどうなるの?

セルフイメージと最大の恐れを探していくんです。というのも、それがその人の自我を形成し、大きく影響を与えているものだからです。

完璧でなければ・・・と思っているということは、明らかにセルフイメージの自分は完璧ではないんです。また、人は一番恐れていることを避けようといつも頑張っているんですね。

で探ってみると、もしかすると「私は欠陥品だ」とか「私は残り物」などが出てくるかもしれません。今まで多くのびっくりするような様々なセルフイメージに出会ってきました。

このレベルの癒しは、とても深いものとなります。なぜなら、ある意味その人のアイデンティティ、生き方、ふるまい、思いや感情を形成していた部分だからです。(セルフイメージは一つだけではありません)

そして、このセルフイメージに付随している感情に深く寄り添っていくと、人類が共通して抱いている思いや感情につながっていくことがあるんです。恐れや悲しみ、犠牲者意識など。当然、最初はそれらは自分の思いや感情だと思うでしょう。

しかし、いくら探っても、そこに個人的なストーリーはどうしても見つけ出せず、また、わけのわからない大きさを感じます。このとき、個人を超えた、深く、無限で、そして理解できない世界があることを知るんです。

そのとき、ネガティブな感情と向き合っているにもかかわらず、個としての自分と全体が一つの意識の中で境がないことを感じ、なぜか深く腑に落ちます。

私は全体であり、全体の一部でもあり、何者なのか定義できないけど、一つだけ確信できることは、私が今ここにいること。それは、個が消えて、真の自分を実感する始まり♪

 

☆今週の日曜日名古屋でお会いする皆さん、とても楽しみにしております!
「悟り(非二元)について語ろう」in 名古屋
2014年12月21日(日)13:15~16:50 (残席わずか)

自殺願望・・命をかけて逃れたいものは?

写真:山村琴美

写真:山村琴美

先日夜遅く帰り、駅に降りたのが私だけでした。電車から降りる途中に高価なウイスキーが何本か入っている買い物袋を見つけ、駅のホームにいた夜勤の駅員さん二人に手渡したところ、袋の中を見た瞬間二人の顔が輝き、嬉しそうに顔を見合わせました。たぶん、このウイスキーが落とし主の手に戻ることはないでしょう。

さて、先日フェイスブックに投稿されていた『Saving 10,000 – 自殺者1万人を救う戦い』という映画を見ました。(ユーチューブにフルバージョンがあります)

この映画によると、日本の自殺率はフィリピンの12倍だそうです。一瞬、フィリピンのほうが貧困問題も深刻で絶望したくなるような状況が多いような気がしますが、この数字だけでも、経済状態と自殺率が関係ないことがはっきりしますね。

自殺に関しては、良いことなのか、悪いことなのかといった質問をときどき耳にします。このような質問を聞くたびに私は不思議な気持ちになります。良いか悪いか知ってどうするの?というのが、私の一番聞きたいところかもしれません。

私が自殺に関して一番知りたいことは、なぜ?なんで自殺したいの?どうしたの?なにがあったの? という質問への答えです。その人が苦しんでいる理由が知りたいのです。

で、自殺をしたい理由は人それぞれでしょう。また、自殺の心理に関しては、臨床の報告書や専門書、文献などもたくさんありますね。興味があるので読んだりもしますが、正直言うと、それらの文献は、死にたい気持ちでいっぱいの人を前にはほとんど役に立ちません。たぶん、倒産する会社の特徴や傾向といった分析やデータが、今まさに倒産しかけている会社の役にまったく立たないのと同じようなことかもしれません。

・・・話を戻します。自殺したい理由は人それぞれだと思いますが、彼らが死んでまで逃げようとしているものは、実は陥っている状況ではなく、自分の思考なんです。ある意味それこそ命をかけて必死に自分の思考から逃げようとしているんです。

たとえば、“これで私の人生もおしまいだ”とか、“生きていても意味がない”とかそういった思考から逃れようとしているんです。もちろん、本人たちはそれは思考ではなく、事実であり、状況であると思っているでしょう。

しかし、まったく同じ状況に陥っている二人が、同じ考えを抱くかというと、たいていは違う考えを持つんですね。そして考えが違えば、苦しみの度合いも違います。

自殺願望の例ではありませんが、三十代後半の頃、セラピストとしての収入もさほど多くなかった私は、将来食べていけるのかどうかを不安に思っていました。そこで、多くの人がやりがちな不安を解消するためにさらに頑張るのではなく、一度ちゃんと自分の中の究極の不安に向き合ってみよう思ったのです。

セミナーでもやったことがありますが、ワーストシナリオを描くわけです。すると私の場合、一文無しになって道端で途方にくれている、というシナリオになりました。が、そこで思ったのです。どこかに住み込みで働くということができるのではないか? 私のシナリオはそこで狭い部屋に住みながら働くというものに変わり、そして、そうだ!すべてを失ってもカウンセリング能力は私のなかに残るから、ここを訪れた人の相談にのろう・・・と考えているうちになんだか楽しくなってしまったのです。

人との交流、役に立っている自分というものが、なにもなくても支えてくれるのだなとよく分かったからです。

でも、もし私が道端で“何十年も頑張ってきたのにすべて無駄だった。なにやってもうまくいかない自分なんてくずだ。人生になんの意味もない”と強く思い込み、毎日そんな思いばかりが頭の中をぐるぐる駆け回っていたら、地獄になってしまうでしょう。

お釈迦様も言っていますが、苦しみは私たちの思考が生んでいるですね。そして、死ななくても自分の思考から自由になる手段はたくさんあるんです。

人がものすごく悩んでいるとき、カフェのような気軽に立ち寄れる雰囲気で話をゆっくり聞いてもらえ、セラピーやカウンセリングが受けられる場があるといいなと夢想したりします。また、悩んでいること自体を隠さなくて良い社会になって欲しいですね。

さて、話を進めます。ここからは目覚めの観点から書かせてください。

苦しみの根源は、思考にあると書きましたが、究極の苦しみの根源は、分離した自分がいるという錯覚にあります。ロンドンで開催しているカウンセラー養成講座のマニュアルには、下記の奇跡のコースからの引用文をいつも記しています。

癒しは、神と一体化する思いによって起こる。
なぜなら病(苦しみ)は、神と分離した思いから生じるから。

神という言葉が宗教臭いと思った方は、真の自分と置き換えて読んでも同じです。そして「分離した思い」とあるように、究極的に自我とはただの思いです。思いや感情、体は、分離した私のものだと勘違いした思いです。

真実は、私たちはただの一度も分離などしておらず、分離すること自体不可能です。波が大海から分離できないことと同じです。しかし、分離していると深く錯覚していれば、分離している自分を維持していく努力が必要になっていきますね。

そして、維持していく中で絶望したり、幸せをつかもうとしたり、とにかく多大なエネルギーがそこで費やされるでしょう。これが悪いことだと言っているのではもちろんありません。なぜなら、分離の錯覚も、深い絶望も、すべて真の私でもあるからです。

しかし苦しみからの脱却という点に絞れば、「私」がいなくなれば、「私の問題」も一緒になくなるんです。なくなるといっても、たとえばあった借金がなくなるわけではもちろんありません。分離した私がいるという錯覚から目覚めても、体が消えるわけでもないし、借金もそのままでしょう。

ただ、借金を巡る思いや感情が消えているはずです。誰かを責めるとか自分を責めるとか、または、借金が返せないから自分の人生は終わりだといった思い、それに伴う絶望や悲しみ、怒りなどなどがなくなるのです。

私がいないとき、あなたもいなくなります。なので、責める人がいなくなってしまいます。そして終わりになる人生というものも存在しないこともはっきり見えてきます。また、思考がいかに何も真実を現していないいい加減なものかもよく分かるでしょう

でも、思考は沸き続け、体も勝手に動き、物事は起き続けます。性格もそのままだし、つまらないジョークも相変わらず口から出てくるでしょう。

そして、借金であろうが、どんな状況であろうが、生命の流れに降参していれば大丈夫だと気づきます。状況の中でもがいたり、抵抗したりせず、与えられるものを受け取っていく軽さに変化します。そして絶対大丈夫なんです。

多くの人がこういった話に耳を傾けてくれるようになると、人の心が和らぎ、自殺者も減っていくのではないかなと思ったりします。

昨年書きました、こちらの記事も参考にしてみてくださいね。→★

愛の中で愛に飢える?

最初は、時差ぼけと温度差のダブルパンチでぼんやり、その後は公私ともに忙しく、更新が遅くなりました。さて、今回もコメントにお返事させて頂きます。コメントをありがとうございます!

先日、これって愛なのかなあ・・・と自分の想像力を超える考え方、価値観の方に出会いました。その人は、あるアート系の仕事をしていて、成功していると言えると思います。それで食べていけてます。ですが、その仕事に投じる時間が長くて、パートナーと関係が壊れてしまうことが多いのです。ですが、一番大事なのは理想を追求することであって、仕事が一番大事。その次に、恋愛があるという価値観なのです。<省略>仕事が理由でパートナーが別れを切り出して、一人になっても仕方がないと感じるそうです。<省略>外見は、仕事に充実して楽しそうですが、こういう恋愛関係も愛と言えるのでしょうか。また、この人の仕事は、愛(ハート)に従って生きていると言えるのでしょうか?パートナーを愛していたら、自分と生活を共有したいと思うと思います。どんな職業だって、多忙だって、パートナーと一緒に居られないことはないように思うのです。こういう感覚を持つ人の仕事への想い、パートナーへの想いも、愛に基づいたものなのでしょうか?

このような他者のあり方についてあれこれ考えている場合、私が一番知りたいのは、“本当の質問はなにか?”ということです。この方の場合、もしかすると例えば“私は愛する人と一緒に暮らしたい。でももし、こういう人の愛も本物の愛だったら、そんな人を好きになってしまって、私も愛する人と一緒に暮らせないかもしれない。どうしたら良いのだろう?”といったようなことが、本当の質問かもしれませんね。(完全なる推測です)

真の愛とは、相手に100%の自由があるものです。バイロン・ケイティのセミナーへ行ったとき、ある人が、“私はこれまで彼にものすごくつくしてきたのに、彼は出て行きたいと言うのです。”と泣きながら相談していました。そのとき、ケイティは、“私なら彼の荷造りを手伝ってあげるわ”と言い、みんな大笑いしていました。(以前のブログにも書いた記憶が・・・)

ちなみにケイティは愛をたっぷり持ちながら言うので、相談者も笑ってしまうほどで、言われて傷つくようなことはまったくありません。

自分の中に愛が足りないとき、私たちは、愛を“かたち”で求めがちです。“どれだけ一緒にいてくれているか”とか、“記念日を覚えているか”などなど、内容や度合いは人それぞれだと思いますが、“私を愛しているなら、~~してくれるはず”という愛の“かたち”は、みな多かれ少なかれ持っているでしょう。

ということで、“愛しているなら、一緒に住みたいはずだ”というのも、かたちの一つです。この場合一見、主語が「あなた」になっていますが、本当は「私」なんです。

つまり、自分の意識は、“私を愛しているなら、あなたは一緒にいてくれるはず”ですが、真に求めていることは、“私は、あなたに一緒にいて欲しいの。そうすれば安心できるから。”ですね。

また、自分の中に愛が足りないとき、どうしても思考に走りがちです。愛についてあれこれ考え始め、これは愛なのか、どうなのだろうか?と悩んでしまいます。そして、あれこれ考える場合、たいてい今まで書いたきたような“かたち”を判断しているんですね。

で、答えは絶対でません。なぜなら、愛は“かたち”で図れないからです。また、考えて分かるものでもありません。ただ、自分の中に十分愛を感じていれば、自然と分かってきますね。ですので、もし、愛についてあれこれ考えている自分がいたら、自分の中の愛が隠れてしまっているんだぁと気づいてあげたほうが愛を知る近道です。

そして、この仕事中心に生きたいという方について、愛ベースで生きているのかどうかなど、外からではまったく何も分かりません。その方の心の深いところなど、誰もわからないでしょう。

思考は、こういうのは愛ベースで、こういうのは愛ベースではない、など判断できると思っているんですね。これは、ハートトークなのかどうか?と考えている人も多く、また、判断できるポイントを教えて欲しいと思っている人もそれなりに多いです。

私自身は、なるべくそういった要望には応えないようにしています。というのも、そうすると、そのポイントに合っているかどうかを思考で判断してしまうからです。それよりも、先ほども書きましたが、セルフラブを高めていけば、自ずと分かってくることですね。

さて、目覚めの観点からすると、すべてがありのままに見えたときに「愛しかなかったのだ」ということが見えてくるでしょう。自我の観点からする目には、愛と不安という相対するものがありますが、真我の視点に立つと、不安という感情もすべて愛(真実)から生まれているのだということが見えてきます。

しかし、自我には、どうしても世の中は分離して見え、そしてどうしても愛と不安、ポジティブとネガティブというように相対したものがあるようにしか見えません。また、こういう見方しかしてこなかったため、これを超えた見方をイメージすることが難しく、真実(愛)を求めるときも、この見方をベースに求めてしまいがちです。

つまり、前回の話と重なりますが、不安をなくせば愛だけになれる、真実に到達できると思ってしまったりするわけです。しかし、そうではなく、不安を抱きしめたとき、愛が見えてくるんですね。とはいえ、もちろん真我は不安というものを持ちません。なぜなら、真我はなにかを抱くとか、なにかを持つといった主体ではないからです。しかし、真我のなかに不安という感情が表れ出ることは可能です。

また、愛しかないのに、愛に飢えるという状態が表れでることも可能です。多くの私たちが経験をしているように。なぜなら、自我が自分だと思ってしまっているからです。

ちょっとここでイメージして頂きたいのですが、大海がたんにH2Oであるだけでなく、「無条件の愛」でもあると思ってみてください。そこから生まれた小波は、当然無条件の愛にどっぷりつかりながら、自らも愛そのものです。

しかし、小波は自分が大海とは関係なく、他の波とも分離していると信じ込んでしまいます。大海は次に何が起きるか分からない予想のつかない恐ろしい場所で、他の波も、なにを考えているのかさっぱり分かりません。

また、自分は波としてもいけてなく、能力が低いから、大きな波に簡単にのまれてしまうと不安もいっぱいです。また、理想的な波の形も作れないし、自分は愛される価値がないと思い込んでいます。でも、本質は「愛」なので、そういった自分の状態に居心地の悪さを感じます。また、なにかが欠けていると感じるのです。

そこで、“あぁ、私は大海でもあったんだ!”と思い出せれば、根本解決になりますが、多くの小波は、自分は分離していると信じ込んでいるため、“そうだ!誰か私を愛する波がいてくれて、ずっと一緒にゆらゆら過ごしてくれたら、私は安心できる、私は愛される価値があると思える”と外に愛を求め始めます。

これがたいていの自我の恋愛です。私たちの多くは、愛にどっぷりつかりながら、不足の恋愛ゲームをしているんです。そして、恋愛とは愛を補うものだ(必要性で結ばれている)と思い込んでいるため、大海としての自分に目覚めてしまったら、恋愛する必要がなくなるのじゃないかと思ってしまったりもします。

不足の恋愛ゲームをとことんやりぬくのも、大海が真の自分であると知りながら、小波として恋愛を楽しむのもどちらも大いにありだと思います。不足の恋愛ゲームからも、数々の素晴らしい芸術が生まれましたし。

いずれにしても、愛は私たちの本質そのもので、私たちが愛でなくなることは不可能ですね♪

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私は引退しました&インテグレイテッド心理学

先週末は三日間の上級講座が終わりました。ご参加いただいた皆さんありがとうございます!

スピリチュアル心理学の上級ということで、マインドのステージ、ハートのステージを詳しくみた上で、「真我(真の私)」についてもがっつり行いました。

スピリチュアルに傾倒していた人によっては、自分が信じ、求めていたことが崩壊するような気持ちになったり、混乱してしまった方もいらっしゃったかもしれません。また、人によっては、スピリチュアルな世界を放浪し、やっと謎が解けたと感じた方もいらっしゃったかもしれません。

また、私は目覚めたいわけじゃない!という方もいらっしゃったかもしれませんね。でも、エクササイズ自体は、思い込みを外すセラピーとしても十分使える役立つものだったのでは・・と思っております。

そして!講座でもアナウンスしたのですが、スピリチュアル心理学の名前を変更することにしました!

新しい名前は、「インテグレイテッド心理学(Integrated Psychology)」です。

というのも、スピリチュアルという名前から多くの方が、オーラ、前世、霊能者、といったものをイメージするようで、“あゆかさんは、見えるんですか”などと度々聞かれたりするからです。また、私は心理カウンセリングとセラピーを融合させているだけなのですが、スピリチュアルカウンセリング(って、なんだかよく分からないのですが、リーディングとかチャネリングなどだと思います)をしていると思っている方もけっこういらっしゃいます。

そこで、ロンドンのカウンセリングコースの正式名称が、インテグレイテッド・カウンセリング・ディプロマコースなので、そこから名前を取ることにしました。インテグレイテッドとは、融合とか統合といった意味で、「目覚め(非二元)と心理学の融合」という意味でもぴったりだと思っています。

それに、聞いた人がすぐにイメージが湧かないというのも、誤解されないという点で逆に良いかなと思いました。ですが、本当の名前は、「現場主義心理学」です。

現場(実際の人生)で役に立つ心のしくみしかやらないという意味です。しかし、人によっては目覚め(非二元)というと、なんだか遠い話に感じ、ぜんぜん現場じゃないように感じるかもしれません。“悟るなんて大それたことじゃなくて、私はただ私らしく生きたい”みたいな。

それは、もちろんまったく問題ありません。ただ、覚者は、思考とはなにか?感情とはなにか?人はなぜ苦しむのか?を、心理学のような知識ではなく、「真理」という立ち居地から実際によく見えているんですね。ですので、彼らのメッセージは、人間(自我)の思考、感情を理解したり、苦しみのメカニズムを理解するのに大変役立つんです。

なによりも、現場(セッション)で大いに役立っています。フロイトやユングなどなどよりもずっ~と実際に役に立っています。

ということで、スピリチュアル心理学改め、「インテグレイテッド心理学(Integrated Psychology)」、本名「現場主義心理学」をこれからも自分があきるまでこれからも続けていきます!

さて、何人かの方から「私は引退しました瞑想」のやり方を教えて欲しいというコメントを頂きました。私は、いろいろな本やセミナーを受けた上で、自分流のものを勝手に作るのが大好きです。

自分勝手に作ったセルフヒーリング、セルフセラピー、セルフ瞑想がいろいろあります。その場の勢い(クリエイティブとも言う)で作っているものも多く、再現不可能だったりもします。

ただ、例えばセラピーの場合、トラウマやパニック障害、依存症といったことも扱ったりしますので、知識とやり方の両面をきちんと学ぶ必要があると私は思っています。もちろん、創造性や直感は大切にしたほうが良いと思いますが、適当にやるというわけにはいかないでしょう。

また、いわゆるスピリチュアルな世界にも、メソッドと呼ばれるものも多く、そのメソッドを使えば、超意識になれるとか、変容意識に入れるとか、または高次の次元につながるとか、いろいろありますね。ヒーリングとか、違う意識に入るということが目的であるのなら、こういったメソッドを学ぶのも良いでしょう。

しかし、目覚めといったテーマの場合、私は逆にあまりメソッドやステップに囚われないほうが良いと思っています。というか、逆にそれらは邪魔になるかもとさえ感じます。このへんを混乱している人は多いかもしれません。悟るためには、今の自分でダメでなにかしないといけないと思っているというか。

しかし、上級講座に出席してくださった方々は、体験して頂けたと思いますが、真の私(真我)は呼吸よりももっと近く、すでにいつもここにあり、なので、知ること自体は非常にシンプルで、誰でも5分ぐらいの誘導で感じることが出来ます。(真我ってなに?という方は、の記事をご参考にしてみてください。)

ただ、私たちの多くは、普段自我にすっかり同一化しますので、これが真我だとわかっても、まだまだ個としての私の感覚が強く、真我の本質をほとんど感じられないんですね。

なので、多くの人が最初真我を感じてもらうと、「ただ、静かなだけ」「なにも感じない」「なんか無味無臭」などなどとおっしゃいます。え?こんな程度?という反応が一番多いです。イメージしていたような光と愛に満ちていて・・・みたいなことを体験する人はまずいません。

なので、真我自体にはすぐに出会えても、真我の目から世界を見る、また無限の愛、静けさ、永久の時といった真我の本質を感じるには、自我にひっこんでもらわないと感じられないでしょう。

そこで、「私は引退しました瞑想」を作ってみました。といっても、瞑想とも呼べないかもしれません。

「単に何かしようという思いをすべて止めてしまうだけ」です。瞑想しようとか、真我につながろうとか、「私がなにかする」ことを止めてしまうのです。そして、「私がいる」ことも忘れてしまいます。

そうすると、急にすべての音が耳に入ってくるでしょう。冷蔵庫の音や時計の音、誰かの話し声といった部屋の中の音から、自転車や自動車が過ぎ去る音、誰かが道を掃除している音など外の音。そして、そららすべてに気づいている意識がありますね。その意識が真の私であり、その意識に寄り添うだけです。

何かに到達しよう、なにかをしようとすると、どうしても「私」が頑張ってしまいます。しかし、皮肉にもこれが真我の意識から遠ざけてしまうんですね。なので、ものすごく地味な瞑想ですが、実は近道だったりします。

こうやって真我の立ち居地が深まってくると、次にどんな音、どんなことが起きるのか、私たちはまったく知らないことに気づきます。いつも未知との遭遇なんです。それが真に腑に落ちたら、なんとかしなければいけない、このままの自分ではまずい、といったようなストレスがどっと落ち、ストレスフリーで流れに身をまかせることができるでしょう。

それは、無力でたんに物事に流されているのではなく、無限の愛と知恵に身を委ねた真の理解に基づいた降参であって、それゆえに心に大きな平和が訪れます♪

※次回は、コメントのご相談にお返事いたしま~す!

降参は一番の抗ストレス剤

東京地方は、昨日は強風がすごかったですね~。3階の私の部屋の窓から、何かがバタバタと音を立てて横切りました。どこからか飛んできた洋服(?)だろうか。

さて、覚者と言われる人々(ちなみに欧米では、覚醒体験をしただけでは、覚者とは呼ばれません。目覚めた意識に常にいて、自我にまったく同一化しない人を覚者と呼んでいます。)は、“あるがままを受け入れる”、“出来事に抗わない”、“降参しましょう”ということをよく言います。

覚醒体験をした後も、目覚めた意識にいつもいるわけではない私、早い話、自我意識の私には、それがやはりとても難しく感じられました。なので、すべてをまったく中立に、あるがままに捉えらることができていたあのときのあの覚醒状態に留まっていたい!と思ってしまったものです。しかし、それ自体が勘違いだということも分かっていたので、まぁ、地道に行きましょう・・というところで落ち着いていました。

ところが最近、それが、あぁ~と体感として深く腑に落ちたことがあったのです。それは、東京のセミナーの前日、インフルエンザが治ったとはいえ、エネルギーをかなり取られ、また耳の奥がまだまだ痛むという状態のときです。こんな調子で大勢の方々の前でちゃんと講座ができるだろうか、楽しみにしている人も多いのに・・・など、ストレスを増やす思考と不安の感情に陥っていたのです。

私の思考は、なんとかエネルギーをアップさせよう、耳の奥の痛みを取ろうということに必死になっていました。セルフヒーリングをしたり、青汁飲んだり、ホメオパシーのレメディを服用したり、いろいろしましたが、少し良くなった気はするものの、まだまだ痛みはあります。

私は普段、“私は(存在することから)引退しました瞑想”をよくやっているのですが、そのときは、セミナーをきちんとやり遂げるという思いにすっかり呑み込まれ、そのことを忘れていました。しかし、はっと思い出し、早速、徹底的に降参してみたのです。

自分のエネルギーの低さに、耳の奥の痛みに、セミナーをやり遂げたいという思いに、そして、最後に自分が存在すること自体に100%徹底的に降参し、あきらめたのです。

つまり、体が勝手に動くままに動き、思考がでてきたら、字幕のように眺め、私が考えている、私が動いているという思いを完全に放棄したのです。主体ゼロ状態にしたんですね。

ちなみに、このへんは上級講座で詳しくやりますが、私たちは、いつも次にどんな思いが出てくるのか、まったく知りません。思考が出てくる前に出てこないようにしようとか絶対にできないんです。これは、思考の観察をいつもしている人は、よく分かるはずです。どんなに自分で考えているつもりでも、すべての思考の0.1秒前、その思いが出てくることは、私たちは知らないんです。

これは、思考のしくみの説明をしているのではなく、私たちが毎日体験していることを話しているんです。どうせ勝手に出てくる思考ですから、出てくる思いに抗わず、ただただ気づいている状態で、すべて現れ出るものをただ追っかけていくということをしていたのです。

そうしていると、一つ一つの動きを鮮明に認識することができ、ご飯を食べたり、洗濯物をたたんだり、日常の出来事は起き続けますが、まるで現象のダンスを踊っているかのように、ストレスフリーになっていきます。

その晩、まだ耳の奥も痛みはそのままで、しかも、朝方4時にマンションの上の人がなにやら大きな音をたて続けていたため、4時以降寝ることができなかったにもかかわらず、上の住人への怒りも湧かず、安定した気持ちで無事セミナーを終えることができました。

そして、いかに自分が普段、些細なことにでも嫌だと思ったり、状況を変えようとしているのかが、つくづく分かったのです。朝方起こされるかもしれないんだから、12時じゃなくて、11時には寝るべきだったとか、そういう思考が一切湧いてこないんです。

このとき、降参するというのは、頭ですることではなく、真に起きていることを追っかけていくことなのだということが、よ~く分かりました。真に起きていることとは、沸いて来る思い、感情、体の動き、外の音、他者の振る舞い、いろいろです。

これらをただじっくり追いかけていく、または、ただ気づいているといっても同じでしょう。

これを自我の観点から読んで、頭で実行しようとすると、ものすごく無理があるでしょう。でも、「私たちは、いつも次にどんな思いが出てくるのか、まったく知らない」という意味が本当に分かれば、それは頭の無理やりな降参から、現象とのダンスへと変わります。

目覚めるには、自我を滅したり(自我はもともとないので、ないものをそもそも消滅できない)、執着を手放したりしなければいけないと思っている人もいるかもしれません。しかし、現象のダンスとなったとき、勝手にコントロール欲や執着は落ちていくなぁと感じました。

覚者から見て、自分がコントロールできないことにしがみつき、苦しみを生んでいる人に“あきらめなさい、降参しなさい”と言いたくなるのは、本当に分かります。ただ、それを聞く側が、思考で捉えてしまうので、“できない、難しい”と感じるのもよく分かります。

両方の気持ちがリアルに分かる、中途半端な位置にいるなぁと思いつつ、これはこれで面白いです。ただ、もともと“私は無力だ”という思いを持っている人が、“じゃぁ、私がやる(前回の記事に書きましたが)という思いになって、自分主体になっても、無駄じゃないか”と解釈してしまったら、まったく違うことなんです。

“私は無力だ”という思いは、思考に深くはまり、分離の感覚から生まれてくるものです。一方、真に降参している状態は、思考から完全にフリーになっている状態です。

難しいのは、自我のレベルで必要なこと(“私には力がある”など、インナーパワーを確立すること)が、目覚めのレベルで一見正反対のことを言っているように見えてしまうことですね。

目覚めに直接つながることはありませんが、分離感が薄くなるという意味で、“私には力がある”という思いへシフトすることは、大いに役立つと思います。それに、単純に生きやすいですね。

話がどんどんそれていきそうなので、とりあえず、こういう話を読んでくださる皆さんがいることに感謝、感謝です♪

明日から三日間、上級では、今日のテーマを中心にたくさんエクササイズをやります♪

※去年上級講座を受けてくださった皆さん、新しいテキストをお送りします。(来月以降、少々お待ちください)

がっつり目覚めトーク

太陽が拝める日本の冬は素晴らしい!けれども、エアコンではなく、セントラルヒーティングが恋しい~~~! 乾燥しすぎないし、喉がやられないし。メーカーさ~ん、日本にもガス(風力、水力、地熱でも)セントラルヒーティングを!

さて、何をいまさらですが、皆さんもご存知のように私の本職はセラピスト&カウンセラーです。しかし、長い話をうんと短くして、苦しみの根本を癒すということを追求していくなかで、最終的に「目覚め」に辿りつきました。

なぜ、このようなことを書いているかというと、セラピストが目覚めについて書いているためか、「目覚め」を自分を楽にするツールとして捉えてしまう方が、それなりにいらっしゃるな~と最近感じたからなんです。

“目覚めれば、こういうこともなくなるのでしょか?、こういうことも平気になるのでしょうか?”といったようなご質問をけっこう頂きます。楽になりたくて、悟りを求めること自体は、ぜんぜん問題ありません。ただ、自分が楽になるための“ツール”だと捉えてしまうと、まったく目覚め(悟り)の意味を誤解してしまうでしょう。

ということで、目覚めに興味がない人も多いだろうし・・・というエゴトークを払拭し、今回は、がっつり「目覚めトーク」で行きま~す。

さて、どんな誤解かというと、 “自分が目覚める”という誤解です。というのも目覚めとは、「個としての私はいない」ということを知ることだからです。個としての私がいなくなるから、私のストーリーが消え、それによって真の平和が訪れるんですね。私がいなくなったのに、どうして私の人間関係とか私の人生というストーリーがまだ存続するのでしょうか?

プチ覚醒体験しているとき、「目覚め」のコーナーにも書きましたが、体もはっきり(真の)自分のものではないと分かりました。ましてや私の仕事というものもなく、私の人生もなく、すべて大きなエネルギーの渦としか感じられませんでした。

また、体が自分と関係なければ、一見自分が持っているかのように思える、「私の思い」、「私の感情」も、もちろん(真の)自分とは関係がないのだと分かります。思い、感情、体は誰のものでもないんです。

また、分離感覚がなくなるという意味も、正確に言えば、私と隣にいる鈴木花子さんとが無償の愛でつながって、分離を感じなくなるということではないんですね。

私がいなくなり、真我のみになるから、分離がなくなるんです。思考と感情と体を自分だと思っているのが自我です。そして、自我は、他の思考と感情と体を見て、あっ、他の人がいると思っているのです。

そして、自我はものを分離してみるため、椅子とか、テーブルとか、建物とか、町とか、太陽や月、いろいろなものが独立して存在していると思います。そして、自分の周りに存在する多くのものを見て、これらは誰が作ったのだろう?と考えます。そして、“きっとこれらを創造した神様がいるに違いない”と考え、ここに神が登場します。

ここで、「私と世界、そして神様」という構図が自我によって生み出されるんですね。私もかつてはそんなふうに捉えていました。“多くの人は、私と世界としか考えないけど、私はスピリチュアルな教えを信じているから、私と世界だけではなく、創造主がいることも分かっているのだ。真の私は魂であって、光の存在として、創造主の下へ戻っていくのだ”みたいにイメージしていました。

現象という観点からすれば、決して間違った理解ではなく、魂のゲームという壮大な夢は確実にあるわけです。ただ、目覚めの観点からすると、まだ“私”がいるんです。で、プチ体験をしたとき、魂の成長ということも、幻想なんだ、ゲームなんだということがはっきり分かったのです。“私の前世”とか、“私の魂の成長”とか、“私の~~”と思っている限り、それはまだ夢の中なんだと分かったのです。

とはいえ、目覚めVS夢ということでもありません。思考は、すぐこういった構図を描きがちです。真実は、まさに空即是色、色即是空なんです。目覚めの意識(空=真我)は、現象(色=夢)でもあり、存在しているものは真我のみで、すべては真我から生み出され、真我しかいないんです。真我しかいないと書くと、この世に一人という意味でとってしまう方もいらっしゃいます。自我は、どうしても「固体」としての存在しかイメージできないんですね。

奇跡のコースでは、“この世には誰もいない (no one is out there )”と教えていますが、個としての誰かは、存在しないということです。

なので、もちろんこの世で一人という意味ではなく、真我とはあまねく存在であり、存在のすべてです。観察する存在であり、同時に観察される存在でもあります。ただ、観察するといっても、真我は、あれだ、これだと分離してものを捉え、観察しているのではないんです。主体であり、同時に客体なんです。個別にものごとを捉えるには、主体と客体が分離していないとできないですね。

わかりにくくなってきたかもしれません・・・。

いずれにせよ、お伝えしたいことは、固としての自分が悟るというような話ではないということです。そしてまた、私たちは常に真我の状態だということです。ですから、どうやったら目覚めるか?という問いよりも、どうして目覚めていることに気づけないのか?のほうが、より正確な問いになるかなと思います。

そして、もし、真我を神と呼んだとしたら、私たちはみな常に神なんです。

ここまで読んで、混乱してしまった人のほうが多いかもしれません。しかし、言葉にするから、なんか複雑に聞こえてしまうだけで、真実はいたってシンプルです。真我の意識は、いつも毎日私たちがよく知っている感覚です。あまりに身近なために、見過ごしているんです。どんぴしゃな例えではありませんが、めがねを頭に乗せて、めがねを探しているようなものです。

ですので、愛で満たされた感覚とかすべてと一体化した感覚、恍惚の喜び・・・みたいなものを探していると、たぶん思いっきり見過ごしてしまうでしょう。

とりあえず、私は思考ではなく、私は感情でもなく、私は体でもなかったら、誰がそれらを持っているのでしょうか? ちょっと自分の中を探ってみませんか?思考と感情と体を持っているなにか個体が見つかるでしょうか?

そして、そうやって探しまわっているときにも常にあって、また呼吸よりももっと身近にある感覚、努力ゼロで自然にそこにあるものはなんでしょう?考える、感じる、動くといったことをする以前にすでにあるものは何でしょう?

それは、「私はある」という意識ですね。これが真我なんです。この「私はある」という意識を一日に何度も静かに感じてみるのも良いかもしれません。自我のドラマからあっという間に「いまここ」に連れ戻してくれるでしょう♪

ということで、今回は目覚めトークで突っ走りましたが、セラピーも大好き!ということで、“私のストーリー”、“私の苦しみ”を癒すお手伝いも、今後も続けていきたいと思っていま~す♪

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心が張り裂けそうなのは?

イギリス(ロンドン周辺の地域)は、比較的暖冬で、どうも東京のほうが寒いようですね。来週は日本へ行きます! おでん♪ラーメン♪、山菜そば♪、時間通りに来る電車♪、続けて流せるトイレ♪、ルンルン♪

さて、お知らせです。おかげさまで「あゆかの部屋」のキャンセル待ちの方が多いため、会場を少し広めの場所へ変更いたしました。したがって、3月30日若干お席がございますので、ご興味ある方はぜひいらしてください!(満員となりました)

さて、今日もコメントにお返事させて頂きます。コメントありがとうございます!

いま新しく始めたばかりの仕事しんどいです。エゴトークだと気づくし、いつもならこんなに自分をせめることもないのですが、人に認められたい恐怖で心がはりさけそうになります。人よりいろんなことを感じやすい性質が裏目にでます。仕事ってつらいなぁ、、、と感じています。できるのならこの自己不信や自責の感情と向き合わず逃げたいです。

新しい環境、新しい職場は、慣れるまで緊張するのは、人間の当たり前の感情ですよね。ところが辛いほどになってくると、これはちょっと大変です。

さて、「仕事がしんどい」という表現をなさっていまね。仕事をしていなかったら、こんなにしんどくないわけですから、当然私たちはこのような言い方をするものです。ですが、正確な表現は、「自分の思いと感情がしんどい」なんです。

「認められたい」という思いがもしなければ、新しい仕事もしんどくないわけですね。ですから、「認められたい」という思いと、そしてその思いから沸いて来る恐怖とずっと向き合っているために辛いんです。

なんでこんなことを書くのかというと、多くの人がこんなとき仕事が原因だと思って、仕事を辞めてしまったりするからです。人間関係でも、相手が原因だと思い、その人と縁を切ってしまうなど。もちろん、どんな仕事も人間関係も、自分次第なんだから、辛くても頑張れという意味ではありません。

辛すぎたら、その仕事を辞めてもいいし、またはその相手と距離を置いてももちろん良いんです。また、ひどい職場だったなぁとか、難しい人だった~とか愚痴の一つや二つこぼすのもぜんぜんOKです。

ポイントは、自分の苦しみの原因を見誤らないということです。そこを見誤ると、仕事を変えればいい、相手を変えればいいということになってしまいます。ところが、真の原因は自分の中にあるので、仕事や相手を変えても、同じように辛くなってしまいます。

さて、人に認められたいという思いが、恐怖になるということは、「私は認められない人だ」という思いがその下にあるはずですね。そして、なんで認められないの?と観ていくと、「私は無能だ」「私はできない」「私はダメ」とか、何かしらの思いがあるはずです。

で、潜在意識のレベルで、この思いに向き合うぐらいなら死んだほうがましだ、ぐらいに恐れているため、この思いを味わなくても良いように必死に頑張っているわけです。

もちろん、例えば“私は無能だ”というこの思いそのものは、ウソなんです。過去の出来事や育った環境でそう刷り込まれたため、自分にとっては事実のように感じますが、基本的にウソなんですね。でも、それは本当だと思っていると、下記のような図式ができあがります。

思考(真実だ!)値10+それにともなう感情値10+それにともなう体感値10→超リアル

(ちなみに10がマックスです。)

どの思いも信じれば、信じるほどリアルになっていきますよね? 例えば、“きっと、彼は私のことをもう愛していないんだわ(推測)”と思えば、思うほど、それにともない感情も高まり、胸が苦しくなり・・・・と、とてもリアルになってきます。

ところが、“あっ、私の勘違いだったんだ~”と分かったとたん、感情も体感もどさ~っとなくなりますね。現実だと思っていたものが、急に消えるんです。

さて、話を戻して、“私は無能だ”という思いを信じているだけではなく、そこから逃げよう、見ないようにしよう、そう思わなくて良いようにひたすら頑張ろうとすると、図式はどうなるでしょうか?

私たちは、それがウソだと分かっていれば、逃げたりしませんね。なので、そんなにまでして避けたい、逃げたい、見たくないということは、それがまさに真実だと思っているからです。つまり、避けたい!という思いは、イコール“それは本当だ!”と叫んでいることになります。

ですので、逃げようとすればするほど、 “ウワァ~ハハハ~、お前は無能なんじゃ~~”という声が始終耳元に聞こえるような感じになっていきます。で、図式にすると、

“私は無能だ”思考値20+“恐れ”感情値20+“体が緊張する”体感値20→マックスを超えて、張り裂けそう。く、苦しい!

という状態になります。ですので、向き合わないで、逃げている今のほうがマックスに辛い状態なんです。

感情解放のセラピー(EFT、マトリックス・リインプリンティングなど)は、まず感情値と体感値を下げ、そして思いにワークしていきます。苦しいときは、恐れなど感情が高まっているからです。または、バイロン・ケイティのザ・ワークのように、思いにワークし、あっ、思いそのものがウソだったんだ!と分かることで、感情と体感を解放する方法もあります。どちらも有効です。

また、感情解放のセラピーでありがちなのは、例えば、私は無能だという思いにワークしていると(タッピングなど)、その原因となった記憶が出てくることです。その場合、例えばマトリックス・リインプリンティングなどで、まず感情を解放し、そして記憶を塗り替え、最後にポジティブな思いを刷り込むことで、今度はポジティブな感情値を高められます。

そうすれば、新しい職場で多少不安や緊張感があっても、もっと落ち着いた気持ちで仕事に取り組めるようになります。

さて、ここから目覚めの話になりますが、思考そのものが実体のまったくないものだとしたら? また、感情も体も私たちが思っているような確かに存在するものではなく、実体のないものだったら? 思考値ゼロ+感情値ゼロ+体感値ゼロ=自我ゼロ0→リアル度ゼロとなります。つまり、エゴ(自我)の存在のリアルさが消滅するんです。

実は、思考値がゼロになると、感情も体も一緒に個であるというリアルさがなくなります。個であるリアルさがなくなるだけで、もちろん、思考や感情、体が消えるということではありません。(スピ心理学上級講座では、このへんのエクササイズもやります。)

思考(マインド)を信じれば信じるほど、分離と苦しみが生まれ、それは真実ではなかったと分かれば分かるほど、私たちは自由になれます。そして、真の平和とはここにあるのでしょう♪

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大いなる勘違い

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます!!

さて、皆さんは今年はどんな年にしたいと思っていらっしゃいますか? 私は、今年も「目覚め」(非二元)がメインになりそうです。とくに目覚めとセラピーをどう合体させるかを考えると、楽しすぎてハートが興奮し、子供のようにはしゃいでおります。(ウハハ~!←あっ、子供っぽくない)

で、もちろん、目覚めるためには・・・と意気込むことではなく、「私が頑張る」という状態をできるだけ緩ませ、「私」を維持するストレスからどれだけ自分を解放していくかがテーマです。

あまりに当たり前すぎて気がつきませんでしたが、振り返ってみれば、「私」を存続させること自体が、実はものすごくストレスなんだなぁとつくづく思います。

「私」は食べていかなければいけないし、「私」は、社会に受け入れられていないといけないし、とにかく「私」を維持するには、大変なエネルギーが必要です。

スティーブン・フライというイギリスの役者さんが、“自殺したいとか、積極的に死にたいとか思わないけど、死ぬのはまったくかまわない”とテレビで言っていました。また、フロイトは、“セラピストの役割は、クライアントを極度に辛い状態から日常の普通の憂鬱さに持っていくこと”と言ったそうです。

こういった発言は、「私」という分離した個でいること自体がストレスであることを現しているのかなと思います。分離した個である以上、どうしても恐れがベースになってしまいます。なので世の中には、幸せ探しをしている人のほうが圧倒的に多いのでしょう。

と、書くとマインドは「じゃぁ、個の私がいなければ(死ねば)良いんじゃん」と、結論を出すかもしれません。しかし、そういうことではなく、今までずっとしてきた長年の勘違いに気づけば良いんです。

それを説明する前に、もう一つ、あまりに当たり前すぎて気がつかなかったこととして、「私たちは、文字通り24時間どこでも無限の豊かさの中に生きている」ということです。生命が終わるということは、今まで一度もなく、形を変えながらも、常に生命は生き続けているんです。

目に入るものすべてが、その生命力(創造主)から生まれ、私たちは文字通り、無限の豊かな生命のエネルギーの中に存在しているんです。同じことを繰り返して書いていますが、これが頭ではなく、実感として分かったとき、“人間って、無限の豊かさの中で不足のゲームをしているんだなぁ”とはっきり感じられたのです。

もっと正確に言えば、真の私たちは、無限の豊かな生命のエネルギーそのものなんです。ところが、小さな「私」という感覚(自我)は、不足していると感じながら、それを補おうと必死に頑張って生きているんですね。

自分が世間の役に立っていない(自己価値の不足)と思えば、すでにこの無限の豊かさのなかにしっかり存在しているのに、あたかも居場所を与えてもらえないかのように縮こまって生きたり。

または、自分の自己否定の思いの犠牲になっていまい、愛に包まれながら、恐れの闇を作ってしまったり。または、人より多く持つことが、より生き残りのチャンスを高めると思い、自分さえ良ければと欲に走ったり、などなど。

人間の世界で、食べ物が不足したり、または愛に欠けた行動が多いのは、こういった真実を見過ごしているからだろうと思うのです。こんなに愛に満ちた無限の豊かな生命のエネルギーのなかに存在しながら、不足がある、愛が欠けること自体が本来不自然です。

なので目覚めとは、自分はほんとうはどこにいたのかを知ることなのかなと思います。ただし、このときの自分とは、個としての自分ではなく、目覚めた意識の自分です。個としての自分は、長年勘違いしてきた自分です。

で、「勘違い」とは、私たちはこれまでずっと「思考と感情と体」(自我)が自分だと思ってきたということです。その「思考と感情と体」の自分が人生を生き、「思考と感情と体」の自分が、たくさん瞑想すれば目覚めるとか。

しかし、「思考と感情と体」=自分ではなく、「思考と感情と体」に気がついている自分(観察者)が、真の自分だとしたらどうでしょうか?

ちょっとここで“私は、思いです”と言ってみてください。う~ん、なんか違う、と思いませんか? では次に“私は、感情です”、そして“私は、体です”と言ってみるとどうでしょう? やっぱり、なんか違う感じがしませんか?

思いや感情は体は、私たちが持っているもので、私たちそのものではないですね。「私は悲しみだ」と言ってみれば、一目瞭然にそれが自分じゃないと分かるはずです。

また例えば、「私は役立たずだ」という思いをあなたが持っているとします。で、もし誰かに“あなたのおかげで助かったよ”と言われ、“あれっ、自分が思っていたほど役立たずじゃなかったんだ”と思いが変わったとします。思いは変わりましたが、あなたは変わっていないですね。

で、あなた自身は一切変わっておらず、思いだけが変わっただけなのに、あなたはあたかも自分も一緒に変わったような気がしたりするでしょう。

こうやって、思いを信じ込み、その思いと自分と同一化することで、苦しみは出来上がります。無限の愛と豊かさのなかで、不足のゲームが始まるわけです。思い、感情、体に自分を同一化したとたん、制限が生まれ、制限が生まれると、不足が生まれ、不足が生まれると、恐れがベースとなります。

では、 思考も感情も体も自分でないのなら、それらを持っている自分、それらがあることに気がついている自分は、どんな自分でしょうか? 「思考と感情と体」を取り去ったあとに残っている自分は、どんな自分?

これは、決して思考の遊びではなく、真の私にシフトする問いかけです。

思い、感情、体に同一化するのをやめ、それらに気がついているほうの意識にもっと寄り添っていけば、そこには静けさが現れてきます。そして、静けさの中から喜びが現れ、感じ続ければ、制限のない空間が広がり始めるでしょう。

すると、“な~んだ、リラックスしていけば良いじゃん~”と、どさ~っと力が抜けていくでしょう。ということで、2013年も人生を深刻に捉えず、さらにゆるゆる生きていきま~す!

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地球の新しいサイクル、マインドからハートへ

こちらはクリスマスで、オフィスなどはお休みのため、なんだかのんびりしてしまいます。12月21日は、皆さんどのように過ごされましたか? 私はちょっと長めに瞑想をし、あとは普通に過ごしました。イギリスの友人は、“私は今年、クリスマスのプレゼントを買っていないの。どうせ世の中終わるから~、ははは~!”とふざけていました。

ガイアの教えを読んでくださっている皆さんは、もちろん世界の終焉など信じていらっしゃらなかったと思います。ガイアによると12月21日は、5125年を5回繰り返した周期が終わる日で、地球は他の惑星とともに新しい周期に入る(った)とのことですね。

これを信じるかどうかは、もちろん皆さん次第です。ただ、事象はすべては移り変わります。宇宙や地球、そして私たちもその事象であり、それらが常に変化(進化)しているという事実は否定できません。その変化(進化)の中で地球が新しい波動へとさらに移行していると思う(感じる)ことは、ワクワクすることですね。

で、ガイアによると、波動が高まることで、思い込みや古い概念が緩んでいくとのことです。また、そのために、逆に心の深いところに抑圧していた思いや感情が浮上し、うっ、苦しい~という人も多いだろうということです。

いずれにせよ、マインド(思考)からハートへ移行していくことで私たちの分離感も和らいでいきます。ちなみに私がここで言っている「分離感」とは、自分と相手が別の存在だと感じていることを指しています。または、例えば自分とテーブルは、それぞれ独立した存在であるという感覚です。つまり、普段の人間の感覚ですね。

目覚め(真実)の観点からすると、私はあなたであって、そして私はテーブルでもあって、すべてはつながっています。自分ではないものなんてどこにもないんです。これが真につながっている感覚です。

と、書くとそれをまた頭で理解しようとする人もいるでしょう。しかし、せっかく波動も助けてくれているようですので、頭の理解からハートの体験、そして目覚めへと移行していく良いチャンスかもしれません。(※目覚めに関しては、必ずしもこのステップ通りでないといけないということではありません)

で、まずマインドからハートへ移行するときに、一番ブロックになるのが抑圧されたネガティブな感情だと私は思います。ということで、今回はちょっと私の癒し体験を書かせてください。

以前、自分ではまったく気がついていなかったのですが、自分が被害者意識を持つことを一切許していませんでした。なので、被害者意識や自己憐憫に陥っているを見ると無性に腹が立っていたのです。その頃は、“なんで自分に力があることに気づかないのだ!”と自分は分かっているけど、あの人たちは・・・みたいな目で見ていました。

しかし、抑圧→投影のしくみを知ってから、私のなかに被害者意識があるのだということが分かってきました。でも、そこを見つめてワークする気にまったくなれませんでした。しかし、人間関係のなかで、被害者意識ボタンをど~んと押される出来事があり、見ないといけないんだぁ~と重たい腰をあげました。

まず、被害者意識に陥った感覚に集中すると、嫌悪感、吐きそうな感覚、悲しみ、無力感などが感じられました。しばらくただ感じていると、あるイメージが浮かんできました。木造の質素な家の中が見え、入り口に若い女性が立っていました。その女性を見たとたん、私は嫌だ!近寄りたくない!と強い嫌悪感を感じたのです。

若い女性は、顔をうなだれ、幽霊のように力なく立ち、私が大嫌いな被害者意識そのもののエネルギーに包まれていたのです。とっさにそれは自分の中の被害者意識が、若い女性というシンボルで出てきたことが分かりました。そして頭では、こんなに傷ついている自分の一部分を抱きしめてあげれば良いと分かっているのに、嫌悪感で近づくことすらしたくないのです。

つまり、私は自分の中にあった被害者意識をここまで嫌っていたわけです。そりゃぁ、他の人の被害者意識に腹が立つわけです。近づけないと思っているうちに、若い女性は赤ちゃんの姿に変化しました。赤ちゃんは無力感いっぱいで泣き続け、私は赤ちゃんは抱いてあげることができたのです。

潜在意識ってすごいと思うのは、こうやって勝手に変化し、自己ワークを助けてくれることです。マトリックス・リインプリンティングなどでは頻繁に起こります。自分の中の無力感をしっかり抱きしめ、私はやっと若い女性と向き合う準備ができました。長い間放っておいてごめんねと謝り、手を握り、涙をいっぱい流しました。

こうやって、私のなかの被害者意識は、否定されたり、排除されることなく、きちんと私の中に統合されたのです。その後も被害者意識に陥いることは、もちろんあります。そのときは、気持ちが落ち着いてきたときに、胸に手を当てて、私の被害者意識ちゃん(クララと呼んでいます)を思い浮かべ、手を握りしめてあげます。そうすると、す~っと心が落ち着いていくのです。

癒しも目覚めも、ネガティブなものを排除して、ポジティブな感情だけ感じることを目的にしているのではありません。被害者意識というマインド中心の状態から、傷ついている自分の一部分の手を握り、抱きしめ、自分をさらにハートへと導いていくことがポイントなんですね。

そして、ハートから出来事をもう一度見たとき、自分がいかにストーリー(期待や恐れ、思い込みなどの思考)にはまっていたのかを、初めてきちんと見ることができます。

こういったことを繰り返していくうちに、いつしか、ストーリーを手放しやすくなっていきます。

と、同時に私がロンドンカウンセリングコースでもいつも強調していることが、「自分の思考を観察してください」ということです。私たちは、考えて生きていくという生き方しか知らないため、いつの間にか「ただ考えている」状態で日々をすごしています。

それなりに自分を癒してきた人でも、自分の考えに深く囚われている人は、けっこういます。それぐらい「考えて生きる」癖は、私たちの骨の髄まで染み込んでいるんですね。

自分の思考を観察することで、思考に同化し、思考に動かされて生きていく状態から、まずは、思考に同化していないスペースを自分の中に持てるようになります。例えば、「思考を観察しよう」と思った瞬間に、“どうやってやるのかな?”、“観察するってどういう感じだろう”とか、すでに多くの思考が沸いて来るでしょう。それをスクリーンにテロップが流れているのを読むかのように、ただ気づき、観察するということです。

そして、一日のうちで何回か、テロップを止めて、ただすべてを感じてみましょう。2,3分でもいいんです。自分の吐く息、時計の音、他の部屋の物音、テレビの音、一切判断をしたり(“テレビの音がうるさい”とか)、レッテルも貼らず(“時計の音だ”とか)、ただ聞いてみます。そのうち、ただ単に出来事が起きている静かな空間が感じられてくるかもしれません。

そうしたら、ハートに寄り添い、ハートのエネルギーをよく感じ、そして「ただいま」とハートの中心でささやいてみませんか?

それでは、2013年が皆様にとってさらに、緩やかで優しく、そしてハート活力に満ちた年になりますように!

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★大阪あゆかの部屋、若干お席あり

※12月29日~1月3日までお休みとさせて頂きます。

あなたは魚ではない!

今回は、前回も書いたルパート・スパイラさんのリトリートの体験をシェアさせて頂きま~す!で、多くのことをシェアしたいのですが、今日は5日目に体験したことを書きたいと思います。リトリートは、基本的に30分瞑想、30分ルパートの話、1時間質疑応答という2時間のミーティングが一日に朝と夕方二回という構成です。

5日目の瞑想時、前の晩よく眠れなかったせいもあり、私は目をつぶると寝ちゃうという状態が続きました。そこで、画期的な解決方法として、目を開けて(!)瞑想することにしたのです。目を開けたまま、前の日までやっていた瞑想、「thinking, sensing, perceiving」(思考、感覚、見る行為を観察する)をなにげなくやっていました。

自分の思考、体の感覚、感情を観察し、また目に見えるもの、会場の机、机の上の花、録音器具、暖房などなどを眺めていました。そのとき、その日までのルパートの話とプチ覚醒体験の状態が思い出され、すべては愛でできていて、これらすべてが真の自分なんだと感じていました。

とはいえ、プチ覚醒体験のような何かが大きくシフトした感じはありませんでしたが。そうこうしているうちに、突然今までルパートの口から毎日何度も聞かされていた言葉、「Awareness can not turn back and look at itself」(目覚めた意識は、自分を振り返って観察することができない)が浮かんだのです。

そこで、思考や感情、そしてテーブルなどを観察するように、「それらに気がついている意識」を観察しようと試みると、あっ、できない!・・・・、その瞬間、それがいかに真実であるかが体にヒットしたのです。私はすべてを観察できるけど、すべてに気がついている意識を眺めることができないと。

その直後、私の心臓はものすごく高鳴り、強い恐怖がわきあがってきました。息ができないような感覚になり、足も震えていました。直感的に、エゴが自分の死を感じて怖がっていると分かりました。

ただ、私は「おぉ、すごい恐怖が出てきたじゃないか」とけっこう楽しんでいました。腎臓も痛み出し、いかに恐怖のレベルが高いかも感じました。が、やっぱり怖くはないんです。(腎臓は次の朝まで痛かった)

意識は、すべてがくまなく無限の豊かさなのだということが分かっていました。時間は思考が生み出す幻想で、思考がなくなると、時間もなくなることもはっきり分かりました。

そして、この生命の無限の豊かさのなかで、私たちは制限のゲームをしているのだなぁとつくづく思ったのです。何かが終わるとか、なくなるとか、足りないとか、そういうことはあり得ず、自我は思考ですべてを捉えるために、無限の状態を完全に見過ごしてしまうのだと。

お金に例えると、大海のなかにいる魚が、500mlの水のボトルを手に入れ、“あぁ、1リットルのボトルがたくさん欲しい”と言っているのと同じだなと思いました。または、将来水がなくなるかもしれないから、ボトルをいっぱい貯めておこうとか。

ちょっとあるお魚の話をしましょう。

大海に住む魚のトビは、物心がついた頃から、自分の周りにはいろいろな存在やものがあって、なんだか周囲は怖いところだと感じていました。トビの目には、他の魚たちや海草やら、魚の家々やら、いろいろなものが分離して、お互いがまったく関係を持っていないように見えます。そして、はるかかなたまでいろいろな生き物が生息し、無限に続く海底の土を見渡し、自分はちっぽけな魚にすぎないと感じ、なんとか同じグループの魚たちに受け入れられて、えさを確保して生きていかなければ・・・と頑張っていました。

しかし、そんなふうに生きていくことに疲れ、疑問を持ち始めたトビは、ある日「あなたは魚ではない!」というショッキングはタイトルのセミナーを見つけました。なんとなく足を踏み入れてみると、そこでは、ある魚のマスターが「あなたは、本当は大海なんですよ。すべての存在の源であり、またすべての存在そのもので、そしてすべてを活かし、無限に広がる大海なのです」という話をしていました。

「い、意味が分からん!現にこの小さな体があるじゃないか。」と思いながらも、トビの心の奥底で大きく感じるものがありました。そこで、トビは機会があるごとにそのセミナーへ足を運ぶことにしました。

そのセミナーでは、体を感じる瞑想もあります。「尾ヒレをよ~く感じましょう。鱗が水と触れてかすかに動く感覚・・・・、そして、えらの感覚の先をずっと追っていってください。どこかで感覚が切れるところがあるでしょうか?・・・」など瞑想を繰り返すうちに、トビは、自分の体と大海はつながっているのだとだんだん感じられてきました。

何年かが過ぎ、真の自分のことについてだいぶ分かってきたなと感じていたある日、トビは「すべてが存在していること」を分かっている自分(意識)が常にいる(ある)ことにはっと気がつきました。それは、セミナーで魚のマスターが繰り返し言っていた言葉で、今まで何百回も聴いた言葉でした。存在している自分がいて、それを分かっている自分がいる。ぴちゃぴちゃ泳いでいる自分が自分で、じゃぁ、それを分かっている自分はなに? この問いが、なぜかこの日は、体全体がひっくり返るほどの衝撃を持ち、トビは本当の自分は、泳ぐ自分を永遠にじっと見ていた大海のほうだったのだと悟りました。

その後トビは、周囲は本当は温かい場所で、エサの心配をいつもする必要もないんだと分かり、平和な気持ちでトビとしての人生を送りました。

思考には、水が一切目に入りません。思考が把握できるものは、現れて消えていくものだけなんですね。なので、永遠にいつもすべてを通して、あまねくいきわたっているこの意識を感じることができないんです。でも、あまねくいきわたっているうので、探し求める必要もないんです。

思考が捉えられないだけです。とはいえ、思考を悪者にしたいのではありません。思考もこの無限の意識によって生み出されたものですから。

目覚めを求める姿は、ある意味私も含めて、毎日大海の中に住みながら、大海ってなんだろう?と考えるようなものです。ただ、私たちは思考と感情、そして肉体に100%同一化しているために感じられないんですね。

大海の中の魚が、自分が大海の中で生きていることを信じようが、信じまいが、その事実は変わらないように、真の私たちが無限の豊かさであることは、私たちが感じられようが感じられまいが、やはり真実は変わりません。

プチ覚醒体験をしただけの私は、まだまだ目覚めの生徒です。でも、これからも皆さんに知識ではなく、体験から分かったことをシェアしていきたい!と思っております♪

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