悟りよもや話

悟りというと、瞑想とかヨガの修行とか、またはチャクラの浄化とかカルマの解放とか、何かをして悟るというイメージを持つ人も多いかもしれません。

そういう意味では、私の場合、それはやはり「セラピー」だったといっても決して過言ではありません。

とはいえ、悟りのマスターの中には、セラピーをやっても悟れないよ~という話をする人もそれなりにいます。なぜなら、セラピーは「私のストーリー」を改善することが目的で、「実は私はいない」という流れにならないからです。

ただ、私が当時からある意味不思議だったことは、カウンセリングの授業で学ぶ心理学よりも、悟りのマスターが話すエゴのしくみのほうが、よっぽど自分にも、そして実際のカウンセリングの場でも役に立ったことでした。

ですので、奇跡のコースやバイロン・ケイティ、エックハルト・トーレといった人たちの本は、ものすごく参考になりました。ちなみに、インテグレイテッド心理学はそうやって生まれた心理学です。

しかし、今になってみれば、自我の目線で自我の働きを知ろうとするよりも、気づきの意識の視点から自我を眺めた方がよっぽど分かるなぁということが分かります。

さて、当時もう一つ疑問だったことが、バイロン・ケイティにしても、エックハルト・トーレにしても、鬱のどん底でいきなりある日悟ったということでした。

当時はたまたま運が良い宝くじに当たったような人たち・・・みたいに考えていましたが、今ではその理由も分かる気がします。

というのも自我の死は、本当の自分である「気づきの意識」の誕生だからです。もう少し説明させてください。

彼らの自伝を読むと、バイロン・ケイティは鬱の症状がひどかったときに、自己価値も地に落ちるだけ落ち、自分はベッドに寝る価値もないと思い込み、床に寝ていたそうです。エックハルト・トーレもベッドから何週間も起き上がることもできなかったそうです。

では、突然一体何が起きたのでしょうか?

これは私の説ですが、自信はそれなりにあります。自我があまりに自分自身を保つのに苦しくなってしまったとき、自分を相手にしていることがもはや大変すぎて、精神的に自分を完全に放棄してしまう・・・ということが十分あり得ます。つまり、それは「自我の死で」す。

自我が死んだとき、そこに残るのは「気づきの意識」だけしかありません。つまり悟りです。

念のため自我の死であって、肉体の死ではありません。

ちなみに、私は生まれる直前の記憶もあり、また臨死体験もしていますので、体を持っていない時も意識がしっかりあったことを経験しています。ですので、自殺(肉体の死)が苦しみの終焉にならないことは明らかだと思っています。

また話を戻して、ただこの「自我の死」は意識的に行うことはかなり難しいでしょう。自分をなくそうとする自分がいるので、その自分がいる限り、自分をなくせない・・・というサイクルに陥っていまいます。なので、これを意識的にやろうとすると、単に自分をあきらめた自分がいるだけになりがちでしょう。

さて、このように鬱のどん底から目覚める人もいれば、ガンガジのような方もいます。

ガンガジなどは、幼少時代の家庭環境のためにいろいろ深く悩むことが多く、スピリチュアルな道に入ったものの、最終的には心から愛する夫とかわいい娘、平均以上の経済的余裕を手に入れました。ところが、私はまだなにか欠けている感覚がある・・・ということで、心から自由になりたいとパパジのもとを訪れたのです。

つまり、死ぬほど辛くなっても、すべてを手に入れても、自我が求める行先は最終的に同じなんですね。でも同じなら、ガンガジルートがいいなと思う人は多いかもしれません。(笑)

ここで話がやっと最初に戻って、私の場合、苦しみのどん底というような辛さもなく、すべてを手に入れた感もなく、そういう意味で中途半端な状態だったと思います。

ただ、最初は楽になりたくて、途中からは「自分を見つめる」のが趣味になり、思い込みを解放し(←悟り用語では“心の浄化”)、過去生も含めた感情や思いを癒し(悟り用語では、“カルマの解消”)・・・とセラピーでせっせと自己ワークを何年もやっていました。

で、知らなかったのですが、これは「プログレッシブ・パス」というものだったのです。

ラマナ・マハルシ(インドの悟りのマスター)から、西欧ではジーン・クライン、フランシス・ルシール、そして私の先生であるルパート・スパイラと「ダイレクト・パス」という流れがあります。

「ダイレクト・パス」は、本当の自分は何か?を直接体験を通して理解し、それがしっかり分かった後に自我意識に戻されてしまう思いや感情を見つめ、解放していくというものです。

一方、「プログレッシブパス」は、自分を見つめ、心を浄化し、カルマを解放して・・・などなどを行い、ようやくマスターから本当の自分とは?という教えをもらう、という道筋です。こちらのほうが一般的に多く、インドではグルを囲んだコミュニティがいくつもできました。

ですので今でも多くの人が、悟りというと何かをして到達するもの、というイメージを持っているでしょう。自分は欠けている、不完全だと信じている自我にとってはある意味分かりやすい話です。

いずれのパスにせよ、共通点はどちらも自分の経験を深く見つめるということです。

自分を見つめずに、悟りのテクニックや理解に走ってしまった人々にもそれなりに会いますが、自分の思考を観察しきれていないため、逆に自分の「悟り論」に振り回されているなぁと思います。

自我の死が、本当の自分の誕生であれば、自我が心の底から求めていることは、自分の死であるという、それはまるでせつないドラマのような話かもしれません。

しかし、実は自我というものも存在しておらず、自我の死とは、言ってみれば個としての自分がいるという思い込みの解放です。

根深い、根深い思い込みですが、それが見抜けたら、人生に深刻になる無意味さに笑がこみあげてくるかもしれません。または、主体なしに経験だけがあるミステリーに圧倒されたり、またはずっと昔からよく知っていたなつかしい感覚に包まれるかもしれません♪

いずれにせよ、個から全体への大きなシフトです☆

明日から3日間、EFTの講座でお会いする皆様、とても楽しみにしております!

お知らせ

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2014年11月30日(日)

4つの次世代癒しのツールについて
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☆☆☆☆「悟り(非二元)について語ろう」in 名古屋☆☆☆☆
2014年1221日(日)13151650

原因と結果を超えた場所

写真:山村琴美

写真:山村琴美

おととい日本に到着しました。東京のほうが若干寒いですね♪ さて、なんだかとても忙しくなってきました。一つは、次の本の原稿の締め切りが目の前に迫っている・・・ためです。そこで、ブログの記事と本の原稿を別々に書く時間がない、そうだ、ブログに本の記事を書いてしまおう・・・ということにしました!ただし、1)没になるかもしれない、2)激しく編集される可能性大、です。

新刊は、悟りベースの癒しのような観点で書いております。ご意見、ご希望、大歓迎です!

さて、悟りの観点である意味一番分かりにくく、ある意味一番大切なことは、「主体と客体」がないということです。

インドのヒンズー教のヴェーダという古い教書には、これを「アドヴァイタ(二つではない)」という言葉で説いています。欧米では、それをそのまま「非二元(non-dualiy)と訳し、悟り(エンライトメント)という言葉よりも一般的に使われています。

通常の私たちの認識は、例えば「私が音楽を聴く」というように、主体の私が客体の音楽を聴いているというものです。つまり、私と音楽は分離した関係なんですね。

しかし、真実は「私」と「音」と「聞く」は、同一であって、決して分離していないのです。「私はいない」というお話をこれまでにしてきましたが、「私がいない」のであれば、誰(主体)が音楽を聴いているのでしょうか?

また、本当の自分はすべてであるというお話もしましましたね。それは、文字通りすべてなのですね。つまり、本当の自分は、音でもあり、聞くという行為でもあるんです。

でも、脳や耳が音楽を捉えて、聞こえるのではないか?と思う人もいるでしょう。では、その脳や耳を持っている主体はどこにいるのでしょうか?

どんなに探しても見つからないはずなのです。

分かりにくいでしょうか?

悟りの話の難しい点は、ある時点から頭で理解することは不可能になることです。逆に頭で理解しようとすればするほど、二元の自我の視点に陥ってしまうため、真実から離れてしまいます。

ですのでもし、分かりにくい場合は、

本当の自分は「無(空)であって、全体である」

そして、

世界をコントロールしている主体はいない。

と思ってみても良いかもしれません。

自我の視点では、ものごとは必ず誰かが起こしていることになります。自分か他者か、そうでなければ、神様や宇宙のなにかなど。

そして、この誰かが何かを起こしている、決めているという見方が、苦しみを生むことがけっこう多いのです。

たとえば、何かが起こると、私たちはつい“なぜ?”と考えてしまいますね。 “なぜ、こんなことが起きたのだろう?”、“なぜ私に?”などなど。自分が出来事や天の気まぐれの犠牲者のように感じてしまうものです。

もし、なぜ?の答えが分かれば、理由が分かって納得できて、前に進めるような気持ちになれるからなのかもしれません。または、どうしたら良いのか、方法が見えてくるかもしれないといった思いもあるでしょう。

例えば、交通事故の原因や洗濯機が故障した原因などは、原因が分かれば、方法も見えてきます。しかし基本的に、なぜ?というのは、主体と客体、原因と結果があるという自我がもつ二元的な考えなのです。

主体と客体が同一であるということは、時間と距離もないので、原因と結果という時間を含む事象もないわけですね。

悟りの一瞥体験をしたとき、なぜ「今まで何も起きたことはなかった」という感覚が強かったのか今ならとても分かります。

例えば、夜ベッドの中で見る夢の中で、私たちは場所をあちこち移動したり、まるで距離や時間があるかのような気がしませんか? でも、朝起きたとき、あの場所、あそこにあった空間はどこに行ったのでしょうか?

ある意味、私たちの人生も同じようなものなのです。なので、奇跡のコースには、「今まで何も起きたことはなく、あなたは夢を見ているだけである。あなたは一度も暖かいベッドを離れたことはない。」と書かれているのです。

さて、このような真実の観点からすると、“なぜ、こんなことが起きたのだろう?”という問い自体が成り立たなくなるでしょう。

そもそも、人生には答えがないということは、悟りの話を持ち出すまでもなく、実は私たちはうすうす分かっているはずなのです。

例えば、“どうして私はあのときあの場にいてしまったのだろう。もう一時間早く着いていたら、あの事件に巻き込まれなかったのに。”という思いに答えはありませんね。

もちろん、思考はあれこれ推測を搾り出すかもしれません。または、霊能者のような人が、“それは、先祖の○○代でこんなことがあって・・・”とか、前世のカルマ説などを、教えてくれる人もいるかもしれません。

しかし、どんなに答えを探し出しても、最終的には、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないのです。つまり、分からないのです。

こうやって見ていくと、人生には答えがないことばかりが溢れているのでしょう。“なぜあんなかわいらしい少女が、こんな悲惨な死に方をしなければいけないのか?”など、新聞やニュースにはそう思いたくなる出来事が報道されています。

しかし、悟りの観点からすると、犠牲者も加害者も出来事のタイミングも状況もすべて一つのソースが生み出し、またそこにそれを引き起こした主体はいないのです。

だから加害者には罪がないから許しましょうとか、そういう話ではありません。“なぜ?”という思いが有効ではないという話なのですね。

“なぜ?”は、私たちを犠牲者意識や加害者意識に閉じ込め、苦しみを長引かせます。また、自分が引き起こしたと思い込むことで、後悔や罪悪感にさいなまれることも多いでしょう。

“あのときなぜ気づけなかったのだ・・・”、“あのとき、なぜあんなことを言ってしまったのか・・・”

自我は、自分は気づけたはずだ、言わないでおけたはずだと責めてきます。これはとても苦しいですね。

しかし、主体がいないという本当の自分の観点からすると、“そのように起きる以外には、起きなかった”のです。

これはある意味、みもふたもない感じがするかもしれません。しかし、もしこれが単なる考えではなく、真実としてみえてきたら、そえはあなたを自分や誰かを責めるという苦しみから解放してくれるでしょう。

そしてもし、“なぜ?”という思いから、“どうしたら?”という思いに変えてみたらどうでしょうか?

“どうしたらこの感情から抜け出せるのか?”、“どうしたら、今楽しくやれるようになれるか?”など。これは、思いが“今”に向いているので、気持ちが前向きになっていきませんか?

私たちの思いが過去に囚われているとき、完全に思考の中にいるため、基本的に不安定になります。

でも、“今私がやることは、出来ることは何か?”という思いは、私たちを“今ここ”という創造の根源の場に戻してくれます。

実際、頭の中以外で過去を経験することはできるでしょうか? または、今、未来を経験することはできるでしょうか?いいえ、未来も頭の中にしか存在しませんね。

誰も、“今ここ”しか経験したことがないのです。思考は何も真実を指し示さないということを見抜けば、過去や未来に思いっきり連れて行かれることもなくなるでしょう。そして、常に今ここにある本当の自分の力と出会えますね。

聖書に放蕩息子の帰還というお話があります。父から財産をもらった息子が旅先で散財し、ついには一文無しになり、落ちるところまで落ちてしまうが、ふと我に帰ると、戻るところは父のところしかないと気づき、父のもとへ帰るというお話です。

そして帰ってきた息子を父は駆け寄り抱きしめてあげます。

この話は、いろいろな解釈がなされていますが、悟りの観点から見ると、私たちが頭の中の過去や未来に住み続け、本当の自分を忘れて苦しくなりにっちもさっちも行かなくなったとき、父(本当の自分)がいる今ここに戻れば、愛はあなたにかけより抱きしめてくれる・・・・・と読み取ることもできるでしょう。

起きたことに理由や意味を見出そうと頑張るよりも、今、自分が感じていること、今、自分が楽しくなれること、今、自分ができることを考えてみませんか?

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すべては始めから決まっている?

今回もコメントにお返事をさせてください。このところお返事をしたくなるコメントが続き、皆さん、ありがとうございます!(タイミングによっては、お返事したいものも書けないことも、多々ありますが)

私は最近、「すべて始めから決まっている」という感覚があります。そのあとで、「ならば何をしても意味がない」と思ってしまします。(おそらく思考の言葉) 私としては、「何をしても意味がない」の部分は真実ではないような気がするのですが、なかなか抜け切れない、煮え切れない感じで、何度も繰り返してしまいます。

いまこうしてあゆかさんのブログにコメントさせてもらっていることも、始めから決まっている気がするのだけど、では、次に私のなすことは?と問いかけると止まってしまいます。宇宙が主体だとすると、まるで決められた物語を見ているようでなんだかしんどい。。。けれど私が主体で、一秒先もわからない舞台の真ん中にいると思うと、また違って見える、そんな感じです。

このお返事をする前に、ちょっと明白にしておきたいのが、悟りの話とスピリチュアルな話の違いです。えっ!違いがあるの?という方ももしかすると多いかもしれません。

悟りの話は、主体と客体がない非二元の話です。一方、多くの人が描くいわゆるスピリチュアルな世界(魂の成長、宇宙とつながるなど)は、私と宇宙、私と神という二元の世界観です。

ですから、私が宇宙とつながるとか、私が超意識に入るとか、私が~~する、または、私の魂の旅とか、私の魂の成長・・・という話は、すべて二元の世界の話なんです。あくまでも、個としての「私」(それが魂であっても、“私の”魂)が主体で何かをするというは、現象の世界の話です。

つまり、人間ゲーム、または魂の成長ゲームという壮大で美しい幻想の世界の話です。美しく、あり得ないほど荘厳であるけれど、常に変化し、やがては夢のごとく消えていく世界です。

一方悟りとは、この世は主体がない世界なのだということを見抜くことです。「私」は存在しないんです。いつか自我を超越して、私がいない状態に到達する・・・のではなく、「私」(自我)は、今も昔もこれからも存在したことなど一度もなかったと見抜くことです。

ということで、今回は究極の真実ということで、悟りの観点からお話しさせてください。

ロンドン周辺は、このところ太陽が毎日拝め、昨日、庭のダリアが花を開きました。しかし、今日は朝から何度もどしゃぶりです。ダリアは、“あぁ、昨日咲けばよかった。”と思ったり、“咲いたと思ったら、どしゃぶりだ。でも、きっとすべてはベストのタイミングで起きている!”と自分を納得させたりするでしょうか?

では、ダリアが咲くタイミングは、すでに決まっていたのでしょうか? また、風が吹いて、木の葉が地面に舞い落ちたとき、木の葉は、“ちっ!、あと5センチ右に落ちたかった。”と思うでしょうか? また無数に落ちる木の葉が落ちる位置やタイミングは、あらかじめすべて決まっていたのでしょうか?

そして、これらの花や木の葉に主体はあるのでしょうか? それとも、全知全能の神が、万物の動きをすべてあらかじめ決めているのでしょうか? それとも、それは「ただ、そう起きた」のでしょうか?

もし、いやいや人間と花や木の葉は違う・・・と思ったら、それこそ分離の世界観なんです。また、人間には脳があるという人もいるかもしれません。では、脳に今日のお昼に何を食べるか、材料に何を選んで、どんな順番にどんなふうに切っていくかなど、私たちの一生の決断や思考がすでにがプログラミングされているのでしょうか? それとも、思いはただ沸いて来るのでしょうか?

自我は、基本的にすべてを自分中心に考えます。自我がないという悟りの話でさえも、「私の自我がなくなったら、私はどうなるのだろう」、「私が悟ったら、他の人との関係はどうなるだろう?」、「私が悟ったら、この苦しみから抜け出せて、それでやっと幸せになれるかもしれない」「私が悟ったら、今までのように日常生活を送れるのだろうか?、今の仕事は?なんでもどうでもうよくなってしまったりしないか?」などなど、個としての「私」への希望、期待、不安を抱き続けます。

かつて、私は悟り本を読み漁り、いろいろ瞑想や自己観察をしていました。ある日、そんな自己観察をしていたとき、「悟りたい、真実を体験したい」という思いの裏に「悟った人間になりたい」という思いに気づいたのです。お金とか名誉とか、そんなものじゃなくて、私は人間が得られる最も崇高なもの、「悟り」が欲しい、「悟った私」になりたい・・・という声を聞いたとき、究極のスーパーエゴに我ながらびっくりしました。

そして、私は真実を求めているのではなく、スーパーエゴを満足させたかったのだ・・・と気づいたとき、本も瞑想もしばらくやめてしまいました。話がどんどんずれそうなので戻しますが、書きたかったことは、どこまでも「個としての自分がいる」ことが前提になっていたりする、ということです。

しかし、自分がいない(主体がない)のなら、そもそも「すべて始めから決まっている」かどうかという問い自体が、どっちもで良くなってこないでしょうか。自分がすることに意味があるのか、起きたことがこれで良かったのかなどを、気にするのは自我だけです。

主体も客体もないことが見えてくると、音と音を聞く人は同じ(二つではない)で、さらにそこに聞いている人というのは、存在しないということが見えてきます。「私が音楽を聴いている」という幻想が崩れ、音、聞く、呼吸、体感、「私がある」という意識が、オーケストラのごとくすべてただ起きているという真実が現れてくるんですね。

そして、それらのオーケストラを深く見つめていくと、そこに見えてくるのは「空」なんです。空は、あまりに空で、あまりに透明だから、すべての色になれ、あらゆる形となって現れることができるんです。そしてそれが、真のあなたです。

つまり、この観点に立つと、私が決めているのか、宇宙(神)が決めているのか?という問いは成り立たないんです。ものごとを分離することしか知らない思考にとって、これはとても分かりづらく、退屈な話かもしれません。

でも、頭で理解できるできないに関わらず、単純に自分の体を眺めても、あり得ないぐらい緻密にできていると思いませんか? そしてこの宇宙も、銀河系も一体どんな知性が作り上げたのでしょう。誰か(主体)が、それら(客体)を創ったのかという二元の発想を離れてみれば、想像を超えた知性(空)が、ミステリアスに壮大なダンスを踊っているのが見えてきませんか?

あなたは、この現象のすべての創作者であり、経験者でもあり、人間という舞を踊ったり、魂という舞を踊ったり、と同時にただの一度も真の自分でなかったことはないんです。

ハートは私たちを真実に導き、思考は私たちの分離感を強めていきます。誰が主体かということを忘れ、あなたらしい人生のダンスを踊りたかったら、自分のハートの中心から沸いてくる思いを表現してみませんか?

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非二元って?~人生は即興ダンス~

部屋の模様替えをして、窓際に机を置いたら、外を眺める時間が増えて、とても良い感じ♪です。

このテーマで書くことは、今までの私のブログ史上、最も分かりにくい記事になるのではないかとか、ちょっと臆病な気持ちになるのですが、書きたい気持ちに勝てず(←あぁ、まどろっこしい~)、今日は “非二元”(Non-Duality)について書いてみたいなと思います。

非二元とは、簡単に言えば「悟りについて」です。じゃぁ、なんでわざわざ私は非二元という言葉を使うのかというと、悟りという言葉には、あまりに人それぞれのイメージ、思い込みが付随しているため、それらを避けたいからです。

また、「非二元」=「二つではない」という言葉のほうが、悟りとか一元という言葉より実感としてしっくり来るなぁと感じるからです。ということで、説明させてください。

般若心経に「色不異空、空不異色、空即是色、色即是空」とあります。現代語にすると、「事象は空(くう)と異なるものではなく、空(くう)は事象と異なるものではない。空(くう)は、まさに事象であり、事象は、まさに空(くう)である」という感じかと思います。

事象とは、この世に現れ出ているすべてものです。 つまり、事象と空という二つのものがあるように見えるけど、二つのものじゃないんだよ、という意味です。 “事象と空という唯一のものがある”とは言えないので、すべては一つとは言わず、般若心経でも二回も繰り返して、空=色なんだよと唱えているのかなと思います。

ちょっと理屈っぽくなってしまったかもしれません。が、私が求めているのは、頭の理解ではないんです。

さて、事象は移り変わる・・・、この言葉に反論する人はいないでしょう。どんなに永遠にそこにあるように見える山も、日々生命の呼吸をし、変化をしています。都市も常に姿を変え、100年後の東京は今とすっかり違う姿になっているでしょう。

私たちも、常に変化していますね。同じ一つの思いだけを一日中持ち続けたという人はいないはずです。いろいろな思いが通り過ぎ、感情もそのときどきで変化し、そして、体も日々変化しています。 では、この変化は誰が起こしているのでしょう? 自我は、自分だといいます。

私たちは、主体と客体という二元の考えに深くそまっているため、通常は誰か(主体)が何か(客体)を変えるという考え方しかしないでしょう。または、主体が何か(客体)を目指す、など。

悟りに関しても、私たちは二元的な考え方をしてしまいがちです。私(主体)が悟り(客体)を得る、または自分(主体)が悟って、二元の世界から一元の世界(客体)へ移行するなどなど。

話がずれましたが、とにかく誰かが何かをするという深い刷り込みがありますね。 では、ちょっと徹底的に正直になってみませんか? 徹底的に正直になって、自分を細かく見つめてみると・・・ 10分後に自分が何を考えているか、あなたは知っているでしょうか? 5分後は? そして、よく探ってみると、次にどんな思いが頭に出てくるか、分かっていますか?

正直な答えは、“私は分からない”のはずです。考えは、勝手に浮かんできているんです。 では、体はどうでしょう? 次に右ひじを机に置こう、あと2分後に右のほうを見よう、今から左足を上にして足を組むのだ・・・とか、いちいち体の動きをすべて決めているわけではないですね。

次に自分がどんな動きをするのか、徹底的に観察してみれば、正直な答えは、やはり“私は分からない”のはずです。体は、勝手に動いているんです。

リビングからキッチンへ歩いている途中、私の視線は、ふと床に移り、“あっゴミがある、掃除しなくては・・・”という思いが走りました。 なんで視線が急に床に移ったのか、私にはまったく分かりません。 “あっ、ゴミがある、掃除しなくては”という思いも、私がそう思うと決めて、思ったわけではありません。浮かんできたんです。年季が入ったフローリングだなとか、そういう思いが浮かんできても良いわけです。

こうやって注意深く見てみると、私たちは明日何が起きるか分からないだけではなく、次の瞬間の自分の思いが何なのか、自分の視線がどこに行くのか、体がどんな姿勢を次にとるのか、などなど、まったく知らないんです。

では、自分が知らないということは、誰が次の思考を決めているのでしょう? 誰が、次にどこに視線を持っていくかを決めているのでしょう? 何度も何度もしつこく、徹底的に正直に観察してみてください。

すると、「私は知らない」という真実に出会うはずです。自我は、「知らないこと」が大嫌いなので、物事のしくみを知って落ち着こうとします。また、知ることで、人生をコントロールしようと常にもがいています。

でももし、「私は知らない」という真実をハートを広げて受け取ったら、私たちは、自分がほんとうは、一瞬一瞬の変化そのもので、“なんだ、私は今までずっと人生の即興ダンスを踊っていたのだ”ということに気づくでしょう。

そして自分が、常に変化する動きそのものだったのだということが、真に深く体験されたとき、「主体は客体でもある、それは二つではない」としか言えないことにも気づくはずです。その瞬間、自我はそれを理解できず、もう真実にひれ伏すしかなくなるでしょう。

「空即是色、色即是空」 空を真我とし、色を即興ダンスとしたら、「真我とは、すなわち即興ダンス。即興ダンスとは、すなわち真我である」 即興でありながら、よく仕組まれた驚異的で荘厳なダンス。新しい動き(命、かたち、思い、感情、etc)が次々に生まれ、そして去っていき、決して留まることもなく、常に変化し続け、一切の制限もなく、永遠に、そして無限に舞い続ける。

次に何が現れるのか、まったく知らないから、一瞬、一瞬が新しい出会い。「何も知らない」という真実の中に、もっとも高い知恵と愛が見えてくる。

すべてを包む信頼のなかで、人生をコントロールするという自我の重荷から解放され、あなたは踊り続ける。

「空即是色、色即是空」 そして、あなたはダンスを踊っている(色)と同時に、そのダンスを見ている静かな観察者(空)。

                                                ☆☆☆お知らせ☆☆☆

11月にAAMET認定EFTレベル1&2(11月2日~4日)とマトリックス・リインプリンティングのプラクティショナーコース(11月22日~24日)を開催します。詳細は7月後半以降になります。 のコースを受けるためには、EFTのレベル1&2を受講していることが必須となります。 す。)

がっつり目覚めトーク

太陽が拝める日本の冬は素晴らしい!けれども、エアコンではなく、セントラルヒーティングが恋しい~~~! 乾燥しすぎないし、喉がやられないし。メーカーさ~ん、日本にもガス(風力、水力、地熱でも)セントラルヒーティングを!

さて、何をいまさらですが、皆さんもご存知のように私の本職はセラピスト&カウンセラーです。しかし、長い話をうんと短くして、苦しみの根本を癒すということを追求していくなかで、最終的に「目覚め」に辿りつきました。

なぜ、このようなことを書いているかというと、セラピストが目覚めについて書いているためか、「目覚め」を自分を楽にするツールとして捉えてしまう方が、それなりにいらっしゃるな~と最近感じたからなんです。

“目覚めれば、こういうこともなくなるのでしょか?、こういうことも平気になるのでしょうか?”といったようなご質問をけっこう頂きます。楽になりたくて、悟りを求めること自体は、ぜんぜん問題ありません。ただ、自分が楽になるための“ツール”だと捉えてしまうと、まったく目覚め(悟り)の意味を誤解してしまうでしょう。

ということで、目覚めに興味がない人も多いだろうし・・・というエゴトークを払拭し、今回は、がっつり「目覚めトーク」で行きま~す。

さて、どんな誤解かというと、 “自分が目覚める”という誤解です。というのも目覚めとは、「個としての私はいない」ということを知ることだからです。個としての私がいなくなるから、私のストーリーが消え、それによって真の平和が訪れるんですね。私がいなくなったのに、どうして私の人間関係とか私の人生というストーリーがまだ存続するのでしょうか?

プチ覚醒体験しているとき、「目覚め」のコーナーにも書きましたが、体もはっきり(真の)自分のものではないと分かりました。ましてや私の仕事というものもなく、私の人生もなく、すべて大きなエネルギーの渦としか感じられませんでした。

また、体が自分と関係なければ、一見自分が持っているかのように思える、「私の思い」、「私の感情」も、もちろん(真の)自分とは関係がないのだと分かります。思い、感情、体は誰のものでもないんです。

また、分離感覚がなくなるという意味も、正確に言えば、私と隣にいる鈴木花子さんとが無償の愛でつながって、分離を感じなくなるということではないんですね。

私がいなくなり、真我のみになるから、分離がなくなるんです。思考と感情と体を自分だと思っているのが自我です。そして、自我は、他の思考と感情と体を見て、あっ、他の人がいると思っているのです。

そして、自我はものを分離してみるため、椅子とか、テーブルとか、建物とか、町とか、太陽や月、いろいろなものが独立して存在していると思います。そして、自分の周りに存在する多くのものを見て、これらは誰が作ったのだろう?と考えます。そして、“きっとこれらを創造した神様がいるに違いない”と考え、ここに神が登場します。

ここで、「私と世界、そして神様」という構図が自我によって生み出されるんですね。私もかつてはそんなふうに捉えていました。“多くの人は、私と世界としか考えないけど、私はスピリチュアルな教えを信じているから、私と世界だけではなく、創造主がいることも分かっているのだ。真の私は魂であって、光の存在として、創造主の下へ戻っていくのだ”みたいにイメージしていました。

現象という観点からすれば、決して間違った理解ではなく、魂のゲームという壮大な夢は確実にあるわけです。ただ、目覚めの観点からすると、まだ“私”がいるんです。で、プチ体験をしたとき、魂の成長ということも、幻想なんだ、ゲームなんだということがはっきり分かったのです。“私の前世”とか、“私の魂の成長”とか、“私の~~”と思っている限り、それはまだ夢の中なんだと分かったのです。

とはいえ、目覚めVS夢ということでもありません。思考は、すぐこういった構図を描きがちです。真実は、まさに空即是色、色即是空なんです。目覚めの意識(空=真我)は、現象(色=夢)でもあり、存在しているものは真我のみで、すべては真我から生み出され、真我しかいないんです。真我しかいないと書くと、この世に一人という意味でとってしまう方もいらっしゃいます。自我は、どうしても「固体」としての存在しかイメージできないんですね。

奇跡のコースでは、“この世には誰もいない (no one is out there )”と教えていますが、個としての誰かは、存在しないということです。

なので、もちろんこの世で一人という意味ではなく、真我とはあまねく存在であり、存在のすべてです。観察する存在であり、同時に観察される存在でもあります。ただ、観察するといっても、真我は、あれだ、これだと分離してものを捉え、観察しているのではないんです。主体であり、同時に客体なんです。個別にものごとを捉えるには、主体と客体が分離していないとできないですね。

わかりにくくなってきたかもしれません・・・。

いずれにせよ、お伝えしたいことは、固としての自分が悟るというような話ではないということです。そしてまた、私たちは常に真我の状態だということです。ですから、どうやったら目覚めるか?という問いよりも、どうして目覚めていることに気づけないのか?のほうが、より正確な問いになるかなと思います。

そして、もし、真我を神と呼んだとしたら、私たちはみな常に神なんです。

ここまで読んで、混乱してしまった人のほうが多いかもしれません。しかし、言葉にするから、なんか複雑に聞こえてしまうだけで、真実はいたってシンプルです。真我の意識は、いつも毎日私たちがよく知っている感覚です。あまりに身近なために、見過ごしているんです。どんぴしゃな例えではありませんが、めがねを頭に乗せて、めがねを探しているようなものです。

ですので、愛で満たされた感覚とかすべてと一体化した感覚、恍惚の喜び・・・みたいなものを探していると、たぶん思いっきり見過ごしてしまうでしょう。

とりあえず、私は思考ではなく、私は感情でもなく、私は体でもなかったら、誰がそれらを持っているのでしょうか? ちょっと自分の中を探ってみませんか?思考と感情と体を持っているなにか個体が見つかるでしょうか?

そして、そうやって探しまわっているときにも常にあって、また呼吸よりももっと身近にある感覚、努力ゼロで自然にそこにあるものはなんでしょう?考える、感じる、動くといったことをする以前にすでにあるものは何でしょう?

それは、「私はある」という意識ですね。これが真我なんです。この「私はある」という意識を一日に何度も静かに感じてみるのも良いかもしれません。自我のドラマからあっという間に「いまここ」に連れ戻してくれるでしょう♪

ということで、今回は目覚めトークで突っ走りましたが、セラピーも大好き!ということで、“私のストーリー”、“私の苦しみ”を癒すお手伝いも、今後も続けていきたいと思っていま~す♪

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あなたは魚ではない!

今回は、前回も書いたルパート・スパイラさんのリトリートの体験をシェアさせて頂きま~す!で、多くのことをシェアしたいのですが、今日は5日目に体験したことを書きたいと思います。リトリートは、基本的に30分瞑想、30分ルパートの話、1時間質疑応答という2時間のミーティングが一日に朝と夕方二回という構成です。

5日目の瞑想時、前の晩よく眠れなかったせいもあり、私は目をつぶると寝ちゃうという状態が続きました。そこで、画期的な解決方法として、目を開けて(!)瞑想することにしたのです。目を開けたまま、前の日までやっていた瞑想、「thinking, sensing, perceiving」(思考、感覚、見る行為を観察する)をなにげなくやっていました。

自分の思考、体の感覚、感情を観察し、また目に見えるもの、会場の机、机の上の花、録音器具、暖房などなどを眺めていました。そのとき、その日までのルパートの話とプチ覚醒体験の状態が思い出され、すべては愛でできていて、これらすべてが真の自分なんだと感じていました。

とはいえ、プチ覚醒体験のような何かが大きくシフトした感じはありませんでしたが。そうこうしているうちに、突然今までルパートの口から毎日何度も聞かされていた言葉、「Awareness can not turn back and look at itself」(目覚めた意識は、自分を振り返って観察することができない)が浮かんだのです。

そこで、思考や感情、そしてテーブルなどを観察するように、「それらに気がついている意識」を観察しようと試みると、あっ、できない!・・・・、その瞬間、それがいかに真実であるかが体にヒットしたのです。私はすべてを観察できるけど、すべてに気がついている意識を眺めることができないと。

その直後、私の心臓はものすごく高鳴り、強い恐怖がわきあがってきました。息ができないような感覚になり、足も震えていました。直感的に、エゴが自分の死を感じて怖がっていると分かりました。

ただ、私は「おぉ、すごい恐怖が出てきたじゃないか」とけっこう楽しんでいました。腎臓も痛み出し、いかに恐怖のレベルが高いかも感じました。が、やっぱり怖くはないんです。(腎臓は次の朝まで痛かった)

意識は、すべてがくまなく無限の豊かさなのだということが分かっていました。時間は思考が生み出す幻想で、思考がなくなると、時間もなくなることもはっきり分かりました。

そして、この生命の無限の豊かさのなかで、私たちは制限のゲームをしているのだなぁとつくづく思ったのです。何かが終わるとか、なくなるとか、足りないとか、そういうことはあり得ず、自我は思考ですべてを捉えるために、無限の状態を完全に見過ごしてしまうのだと。

お金に例えると、大海のなかにいる魚が、500mlの水のボトルを手に入れ、“あぁ、1リットルのボトルがたくさん欲しい”と言っているのと同じだなと思いました。または、将来水がなくなるかもしれないから、ボトルをいっぱい貯めておこうとか。

ちょっとあるお魚の話をしましょう。

大海に住む魚のトビは、物心がついた頃から、自分の周りにはいろいろな存在やものがあって、なんだか周囲は怖いところだと感じていました。トビの目には、他の魚たちや海草やら、魚の家々やら、いろいろなものが分離して、お互いがまったく関係を持っていないように見えます。そして、はるかかなたまでいろいろな生き物が生息し、無限に続く海底の土を見渡し、自分はちっぽけな魚にすぎないと感じ、なんとか同じグループの魚たちに受け入れられて、えさを確保して生きていかなければ・・・と頑張っていました。

しかし、そんなふうに生きていくことに疲れ、疑問を持ち始めたトビは、ある日「あなたは魚ではない!」というショッキングはタイトルのセミナーを見つけました。なんとなく足を踏み入れてみると、そこでは、ある魚のマスターが「あなたは、本当は大海なんですよ。すべての存在の源であり、またすべての存在そのもので、そしてすべてを活かし、無限に広がる大海なのです」という話をしていました。

「い、意味が分からん!現にこの小さな体があるじゃないか。」と思いながらも、トビの心の奥底で大きく感じるものがありました。そこで、トビは機会があるごとにそのセミナーへ足を運ぶことにしました。

そのセミナーでは、体を感じる瞑想もあります。「尾ヒレをよ~く感じましょう。鱗が水と触れてかすかに動く感覚・・・・、そして、えらの感覚の先をずっと追っていってください。どこかで感覚が切れるところがあるでしょうか?・・・」など瞑想を繰り返すうちに、トビは、自分の体と大海はつながっているのだとだんだん感じられてきました。

何年かが過ぎ、真の自分のことについてだいぶ分かってきたなと感じていたある日、トビは「すべてが存在していること」を分かっている自分(意識)が常にいる(ある)ことにはっと気がつきました。それは、セミナーで魚のマスターが繰り返し言っていた言葉で、今まで何百回も聴いた言葉でした。存在している自分がいて、それを分かっている自分がいる。ぴちゃぴちゃ泳いでいる自分が自分で、じゃぁ、それを分かっている自分はなに? この問いが、なぜかこの日は、体全体がひっくり返るほどの衝撃を持ち、トビは本当の自分は、泳ぐ自分を永遠にじっと見ていた大海のほうだったのだと悟りました。

その後トビは、周囲は本当は温かい場所で、エサの心配をいつもする必要もないんだと分かり、平和な気持ちでトビとしての人生を送りました。

思考には、水が一切目に入りません。思考が把握できるものは、現れて消えていくものだけなんですね。なので、永遠にいつもすべてを通して、あまねくいきわたっているこの意識を感じることができないんです。でも、あまねくいきわたっているうので、探し求める必要もないんです。

思考が捉えられないだけです。とはいえ、思考を悪者にしたいのではありません。思考もこの無限の意識によって生み出されたものですから。

目覚めを求める姿は、ある意味私も含めて、毎日大海の中に住みながら、大海ってなんだろう?と考えるようなものです。ただ、私たちは思考と感情、そして肉体に100%同一化しているために感じられないんですね。

大海の中の魚が、自分が大海の中で生きていることを信じようが、信じまいが、その事実は変わらないように、真の私たちが無限の豊かさであることは、私たちが感じられようが感じられまいが、やはり真実は変わりません。

プチ覚醒体験をしただけの私は、まだまだ目覚めの生徒です。でも、これからも皆さんに知識ではなく、体験から分かったことをシェアしていきたい!と思っております♪

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真実は、すべてはジョーク?

カウンセリングコースが、ロンドンか東京かということで、ご意見などいろいろ頂き、大変ありがとうございます! ぜひ参考にさせて頂きます。コース生の方々も、生の声をお聞かせくださり、本当にありがとうございました! 人それぞれが、違う事情、違うストーリーを持ってコースに参加してくださり、心から頭が下がる思いです。

さて、今回は、また「目覚め」(悟り、覚醒)に関して書きたいと思います。

「運命の人と出会うスピリチュアル・レッスン」にも書きましたように、「私はもしかして魂の存在で、肉体は仮の姿なのか?」というところから私の旅は始まりました。そして、今は、「真の私は肉体でも、魂でもなくて、それらを見ている意識だったのだ。」という体験にたどり着いのたです。

「私(または私の魂)が成長を目指して、頑張って歩んでいる、という私という「個」としての自分がいる」という分離の夢から覚めたら、当然「わたし」はいなくなっていました。旅の終わりに、自分がいなくなっているとは、まったく予想もしていませんでした(笑)。

「目覚め」に関して、混乱しがちな点は、「“私”が目覚める」、「もし、“私”が目覚めたら、“私の”人生はどうなるのか」など、「わたし」を前提で、目覚めを考えてしまうことです。

でも、目覚めとは「わたしがいなくなる」ことですから、当然、「わたしの人生」、「わたしの体」、「わたしの夢」、「わたしの~~」すべてがなくなります。そこに見えてくる風景は、すべてが現われ、消えていき、そしてすべてがそれで完璧で愛である状態です。

これは、「わたしは、宇宙との一体感を経験した」という類のいわゆる至高体験とも違います。至高体験自体は、貴重な体験であることには間違いありません。ただ、「わたし」がいるので、目覚めの体験とは違うでしょう。

「わたし」がいる限り、「わたし以外のもの」が存在します。つまり、分離感覚です。そして、分離感覚がある限り、必ず不安があります。これが、スピリチュアル心理学を受けてくださった方はご存知のように、人間心理の根本的な恐れの始まりです。

おっと、今日はそういう話がしたいわけではなく、

ある日、電車のなかで「どうして、~~さんの本のほうが、わたしの本よりあんなに売れるのだろう?わたしの本のほうがずっと良いのに」(←恥ずかしいけど、正直な思い)と考えていました。もちろん、エゴだということは分かっていましたが、それでも、そういう思考が沸いてくるのは、仕方がありません。

ただ、この日は次の思考も沸いてきたのです。

「溝口あゆかって誰?」

今まで何度も考えたことですが、この日は、この思いがまっすぐに問いかけてきました。そうすると、まず、わたしがうんうん考えているイメージが浮かび、そして「日本人」、「女性」、「カウンセラー」、「○年○月○日に~~という両親より生まれた」、などなど、わたしに関するレッテルが次々に現れてきました。

ところが、そのすべてのレッテルがとてもはかないもので、決して永遠には存在しないもの、という感覚も強く現れたのです。そして、そのレッテルがすべてなくなることをイメージすると、そこには誰もいなくなり、「それを見ているわたし」(観察する意識)だけが残りました。

で、その状態で、「溝口あゆかは、~~さんより、自分の本が売れて欲しいと思っている」と言ってみると、笑いと涙(笑い涙)がどっと溢れ、とまらなくなりました。

もう、ジョーク以外のなんでもない!と思ったのです。なんでその必要があるの?なんのため?そして、一体誰がそんなこと気にするの?

エゴ(わたしという意識、思考)は、生き残ることがとても大切です。ですから、自分が誰かより劣っているというのは、非常にまずいことです。なんとかして、自分より上の人に追いつき、できれば、追い越すほうがエゴには都合が良いんです。

または、「わたしはみんなから理解されているか」、「わたしは、みんなから受け入れられているか」ということも、非常に大切ですね。

で、普通どうするかというと、「理解されるわたし」、「受け入れられるわたし」、「優れたわたし」になることを目指して、困難な旅を始めるわけです。ものすごいエネルギーと感情、思考をここに費やします。そして、もしそれを達成したとしても、今度はその私をキープするのに、またものすごいエネルギーと感情、思考を使います。これは、重くて、大変な生き方ですね。

何を隠そう、「わたしは理解されない」という強くて頑固なコア・ビリーフを抱えていました(今も少しある)。すべてのコア・ビリーフがそうであるように、潜在意識の深いところにあり、まったく気がついていませんでした。意識上では、「理解しあえる友達がいて、わたしってラッキー」とのんきに思っていたぐらいです。

ところが、仕事、お金というテーマでワークを続けるうちに、このコア・ビリーフが何度も現われ、しかも、重たい感情も底なしに出てくるのです。それでも、根気よくセラピーを使ったり、またはただ感じ切ったりなどでワークし続けていきました。

底なしだと思っていた感情は、重ねてワークをするうちに、さすがにリラックスしていき、「理解されたほうが、嬉しいけどさ、まぁ、どっちでもいいんじゃない~」ぐらいになっていきました。ワークを始めた頃は、「理解されない」という潜在意識の声が出てきたとたんに嗚咽状態でしたが。

そして、電車のなかで今度は、「溝口あゆかは、みんなに理解されたい」とも言ってみると、やっぱり笑いと涙がこみ上げてきました。なんで? あぁ、バカバカしい、ハッハッハ! という感じです。電車の中でなければ、ひっくり返って笑っていたかもしれません。

このとき、エゴ(わたしという意識)はどこかに吹っ飛んでいた気がします。電車から降りて歩いていくうちに、エゴちゃんがしっかり戻ってきました。そして、探ってみると、やっぱりまだ「理解されない」という思いもうっすら感じられました。

でも、それでもぜんぜん良いんですね。何度も書いていますが、打倒ネガティブ!を目指しているのではありません。

ちょっと、あるネガティブな思いが手放せない自分をイメージしてみてください。そして、その自分と対話をしてみましょう。感情がいっぱい出てきたら、EFTなどを使ってみましょう。感情がすっかり解放され、にこやかな自分にイメージが変われば、それはそれで大変グッドです。

でも、まだその思いにしがみついている自分がいたら、その自分に向かって「ありがとう、愛しています」と声をかけてあげてみたらいかがでしょうか?そういう思いを握っている自分を受け入れてあげてしまうのです。

わたしは、自己愛を提唱していますが、「自分を愛さなければいけない」わけでは、もちろんありません。人間として生きていく上では、自己愛が高いほうがうんと楽しくて、楽チンです。

ただ、「目覚めの意識、空、知的エネルギー、神」である真の私たちの視点に立てば、自己嫌悪の沼に落ち込んでいようが、自己愛に満ちてルンルン生きていようが、どっちでも良いんです。どっちもOKで完璧です。

真のあなた(わたし)は、こういったことにまったく影響を受けず、まるまる大丈夫です!

プチ悟り体験

皆さん、コメントやご質問ありがとうございます。実は私が一番好きなトピックなので、とても嬉しいです。ということで、今回もこのトピックでいってしまいます。

あゆかさんこんばんは今見えているものや、体験していること全てが幻想だとすると、すご~く楽になる反面、とっても幸せを感じた経験や大好きな人たちも幻想だと思うと、さみしく、悲しくなって来ます。このさみしいとか悲しいという思いは何なのでしょうか?また、わたしたちはそういった事象を観察するだけ、自分の感情を観察するだけということですよね。それらのことを手に入れることは出来ないのでしょうか。せめて今世だけでも(笑) 本当に理解出来たとき、さみしくなくなりますか?

私は、悟りがなんであるのかが、皆目検討がついていなかった昔から「悟り」ということにとても興味があり、またとても憧れてきました。その思いは、数年前パリへ旅行へ行ったときにさらに強くなったのです。

パリの街はとてもかわいらしく、ロンドンとは違う建物の優雅さに道を歩きながら、私はうっとりしていました。そして、こんな素敵な建物のペントハウスなんかに住めたら最高だなぁと夢想していたのです。それはとても楽しい夢想でしたが、突然、“そういう楽しい体験は今まで無数にしてきた”という声が私の中から聞こえてきたのです。

それは、私の中の一部が私に語り変えてきたような感覚でした。そしてそのとき、確かに私は前世も含めたら、きっとものすごく幸せだったことはたくさんあったに違いないと思いました。そう思ったとき、幸せだったり、不幸せだったりをぐるぐる繰り返しているのは、もうなんかいいやと強く思ったのです。

そこで、ロンドンに戻ってから、友人のチャネラーの岩野さんのところへ行き、私の守護霊さまに“どうしたら執着を手放して悟れるのか?”といったような質問をしてみました。返ってきた答えは、“まず、きちんと欲を持つことが大切。ちゃんと持たないものを手放すことはできない。”というものでした。

悟りたい!と意気込んでいた私は、なんだか道のりが長い感じがし、がっかりしてしまいました。しかし、言われてみれば、例えばお金に対して、もっと欲しいという気持ちがすごくあるのに、どこかでそんな欲はもっていてはいけないと思っている自分もいて、確かに言われる通りだと納得したのです。

が、やはりガンガジのセミナーなどへ行くと、いいなぁ~、あんなふうになりたいなぁ~と憧れがむくむくと出てき、私の悟り探求は細々と続いていました。

それからまた数年が経ったある日、アディアシャンティという覚醒したマスターの瞑想の本を読んでいました。そして、そのあと本に書いてあったように瞑想ししていたところ、強い悲しみがこみ上げてきたのです。このコメントの方と同じ悲しみだと思います。

なぜだろう?と思い、その悲しみに集中していると、「覚醒して悟ってしまったら、私が大切にしている人たちや私が実現したいと思っている夢もぜんぶあきらめなければいけない。それは悲しい」というものでした。そのとき、私は、ぐるぐるしているのは嫌だとか意識上では思いながら、深いところでは、自分はまだ幻想にしがみついていたんだなぁと実感したのです。

そして、頭では幻想だと理解しているのに、心がまだまだ~!夢を捨てられない~!と叫んでいるのを感じ、そこで心の叫びに対して、“あなた(夢)を捨てることは決してしないから。私の大切なものだから、安心して”とイメージのなかで抱きしめてあげ、その日は終わりました。

また、同時に私が悟りたいと思っている理由は、単に苦しみを感じたくなかっただけで、真理を体験したいからじゃないのだ、ということもはっきり分かったのです。苦しい幻想はいらないけど、楽しい幻想は持っていたいみたないな。

それからまたそれなりの月日がたち、とある普通の日の近所のカフェからの帰り道でした。私は突然にいわゆる覚醒体験(悟り体験)をしたのです。それは意識の完全なシフトでした。その体験については新刊本に書きましたが、発売前ですので、ちょっとここでは書けません。ごめんなさい。ともかく、体験は4時間あまり続き、その後意識がだんだん普通の状態に戻っていきました。

アディアシャンティによると、多くの悟りの体験は自発的に勝手に起き、また、短い臨時的なものが多いということです。私の場合もまさにその通りでした。短い体験でしたが、一番最初にはっきり知覚されたことは、“私はなに一つしていなかった。すべては幻想で、私はそれを見ていただけだった”という意識でした。

周りを見回すと、すべてはあるがままにあって、椅子は一度も、自分のことを椅子ですと主張したことはなかったことにはっきり気づきました。すべては、思考がレッテルを貼っていただけで、本来はただすべて愛から生まれ、愛へ消えていっているだけでした。

しかし、もうすっかりエゴの意識に戻ってしまったので、私は覚醒したマスターではありません。覚醒したマスターは、覚醒した意識に留まっている人たちです。

そして、覚醒体験をしてみて、私が思っていたり、イメージしていたものとまったく違っていたこともよく分かりました。エゴの意識で思い描くことは、どうしても限界があることも分かりました。ただ、思っていた通りだったことは、すべては愛のエネルギーの化身だということです。

ですからもちろん、事象も愛のエネルギーの現われで、例えば“夢が実現しなかった”という事象も、愛の現われなんです。それが実感できたとき、私は実現しなかった夢に深い愛と感謝の気持ちがこみ上げてきました。

夢が実現する、夢が実現しない、この事象を観察者は、深い愛の意識と喜びのなかで眺めることができます。それは、エゴの意識がどう変わろうと変わらない意識です。そして、観察者は同時に体験者です。ここに分離は一切ありません。

エゴの意識に戻った今、また、私のエゴは欲しいものリストを掲げています。また、ここは大きな誤算だったのですが、エゴの意識に戻った後、エゴの勢いが以前よりも増し、怒り、悲しみといった感情を以前のように蓋をすることができなくなってしまったのです。

欲やネガティブな感情を強く感じながら、それでも、同時に“それはぜんぶ愛だね”という声と、“それは一つの思考にすぎない”という声も大きく響いています。

しかし、頭で分かっているのと、体験して知覚するのとでは、言葉にならないほどの違いがあることもよ~く分かりました。、そういう意味で前よりも一層、頭だけで理解して、スピリチュアルな教えを無理に実行しようとしないことに心がけています。

話をコメントの内容に戻して、エゴが手に入れたいと思っているものは、もちろんエゴは手に入れることができます。(そこに矛盾した思いなどがなければ) しかし、それはまたいつか消えてなくなりますね。エゴの世界では、どんな楽しいこともやがて過去の思い出になり、そしてそれすらもなくなります。

とはいえ、エゴの欲を満たしてあげるのは、決して悪いことではありません。私がやっているカウンセリングもあう意味エゴの思いを満たしてあげることです。その過程で、癒しが行われたり、自分の中に愛が増えたりしますから、結局は愛の意識に近づけます。

ただ、多くの人は、エゴの思いが満たされることが究極の幸せだと思っているでしょう。私のエゴが悲しくなったように、エゴが幸せを感じることは、エゴにとってとても大切なことです。大切なだけに、私たちの意識は、エゴの幸せに集中してしまい、神(覚醒した意識=真の自分)が持っている真の幸せ(愛)を見失ってしまいます。

頭の理解から体験の理解にするには、何時間もの瞑想、修行、精神性の向上、ポジティブ思考などもまったく必要ありません。なにか一つの「気づき」が自発的な覚醒体験を引き起こすしてくれるでしょう。ただその気づきは、全身を打つような大きな気づきのはずです。これに関しては、またいつか書かせてください。または、セミナーでもお話ししたいと思います。次回は、また通常通り(?)頂いたご相談にお返事いたします!

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