最初は、時差ぼけと温度差のダブルパンチでぼんやり、その後は公私ともに忙しく、更新が遅くなりました。さて、今回もコメントにお返事させて頂きます。コメントをありがとうございます!
先日、これって愛なのかなあ・・・と自分の想像力を超える考え方、価値観の方に出会いました。その人は、あるアート系の仕事をしていて、成功していると言えると思います。それで食べていけてます。ですが、その仕事に投じる時間が長くて、パートナーと関係が壊れてしまうことが多いのです。ですが、一番大事なのは理想を追求することであって、仕事が一番大事。その次に、恋愛があるという価値観なのです。<省略>仕事が理由でパートナーが別れを切り出して、一人になっても仕方がないと感じるそうです。<省略>外見は、仕事に充実して楽しそうですが、こういう恋愛関係も愛と言えるのでしょうか。また、この人の仕事は、愛(ハート)に従って生きていると言えるのでしょうか?パートナーを愛していたら、自分と生活を共有したいと思うと思います。どんな職業だって、多忙だって、パートナーと一緒に居られないことはないように思うのです。こういう感覚を持つ人の仕事への想い、パートナーへの想いも、愛に基づいたものなのでしょうか?
このような他者のあり方についてあれこれ考えている場合、私が一番知りたいのは、“本当の質問はなにか?”ということです。この方の場合、もしかすると例えば“私は愛する人と一緒に暮らしたい。でももし、こういう人の愛も本物の愛だったら、そんな人を好きになってしまって、私も愛する人と一緒に暮らせないかもしれない。どうしたら良いのだろう?”といったようなことが、本当の質問かもしれませんね。(完全なる推測です)
真の愛とは、相手に100%の自由があるものです。バイロン・ケイティのセミナーへ行ったとき、ある人が、“私はこれまで彼にものすごくつくしてきたのに、彼は出て行きたいと言うのです。”と泣きながら相談していました。そのとき、ケイティは、“私なら彼の荷造りを手伝ってあげるわ”と言い、みんな大笑いしていました。(以前のブログにも書いた記憶が・・・)
ちなみにケイティは愛をたっぷり持ちながら言うので、相談者も笑ってしまうほどで、言われて傷つくようなことはまったくありません。
自分の中に愛が足りないとき、私たちは、愛を“かたち”で求めがちです。“どれだけ一緒にいてくれているか”とか、“記念日を覚えているか”などなど、内容や度合いは人それぞれだと思いますが、“私を愛しているなら、~~してくれるはず”という愛の“かたち”は、みな多かれ少なかれ持っているでしょう。
ということで、“愛しているなら、一緒に住みたいはずだ”というのも、かたちの一つです。この場合一見、主語が「あなた」になっていますが、本当は「私」なんです。
つまり、自分の意識は、“私を愛しているなら、あなたは一緒にいてくれるはず”ですが、真に求めていることは、“私は、あなたに一緒にいて欲しいの。そうすれば安心できるから。”ですね。
また、自分の中に愛が足りないとき、どうしても思考に走りがちです。愛についてあれこれ考え始め、これは愛なのか、どうなのだろうか?と悩んでしまいます。そして、あれこれ考える場合、たいてい今まで書いたきたような“かたち”を判断しているんですね。
で、答えは絶対でません。なぜなら、愛は“かたち”で図れないからです。また、考えて分かるものでもありません。ただ、自分の中に十分愛を感じていれば、自然と分かってきますね。ですので、もし、愛についてあれこれ考えている自分がいたら、自分の中の愛が隠れてしまっているんだぁと気づいてあげたほうが愛を知る近道です。
そして、この仕事中心に生きたいという方について、愛ベースで生きているのかどうかなど、外からではまったく何も分かりません。その方の心の深いところなど、誰もわからないでしょう。
思考は、こういうのは愛ベースで、こういうのは愛ベースではない、など判断できると思っているんですね。これは、ハートトークなのかどうか?と考えている人も多く、また、判断できるポイントを教えて欲しいと思っている人もそれなりに多いです。
私自身は、なるべくそういった要望には応えないようにしています。というのも、そうすると、そのポイントに合っているかどうかを思考で判断してしまうからです。それよりも、先ほども書きましたが、セルフラブを高めていけば、自ずと分かってくることですね。
さて、目覚めの観点からすると、すべてがありのままに見えたときに「愛しかなかったのだ」ということが見えてくるでしょう。自我の観点からする目には、愛と不安という相対するものがありますが、真我の視点に立つと、不安という感情もすべて愛(真実)から生まれているのだということが見えてきます。
しかし、自我には、どうしても世の中は分離して見え、そしてどうしても愛と不安、ポジティブとネガティブというように相対したものがあるようにしか見えません。また、こういう見方しかしてこなかったため、これを超えた見方をイメージすることが難しく、真実(愛)を求めるときも、この見方をベースに求めてしまいがちです。
つまり、前回の話と重なりますが、不安をなくせば愛だけになれる、真実に到達できると思ってしまったりするわけです。しかし、そうではなく、不安を抱きしめたとき、愛が見えてくるんですね。とはいえ、もちろん真我は不安というものを持ちません。なぜなら、真我はなにかを抱くとか、なにかを持つといった主体ではないからです。しかし、真我のなかに不安という感情が表れ出ることは可能です。
また、愛しかないのに、愛に飢えるという状態が表れでることも可能です。多くの私たちが経験をしているように。なぜなら、自我が自分だと思ってしまっているからです。
ちょっとここでイメージして頂きたいのですが、大海がたんにH2Oであるだけでなく、「無条件の愛」でもあると思ってみてください。そこから生まれた小波は、当然無条件の愛にどっぷりつかりながら、自らも愛そのものです。
しかし、小波は自分が大海とは関係なく、他の波とも分離していると信じ込んでしまいます。大海は次に何が起きるか分からない予想のつかない恐ろしい場所で、他の波も、なにを考えているのかさっぱり分かりません。
また、自分は波としてもいけてなく、能力が低いから、大きな波に簡単にのまれてしまうと不安もいっぱいです。また、理想的な波の形も作れないし、自分は愛される価値がないと思い込んでいます。でも、本質は「愛」なので、そういった自分の状態に居心地の悪さを感じます。また、なにかが欠けていると感じるのです。
そこで、“あぁ、私は大海でもあったんだ!”と思い出せれば、根本解決になりますが、多くの小波は、自分は分離していると信じ込んでいるため、“そうだ!誰か私を愛する波がいてくれて、ずっと一緒にゆらゆら過ごしてくれたら、私は安心できる、私は愛される価値があると思える”と外に愛を求め始めます。
これがたいていの自我の恋愛です。私たちの多くは、愛にどっぷりつかりながら、不足の恋愛ゲームをしているんです。そして、恋愛とは愛を補うものだ(必要性で結ばれている)と思い込んでいるため、大海としての自分に目覚めてしまったら、恋愛する必要がなくなるのじゃないかと思ってしまったりもします。
不足の恋愛ゲームをとことんやりぬくのも、大海が真の自分であると知りながら、小波として恋愛を楽しむのもどちらも大いにありだと思います。不足の恋愛ゲームからも、数々の素晴らしい芸術が生まれましたし。
いずれにしても、愛は私たちの本質そのもので、私たちが愛でなくなることは不可能ですね♪
☆☆☆☆☆セミナー・プロジェクトのご案内☆☆☆☆☆
11月に「被災地におけるメンタルヘルスプロジェクト」を気仙沼で開催します。
EFT(現地では、“つぼトントンセラピー”と命名)の講習会です。PTSDや日々のストレス緩和などに抜群の威力があります。つぼとんとんセラピー(EFT)が、ハイチやルワンダなどで使用されている様子のビデオはこちら→☆
気仙沼に近い被災地にお住まいの方、またお知り合いがいらっしゃる方、または、ボランティアをしている方、ぜひ参加しませんか?必要な方に情報が届きますよう、フェイスブックなどでのシェア大歓迎です。
東京「あゆかの部屋」は満席となりました。キャンセル待ち募集中!