過去を癒さないとまた悪い事が起こるの?

kotomi 08Jan14遅ればせながら、あけましておめでとうございます!本年も宜しくお願いいたします。ブログを読んでくれる皆さまがいらっしゃることに改めて感謝しつつ、今年もさらに気持ちはゆるく、行動は活発に行きたいと思っております♪

さて、今回もコメントにお返事させてください。コメントをありがとうございます!

(質問は)過去の自分の、辛かったある経験についてです。今現在の自分は、「当時は自分の存在を消したいほど辛かったが、今は状況もなんとか収まっているし、その状況を引き寄せたのは、至らない部分を持った自分にも落ち度はあったのだから、今後は気をつけていこう」と思っています。でも、現時点では自覚のない、当時の自分自身が感じた辛い感情を解放するプロセスというのは、やはり必要なのでしょうか?心の中で当時の自分自身にアクセスしようとしても、存在が全く感じられないのです。<省略>いろいろな思い込みや記憶をクリアして新しい自分になりたいのですが、人生最大のショックであった出来事ときちんと向き合わなければ、また同じことの再現が起こるのでしょうか?

まず、「やはり必要なのでしょうか?」というご質問ですが、必要かどうかよりも「自分がしたいかどうか」なのかなと思います。

ただ、どうしてこういうご質問が沸いてくるのかは分かる気がします。スピリチュアル系の本の中には、低い波動(ネガティブな思いや感情)が悪い出来事を引き寄せる・・・というようなことが書かれているものがありますね。恐らくそういったことを想定していらっしゃるのかなと思います。

たとえば、小学校のときにいじめに遭い、そのときに「私は醜い人間だ」「私は犠牲者だ」「私は弱い」などといった思い込みが出来上がり、無力感、怒り、悲しみといった感情などいろいろ感じたとします。

で、確かに一度いじめに遭っていると、中学校や高校でもまたいじめに遭ってしまうということは良くあります。私もそういったクライアントさんに何人も会いました。では、それは彼らの中の癒されない部分がが引き寄せたのでしょうか? ある意味その通りですが、もう少し細かく見ていきたいと思うのです。

もし、ある人が「私は醜い人間だ」と心底信じていたとしたら、普段どんな言動になるでしょうか?その人のもともとの性格によっていろいろですが、ある人は引っ込みがちでどこか暗い感じになったり(醜い私は隅っこにいるべき・・・)、ある人はちょっとしたことで言い返してくる(絶対犠牲者なんかにならない!)など、必ず普段の言動にでるんですね。

また、「私は弱い」と深く思い込んでいて、クラスのみんなの前で堂々と発表するとか、くったくなく楽しく友達と話をするとか、そういったことができるでしょうか? おそらく出来ないでしょう。では、明るくて活発で話しかけやすい人と、暗い感じや攻撃的な人とどちらがいじめの対象になりやすいでしょうか?

いじめられるのは、その人が悪いといっているのではありません。どんな場合でも、人をいじめて良い理由など一つもありませんので。ただポイントは、私たちが普段無意識にとっている言動が状況を作っていることがとても多いということです。

また、2回も3回もいじめに遭うと、思い込みが強まっていきますので、そういう目で人や世の中を見始めてしまいます。すると、いじめに遭っていないのに、「いじめられた!」と感じてしまったりすることも多いです。こうなると、ない出来事もあったことになってしまうんですね。

でも、もしその人がいじめられたときのショックや感情を癒し、「私は醜い人間だ」から「私は悪くない」「私は大丈夫だ」という思いに変わったとします。そうすると当然ふるまいや周囲に与える雰囲気、言動が変わっていきます。そうなれば、当然経験することも変化していきますし、その人に対する周囲の態度も変わっていきますね。

もし、過去にとてもショックだった出来事を癒していなかったとしたら、そのときに出来た思い込み、抱いた感情による影響は、毎日の自分の言動のなかに必ず出ているはずです。そして、それが状況を作り上げ、思い込みに沿った経験をします。

ただ一番多いのは、同じ出来事が繰り返し起こるというよりも、過去の癒されていない心の傷が知らず知らずのうちに今の自分の可能性に制限をかけているというパターンです。

本当はもっと自分の才能を伸び伸びと生かせるのに、ほんとうはもっとスムースに行くのに、気づかない恐れの思いで複雑にしてしまっていた・・・などなどです。“悪いこと”が起きているわけではないし、今までずっとこんな感じで来たから、とくに問題を感じていない・・・といったパターンが多いですね。

しかし、心の傷を癒したとき、あれっ!こんなに楽に生きられるんだったんだ!、もっと早く癒しておけば良かった~と初めて気づくという感じです。

それならよし、過去のショックな出来事と向かい合おうと思ったとき、コメントの方がどのようにやっていらっしゃるのか分かりませんが、ただ目をつぶって思い出そうとしても何も感じられないことは、よくあることです。ある意味そのためにセラピーのツールがあるんですね。

潜在意識の深いところにどうアクセスするかは、ブログで書くにはあまりに無理なのでここでは省きます。ただ、コツは普段から体の感覚に慣れ親しんでいることです。なぜなら潜在意識への窓口は、思考ではなく感情であって、感情をよく感じるには体に集中しないといけないからです。

さて、話の角度を少し変えると、ショックな出来事を振り返って、“あぁ、あれが起きて本当に良かった。そのおかげで私は自分について、そして生きることについて多くを学び、一つ高い位置からものごとが見られるようになったなぁ。しみじみ・・”となったとき、真の意味で癒しが終了したと言えるでしょう。

もし癒しをする理由が、悪いことが起きることを避けるためだったり、または、今の自分はいまいちで、癒して良い自分にしたいから・・・だとすると、たぶん険しい道になってしまいます。なぜなら不安と自己否定がベースになっているからです。

それよりもまずは、ハートの深いところに“私が本当に本当に求めているものは何?”と尋ねて見ませんか? これ(物)があったらいいな、こんなふう(状況)だったら良いなというレベルではなく、もっともっと深いところに尋ねてみましょう。

あなたのハートの奥深くに輝いているもの、見つけたとたん涙があふれてくるような心の底から欲しているもの。自由?つながり?無限の可能性?愛?真実?創造性?何でしょうか?

そして、見つけたときなぜ涙が出てくるか分かりますか? それは、それが自分がずっと求めていたものだったのだとはっきり分かり、そしてそれは自分の中にずっとあったことが分かるからです。

自分はもう求めるものを持っていて、また自分はすでに求める姿であると知った上で、どうして普段私はそれを感じられないのだろう?どうして普段それが見えないのだろう?と振り返ってみましょう。そして、それを塞いでいる思いや感情を癒していくのはどうでしょうか?

ハートの奥底にある純粋な欲求を中心に持ってきたとき、癒しはうんとスムーズになり、また望まなくても人生は私たちに多くのものを与えてくれるようになりますね♪

PS:現在悩んでいること、苦しいことがある場合は、それから手をつけることをお勧めします。

人生がときめく思考の選び方♪

時差ぼけから復活してきました! ということで、さっそく前回の続きです。

ときめく思考の選び方。ふふ。

とくに新しいことではありません。アファメーションとかリフレーミング(見方を変えるテクニック)なども、そのためのツールですね。もちろん、そんなふうに簡単に考えを変えられたら苦労しないのだ!という声もよ~く分かります。そのために、カウンセリングやセラピーがあるわけです。

頑固な思考は、それだけいろいろな感情がくっついていますので、先に感情の解放をしたほうが良いケースも多々あります。しかし、感情の解放は実際に体験してもらうのが一番で、ブログには限界があります。ですので、ここではブログに書けて、すぐに試せるものだけを書かせてもらいます。

私たちは、普段「それほど頑固じゃないけど、なんだかネガティブな思考」をけっこうたくさん抱えているものです。ある調査によると、人間の思考は80%がネガティブだそうです。ですから、頑固な思考がすぐに変わらなくても、毎日の簡単なエクササイズで、80%より減らせることができれば、日々に大きな違いが出てくるでしょう。

では、早速やり方に入ります。やり方は、一部セドナメソッドというものを変形して取り入れました。

<思考を選ぶ方法>

まず、前提です。

「どの思考も、現われては消えていく波(エネルギー)の一つである」

「思考も感情も本来流れ去っていくもの。同じものが自分の中にいつまでもあるほうが不自然」

「大切そうに見える思考と、どうでも良い思考の間に大差はない」

「思考は信じなければ(選らばなければ)、いつか必ず去っていく」

「自分の中を通過する思考がポジティブなほうが生きやすい」

「ネガティブな思考も抵抗するより受け入れる(それによって去っていく)」

「根拠なく楽しい思考を選んだ人の勝ち」

次に、鍵です。

「打倒ネガティブ思考ではなく、受け入れ、変化、変容させていく」

「ネガティブな思考が沸いてきてもぜんぜんOK」

このようなエクササイズをしようとすると、人によっては、いつの間にか「打倒ネガティブ!」になってしまい、「あぁ、まだネガティブな思いが出てくる! →自己嫌悪」というサイクルに陥ってしまいます。ですが、エゴ(自我)が健在な限り、ネガティブな思考は絶対出てきます。で、それはまったく問題ありません。問題は、それを全部信じ込んでしまう(ただ考えている)ことです。

このエクササイズは、私たちには選ぶパワーがあるということを思い出し、それを使うのが目的です。

では、ステップです。

1)気分が重くなる、不安になる、焦りが出てくる、などなどといったような思いを選ぶ

例)「私の能力は他の人と比べていまいちだ」

2)その思いをきちんと意識し、受け入れる

“「私の能力は他の人と比べていまいちだ」という波が私の中に漂っている”

(EFTを知っている方は、ここでEFTをやるのもグッド。“私の能力は他の人と比べていまいちだと思うと、不安になるけれども私は大丈夫”をフレーズに)

3)ネガティブな思いには、必ずウソがあります。しかし、なかなかそれを自分で見破るのは難しいです。ウソなんだと思うとすると、抵抗が強まり、逆にワークが難しくなります。なので、ここでは、その思いに抵抗せずに、とりあえず賛成してあげます。

“この思いは、きっと本当だろう。とても真実味がある”

(※このとき、“私の能力がないのはきっと本当だろう”と言わずに、“この思い”と客観的になれる言い方にしてみましょう。)

“本当に違いない。”

“本当だと思うけど、この思いは私の役に立つ?”

“本当だと思うけど、この思いは私に力をくれる?”

“本当だと思うけど、私はこの思いをずっと持っていたい?”

イエスかノーで答えましょう。

このとき、体でよく感じて、ほんとうにイエスなのかノーなのか感じてください。

“私は、この思いを流したい?”

“私は、この思いをほんとうに流したい?”

(イエスかノーで答えましょう。)

“本当に流したい?”

(イエスかノーで答えましょう。)

“いつ受け流す?”

“今!”

4)受け流した後(流せたかなぁという疑いが残ってもOK)、もっと自分に力を与えてくれる、安心させてくれる、または楽しくなる、などなどの思いを書いてみる。

例:「私は、私の一番の応援者だ。私は大丈夫」

5)新しく選んだ思いを深呼吸しながら、頭のなかで繰り返す。

以上です。

もし、体がこの思いを受け流せな~い!とノーと答える場合、感情の解放を先にしたほうが良いか、または、その思いを持っていることのメリットがあったりする可能性があります。どうしても解放したい場合は、感情を解放するテクニックを使ったり、カウンセリングを受けたほうが良いかなと思います。

ということで、「根拠がなくとも、嘘っぱちだったとしても、自分に力をくれる思いを持ったもの勝ち」です。人生はある意味とてもシンプルです。考え込みすぎないで、ハートを軸に軽やかに過ごしたいですね!

 最後にお知らせです。新刊の売れ行きが好調だそうです。皆さん、ありがとうございます!!また、アマゾンにレビューを残してくださった方、感謝、感謝です。そして、ジュリアン出版さんが、新刊用の特設ホームページを作ってくださいました。ブログのコーナーにも加えましたが、良かったら覗いてみてくださいね!→★

思いがあって現実が生まれる

先週ロンドンカウンセリングコースが終了しました。真に役立つカウンセリング、変化を起こすセラピーをモットーに毎年進化しています。新しいテクニック、新たな知識、経験を毎年積んでいき、それをシェアできるのがと~っても楽しいです!

前回「価値観屋」物語(?)が、好評だったようで大変嬉しいです。私は、スピリチュアルは、私たちの人生に深く根付いたものだと思っています。というのもスピリチュアルは、「私たちは、どうして生きているのか?」「どうやって生きるのか?」がテーマなわけですから、これほど人生に関係する問いはないかと思うのです。

ということで、下記のコメントにお返事させて頂きます。コメントありがとうございます!

現実には、自分の「やりたいこと」や「やりたい仕事」をする前に、簿記の◯級とかパソコンのレベルは中級とか、英語の資格は◯点必要とか、年齢は◯歳までといった条件をつけられます。最近では、昔は存在すらなかった「職務経歴書」などの書類の提出が応募段階で求められて、面接にたどり着く前に自分を書類上でも強くアピールすることが求められます。誰かに扶養されていたり、または雇用者の立場や個人で自由業で生きていける人には、今日のお話は納得がいくと思うのですが。。。こういった現実問題について、どう思われますか?とりあえず、日本で生きています。そして自分のやりたいこと(仕事)をできる方がいいし、何より食べていかなければいけない。「この世のすべては幻想」と言ってしまえば、それまでなのですが。

現実問題に役立たなければ、私はおそらくスピリチュアルな教えには興味がないでしょう。

まず、自由業者も経営者も銀行がお金を貸してくれないとか、契約をドタキャンされたとか、クライアントがお金を支払ってくれないとか、別のいろいろな現実問題がありますね。扶養されている人にも、その人なりの現実問題があるでしょう。

また、特に日本は、世界第3位の経済大国で、独裁政権でもなく、好きなことをして食べていける可能性が最も高い国のうちの一つかと思います。

しかし、「やりたいことをする前に、まず食べていかなければいけない」と思い込んでいたり、「条件を満たしていないと採用されない」と思い込んでいると、そういう現実に住んでいると思い込んでしまうでしょう。

ですが、実際、現実は人の数ほどあります。

スピリチュアル心理学でもお話したように、私たちの現実は、私たちの思いを反映したものです。「何より食べていかなければいけない」と思っていると、そういう現実を当然体験します。そう思っていると、はじめからあきらめてしまい、自分のやりたいことを探そうともしないかもしれません。

多くの人が、自分が経験していることと、自分は分離していると思っています。簿記の◯級とかパソコンのレベルは中級とかを条件づけてくる会社は、自分とは関係なく存在していると思っているかもしれません。、しかし、実際は自分の思いがその体験を選んでいるんですね。(=現実を作っている)

さて、調子に乗って物語り風にまた行きま~す。ある宇宙の空間に無数のドアがあるとイメージしてみてください。ドアには、文章が書いてあり、それを読んで“ほんとうにそうだ。”と心から信じれば、その瞬間にドアは開き、そして、そこで文章に書いてあった体験をすることができます。

なので、自分が“そうだ!その通りだ!”と思える体験をしてみたいと、ドアの文章を読む魂たちでそこはいつも溢れかえっています。さて、ある魂が、あるドアの前に立ち、文章を読んでいました。そこには、「食べていくことがなによりも大切」と書いてあり、その魂は“これほど明白で当たり前のことはないだろう。死んでしまったら何にもならないのだから。”と深くうなづきました。

するとその瞬間にドアが開かれ、足を踏み入れると、そこは大きな工場内でした。いろいろな部署があり、みんな忙しそうに働いています。ある部署の前に来ると、眼鏡をかけた男性が、“ここにいる限りちゃんと食べて行けるから安心ですよ。ただ、その代わり工場のトップが決めたことには従わないといけないですけどね。”と話しかけてきました。魂は、自分がいつの間にか工場のユニフォームを着ていることに気がつきました。

工場の外に出てみると、一人の物乞いに会いました。物乞いは、“私はなにも資格がないため、面接すら受けられず、自分を試してもらえるチャンスさえありませんでした。”と言い、その魂は、“こんな惨めな姿にはなれない。やはり何よりもちゃんと食べていけることが大切だ”と思い、工場が伝えてくる条件をクリアすることを何よりも優先して生きていきました。そして、そのうち、自分がドアの文字を読んだことを忘れ、これが唯一の現実だと思い、それを子孫にも伝えていったのです。

さて宇宙空間に戻ると、ある魂が先ほどの魂と同じドアの前に立っていました。「食べていくことがなによりも大切」という文章を読んで、“そりゃぁ、ないだろう。人生とにかく楽しまなきゃ。楽しくない人生なんて、死んでいるのと同じだ。”と一瞥しました。ドアは開かず、その魂はそのまま去っていきました。

このように、多くの魂が熱心にドアに書かれた文字を読んでいるなか、それらをただ眺めている魂が一人いました。それに気がついたある魂が、その魂に“あなたは、どうしてドアに書かれた文章を読まないんですか?”と尋ねると、その魂は、“読んでいますよ。いろいろな考えがあるなぁって思います。ただ私は、どの考えも信じていないので、ドアが開かないだけです。”と答えました。

“どの考えも信じない? そんなこと可能ですか?”とびっくりして聞き返すと、“もちろん可能です。あなただって文章を読んだ瞬間に、信じるかどうか決めているんですよ。ですから、どれも信じなければ良いだけです。”とその魂は答えました。“でも、なにも信じなかったら、ドアが開かないじゃないですか。あなたは何も体験できず、どこの世界にも所属できなくて寂しくないのですか?”と、さらに尋ねると、“実はね、私はすべての文章を信じ、すべての体験をしたのです。そして、分かったことは、どれも真実ではないということでした。”

“すべてが真実ではない・・・。じゃぁ、あなたはこれからずっとここにいるつもりですか?”、そう尋ねると、その魂は、尋ねた魂の目をじっと深く見つめ、“あなたもずっとここにいるんですよ。ドアの向こうの世界は幻想です。あなたは一度もここから離れたことはありません。”と答えました。

それを聞いたとたん、尋ねていた魂は、自分は宇宙であり、すべてであることを思い出しました。そして、この場所こそが自分の本来の居場所であって、そこは無条件の愛で満ち溢れ、自分が愛そのものであることも実感できました。夢から覚め、感謝の涙がこぼれつづけていました。そして、多くの魂が、「自分の思い」の世界の中から抜け出せなくなっていることもよく分かったのです。

自分の思いが自分の体験を生んでいることを知らないと、あたかも現実のほうが先にあるように思えてしまうでしょう。特に潜在意識のレベルで信じている思いは、自分が自覚していないために、ますます現実が先にあって、自分はそれに対処しているだけだという感覚になるかもしれません。

しかし、順番は逆なんです。自分が深いレベルで信じていることが、私たちが経験していることなんですね。このへんのことや、ハートの声の聞き方などなども、11月のセミナーで実践を交えながら、細かくお話しさせてください。

私たちが幸せを感じるのは、ハート♪です。頭で幸せを感じることはできませんね。価値観や常識は、100%思考の働きです。しかし、ハートは、真の自分(魂の自分)の声、幸せに導く道しるべです♪

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事実を変えるにはどうしたらいいの?

現在ロンドンカウンセリングコースの真っ最中です。なので、更新が遅れがちです。めっちゃ楽しいです! 参加を迷われている方、ぜひ来年いらしてくださいね!(フィードバックもコース後アップします。)

さて、今回もコメントにお返事させてください。お二人のコメントを掲載させていただきます。コメントありがとうございます! (赤字が私の記事、お返事です。)

あゆかさん、いつもありがとうございます。ちょっと疑問に思うことがあります。

>たとえば、“私は犠牲者だ”と思っていたら、自分が犠牲者だと思えてしまう体験をするでしょう。または、“私は優れている”と思っていれば、同じように自分が優れていると感じられる体験をします。

これは他でもよく言われていることですが、「体験をする」ということは、その「体験」自体を本人がどう感じるか、思うかということではなく、実際に「ふさわしい体験をする」ということを意味するのでしょうか?言い替えるなら、同じ事象でも、考え方で違う意味づけになるということではなく、事象自体が違ってくるということでしょうか?

それに対して、私のお返事は、↓でした。

いいえ、「そう思える」「そう感じる」だけで、実際には、被害にあっていない可能性も大です。ただ、本人としては、それが現実だと深く信じていると思いますよ。

そして、それに対して下記のご質問を頂きました。

興味ある書き込みだったので関連して私にもお問い合わせをさせてください。これって、被害妄想という想いこみを自分の観念を通して生んでしまっているということでしょうか?でも、これで行くと本当に被害にあっているのに、これは現実ではない自分の観念だっていう自己攻撃につながりそうでちょっと難しいと思いました。

「事実」と「観念による思い込み」をきちんと認識する方法ありますか。DV被害者等は、思い込みと自分を言い聞かせて、より大きな被害をうけてしまうことにつながるので難しいと思いました。スピリチュアルな思想は、自分が困難にぶつかったときに、発想を切り替えて希望を持ち進むための手法なのでしょうか。それ故に魔法じゃないし、事実を変えていくのは自分の行動だというからくり?になりますでしょうか?

まず、「被害者」(=犠牲者)と「被害者意識」(=犠牲者意識)を区別したほうが良いでしょう。被害者意識というのは、例えばお店で定員さんが自分にだけ態度が悪いと思ってしまったりするようなことです。実際は、そんなことはまったくないにもかかわらずです。

しかし、歩いていたら車がぶつかってきた、誰かになぐられた、お金を騙し取られた、などは明白な事実としてあるので、被害に遭った「被害者」だと言えます。さて、被害者なんですが、その人が、「相手にはきちんと法の裁きを受けてもらい、保障をもらうのだ!」、「殴られていることに甘んじている必要はない」などと意志を強く持っていれば、この人は被害者であっても、被害者意識」(=私には力がない)はないですね。

最初の話に戻りますが、例えば、あるお店で店員さんがなかなか注文をとりに来なかったとします。そしてやっと来たら、詫びるどころか不機嫌そうな顔をしていたします。このとき、被害者意識が強い人は、どう思うと思いますか? おそらく「人は私に冷たくあたる」とか、「私のことはどうでも良いと思っているに違いない」などと解釈するでしょう。

そして、この人の中では、これが事実になります。ちなみに、この店員さんは、誰に対しても同じ態度を取っています。でも、この人の目には、他の人にはもっと態度が良いようにどうしても映ってしまいます。

で、“私は、いつもこんな嫌な店員(人)をひきつける”とか、“私の周囲には嫌な人が多い”などと思ってしまうかもしれません。一方、被害者意識のない人が同じお店で、同じ店員さんにサービスされたらどう思うと思いますか? おそらく「混んでいて忙しくて不機嫌なのかも」とか、「お店の教育がなっていないな」などなどと思うでしょう。

この人にとっては、この店員さんは、自分が引き寄せたというより、きっと単にたまたまいた不機嫌な店員というだけでしょう。このように同じお店で、同じ店員さんにサービスしてもらっても、二人の事実はまったく違います。

で、どちらのほうがより事実なのでしょう?

そうです。どちらも事実ではありません。事実とは、自分の解釈がまったく入っていない状態で見えているものです。ご質問のお二人とも、おそらく自分が見ていることは、紛れもない事実だということを前提にしているでしょう。ところが、私たちは解釈なしにものごとを見ることはまずしません。解釈次第、感じ方次第、見方次第で、ハッピーになったり、不幸になったりするわけです。ですから、自分が見ているもの、経験していることが嫌であれば、自分の中の思いを変えることですね。

例えば、暴力を振る夫と暮らすのは、誰もが嫌だとまず思うでしょう。もしかすると、その人は、いつか夫が優しくなることを夢見ているかもしれません。しかしもし、「私はひどい扱いをされるような人だ」とか、「私はたいしたことがない人間だ」などなどといった思いが、その人の潜在意識にあれば、優しくしてくれて、自分を大切にしてくれる人は、自分の思いとマッチしないので、会ってもしっくりこなかったり、または、そもそも視野に入ってきません。

なぜなら、自分の思いにないものは、私たちは気がつかないからです。例えば、プラモデルに興味がなければ、何百回同じ商店街を歩いても、プラモデル屋さんがあることに気がつかなかったするのとまったく同じです。

話を戻して、「私はたいしたことがない人間だ」とすごく強く信じている人に「あなたは、素晴らしい人ですよ」というと、すごい勢いで否定してくるか、または抵抗感を強く持つでしょう。ということは、裏を返せば、「私はたいしたことがない人間だ」と周囲にも信じて欲しいと無意識に思っているわけなんです。

で、自分も信じていて、周囲にもそれを信じて欲しいと言っているわけですから、当然、「たいしたことがない人間」として扱われます。もちろん、ぜんぶ無意識です。意識上では、「なぜ、私はこんな目に遭うのだ」と辛く感じている可能性大です。

さて、セラピーやカウンセリングは、このような場合、「私はたいしたことがない人間だ」という思いが生まれた原因を探して癒し、そして「私はなかなかいけている」といったもっとポジティブな思いに変えるお手伝いをします。不安の思いから、もっと愛ある思いに変化させるんですね。

さて、スピリチュアルと一言でも言っても、みんなのなかで定義が全く違うでしょう。また、スピリチュアルといった一つの決まった思想があるわけでもありません。

ですが、私にとってのスピリチュアルとは、単に発想を切り替える変だけのものではなく、「真の私」とはなにものか?を指し示してくれるものです。このへんは、セミナーで詳しくお話しいたしますが、「真の私」とは、「私の発想」、「私の思い」を超えた存在です。その視野に立ったとき、私たちがどうして苦しむのかがよく見え、また、なにが起きていようと、人生があることそのものがミラクルに見えます。

自分は存在する価値があるのかどうかではなく、存在していること自体がミラクルで、そして、私たちみな愛から生まれ、欠けたところがまったくない存在なんです。

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