理想という名の魔境♪

自我にとって一瞥体験は非常にインパクトが大きくて、どうしてもあの体験をもう一度~!状態に陥るものです。

私もしばらくかなり深くはまっていました。当時、“それはただの体験に過ぎない”と言われたら、たぶん猛烈に反発してしまったでしょう。

私は真実を見たのだ!という思いが強すぎたのです。でも、問題は、そのために苦しんでいるという事実。

幸いなことに心はがっかりしてしまいましたが、非二元のティーチャー達に一瞥体験にしがみつくことは大きな間違いだと教わり、早めのうちに一瞥体験教から目覚めることができました。

何にしても求めるということは、どうしても苦しみを生み出します。

しかし、これは何も一瞥体験した人だけの特有のパターンではなく、日常を振り返ってみると、私たちは常に深いところで何かを求める衝動がカラカラと走っているものです。

私自身も自分をちょっと振り返れば、基本的にいつもより満足できるほう、良い気持ちになれるものを求めているなぁとつくづく思います。

悪いことだと言っているのではまったくありません。何が良いか悪いのかではなく、たんに自我のしくみというか性質のお話です。

自我とうまく付き合っていくために、その性質をよく理解していたほうが、悩みや苦しみが減りますよね。

とりあえず、ある意味当たり前すぎて、多くの人がその衝動に無意識ですが、無意識であるがために、人生を軽く振り回さすぐらいの多いなエネルギーになってしまいます。

自我とは言ってみれば、エネルギー体ですね。思いも感情、感覚、体も常に変化している流動体です。

そういう意味で人をエネルギーの流れとして見るインドや中国の医学は、人を肉の塊とみる西欧医学よりも、やっぱり本質をついているなぁと思います。

で、そのエネルギー体が衝動のエネルギーとして稼働している場合、そのエネルギーが大きければ大きいほど、それに反比例して“今”が空っぽになります。

そうすると心が渇き、余計求めるというサイクルに。

例えば、ワークホリックの場合は、頭の中にワークリストが常に消えない。それを終わらせれば自分はリラックスできると思っているけど、実際終わると物足りなさ、落ち着きのなさを感じ、ゆっくり休むよりは、また仕事を始めてしまう。

ここである意味難しいのは、仕事をすることで喜びや満足感を得つづけるので、ほんとうは衝動、焦燥があることに気づきにくいことです。

と、ここまで読んで、自分は仕事楽しいと思ってやっているんだけど、本当は衝動のサイクルにはまっているの?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

それを見分ける方法は簡単です。常に疲れてきたら、そのサイクルにはまっているということです。

なんで分かるのか?というと、私がはまっているからです。へへ。

ただ、自分で言うのもなんですが、気づいているのと、まったく無意識であるのとでは雲泥の差があります。なぜなら気づいていれば、一度止まって振り返ることができるからです。

で、衝動のエネルギーをじっと感じて、なにがこのエネルギーを生んでいるのかを探ってみます。たいてい、不安や恐れです。

では、楽しんでいたはずのものがいつの間に恐れや不安になってしまうのでしょう? それは、もちろん人それぞれです。私の場合は、公私にわたっていろいろと責任が増えてからだなぁというのがよく分かります。

そこで今度は、その「公私にわたった責任感」というのを見てみます。ストーリー的にはもっともらしく、正論であり、守っていかなければいけないようにどうしても見えます。

家族のため、社員のため、~~のため・・・・みたいな。

でも、正しいストーリー、またはある理想的な形というのは、ある意味一番魔境で一番引きつけられてしまうものです。

生身の身近な人間が絡んでくるその幻想を見破るのは、かなり難しいものですね。とくに家族となれば、愛情もがっつり絡んできます。この子たちが自立するまでは・・・・・。親が退院するまでは・・・・。

今の状態が大変であるほど、気持ちはなんとか理想の形、または今より良い形へ持って行こうという衝動でいっぱいになるでしょう。

しかし、私自身を振り返っても、そういった衝動に基づいた行動は、どうしても無理があり、また人とぶつかることも多いなと思います。なぜなら、自分が思う理想の形へ周囲を引っ張っていこうとするので。

繰り返しますが、そういう意味でも、気づくことはとっても大きいことですね。サイクルを一旦中止させる。で、難しいけれども、自分が思う理想の形(魔境♪)は、実は実体のない絵空事であると見抜いていく。

衝動がもたらす望みというのは、衝動にとってはとっても必要に見えて、そして大変リアルなものです。でも、もしそのために苦しみがあるなら、やっぱり幻想にしがみついているということです。

苦しみとは、それが手に入っていないから苦しいのではなく、求めているものが幻想だから苦しいんですね。実体のないものにしがみついているから苦しんです。

じゃぁどうしたら良いのか?

それは今ここにないものではなく、今まさにあるものをよく見ていくこと。つまり、頭の中にしかないものを横に置いてみること。80%以上のストーリーは消えるはずです。

そしてできれば、苦しみのストーリーを生み出す、今まさに自分の心にあるものを見つめてみませんか?

“今”という実体へ少しづつシフトしていく。ほんと正気に戻れます(笑)。

 

☆☆☆ 衝動の下にあるもの ☆☆☆

さて、前々回、摂食障害について書きましたが、OADセッションを受けた方の素敵な感想文を頂きました。この感想文の素晴らしいことは、セラピストさんに頼るだけではなく、自らも普段から「衝動の声」に耳を傾けていらしたこと、良くなったり、戻ったりを繰り返しながらもあきらめずに向き合われてきたことです。衝動の下には何があったのでしょう? 宜しければぜひお読みください♪ →感想文

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幻想の終わりは生の始まり♪

生と死が幻想だって聞いたら、
自我は生きる意味を見出せなくなるかもしれない。

どんな風に生きたって良いってこと?
今自分が楽しいっていうことも幻想なんだよね、
今自分が苦しいっていうことも幻想だよね、
人を殺しても幻想なら良いってわけ?
どうせ幻想なら、今頑張っても頑張らなくても良いってことだよね?

じゃぁ・・・・、どうしたら良いの?

でも、ほんとうに生と死が幻想だと真に気づいたら、
そこに見えているのは、
すべてが祝福されているということ、

わぁ、そうだったんだ、わぁ・・・。
そして大きな安堵感

そして気づく、生に執着しないから、生を目いっぱい讃えることができるのだと。
そしてまた、生に執着していたから、人生は自分の思うような形でないといけなかったことを。

私が思う幸せが欲しい、
私が思う夢を叶えたい
良いことだけが起きてほしいと思う

そのために私はどうしたら良いの?
そのために私は何をすれば良いの?

生の執着から解放されたとき、
叶わなかった夢もいとおしく祝福されていて、
一瞬、一瞬、起きていること、
ただそれだけで素晴らしく、

あはは、ただそれだけ・・・・
“ただそれだけ”という言葉がどんなに優しいのか知らなかった
自我は笑いながら、やっと生の素晴らしさを知る

死を恐れないから、
未来よりも今が大切になる
今、何が大切かよく見えてくるだろう。

より良く生き延びるために、死ぬまで安泰に暮らせるように
今を生きるのではなく、
今、自分にとってかけがえのないものが見えてくる。
もう人生の祝福を見逃さない。

あなたが犯したと思っている罪も
あなたが抱いている絶望も
あがいてもあがいても這い上がれないような暗闇も
すべてがこの瞬間に切なくも愛おしく、
祝福され、受容されている

だから、自分が自分を否定している重さ、痛さ、締め付けが
苦しみのストーリーを生み出していることがことさら見える
そして、自分を締め付ける手をそっと緩める

生と死が幻想であると分かって、
初めて自我は生を祝福できるのだろう♪

 

自分自身のユニークな人生の歌を聴きたい場合、それは“こうありたい”、“こうだったら良いのに”、“こうならないといけない”、“こういう自分でないと”・・・・と、ありたい状況、こうありたい自分になろうとする声ではなくて、もっと静かな部分に意識を向けてみませんか?

思いや言葉ばかりに気を取られている自我は、「静か=ない→何もない」と思ってしまうでしょう。でも、その静かな部分があなたの本質で、そしてあなたのユニークな人生を常にともにしている意識。純粋意識。空。

そして、言葉ではなくて、自分が最も良く知っている感覚、一番自分らしい感覚を探してみませんか?

その感覚から出てくる衝動、その感覚にマッチする思い、感情。それがあなたのユニークな人生の歌ですね。

たとえ今そこに悲しい歌が流れていたとしても、その自分らしい感覚が必ず癒しに導いてくれるはず。

あなたが流れるべきところへと連れて行ってくれるでしょう♪

 

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“自分にやさしい介護者(ケアラー)になる”

投影~思考は現実化しない♪~

「非二元蓋」という言葉を春のノンデュアリティの会で話したところ、かなりの人が「非二元豚」と受け取り、非二元の知識で肥えてしまった豚という意味だと思ったそうです。あはは、それはそれで面白い。

ですが、音ではなく漢字で見ればそのまんまですが、苦しみを非二元のメッセージで蓋をしてしまうという意味です。私はいないはずだから、私の苦しみも幻想なのだ・・・みたいな。

他に、自己啓発蓋、スピリチュアル蓋などもありますね。

さて、私たちが苦しいと感じるのは、自分の中に抵抗や否定、抑圧などがあるからです。

自分を許せない、自分は他の人より劣っている、ありのままの自分でいてはいけない、自分はどこにも属さない、などなど、100万通りの抵抗や否定を私たちは抱えています。

例えば、新しい職場で働くことになり、緊張と期待で行ってみたら、職場の雰囲気が殺伐としていて、分からないことを聞ける感じではないとします。

このとき、意識の深いレベルで“自分は能力がない”と思っていたら、不安の度合いはどれぐらいあるでしょう?

とりあえず、職場のほかの人たちが自分をどう思っているのかがすごく気になったり、または常に他の人と自分を比べ、自分は出来ていないと判断して焦ったり、自分をさらに否定をしたりするかもしれません。

家に帰っても緊張が残り、次の日の通勤電車の中でも重たい気持ちになっている・・・・、そんな日がずっと続く。

解消されない思いや感情を毎日持ち続けるとエネルギーが下がり、苦しさも増していきます。

でも、私たちはどうしたら楽になるかなど知らないので、自我が一番良く知っていて手っ取り早い方法が、なんとか抑圧すること。

お酒やネット、食べることなどなどで気を紛らわして蓋をして抑圧する。または、苦しみが大きくなると非二元蓋や宗教蓋、人によってはドラッグなどが必要になるかもしれません。

もちろん、本当の意味ではまったく楽にならず、どんなに蓋をしても、それらの思いも感情もしっかりあります。

で、次にどうなるかというと、それを外に投影するんですね。

蓋をして自分の中にはないことにしたものは、ぜんぶ外に投影され、リアル感100%です。これを“思考が現実化する”と勘違いする人が非常に多いのですが、まったく違います。(ないことにしたので、自分ではまったく気づかなくなります)

そのへんを説明するのに、もう少しついて来てください。

例えば、自分が気づいていないけど、実はしっかりある思いは、「自分は思っていない→他の人が思っているのだ」になります。

つまり、周囲の人が自分のことを“お前は能力がない”と思っているように見えるんです。

なので誰かが、“ちょっとこのレポート分かりにくいです”と言えば、“能力がないと思われている!”と解釈したり、上司に“ダメだ、こんなやり方は!”などと言われた日には、この思いにヒットしすぎて、すごく痛い。

で、たいていは“上司は自分のことをダメだと思っている。自分なりに頑張っているのに。上司ならもっと丁寧に部下を指導するべきだ”などと、上司憎し・・・になったり、または、上司が怖い、苦手だ・・となったり。

これは、嫌な上司を引き寄せたのでも、バカにされる現実を自分が作ったのでもなく、単に自分がそう解釈しているだけです。そう見えて、感じてしまっているだけなんです。

ただ、本当にそんなふうにしか見えないので、自分がそう感じているだけだとは到底思えないものです。なのでクライアントさんでも、それは事実です!と食い下がる人多しです。(細かくはインテグレイテッド心理学でやっています)

それだけ真実味、現実味が高いという意味では、人は自分の思考の現実を生きていると言っても良いでしょう。

ですが、基本的に思考はいつも後だしジャンケンです。思考がなくても、現象は起き続け、思考も現われては消える現象の一つです。

ただ多くの人はあまりに思考に同化しているため、自分=思考=主体のような感覚になっていますよね。

思考は観察される側であるのに、常にものごとを判断したり、解釈したり、レッテルを貼っているので、自分は観察側だ、主体の側だ、現象をコントロールできるのだと勘違いしてしまっているんです。

話を非二元豚に戻します。あっ、パソコンが豚と変換してしまった。蓋です。

ここで本当に苦しい原因は、“自分は能力がない”と思い込んだ自分が抑圧されていることですね。ちなみに、これはまだ大雑把なので、OAD(オープン・アウェアネス・ダイアローグ)では、どんなふうに能力がないのか?なにが欠けていると思っているのか?などを探り、もっと深いセルフイメージまで見ていきます。

するとそこにはたくさんの感情、思い、記憶、イメージがあります。そして、それらが暗闇にすっかり抑圧されていたため、苦しみを生んでいたのですね。上司や職場はある意味関係ないんです。

セッションはたいていとても個人的なストーリーから始まります。夫が~~、仕事場で~~、お金が~~~、姑が~~、子供が~~~とあらゆる個人のストーリーがあります。

しかし、深いレベルまで見ていくと、途中から状況はほんとうにある苦しみ、自分が抑圧した苦しみを刺激しているだけなのだと分かってくるでしょう。

また、この抑圧された思いは、基本的に私たちが100%そうだと信じている思いです。なので、ものすごくリアルですし、“個の私がいる”感をバンバンに感じさせます。

ですから、実は苦しい人ほど、分離感、“個の私がいる”感が強く、非二元のメッセージなどはすごく遠く感じるはずなんです。

ちなみに、自分がいなくなった状態になるのではなく、“初めから個の自分はいなかったと知る”です。どんなに個の自分がいる感じがしても、それはこういったビリーフや感情の集積がそう感じさせているだけです。

ということで、まずは自分を自分の抑圧から解放してあげられると良いですね。

みんなの中に本質、愛へ戻りたいという欲求が必ずあり、それを癒しを通して実現することも目覚めの一つのかたちでしょう♪

 

PS: 思考が現実を創る~の誤解に関しては、その人がどう定義しているかにもよるでしょう。とりあえず、今回は非常に端折っていますのでいつかちゃんと書いてみま~す。

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守りを落として分離を癒す♪

ほんとつくづく、批判したり、嫌ったり、さらには憎んでしまったりする相手というのは、自分の中の分離を癒す絶好のチャンスになるなぁと思うのです。

で、よく相手は自分の鏡と言いますが、嫌いな相手を“自己中な奴だ!”と解釈し、私も自己中なんだ~と振り返るのは、ちょっと大雑把かもしれません。

自分の中の分離と書きましたが、ある意味「自我=分離の錯覚」ですので、正確に言えば、私=分離です。私が分離感を持っているのではなく。ですが、他者を嫌っているときというのは、より深い分離の錯覚にはまっていると言えるでしょう。

その分離幻想が見せてくれるものとは、本当は手放して良いのに、私たちが握り締めてしまっているものなんです。

ということで、説明させてください。

例えば、あるクライアントさんは、同業者のある人に対してすごく苦手意識があり、また嫌悪感があるというテーマでいらっしゃいました。(そしてまた、自分を宣伝するのがとても怖い)

で、潜在意識を掘っていくと、「自分が本当に信じていることを話したら殺される」という思いがあったのです。(過去生が絡んでいました)

まず、私たちは自分が深く信じてるものを、いつの間にか自分のアイデンティティにもしてしまいます。なので、自分の信じていることに対して誰かが「間違っている」と言えば、それは自分を否定されたことにもなるんですね。

その方の場合も「本当に信じていること」というのは、「自分の仕事の上での信条」であって、それは彼女にとって非常に大切なものだったのです。

なので、その同業者が、自分とまったく違う信条を降りかざし、堂々と自分を宣伝し、人気があることがすごく嫌だったんですね。

殺されてしまうから声を挙げられない自分は、その人がそばで活躍するのを見ているしかない。でも、なんだか自分の信条が置き去りにされていく、無視されていく、つまり、自分自身が置き去りにされていかれるような気持ちになっていたんです。

こういったところが見えてくるまで、彼女は「成功している同業者を嫌う自分」を恥ずかしく感じ、責めてもいました。

最終的には「自分が本当に思っていることを話したら殺される」と思っている部分の自分を癒すことで、その人はその人でいいんじゃな~いぐらいまで緩んだのです。

これは無数にあるうちのほんの一例に過ぎません。いずれにせよ、私自身の自己ワークでも、クライアントさんへのワークでも、誰かを嫌ったり、憎んだり、批判したりなど、強い分離感を持っているときは、

「セルフイメージ」「自分の大切な人」「自分の大切なもの」「自分が深く信じている思想」など、自分が同一化してしまうほど大切で守らなければいけないもの、

または、

一生懸命隠している、絶対知って欲しくない部分の自分(ダメな私、バカな私、etc)や守り通して見せないでおきたいもの。

という「守りたいもの」を必ず見つけることができます。

つまり言い換えれば、守りたいもの、握り締めておきたいものが多いほど、人間関係において分離感も強くなるんです。

では、なせそもそもセルフイメージとか、信念とか、そういったものを私たちは握り締めているのでしょう?

自我の構造を考えた場合、自我とは体と思い、感情(&感覚)の集積です。私の体、私の思い、私の感情(&感覚)・・・・というように。難しい理論を持ち出さなくても、自分を振り返れば、これらが自分の構成要素であることは分かるでしょう。

ということは、ある意味、

自我=セルフイメージ、ビリーフ、信念といったものの集積なんです。

つまり、セルフイメージ、ビリーフ、信念といったものは、自我にとっては自分そのものなんです。なので、それらを手放すということは、ある意味自分の死でもあるんですね。(もちろん無意識のレベルで)

例えば、ネガティブなセルフイメージをどうしても手放せない場合も、深いところで、自分がいなくなるよりましだと思っていたりすることも多いんです。

ということで、大切なビリーフほど私たちはしっかり守ろうとするし、考えを攻撃されると自分が攻撃されたと受け取り、様々な感情が出てきます。

カウンセリングやセラピーで、こういったビリーフを緩ませていったり、すべての感情の奥底にある「愛」を度々経験していくことで守りの壁が落ちていき、か~なり楽になっていきます。ほんと。

と同時に、もし、真の自分は「気づいている意識」のほうだと認識できれば、必死に握りしめていたものは、ただの思いだということもよ~く見えてくるはずです。

しかも、そもそも守らなければいけない自分などいなくて、ただそういう思いがあるだけであることも。

それが見えてくれば、自分にとって苦しみとなる「守っているもの」、つまり手放してよいものと、愛の思いから守っていたいのものの区別がつくようになるでしょう。

自分の癒しを進めていくことと、ノンデュアリティの理解を深めていくことは、お互いにサポートしてくれることも多いなぁとつくづく感じています。

ここ数年の欧米のノンデュアリティシーンでは、心の癒しとノンデュアリティの融合がますます強いトレンドとなっているようです。前回、そして今回の「科学とノンデュアリティの国際会議」でも、トラウマの癒しやサイコセラピーとの融合といったテーマでの会議がいくつもありました。

もちろん、一方で癒しとノンデュアリティはベクトルが真反対に向くことも多く、ケース・バイ・ケースの繊細さがそれなりに必要です。

ということで昨年に引き続き、名古屋と大阪で「ノンデュアリティと癒しのカフェ」を開催いたします。基本的にはノンデュアリティが中心のお話し会です。ご都合がつきましたら、ぜひいらしてください♪

☆☆☆☆ お知らせ ☆☆☆☆

「ノンデュアリティと癒しのカフェ」

名古屋:5月14日(土)、大阪:5月15日(日)

お申し込みはこちら

セラピストと古刑事、そのこころは?

前回の記事にコメントをくださった皆さん、ありがとうございます。(*^_^*) 日本滞在中の忙しさがピークになっておりまして、なかなかお返事ができません。でも、とても感謝しております。

さて、 “さんざん癒しのワークをしてきたのにまだ同じ問題にぶつかる”、“こんなにやってきたのに、まだ癒されていない”、“きりがなくて嫌になる”といったお言葉をけっこう耳にします。

また同時に、セラピーの講座などで“もうそのテーマは癒したから大丈夫”、“私は悟りを実践しているから、今悩みはないです”とおっしゃる方々にもお会いします。

ところが実際ワークを始めると、抑圧された感情がコチコチにあるにもかかわらず、自己防衛がガッツリ走り、まったく手が付けられないというケースもそれなりにあります。

さんざんワークをしても思っていたように楽になっていない場合、よくあるのは、そんな自分に向き合っているのが辛くなり、無意識に“大丈夫な私”にしてしまうことです。

そんな場合、今までやってきた自分の癒しや悟りの知識などでしっかり自分を守り、もうそれは分かっている!の一言で、自分の中に目を向けようともしなくなります。

こういったタイプの人にワークをするのはかなり難しい、というかほとんど不可能です。

ちなみに、さんざん癒しのワークをやってきたのに楽になっていないという場合、一番多いのは、ご本人は根本のレベルでワークをしたと思っているけど、実は深い所がまだ見えていないケースです。

一つのテーマは、たいてい一本の木のようになっていて、たくさんの枝があります。枝は細い枝ばかりではなく、それなりに大きいものもあるんですね。また、一つの枝にはいくつかの感情がついています。

ありがちなのは、枝のいくつかをワークしてワークをしたと思っているケース。木の根っこはまったくスルーされているケースです。

枝にワークをしていても、それなりにワークをした感、解放感がありますので、それでワークをしたと思ってしまうんです。

非常に多いです。ほんと。

他には、思考のレベルでワークをしていて、感情、体が置き去りになっているケース。

一つのある特定のセラピーだけでワークをしているケース。(取りこぼしがあったりします。)

などなど。

で、この本当は苦しいのに無意識に大丈夫にしてしまった場合、誰かを悪者にし、その人に怒りをぶつけることで少し楽なった気分になる・・・ということもしがちです。ネットなどその温床ですよね。

なので、まだ自分は苦しんでいると自覚している人はよっぽど良いです。

いずれの場合にせよ、カギは「自分に正直になること」ですね。

分かったこと、癒したつもりになっていないか? 自分に正直になってみることです。これは意外に難しいです。私もほんとうに何度も“そこはもうクリアした”というような思考の罠に陥ったことか。

“前は~~が見えていなかったけれど、今の私は違う。だから、もう見なくても良いのだ”などなど、思考は巧妙に横入りしてきます

ので、考えを横に置いて体に集中して問うてみると良いかもしれません。

また、“ノンデュアリティと癒しのカフェ”でも、質問は非二元についてですが、質問の動機自体は、自分の悩みを解決することであったりすることもとっても多いです。

“自分の人生の悩みは、このノンデュアリティの真実で解決されるかもしれない・・・・”という思考に乗ってしまうんですね。分離がないと分かれば、人間関係の苦労から逃れられるかも・・・・といったような。

ですが、その前提自体が誤った認識でいれば、迷路に迷い込んで行くばかりです。

また、真実を知りたいという動機が自分の悩みの解決だった場合、おそらく真実も見えてこないでしょう。自分をどうにかしたいという思いが最後まであり、自我が頑張ってしまうので。

なので、本当に望んでいることは何か?を見つめ、今自分の一番正直な思い、感情をスタート地点にしてみるんです。

正直とは、言ってみれば、今自分にとっての真実ですね。真実をベースにすれば、新たな真実がそこからまた開いていきます。

これも何度か書いていますが、私は自分のカウンセリング&セラピーを「現場主義」と呼んでいます。今、その人の心の中になにがあるか?というシンプルな“事実”をベースにしているからです。

その人の心の中といった場合、抑圧された部分(=本人がまったく気がついていない思いなど)ももちろん入ります。今、その人の中で何が起きているのか?その人の自我の構造はどうなっているのか?をひたすら引き出していきます。

私自身の分析や推測、アドバイスなどは一切入りません。それをしたとたん、現場から離れてしまうからです。

例えが悪いですが、刑事が現場検証や取調べなしに、勝手に何が起きていたのかを分析したり、推測しても意味がないのとまったく同じです。

べたな刑事ドラマみたいに、エリート長官ではなく、私は現場の古刑事なんです。あはは。

で、べたな古刑事と同じことを言いますが、現場はすべてを教えてくれるんですね。

違う思いや勝手な推測で覆わずにシンプルにただまっすぐ見てみる。そして、それらがどんなネガティブな思いや感情でも、受容し、批判の声(こんなこと思ってはいけない、まだこんな思いがある、etc)で蓋をしないこと。

そのとき、私たちは初めて自分の深いところと愛ベースの関係を作り上げることができます。

癒しとは、問題を取り除いたり、嫌なものをなくしたりすることではなく、自分の中にある愛と再びつながること、その一言に尽きるかもしれません♪

 

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世界中で使われている感情解放の優れたツールです。

探しものは何ですかぁ~~♪♪

さて、今回もノンデュアリティと癒しという限りなくグレーな記事をかいてしまおう。

「真理を知りたい」と「苦しみから逃れたい」は、コインの表裏のように、多くの人の「悟り」のイメージのなかにあるかもしれません。

確かに、苦しみは何か“偽”りを信じ込んでしまっているときに生み出されます。分離していないのに分離しているという思い込みから始まり、自分が状況をコントロールできるという思い込み、そして様々な誤ったビリーフ、セルフイメージ。

また、「出来事」(=あるがまま)を私たちはどうしても判断したり、解釈してしまいます。そのため、「出来事」=(あるがまま)は歪曲され、そこに抵抗を生み、やっぱり苦しみが生まれますね。

こういった自我の勘違いやもがきは、人間ドラマを作るには必要だけど、そのかわりもれなく苦しみもついてきます。

そういう意味で、“偽り”から目覚めれば、根本的な苦しみに終止符を打つことができます。フィニート♪

しかし一方で、日々悩んでいる人、苦しんでいる人を相手に仕事をしていると、ノンデュアリティのメッセージが個人のストーリーを癒せない現実にも年中直面しています。

いくら悟ったところで癌細胞が消えるわけではないように、幼少の頃のトラウマもやっぱりそのままあります。

しかし、真理は苦しみを癒すはずだと、イギリスのサットサンでも子供の病気のことや恋愛の悩み、生き辛さを訴える人をけっこう見かけます。

気持ちはとても理解できるのですが、この場合、本当に求めているのは真理ではなく、自分の苦しみが癒されることですよね。

真理は苦しみを癒すけど、真理は癒しのツールにはならないんです。この微妙な違いは、非常に大きいんです。

というのも、すべてをあきらめたときにやっと真理の門に立てるのに、ある意味その正反対を目指してしまうからです。

つまり、失敗が約束されている旅に出てしまうんです。

しかも、悟り(解放?恩寵?)などいつ訪れるかも分からず、カウンセリングやセラピーも受けず、結局苦しみをひっぱり続けることになりがちです。

で、どうなるかというと、ティーチャーやメッセンジャー達に怒りを持ち始めたりするんですね。

ルパート・スパイラのリトリートでも、“2万ドル払ったのに(彼が今まで払ったリトリートの合計らしい)、まったく何も変化がないし、効果がまるで感じられない!!”と食ってかかっている男性を見かけました。

なぜかランチタイムでその男性が隣に来て、話をしているうちにEFTをやってくれということになり、午後の休憩タイムにそれをテーマに見ていきました。すると、“もう自分は70歳になるのにまだ真理が見えない。”、“私はいつも失敗する”といった思いがあることが分かりました。(←子供の頃の心の傷につながる)

結局、自分の焦りや不安が怒りとなってティーチャーにぶつけていたんです。その男性は、仕事も辞めて、家を売って、真理を知る旅を始めただけに焦りも相当あったんですね。

まぁ、人のリトリートで何やってんだ私・・・・?とも思いましたが、リトリートは休憩時間のほうが長いので、よくセッションを頼まれたものです。

話を戻しま~す。

で、悟りに助けを見出そうとする心のしくみをちょっと覗いてみると・・・・、

例えば、「神でさえ私の問題など解決できない」「誰も自分を助けられない」などと、助かる道、楽になる希望は一切ないと思い込んでいるとき、絶望の底のかなり苦しい状態にいます。

部屋に完全にひきこもっているか、またはなんとか生活はしているけど、できれば死にたいと思っているような状態です。

でも、なんらかのきっかけで、「もしかすると、何か、または誰かが私を助けてくれるかもしれない」という気持ちが生まれると、苦しさはさほど変わりませんが、ほんの少し前向きな気持ちが生まれます。

そして、セミナーなどに出かけ始めますが、「誰か(何か)が自分を救うだろうという発想なので、基本的に依存先を探しているんです。もちろん、本人はそう思っておらず、単純に自分が楽になるメッセージやメッセンジャー、またはツールを探しているだけだ・・と思っています。

が、ここがミソなんです。

本人は無意識ですが、気持ち的には、そのメッセージやツールにすがってしまっているため、それによって楽にならないと、たいていそれがものすごい怒りに変化してしまいます。

そうすると、もともとの生き辛さに加え、楽にならない怒りも加わり、余計苦しみが増す・・・という状況に陥ってしまうんです。

または、苦しみの理由が満たされない愛であった場合、メッセンジャーと恋愛関係になることを目指したり、度を超えた熱狂的ファンのようになってしまうこともよ~くあります。

頭では真理が自分を救ってくれると思い、セミナーやリトリートへ出かけますが、実は真理なんて全く求めていないし、でも癒しも起きない・・・という状態を自ら作ってしまっているんです。

そんな人々をたくさん見てきて、自分がセラピストだからということもありますが、苦しいならやっぱりセラピー受けようと思ってしまうのです。

で実際、分離感を癒したいのだ~とか、真理に目覚めたいとか思っていても、いざ楽になってしまうと、もう非二元には興味ありません~~みたいになったりする人もけっこういます。

つまり、自分が本当は何を求めているのか、よ~く探ってみる価値はある!ということなんです。

喉が渇いている人には真理よりも水が必要であるように、愛に渇望している人にも真理よりも癒し(自分の中の愛に気づくこと)なのかもしれません。

そして、ある程度渇きが癒されたら、「自分に役立つか?」といった思いなどで歪曲されずに、真理を指すメッセージがその人の心にきっとまっすぐ届くことでしょう。(*^_^*)

私でいることからの休憩

明日から、アジャシャンティのリトリートへ出かけていきます♪ リトリート大好き人間なので、もう楽しみでしかたがありません。一生、リトリートだけやっていられたら良いのに・・・と思ってしまうぐらいです。うふふ。

さて、拙書「こころがスーッと軽くなる「さとり」セラピー」(おぉ、なんか自分の本についてあまり書いていないので、なぜか恥ずかしい)に、“名前がなくなっても、世界はなくならない”という見出しがあります。

言葉を覚える前は、名前のない世界にいたはずなのですが、いつの間にか、名前やレッテルがあるのが当たり前というか、私たちは普段「レッテル=事実」という感覚になっているでしょう。

自分自身についても含めて、周囲を見渡すとすべてに名前がついていますよね。私たちは常に概念に囲まれた世界に住んでいるんです。

で、例えば私の場合、“溝口あゆか”、“私は女である”、“日本人である”、“セラピストである”などが私についた(&自分がつけた)レッテルです。

多くの人が、“女である”、“日本人である”は、紛れもない事実を言っているだけで、レッテルじゃないでしょ・・・と思うかもしれません。

でも、女だ、日本人だ、セラピストだという概念がなくなっても、私は消えませんよね。

また、性転換もできるし、国籍も変えられ、仕事ももちろん変えられます。

それらがどんなに変化しても、「わたし」は相変わらず存在しています。

バラは自分をバラと呼ばれていることは知らないでしょうが、そんな概念などまったく必要なく、見事に花開きます。

赤ちゃんも、自分の性別や名前、国籍など知らなくても、実に溌剌とした生命の躍動感であふれていますね。

名前やレッテルはもちろん会話するために便利ですし、ないほうが良いという話をしようとしているのではありません。

ただ、それらがなくてもものごとは何の問題もなく存在し続けるし、出来事は起きていくということなんです。

国境も同じで、それは人間が勝手に引いた線ですね。動物や木々、山々にとっては、何の意味もありません。

こういった国の名前や人種のレッテル、国境などをはずしていくと、そこには大きなつながった一連の生命の動きがあるだけです。

私はテキスタイルが大好きなので、民族衣装展などにいくと、食いつくように見入り、できるものなら触りたいし、匂いもかぎたいのに・・・と思いながら、その多様性、歴史の深さにもう感嘆のため息ばかりついてしまいます。

なので、様々な文化や国はただのレッテルだよね、とっぱらって、みんな一つだね、みたいな話をしたいわけでもありません。

ただ、こういった名前やレッテル、区別を深く信じ、そしてそれらに強く同化すればするほど、自分と自分ではないものがしっかり分けられ、それはやがて分離の悪夢に転がっていくと思うのです。

個人の苦しみだったり、人類全体の苦しみだったり。

ルパート・スパイラの言葉に、

『人生には三つの可能の生がある

何かであること、無であること、すべてであること。

最初の場合には、苦悩がある

二つ目の場合は、平和がある

三つ目の場合は、幸せと美と愛がある』

というのがあります。

世界を見渡せば、今まだ多くの人が「何かであること」を深く信じてで生きているでしょう。自分の性別、国籍、職業、または、“私は優しい人間だ”、“私は能力がない”などといったセルフイメージに同化し、それを基準に世界を眺め、人生を構築していく。

でも、どれぐらいの人が、二つ目と三つ目の可能性に気づき始めているのか?

悟りや非二元という言葉を知らなくても、自然に直感的に気づいている人たちも必ずいるはずです。

もちろん気づいたとしても、長い間「何かであること」が深く刷り込まれた私たちにとって、無であること、すべてであることを実感するのは容易ではありません。

それでも、二つ目と三つ目の可能性に気づき始める人が増えたら、それだけでも分離の幻想は少しづつ溶け出していくかもしれません。

そして、それはエックハルト・トールの本のタイトルにあるように、人類の夜明け「ニュー・アース」の誕生になるかもしれませんね。

とりあえず、自分の名前、性別や国籍、自分に貼っているあらゆるレッテルやビリーフを横に置いて、自分はそれで一体何者なのか、感じてみてはいかがでしょうか?

それはまた、“私が休む”のではなく、“私でいることからの休憩” (a break from being me)となり、しばし幻想のドラマからの休憩にもなるかもしれません♪

 

☆EFTとマトリックス・リインプリンティングの振込みを14日以降にしてくださった方は、確認がしばしできませんので少々お待ちいただけましたら幸いです。

☆ちなみに「私はいない」という非二元のメッセージの観点からすれば、気づく誰かは存在しないとなりますが、こちらのブログは現象の観点を軸に書いています。