投影と思考の現実化は似て非なるもの

投影という言葉から「思考が現実化する」という話だと勘違いする人はけっこういらっしゃいます。でも、これらは基本的にぜんぜん違う話なんです。

とりあえず、思考が現実化するのかどうかと言えば、人はたいてい自分が考える通りに行動するので、行動すれば結果につながり、そういう意味では思いは現実化するでしょう。

ただ、私たちは表面的な思いより潜在意識の思い(無意識のビリーフ、価値観、思い込み)のほうにより沿って行動しています。ので、一見自分の思いとちぐはぐな結果を得ているように見えることはよくあります。

そこであなたの思いが現実化しているのですよ・・・というのは、ある意味有効です。

でも、自分の思いが目の前にある現象すべてを作り出していると思ってしまったら、そこは少し気を付けないといけません。

インテグレイテッド心理学では、事実と解釈に分けるエクササイズを必ずします。例えば、夫が家事を手伝わないという悩みがある人の場合、たいていはそれが事実だと思っているんですね。

ですが、実際に旦那さんが何をしているのか?とお聞きすると、例えば夫はリビングでテレビを観ている、だったりします。つまり、現象としては「夫がテレビを観ている」が起きているんです。

それを“家事を手伝わない”と解釈しているんですね。もちろん、自分は子育てでいっぱいいっぱいだ、または共稼ぎで自分も仕事で疲れている、などなどそう解釈する理由はあるでしょう。

現象自体は、「夫がリビングでテレビを観ている」ですが、自分の気持ちとして手伝って欲しいと思っているだけですよね。

まったく同じ現象に対して、夫は働きすぎだ、健康が心配だと思っていたら、手伝わないという解釈ではなく、今日は残業がなくて良かったという解釈になるかもしれません。

ポイントは、現象はそのときの自分の事情や思い込みでいかようにも解釈されるということです。

ので、思考が現実を作るという以前に私たちは、そもそも現実(現象)を自分の思い込みや事情を通して歪んでみてしまっていて、たいてありのままを見ていなんですね。

例えば、ぜんぜん嫌われていないのに、自分は嫌われていると思い込んでしまっている人など見かけたことはないでしょうか?

その人にしてみれば、嫌われているは現実なわけで、自分はAさんに嫌われるという現象を生み出したと思ってしまうかもしれません。そして、自分はAさんに嫌われているという現実を生きていると思い込む。

こんなふうに私たちが現実だと思っているものの99%ぐらいが自分の解釈です。いやいやもっと事実を正確に捉えているはずだと思った方は多いでしょう。でも、がっつり吟味してみるとほとんど自分の解釈だらけです。

なので、バイロン・ケイティのザ・ワークは、どんなテーマに対しても、“それはほんと?”という質問で始まります。それぐらい私たちは常に解釈しかしていないからです。

ちなみに事実と解釈を分けるエクササイズでも、最初は自分の解釈をどうしてもそれは事実だと言い張る人続出です。それぐらい私たちは自分の解釈(投影)の中に生きているんです。

ので、まずは自分の投影にワークをし、それは事実ではなく自分の思いだったと認識し、その思いが出来てしまう大元を見つけ、そもそもそういう解釈が出なくなるまで癒す。

そのとき初めて、自分の思いと事実の区別がはっきりできてきます。ありのままの事実が見えてくるんです。そして、たいてい事実は中立で平和です。

また例えば、妻と娘を交通事故で失った夫にそれはあなたの思考が生み出した現実です、とはとても言えないですよね。言えないだけではなくそもそも間違っています。

ある一つの現象は、そこには関わる人すべての思いや感情がタペストリーのように関わり合って生まれているはずです。

ティク・ナット・ハンの本の中に(どの本だったのか記憶にないのですが)、私たちが食べるパンはパン職人や小麦粉を作る人や小麦を育てる人が関わっていて、私たちはそういったつながりのなかに生きているというようなことが書かれていました。

パンを食べるというシンプルな現象にも大勢の人の思考が関わっているんです。思考だけでなく、様々な感情やパッションも。

私の人生もいろいろな人と関りを持ちながら、交響曲のように出来上がっていて、音楽のように常に流れ、変化しています。

さて、実はある意味ここからが本番です。

思考が現実を作るという場合、その前提が「分離した個が思考で現象を生み出す」になっています。私という分離した個の存在が自分の思考で現象を創り出すわけです。

でも、分離した個の存在というものが、そもそも実体のない幻想だとしたら?

また、自分は分離した個の存在であって、体と思いと感情の存在であると信じ込み続けることが、ほんとうに救いや幸せ、平和に行きつくのでしょうか?

それよりも、自分が分離した個であるという夢から覚めることが、真の平和につながるのでは?

あゆかを創造したのは、あゆかの思考ではなく、生命のエネルギー、本質である私(I AM)です。その無限の生命のエネルギーとして私は深く考え、深く感じ、愛をベースに生きているか? 自分の思考を見張るより、その問いを自分に投げかけていきたい。

そしてもし、真の平和を求めるのなら、自分の思考を見張るよりも、たぶん本質を知ることなのだろうと思うのです。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

今年からインテグレイテッド心理学は1年間のオンライン講座となります。

また、ノンデュアリティと癒しのカフェオンライン講座も予定しております。

詳細はまだ未定ですが、講座のご案内希望される方はこちらへ。↓

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失敗しても、間違えても、幸せになれる道♪

今年を振り返ってみても、たくさん間違えました、失敗しました。

そして、たぶん来年も間違えるし、失敗するけど、でも同じだけ間違えても2倍以上良い年にするコツをシェアさせてください。

ヒントは“頑張るポイントをシフトする”。ということで、

例えば、

失敗する、
間違える、
勘違いする、
誤解して誰かを責めてしまう、
誰かを傷つけてしまう、
などなど、

私たちはこういうことをしてはいけません、と教わっていますよね。
確かに、人を傷つけるということはできるだけ避けたほうが良いに違いありません。

でも、私たちはどうしてもぜんぶやってしまうというのも事実です。特に誰かを傷つけるというのは分かりにくく、自分ではしていないつもりでも相手が傷ついてしまっていることはよくあることですね。

例えば、親子の場合でも、子供に良かれと思ってやった言動に子供が自分の気持ちを否定されたと感じて傷ついてしまう・・・など、どの家庭にもあるかなと思うんです。

何が言いたいかというと、私たちはどうしても間違えたり、失敗したり、気づかぬうちに誰かを傷つけたりをしてしまう、完ぺきな人間として人生を終わらす人はいないという事実にまず目覚めたほうが良いかもということなんです。

なので、間違えないように頑張るよりも、間違えたという事実を認めるように頑張る・・・のほうが建設的だなぁと思うんです。

“間違えることは悪いことです。人間失格です・・・・”、みたいに教育されてしまうと、自分が間違えたという事実を認めにくくなりますよね。

特にもともと自己価値が低ければ、自分が間違っているなんて絶対認めたくことです。ので、うすうすどこかで自分が違うのかも?と分かっていても、絶対相手が悪いことにし続けてしまうでしょう。

私も自分が嫌になるほど、年中間違えたり、失敗したり、誤解して誰かを悪く見てしまったりなどなどしています。後で分かって、もう手を合わせて謝るしかないみたいな。

で、昔は自分の間違いを認めるのが痛すぎて、速攻で蓋をしていたものです。ですが、今は潔く?速攻で認めちゃいます。でも、そのおかげでめちゃくちゃ楽になりました。

自我は間違えない人でいるこで自己価値が保てて、安泰だという勘違いをしてしまいますが、実際は間違いを認めることで真実が瞬足で味方になってくれるんです。

真実が味方になる・・・ということは、自動的に真実の持つゆるぎない力強さ、受容、平和が自分のものになるということですね。

ので、温かい懐に落ちたような楽さを感じます。

振り返ってみると、この自分が何かまずいことをしたという「罪悪感」は、いろいろな感情の中で最も向き合いにくいものかもしれません。

怒りや悲しみといった感情よりも、罪悪感はある意味自己否定に直結する分、とっても難しい。

でも、罪悪感を抑圧すると、ほぼもれなく罪悪感を感じさせる相手に嫌悪感を感じるようになり、相手をさらに攻撃し始めます。

例えば、離婚した人が実家に戻り、しばらく両親の世話になるという場合。離婚という失敗をした自分、親に迷惑をかけている自分という風に思ってしまった場合、その罪悪感に向き合いたくないから蓋をしてしまうと、逆に親を責めてしまう・・・みたいな。

で、そんな自分がまた嫌になり・・・という悪循環に陥っていく。

でも、もし“自分は自分の人生をうまくやっていけなかった”(←もちろん、これも思い込みで、離婚は失敗ではありませんが)と心から受け止めてしまえば、とりあえず悪循環は終わります。

そして、自分を許してあげるんです。これも心から。許しているフリではなく。

よく罪悪感をなくしてしまうと、また同じことをしてしまうのではないか、他者に対して傍若無人になってしまうのではないか?とおっしゃる人がいます。

が、ポイントは、間違いを「認める」にあります。罪悪感をなくして、なかったことにするではないんです。

認めて、許して、罪悪感を手放す。悪循環を断ち切る。

間違いを素直に認めている人を攻撃するのは難しい、というより、助けてあげようかなぐらいに人はなるものですよね。だから、みんなが優しくなれる。

ということで、年末の大盤ぶるまい、

あなたの(私の)間違い、
勘違い、
誤解、
無知、
理解不足、
他者への批判、攻撃
知らずに傷つけてしまったこと

ぜんぶ、まとめて認めちゃいます!
そして、ぜ~んぶまとめて許しちゃいます!

来年もきっとまた間違えるでしょう、失敗するでしょう。
でも、今度は心から認められるから、許せるから、
来年は真実ともっと近く歩めるはず。

真実の懐を感じながら、そのうち存在の温かい懐のほうが、
自分だったと気づくまで♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

本質の自分を年明けに一緒に本質を感じてみませんか?

お部屋変更しました 参加募集中

日程:2020年1月5日(日)13時半~16時
場所:あうるすぽっと(有楽町線東池袋)
https://www.owlspot.jp/access/
参加費:5000円

申し込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/9EKAF

安心したいなら自分を守るより大切なこと

悟りとか非二元とか聞くと、日常生活とはあまり関係ないことのように思えるかもしれません。が、やっぱり私たちの心の悩みから社会の歪みまでやっぱり密接に関係していると思うのです。

まず、多くの私たちは自分は個として存在している、自分と世界、自分とほかの人というように、自分とほかのものは分離していると強く感じているはずです。で、その世界観(幻想)の中で一番必要なものって何でしょう?

そう、まずは安心安全でいること。

振り返ってみれば、どうして好きでもない仕事を続けるのか?
どうして自分を押し殺してでても人に合わせるのか?
と考えてみれば、それはとりあえず食べていける安心、受け入れてもらえる安心があるからですよね。

その証拠にもし誰かに“あなたは自由ですよ。好きなように生きて行けるのです”と言われ、さぁ、自由の一歩を踏み出そうとすると、きっと恐れが湧いてくるはずです。

その恐れってなんでしょう?
失敗するかもしれない恐れ、
みんなに笑われる恐れ、
先が見えない恐れ、
自分には能力がないかもしれない恐れ、

人それぞれいろいろな恐れが湧いてくるでしょう。

そこでついとりあえず安心安全な「今の状態」にいたくなる。

実は脳科学の観点からも自律神経の観点からも人間(哺乳類)は、安心安全を求めるように出来上がっているんです。死ぬほど大雑把に書くと、危険だと感じたり、恐れを感じると、脳や自律神経が戦うか、逃げるか、またはフリーズするかというモードになります。

しかし、安心安全だと感じられると、社会迷走神経(詳しくはポリヴェーガル理論をご参照ください)になり、このとき脳も神経もバランスの取れた健全な働きをします。

つまり、単に精神論だけではなく、身体的にも私たちは恐れのほうへ向かうのを良しとしていないんです。ということで、心と体の両方が“安心安全でいたい”というのですから、自分の快適ゾーン(それが嫌な状態であっても)から踏み出すのは難しいですよね。

でも私たち(自我)が集団で勘違いしているのは、安心安全が分離した自分を守ることにあると思っていることです。

分離していて、しかも死がある(永遠の存在ではない)自我にとっては、食べて行けるという身体の生き残り、受け入れられているという精神の生き残りはとても大切です。(インテグレイテッド心理学で詳しくお話します)

自分の生き残りのために、自分を守っていく・・・・。ん?それのどこが悪いの? ある意味本能ですから、どこも悪くありません。

でも、“自分を守る”は、往々にして“自分、または自分の家族だけとりあえず良ければ・・・”という思いになりやすく、そしてそれはまた、“自分さえ良ければ”につながりやすいですね。

また、お金がある、パワーがある、権力がある・・・・などは、すべて生き残り率をうんと高めてくれると自我が思ってしまうものです。

しかし、もう一度脳科学と自律神経の話に戻ってみると、安心安全をいつ哺乳類が一番感じ、したがって、脳や神経が安心安全モードになるかというと、それは周囲とつながっていると感じるときなんです。

どんなに経済的な環境がそろっていても、どんなに良い子と周囲に思われていたとしても、親の愛を感じられなければ、子供の脳や神経は決して“安心安全”モードにはなりません。

つまり安心安全のキーワードは、“自分を守る”よりも“つながり”となります。そこで、一番最初につながりたいのが「自分自身」です。

私たちは毎日自分のことを考えているので、自分とはつながっていると思い込んでいるものです。

でも、自分の本心を知らないとき、私たちは自分とつながっていません。また、自分の感情に気がつかない、自分が疲れているかどうかも気がつかないとき、または、自分を責めたり、否定したり、自分にウソをついているとき、私たちは自分とつながっていませんね。

自分とのつながりを失えば失うほど、心も身体もバランスを崩し始め、そこから心の病やまたは身体の症状として現れてきます。

また、その状態で他者と交わるとか、社会の中で活躍するというのは、エネルギーが反対に向きすぎて難しいでしょう。

ということで、やっぱり自分との対話はとっても大切。自分の本心を知って、受け止めてあげること。自分の中の否定や批判、抑圧、抵抗をと対話して、紐解いてあげること。

そうするうちに人とのつながり、社会とのつながりが自然とできるようになりますね。人間も哺乳類で、基本的に群れて生きるように作られていると思うのです。なので、本来はつながっているのが自然な姿で、そこに安心安全を感じる生き物でしょう。

とはいえ、昔のように部落を作って住みましょうとか、大家族に戻りましょうとか(私は好きですけど)、そういうことを提案しているのでもありません。

人とのつながりを感じられるのは、理解、共感といったものです。それが広がった社会であれば、精神が前向きで、そして脳も活発に効果的に機能し、活力満ちた世界になるはず。

ひるがえって自己責任論は、つながりがなく、一人で頑張れ、一人で責任取れという脳や神経が緊張し、疲弊したり、フリーズしていく社会だと思うのです。

さ~て、ここまで書いて本当は一番書きたいことを我慢してきました。

それは、もちろん“私たちの本質”というもの。いきなり飛びます♪

自分の中に必ずある真の安心安全な場所。 “人生”を経験している誰かはいないということ。すべては神の夢(リーラ)であると知っている場所。

奇跡のコースの言葉を借りれば、“あなたは悪夢を見ているだけで、一度も暖かいベッドから離れたことはない”

本当はいつも安心安全♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

今日の記事とリンクしているセミナーをもっと細かくお話しさせて頂きます。

人の心が病むのはなぜだろう?
なぜ、被害妄想や強迫観念、パニック障害、依存症や鬱になるのだろう?

心の病はたまたまなるものではないはず。だとしたらどういうメカニズムでどのように健康状態から病の状態へ移行していくのだろうか?

心のしくみ、脳や自律神経の機能、悟りの真実の観点から。

2019年11月30日(土) 13時半~16時半
“治療効果が上がる心理セラピー”
OAD(オープン・アウェアネス・ダイアローグ)
無 料♪
医療法人むつみホスピタル
徳島県徳島市南矢三町3丁目11-23

詳細はこちら

癒しても癒しても終わらないワケ

☆今回はいきなり本質から入って、そして自我と癒しのお話♪

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本質を見過ごしている限り、癒しは永遠に終わらないだろう。

本質を見過ごしている限り、幸せはいつも桃源郷の中にあるだろう。

分離した自分がいるというものすごく精密かつ巧妙にできている幻想の中で、私たちは自分の癒し、自分の幸せを求める。

もちろん、ものすごくリアルな世界の中で心軽く、幸せに暮らすことも“ある期間”は可能だ。でも、生命の性質に従って、すべては移り変わり、生まれては消えていく。または、幸せが絶望に、絶望が幸せに移り変わっていく。

分離を信じている時点で、私たちは本質を見失っている。

自分がいると思っている時点で、私たちは本質を見失っている。

自分の人生が確実に存在していると感じている時点で、私たちは自分の本質を見失っている。

“私が悟るのだ”、“私が癒されるのだ”と思っている限り、その旅は永遠に終わらないだろう。

それよりも、その“私”が幻想であると目覚めたとき、私たちは本質の手の中に落ちていく。

でも、

“私”にはたくさんの大切なものがあって、それを手放すことはとうていできない。

私の愛する人、愛するもの、私のいきがい、私がこれまで積み上げてきた成果、私の夢・・・。

これらは、“私”のとても大切な宝物。私がいないなんてわかったら、これらはすべて霞の中に消えていってしまう。こんなに頑張ってきた私がいないなんて虚しすぎる。

こうやって、“私”は本質に目覚める幸せを願いながらも、自分の夢の中に戻っていく。本当は、本質が夢も生きがいもすべて与えてくれると知らずに。

夢の中で真の幸せは見いだせないと本当に分かるまで、“私”は何度も夢の中に戻っていく。

そして、それで良いのだろう。

植物が少しづつ芽を出すように、私たちの中の本質を呼ぶ声も少しづつ育っていくのだから。

だから、しばらくは夢の中から本質に憧れるのも良いのかもしれない。

本質をすっかり忘れ去って、夢の中の人生だけに囚われない限り♪

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ある程度、自分癒しをしていると必ずぶつかる壁が、“いつまで癒せば良いんだ、ワークしていると限りなく何か出てくる”、“前と比べるとずいぶん楽になったけど、コアの部分が変わっていない気がする”というものかもしれません。

これは私自身もずいぶん感じてきたことです。でも、自我がどう自我として存在しているのか?が見えてくればくるほど、癒しが終わるはずがないなということも分かるんです。

ということで、なぜ? なぜ終わらないの?

というのも、自我とはある意味、分離感をベースに存在している投影マシーンだからです。

もう少し説明しましょう。

分離感とは、「私と世界」、「私とあなた」、「私とそのほか」というように、私以外の何かが自分の外に存在します。

なので、必ず世界やあなた、そのほかのものを解釈せざるを得ません。

そして、自我とは、「思い」と「感情、感覚」、そして「体(分離の象徴)」で構成されていますね。

体が、私は分離している~と主張し、思いと感情が世界や他者を解釈していきます。ある自我は、世界は楽しいと解釈し(投影)、ある自我は世界は恐ろしい場所だと解釈(投影)します。

こう書くととてもシンプルですが、体がどれだけ緻密に出来上がっているか(体に関して解明できないこともまだたくさんあります)、また、思いや感情の体系がどれだけ複雑であるか、そして心と体のつながりなど、細胞の機能から心の微細な動きまでを考えてみれば、自我とは非常に優れた生命の創造物だと分かるでしょう。

AIなど足元にも及びません。

でも、この精密な投影マシーンは、その精密さゆえに自分が存在していると勘違いしてしまいます。当たり前です。名前だって与えられますから。

そして、自分癒しを始めると、ついこの精密な思考・感情体系と体がピカピカになって、癒すところがない状態になるはずと思ってしまう。

ところが、分離していることがベースになっている限り、どうしてもそこには恐れがあります。

そして、恐れがある限り、自我が思い描く(少なくとも私は思い描いていた)、いつも穏やかで楽しい私はどうしても実現しません。

分離とは言い換えれば、「飢えと恐れ」ですので、自分が分離していると思っている限り、これはどこまでもつきまといます。

じゃぁ、本質に一気に目覚めてしまえば、自我の苦しみぜんぶチャラになるんじゃない?と思われるかもしれません。

残念ながらこちらもノーなんです。(この点は長くなるので、違う機会でまた書いてみたいです)

空(気づきの意識)と色(自我)は、分けることができず、自我意識を完全に消すというのは、夢物語です。

自我意識がある限り、自我のなかにトラウマがあれば、それは強力に自我を夢に戻します。または大きな抑圧された飢えがあれば、いくら真実が見えていても、無意識に自分も人も傷つけてしまいがちです。

では、どうしたら良いのでしょう?

自分の中にある緊張した感覚、そこにあるストーリー、思い込みを見つめ、癒し、そして気づきの意識にくつろぐ。癒しと本質への目覚めの両輪でいくんです。

そのうち、癒されない苦しみでさえ、生命の表現として慈しむことができるようになるまで。そして、それはぜんぜん難しいことではない♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

自分の本質について、癒し、自我、人生についてのお話会です。

10月の会は満席となりました。

11月10日(日)、12月22日(日)も同じ場所、同じ時間で開催いたします。

次回案内ご希望のかたは申し込みフォームからどうぞ♪

日程:10月20日(日)13時~15時半(満席)

11月10日(日)10月上旬、募集開始予定
12月22日(日)11月上旬、募集開始予定

場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html

参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/F4TPE

あなたが本当に求めているもの♪

ものごころがつき始めたような小さな頃。

きっとみんなにあったと思う。うっすらと。

なんか違うところに自分がいるような、

なんか自分にはほんとうの場所があるような。

でも、人生はすでに始まっていて、自分はもうここにいるしかないという感覚。

微かだけど、何かを忘れてきた感覚。

そして、その何かこそがリアルなものであるような感覚。

成長するにつれ、私たちは“私の人生”にどんどんはまっていき、人生はリアル以上にリアルになり、小さい頃の感覚は遠い彼方にあたかも幻想のようになって消えていく。

でも、日常の忙しさの中で、人生の喧騒の中で、ふとそんな感覚が一瞬でもよみがえってくることがあるかもしれない。何か自分が大切なものを忘れている感覚。

癒しの真の目的は、その忘れてしまった本質をもう一度思い出していくことだろう。

人生の中で起きる不条理、愛する人との別れ、裏切り、ただ仕事をこなす日々・・・。自分はなぜなんのために生きているのだろう?

そんな思いが横切っても、答えなんかあるわけないと払拭して、スーパーの買い物袋に食品を詰めていく。

日常すぎる日常。

でも、ふとそんな瞬間があったとしたら、私は品物を詰めているあなたの横に立って“一緒に帰ろう”と言いたい。“どこへ?”とあなたは聞くかもしれない。

私は言うだろう。“あなたが私で、私があなたであったところへ”と。

そしてそれは、“いまここに、まさにいまここがその場所だよ”と。

この日常過ぎる日常の中で、あなたと一緒に微笑んで一緒に本質を思い出したい。

なんていったって、分離は幻想だから。

これはありきたりの真実♪ 荘厳なスピリチュアルでも、到達すべき悟りでもない。

そしてそれはあなたが一番心の底から求めているもの。いつもいつも。

分離から本質(愛)に目覚めることを。深いところで熱く恋焦がれるように。

それをあなたはずっと勘違いしてきた、自分の欲しいものはパートナーの愛だ、成功だ、お金だ、夢が実現することだ、いきがいを感じることだ・・・と。

違うよ。あなたが求めているものはぜんぜん違うもの。

私たちは私たちの夢を長く見過ぎた。もうそろそろ目覚めるころだって、本質が呼んでいる。

そう、幼い時、うっすらと自分は違う場所に来たように感じたあの感覚。

それは目覚めへの鍵♪

でもね、私たちは決して違う場所にきたのではなかった。人生にはまったのではなくて、分離という幻想にはまっただけだった。

だからあれは、真の自分を忘却の彼方に見失っていった感覚。

ほんとうは私は初めから正しい場所にいて、そう、私は常に本質とともにいた。

真の癒しとは、忘れた感覚をもう一度呼び覚まし、分離したと思った幼心を暖かく包みなおしてあげることだろう。

ケセラセラ、“私が大きくなったら可愛いくなれるの?お金持ちになれるの?”

幼い少女の胸は人生への期待と魅惑、そして不安でつまっていて、そしてその胸は大人になるにつれ、いくつもの傷を抱えてしまったかもしれない。

人生の裏切りが大きすぎて抱えきれず、倒れてしまったかもしれない。

だから、癒しとは人生を生きる中で身にまとっていたたくさんの苦しみのストーリーのベールを落としてあげること。

ストーリー(思いや感情)を改善するのではなくて、ストーリー(思いや感情)をはがして取っていく。

そして、人生に好奇心を抱いていた幼いあなたに戻っていくこと。

あなたの胸を温めてくれたたくさんの人やものごともあったことを思い出していくこと。

そして最後に、リアルだと思っていたものが幻想で、幻想だと思っているものが実体であると気づいて、あなたは微笑む。

あなたは私、私はあなた。

それがカミングホーム。私たちは100%祝福されている♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

久しぶりにリアルお話会を開催いたします。

自分の本質について、癒し、自我、人生についてのお話会です。

満席となりました。

キャンセル待ち&カフェ案内ご希望のかたは申し込みフォームからどうぞ♪

日程:10月20日(日)13時~15時半

場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html

参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/F4TPE

誤解されたと思ったとき・・・

ロンドン郊外の今日の気温はなんと18度。みんな頭が夏モードなので半そで来ているけど、寒そうに見える。

さて、今日のお題は「誤解」。何を隠そう、私は誤解されるのはすごく嫌なんです。たぶん、私だけではなく、きっと多くの人が自分が誤解された、誤解によって批判や否定をされたと思えば、その誤解を解きたくなるはずです。

とりあえず、私はすぐにどう誤解を解くか?と考えてしまいます。言い換えれば、防衛ですね。私は悪くないのだと証明して、自分を守りたい。

で、ただ誤解を解こうとするだけではなく、ついでに“そんな誤解するなんてアホじゃないか、お前こそ間違っている!”と怒りも湧いてきます。つまり、相手を攻撃したくなる。

例えば、“そんなことをするなんて、なんて卑怯な人間なのだ!”と言われたとして、自分は“えっ、そんなつもりじゃなくて、それはこういうことで・・・”とすご~く言いたくなるし、誤解だとわかっていても、腹が立つし、傷ついたりもします。

えっ、私のどこが卑怯なの?私は卑怯じゃない!あなたは間違っている!!みたいな。と、同時に、ひょっとして私って卑怯? そう思って振り返ってみると、確かに自分には卑怯なところもある。言われても仕方ないのか、でもなんかモヤモヤする・・・。

というわけのわからない感情と思考の樹海の中をいつの間にかさまよい歩いていたり・・・・。

もちろん、自分の思いや事実を説明することは、自分を大切にするという観点でしたほうが良いと思うのです。

でも、自分にも卑怯なところがあるし・・・とか思ってしまうと、それもどこまでして良いのか分からなくなるかもしれません。

また、もし相手に自分の思いを伝えたとしても、“なるほど、自分が間違っていました。ごめんなさい”と言ってくれる確率がどれぐらいあるかどうかも大変怪しい。

どちらかというと、相手に言い返される確率のほうが高いかも。そして、相手との行く先が見えない戦い?(対立、分離)がやはりモヤモヤと続く。

言わなくてもモヤモヤ、言ってもモヤモヤ。

どうしたらこのモヤモヤした樹海から抜けだすことができるのでしょうか?

ということで、誤解されたと思ったとき、心の中で何が起きているのか、少し見ていきませんか?

例えば、あなたは卑怯な人間だ!と言われとき、これはある意味、本当は黄色のジャケットを着ているのに、“なにその赤いジャケット?”と批判されたような気分になっているはずです。(この例え良いのだろうか?)

なので、“私は赤いジャケットなんか着ていない!これは黄色だ!”とすごく言いたくなるみたいな。でも、その訴えもむなしく、その人の中で赤いジャケットを着た自分が勝手に一人歩きしているような感覚・・・。

つまり、誤解を解かない限り、卑怯な私がある種の実体をもってきてしまうような落ち着かない感じ。人から押し付けられた自分像が自分自身よりも大きくなっていってしまうような恐れ。ほんとうの自分自身が間違った自分像に消されていくような感覚。

モヤモヤ、モヤモヤ。

このとき私たちを救ってくれるのは、もちろん、自分をきちんと見つめて、“私は黄色のジャケットを着ている”ときちんと事実確認をすることですね。つまり、私は私の真実をちゃんとわかっているということ。

これが私だ、私は真実を知っているから大丈夫。真実は必ず私を守ってくれるという原点に戻っていくことでしょう。

黄色のジャケットとは、自分の真実、自分のまっすぐな情熱、自分のビジョンです。そして、それを日々生きているということ。(黄色のジャケットを毎日着ているということ)

なので、相手に伝わらないとき、誤解が解けないと感じたき、最も大切なことは、自分がこれらを忘れないでいることだと思うのです。

そうすれば、押し付けられた自分像は自分の中で影響力を失っていくでしょう。

しかし、それがあやふやであれば、あなたは~~~な人です、と言われるたびに、私たちの心は右往左往してしまうはずです。

さて、自分の真実、情熱、ビジョンとは一言でいえば、その人なりのハートのことです。バラがバラになり、タンポポがタンポポになるように、その人が持っているもっともナチュラルでその人の中にある自分らしい開き方、その人なりの色、パッションです。

ところが、私たちはどちらかというと、ハートよりも自分像をベースに生きてしまっていることが多いものです。

例えば、自分は大した人間ではない、取るに足らない存在だといった自分像があった場合、その思いにふさわしい行動をし、その思いにふさわしい経験をしていきますよね。つまり、ハートよりも自分像のほうが人生を歩いているわけです。

でも、自分像というのは、よく見てみると、そこには思い込みと感情、そしてイメージがあるだけです。つまり、どれも実体のないものです。

しかし、本人にとってはそれは事実そのもので、それが現実だと思って真剣に生きてしまうわけです。もちろん、自分はそういう人間だと思い込むほどの環境や出来事があったからで、そう思ってしまうことが悪いわけではありません。

刷り込まれた思いに心の傷がたくさんついているほど、私たちはハートよりも自分像を生きてしまうでしょう。しかも、ハートを育てるよりも、ポジティブな自分像を作る(変わりたい、違う自分になりたい、良い自分になりたい)ほうに邁進しがちです。

でも、自分像を生きるとは、思い込みが一人歩きしているような状態です。なので、それがたとえポジティブなものでも、そのポジティブなイメージを守る必要がでてきます。

でも、もし思い込みではなくハートを一人歩きさせたら?

そのとききっと私たちはイメージという実体のないものを超えて、生命という確かなものが私たちを支えてくれるでしょう。

あっ、でも、癒しの順番として、まずはポジティブな自分像に落ち着くちというのは十分にありです。そしてそこからハートにシフトしていくのも良いですね♪

ハートというもっとも存在の真実に近い場所、強さと優しさの源、そこに何度も立ち返りたい。

誤解を解く戦いから自分を解放し、正気に戻れる場所、そして本当に自分でいられる場所♪

うっすら不幸感と炎上のしくみ

世の中を見まわして、なぜこんなに生きづらい人が多いのだろう?
なんか社会がギスギスしている感じがするのはなぜ?
なぜYouTubeのコメント欄にはびっくりするような誹謗中傷があったりするのか?
そして何よりも、私はなぜ幸せな感じ、平和な感じがしないのだろう?

と思ったりすることは、おそらく誰にでもあるでしょう。

ということで、いきなり悟りと非二元の世界に飛んじゃう。

非二元本である「奇跡のコース」には、「罪悪感」を癒す大切さが何度も出てきます。私たちの心の深層にある罪悪感を癒すことが本質への目覚めにつながると・・・。

ここでいう罪悪感とは、何か悪いことをしでかしてしまった罪意識というよりも、“何か自分には欠けているところがある”、“なんか自分はうまくやれていない”といった、自我の根底にある自己否定を指しています。

自分の本質である「純粋意識」、仏教でいう「空」という、分離もなく、身体や思いでもなく、そして時空もない、純粋意識な意識そのものである自分を忘れ、自分は分離した存在であるという勘違いをしたとたん、「全体でない、何かが欠けた分離している私感覚」が生まれます。

つまり、人生が何一つ始まる前に、この勘違いから生まれた罪悪感が私たちの中にすでにビルトインされているんです。

そして、生まれ育つ過程で、 “頑張らないといけない”(=今のままではダメ)と思わされたり、家庭環境が暴力に満ちていたり、または衣食住に欠けていたり、または学校でいじめに遭ったりなど、私たちの中にもともとビルトインされている「自分ダメ感、自分足りない感」がさらに強化されてしまいます。

このように大きくなってしまった罪悪感は、普段、うっすらとした不幸感や不満、または不安や恐れ、怒りといった形で表面に現れてきます。しかし、日常の忙しさの中で私たちはそれらの感情に気づくことはあまりありません。

たとえ気がついたとしてもどうしたら良いかわからず、せいぜい気をそらす何かを見つけるぐらいです。

ですが、この私たちの中にある未処理の罪悪感は、必ず外に向かい、攻撃する相手を見つけ出そうとします。(もちろん無意識)

なぜなら、誰か、または何かを攻撃することで自分が正当化され、自分が悪いのではないと落ち着けると無意識に思うからです。こうして無意識下で、常に「攻撃レーダー」が作動し始めます。

そしてまずは、一番身近な人がターゲットになります。ので、夫や妻、子供など家族が犠牲になること多しです。(たいていはお互いに攻撃し合う)相手の言動のいろいろなことが気に食わない、腹が立つ、許せない、おかしい・・・と、心の中が戦争状態になります。

ですが、家庭内での戦争に勝てなかった場合、くすぶりはさらに増えていきます。すると次に犠牲になるのが、職場の人々や近所の人など次に身近な人たちですね。または始めから、家庭と会社の両方で同時に戦っている人もとっても多いです。

しかし、なかなかそこも勝てる場所ではありません。そんなとき、誰か芸能人のスキャンダルでも起きれば、よっしゃ~!と罪悪感は勇んでコンピューターに向かい、自分が会ったこともない人を攻撃します。

つまり、炎上とは罪悪感のはけ口とも言えますね。どこかに吐き出さないと苦しい。心が平和で幸せな人にとってはそんなことをするほうが疲れるはず。

または特定のグループや民族を常に敵対視することもありますね。自分自身はその人たちから直接にはなんの被害も受けていないのですが。

しかし、罪悪感は自分が直接にはまったく何も被害を受けていないという事実はまったく無視し、他の罪悪感と呼応し合います。集団化してしまうんです。

グループの中で誰か一人がほかのメンバーを批判し始めると、他の人も一緒に乗って一人を攻撃するとか、大人の世界でもありますよね。

さて、でも残念ながら、どんなに自分の考えが正当に見えて、どんなに相手を攻撃したところで、私たちの心はまったくスッキリしません。なので、攻撃が終わらないし、罪悪感はうろうろとさまよい続け、不幸感はやっぱり残ります。

ということで、ほんと~にスッキリして心が平和でいるにはどうしたら良いのか?

そうです。皆さんもお分かりのように内なる罪悪感を癒すことです。

ここで難しいのは、相手や社会や状況を長い間批判してきたことで、自分の中に正論や怒りもしっかり育ってしまっていることです。

なのでまずは、正論の後ろに隠れている声、怒りを癒してあげることが必要なんですね。“なんで話聞いてくれないのよ~”、“私をバカにするな!見下すな!”、“いい加減にしろ!甘えんな!”といったような声です。

そして、それらの声の下にあるのが、“私を受け入れてほしい”、“私を認めてほしい”、“私も助けが欲しい”といったような声。

そしてそのさらに下にある声が、“私はそもそも受け入れてもらえない人間だ”、“誰も私のことなんか重要視しない”、“助けてくれる人なんていない”というような声。

そしてその下に(場合にはよってはもっと下に)やっと罪悪感の声があります。“私は存在自体が迷惑”、“私は透明人間”、“私は天から見放された存在だ”・・・。

そもそもこの声が生まれた理由には、その人特有のストーリーがそこにあります。それを丁寧に癒してあげたとき、そこから生まれていたいくつもの思いや感情も一緒に癒されていくんです。

どんな汚い言葉、キツイ言葉、乱暴な言葉が表面上に発せられていようが、最終的に傷ついた子供の声にたどり着くんですね。

もし、みんなが自分の中の罪悪感を見つめて、傷ついた子供の声を癒してあげることができたら、世の中はもっと生きやすくなるだろうと思うのです。

そして、さらに言えば、もし私たちが自分の本質を思い出すことができたら・・・・。ということで、最後にまた非二元に飛びます。

「本質の私」に立ち戻れば、どんなにリアルな思いも感情も最終的にすべて実体のないものです。移り変わりものはすべて基本的には存在しておらず、究極的には何も起きていません。(空)

あなたは悪夢を見ているだけで、ほんとうは暖かいベッドの中にいつもいるのだよと、「奇跡のコース」がいうように、自分を傷つけた相手も、傷ついた自分というのも存在せず、私たちは本質的に大丈夫なんです。

ということで、幻想とはいえ、「ユニークな個である自分」の大切な人生を時々本質に立ち戻りながら自分を表現していけると良いですね♪