守りを落として分離を癒す♪

ほんとつくづく、批判したり、嫌ったり、さらには憎んでしまったりする相手というのは、自分の中の分離を癒す絶好のチャンスになるなぁと思うのです。

で、よく相手は自分の鏡と言いますが、嫌いな相手を“自己中な奴だ!”と解釈し、私も自己中なんだ~と振り返るのは、ちょっと大雑把かもしれません。

自分の中の分離と書きましたが、ある意味「自我=分離の錯覚」ですので、正確に言えば、私=分離です。私が分離感を持っているのではなく。ですが、他者を嫌っているときというのは、より深い分離の錯覚にはまっていると言えるでしょう。

その分離幻想が見せてくれるものとは、本当は手放して良いのに、私たちが握り締めてしまっているものなんです。

ということで、説明させてください。

例えば、あるクライアントさんは、同業者のある人に対してすごく苦手意識があり、また嫌悪感があるというテーマでいらっしゃいました。(そしてまた、自分を宣伝するのがとても怖い)

で、潜在意識を掘っていくと、「自分が本当に信じていることを話したら殺される」という思いがあったのです。(過去生が絡んでいました)

まず、私たちは自分が深く信じてるものを、いつの間にか自分のアイデンティティにもしてしまいます。なので、自分の信じていることに対して誰かが「間違っている」と言えば、それは自分を否定されたことにもなるんですね。

その方の場合も「本当に信じていること」というのは、「自分の仕事の上での信条」であって、それは彼女にとって非常に大切なものだったのです。

なので、その同業者が、自分とまったく違う信条を降りかざし、堂々と自分を宣伝し、人気があることがすごく嫌だったんですね。

殺されてしまうから声を挙げられない自分は、その人がそばで活躍するのを見ているしかない。でも、なんだか自分の信条が置き去りにされていく、無視されていく、つまり、自分自身が置き去りにされていかれるような気持ちになっていたんです。

こういったところが見えてくるまで、彼女は「成功している同業者を嫌う自分」を恥ずかしく感じ、責めてもいました。

最終的には「自分が本当に思っていることを話したら殺される」と思っている部分の自分を癒すことで、その人はその人でいいんじゃな~いぐらいまで緩んだのです。

これは無数にあるうちのほんの一例に過ぎません。いずれにせよ、私自身の自己ワークでも、クライアントさんへのワークでも、誰かを嫌ったり、憎んだり、批判したりなど、強い分離感を持っているときは、

「セルフイメージ」「自分の大切な人」「自分の大切なもの」「自分が深く信じている思想」など、自分が同一化してしまうほど大切で守らなければいけないもの、

または、

一生懸命隠している、絶対知って欲しくない部分の自分(ダメな私、バカな私、etc)や守り通して見せないでおきたいもの。

という「守りたいもの」を必ず見つけることができます。

つまり言い換えれば、守りたいもの、握り締めておきたいものが多いほど、人間関係において分離感も強くなるんです。

では、なせそもそもセルフイメージとか、信念とか、そういったものを私たちは握り締めているのでしょう?

自我の構造を考えた場合、自我とは体と思い、感情(&感覚)の集積です。私の体、私の思い、私の感情(&感覚)・・・・というように。難しい理論を持ち出さなくても、自分を振り返れば、これらが自分の構成要素であることは分かるでしょう。

ということは、ある意味、

自我=セルフイメージ、ビリーフ、信念といったものの集積なんです。

つまり、セルフイメージ、ビリーフ、信念といったものは、自我にとっては自分そのものなんです。なので、それらを手放すということは、ある意味自分の死でもあるんですね。(もちろん無意識のレベルで)

例えば、ネガティブなセルフイメージをどうしても手放せない場合も、深いところで、自分がいなくなるよりましだと思っていたりすることも多いんです。

ということで、大切なビリーフほど私たちはしっかり守ろうとするし、考えを攻撃されると自分が攻撃されたと受け取り、様々な感情が出てきます。

カウンセリングやセラピーで、こういったビリーフを緩ませていったり、すべての感情の奥底にある「愛」を度々経験していくことで守りの壁が落ちていき、か~なり楽になっていきます。ほんと。

と同時に、もし、真の自分は「気づいている意識」のほうだと認識できれば、必死に握りしめていたものは、ただの思いだということもよ~く見えてくるはずです。

しかも、そもそも守らなければいけない自分などいなくて、ただそういう思いがあるだけであることも。

それが見えてくれば、自分にとって苦しみとなる「守っているもの」、つまり手放してよいものと、愛の思いから守っていたいのものの区別がつくようになるでしょう。

自分の癒しを進めていくことと、ノンデュアリティの理解を深めていくことは、お互いにサポートしてくれることも多いなぁとつくづく感じています。

ここ数年の欧米のノンデュアリティシーンでは、心の癒しとノンデュアリティの融合がますます強いトレンドとなっているようです。前回、そして今回の「科学とノンデュアリティの国際会議」でも、トラウマの癒しやサイコセラピーとの融合といったテーマでの会議がいくつもありました。

もちろん、一方で癒しとノンデュアリティはベクトルが真反対に向くことも多く、ケース・バイ・ケースの繊細さがそれなりに必要です。

ということで昨年に引き続き、名古屋と大阪で「ノンデュアリティと癒しのカフェ」を開催いたします。基本的にはノンデュアリティが中心のお話し会です。ご都合がつきましたら、ぜひいらしてください♪

☆☆☆☆ お知らせ ☆☆☆☆

「ノンデュアリティと癒しのカフェ」

名古屋:5月14日(土)、大阪:5月15日(日)

お申し込みはこちら

セラピストと古刑事、そのこころは?

前回の記事にコメントをくださった皆さん、ありがとうございます。(*^_^*) 日本滞在中の忙しさがピークになっておりまして、なかなかお返事ができません。でも、とても感謝しております。

さて、 “さんざん癒しのワークをしてきたのにまだ同じ問題にぶつかる”、“こんなにやってきたのに、まだ癒されていない”、“きりがなくて嫌になる”といったお言葉をけっこう耳にします。

また同時に、セラピーの講座などで“もうそのテーマは癒したから大丈夫”、“私は悟りを実践しているから、今悩みはないです”とおっしゃる方々にもお会いします。

ところが実際ワークを始めると、抑圧された感情がコチコチにあるにもかかわらず、自己防衛がガッツリ走り、まったく手が付けられないというケースもそれなりにあります。

さんざんワークをしても思っていたように楽になっていない場合、よくあるのは、そんな自分に向き合っているのが辛くなり、無意識に“大丈夫な私”にしてしまうことです。

そんな場合、今までやってきた自分の癒しや悟りの知識などでしっかり自分を守り、もうそれは分かっている!の一言で、自分の中に目を向けようともしなくなります。

こういったタイプの人にワークをするのはかなり難しい、というかほとんど不可能です。

ちなみに、さんざん癒しのワークをやってきたのに楽になっていないという場合、一番多いのは、ご本人は根本のレベルでワークをしたと思っているけど、実は深い所がまだ見えていないケースです。

一つのテーマは、たいてい一本の木のようになっていて、たくさんの枝があります。枝は細い枝ばかりではなく、それなりに大きいものもあるんですね。また、一つの枝にはいくつかの感情がついています。

ありがちなのは、枝のいくつかをワークしてワークをしたと思っているケース。木の根っこはまったくスルーされているケースです。

枝にワークをしていても、それなりにワークをした感、解放感がありますので、それでワークをしたと思ってしまうんです。

非常に多いです。ほんと。

他には、思考のレベルでワークをしていて、感情、体が置き去りになっているケース。

一つのある特定のセラピーだけでワークをしているケース。(取りこぼしがあったりします。)

などなど。

で、この本当は苦しいのに無意識に大丈夫にしてしまった場合、誰かを悪者にし、その人に怒りをぶつけることで少し楽なった気分になる・・・ということもしがちです。ネットなどその温床ですよね。

なので、まだ自分は苦しんでいると自覚している人はよっぽど良いです。

いずれの場合にせよ、カギは「自分に正直になること」ですね。

分かったこと、癒したつもりになっていないか? 自分に正直になってみることです。これは意外に難しいです。私もほんとうに何度も“そこはもうクリアした”というような思考の罠に陥ったことか。

“前は~~が見えていなかったけれど、今の私は違う。だから、もう見なくても良いのだ”などなど、思考は巧妙に横入りしてきます

ので、考えを横に置いて体に集中して問うてみると良いかもしれません。

また、“ノンデュアリティと癒しのカフェ”でも、質問は非二元についてですが、質問の動機自体は、自分の悩みを解決することであったりすることもとっても多いです。

“自分の人生の悩みは、このノンデュアリティの真実で解決されるかもしれない・・・・”という思考に乗ってしまうんですね。分離がないと分かれば、人間関係の苦労から逃れられるかも・・・・といったような。

ですが、その前提自体が誤った認識でいれば、迷路に迷い込んで行くばかりです。

また、真実を知りたいという動機が自分の悩みの解決だった場合、おそらく真実も見えてこないでしょう。自分をどうにかしたいという思いが最後まであり、自我が頑張ってしまうので。

なので、本当に望んでいることは何か?を見つめ、今自分の一番正直な思い、感情をスタート地点にしてみるんです。

正直とは、言ってみれば、今自分にとっての真実ですね。真実をベースにすれば、新たな真実がそこからまた開いていきます。

これも何度か書いていますが、私は自分のカウンセリング&セラピーを「現場主義」と呼んでいます。今、その人の心の中になにがあるか?というシンプルな“事実”をベースにしているからです。

その人の心の中といった場合、抑圧された部分(=本人がまったく気がついていない思いなど)ももちろん入ります。今、その人の中で何が起きているのか?その人の自我の構造はどうなっているのか?をひたすら引き出していきます。

私自身の分析や推測、アドバイスなどは一切入りません。それをしたとたん、現場から離れてしまうからです。

例えが悪いですが、刑事が現場検証や取調べなしに、勝手に何が起きていたのかを分析したり、推測しても意味がないのとまったく同じです。

べたな刑事ドラマみたいに、エリート長官ではなく、私は現場の古刑事なんです。あはは。

で、べたな古刑事と同じことを言いますが、現場はすべてを教えてくれるんですね。

違う思いや勝手な推測で覆わずにシンプルにただまっすぐ見てみる。そして、それらがどんなネガティブな思いや感情でも、受容し、批判の声(こんなこと思ってはいけない、まだこんな思いがある、etc)で蓋をしないこと。

そのとき、私たちは初めて自分の深いところと愛ベースの関係を作り上げることができます。

癒しとは、問題を取り除いたり、嫌なものをなくしたりすることではなく、自分の中にある愛と再びつながること、その一言に尽きるかもしれません♪

 

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さて、今回もノンデュアリティと癒しという限りなくグレーな記事をかいてしまおう。

「真理を知りたい」と「苦しみから逃れたい」は、コインの表裏のように、多くの人の「悟り」のイメージのなかにあるかもしれません。

確かに、苦しみは何か“偽”りを信じ込んでしまっているときに生み出されます。分離していないのに分離しているという思い込みから始まり、自分が状況をコントロールできるという思い込み、そして様々な誤ったビリーフ、セルフイメージ。

また、「出来事」(=あるがまま)を私たちはどうしても判断したり、解釈してしまいます。そのため、「出来事」=(あるがまま)は歪曲され、そこに抵抗を生み、やっぱり苦しみが生まれますね。

こういった自我の勘違いやもがきは、人間ドラマを作るには必要だけど、そのかわりもれなく苦しみもついてきます。

そういう意味で、“偽り”から目覚めれば、根本的な苦しみに終止符を打つことができます。フィニート♪

しかし一方で、日々悩んでいる人、苦しんでいる人を相手に仕事をしていると、ノンデュアリティのメッセージが個人のストーリーを癒せない現実にも年中直面しています。

いくら悟ったところで癌細胞が消えるわけではないように、幼少の頃のトラウマもやっぱりそのままあります。

しかし、真理は苦しみを癒すはずだと、イギリスのサットサンでも子供の病気のことや恋愛の悩み、生き辛さを訴える人をけっこう見かけます。

気持ちはとても理解できるのですが、この場合、本当に求めているのは真理ではなく、自分の苦しみが癒されることですよね。

真理は苦しみを癒すけど、真理は癒しのツールにはならないんです。この微妙な違いは、非常に大きいんです。

というのも、すべてをあきらめたときにやっと真理の門に立てるのに、ある意味その正反対を目指してしまうからです。

つまり、失敗が約束されている旅に出てしまうんです。

しかも、悟り(解放?恩寵?)などいつ訪れるかも分からず、カウンセリングやセラピーも受けず、結局苦しみをひっぱり続けることになりがちです。

で、どうなるかというと、ティーチャーやメッセンジャー達に怒りを持ち始めたりするんですね。

ルパート・スパイラのリトリートでも、“2万ドル払ったのに(彼が今まで払ったリトリートの合計らしい)、まったく何も変化がないし、効果がまるで感じられない!!”と食ってかかっている男性を見かけました。

なぜかランチタイムでその男性が隣に来て、話をしているうちにEFTをやってくれということになり、午後の休憩タイムにそれをテーマに見ていきました。すると、“もう自分は70歳になるのにまだ真理が見えない。”、“私はいつも失敗する”といった思いがあることが分かりました。(←子供の頃の心の傷につながる)

結局、自分の焦りや不安が怒りとなってティーチャーにぶつけていたんです。その男性は、仕事も辞めて、家を売って、真理を知る旅を始めただけに焦りも相当あったんですね。

まぁ、人のリトリートで何やってんだ私・・・・?とも思いましたが、リトリートは休憩時間のほうが長いので、よくセッションを頼まれたものです。

話を戻しま~す。

で、悟りに助けを見出そうとする心のしくみをちょっと覗いてみると・・・・、

例えば、「神でさえ私の問題など解決できない」「誰も自分を助けられない」などと、助かる道、楽になる希望は一切ないと思い込んでいるとき、絶望の底のかなり苦しい状態にいます。

部屋に完全にひきこもっているか、またはなんとか生活はしているけど、できれば死にたいと思っているような状態です。

でも、なんらかのきっかけで、「もしかすると、何か、または誰かが私を助けてくれるかもしれない」という気持ちが生まれると、苦しさはさほど変わりませんが、ほんの少し前向きな気持ちが生まれます。

そして、セミナーなどに出かけ始めますが、「誰か(何か)が自分を救うだろうという発想なので、基本的に依存先を探しているんです。もちろん、本人はそう思っておらず、単純に自分が楽になるメッセージやメッセンジャー、またはツールを探しているだけだ・・と思っています。

が、ここがミソなんです。

本人は無意識ですが、気持ち的には、そのメッセージやツールにすがってしまっているため、それによって楽にならないと、たいていそれがものすごい怒りに変化してしまいます。

そうすると、もともとの生き辛さに加え、楽にならない怒りも加わり、余計苦しみが増す・・・という状況に陥ってしまうんです。

または、苦しみの理由が満たされない愛であった場合、メッセンジャーと恋愛関係になることを目指したり、度を超えた熱狂的ファンのようになってしまうこともよ~くあります。

頭では真理が自分を救ってくれると思い、セミナーやリトリートへ出かけますが、実は真理なんて全く求めていないし、でも癒しも起きない・・・という状態を自ら作ってしまっているんです。

そんな人々をたくさん見てきて、自分がセラピストだからということもありますが、苦しいならやっぱりセラピー受けようと思ってしまうのです。

で実際、分離感を癒したいのだ~とか、真理に目覚めたいとか思っていても、いざ楽になってしまうと、もう非二元には興味ありません~~みたいになったりする人もけっこういます。

つまり、自分が本当は何を求めているのか、よ~く探ってみる価値はある!ということなんです。

喉が渇いている人には真理よりも水が必要であるように、愛に渇望している人にも真理よりも癒し(自分の中の愛に気づくこと)なのかもしれません。

そして、ある程度渇きが癒されたら、「自分に役立つか?」といった思いなどで歪曲されずに、真理を指すメッセージがその人の心にきっとまっすぐ届くことでしょう。(*^_^*)

私でいることからの休憩

明日から、アジャシャンティのリトリートへ出かけていきます♪ リトリート大好き人間なので、もう楽しみでしかたがありません。一生、リトリートだけやっていられたら良いのに・・・と思ってしまうぐらいです。うふふ。

さて、拙書「こころがスーッと軽くなる「さとり」セラピー」(おぉ、なんか自分の本についてあまり書いていないので、なぜか恥ずかしい)に、“名前がなくなっても、世界はなくならない”という見出しがあります。

言葉を覚える前は、名前のない世界にいたはずなのですが、いつの間にか、名前やレッテルがあるのが当たり前というか、私たちは普段「レッテル=事実」という感覚になっているでしょう。

自分自身についても含めて、周囲を見渡すとすべてに名前がついていますよね。私たちは常に概念に囲まれた世界に住んでいるんです。

で、例えば私の場合、“溝口あゆか”、“私は女である”、“日本人である”、“セラピストである”などが私についた(&自分がつけた)レッテルです。

多くの人が、“女である”、“日本人である”は、紛れもない事実を言っているだけで、レッテルじゃないでしょ・・・と思うかもしれません。

でも、女だ、日本人だ、セラピストだという概念がなくなっても、私は消えませんよね。

また、性転換もできるし、国籍も変えられ、仕事ももちろん変えられます。

それらがどんなに変化しても、「わたし」は相変わらず存在しています。

バラは自分をバラと呼ばれていることは知らないでしょうが、そんな概念などまったく必要なく、見事に花開きます。

赤ちゃんも、自分の性別や名前、国籍など知らなくても、実に溌剌とした生命の躍動感であふれていますね。

名前やレッテルはもちろん会話するために便利ですし、ないほうが良いという話をしようとしているのではありません。

ただ、それらがなくてもものごとは何の問題もなく存在し続けるし、出来事は起きていくということなんです。

国境も同じで、それは人間が勝手に引いた線ですね。動物や木々、山々にとっては、何の意味もありません。

こういった国の名前や人種のレッテル、国境などをはずしていくと、そこには大きなつながった一連の生命の動きがあるだけです。

私はテキスタイルが大好きなので、民族衣装展などにいくと、食いつくように見入り、できるものなら触りたいし、匂いもかぎたいのに・・・と思いながら、その多様性、歴史の深さにもう感嘆のため息ばかりついてしまいます。

なので、様々な文化や国はただのレッテルだよね、とっぱらって、みんな一つだね、みたいな話をしたいわけでもありません。

ただ、こういった名前やレッテル、区別を深く信じ、そしてそれらに強く同化すればするほど、自分と自分ではないものがしっかり分けられ、それはやがて分離の悪夢に転がっていくと思うのです。

個人の苦しみだったり、人類全体の苦しみだったり。

ルパート・スパイラの言葉に、

『人生には三つの可能の生がある

何かであること、無であること、すべてであること。

最初の場合には、苦悩がある

二つ目の場合は、平和がある

三つ目の場合は、幸せと美と愛がある』

というのがあります。

世界を見渡せば、今まだ多くの人が「何かであること」を深く信じてで生きているでしょう。自分の性別、国籍、職業、または、“私は優しい人間だ”、“私は能力がない”などといったセルフイメージに同化し、それを基準に世界を眺め、人生を構築していく。

でも、どれぐらいの人が、二つ目と三つ目の可能性に気づき始めているのか?

悟りや非二元という言葉を知らなくても、自然に直感的に気づいている人たちも必ずいるはずです。

もちろん気づいたとしても、長い間「何かであること」が深く刷り込まれた私たちにとって、無であること、すべてであることを実感するのは容易ではありません。

それでも、二つ目と三つ目の可能性に気づき始める人が増えたら、それだけでも分離の幻想は少しづつ溶け出していくかもしれません。

そして、それはエックハルト・トールの本のタイトルにあるように、人類の夜明け「ニュー・アース」の誕生になるかもしれませんね。

とりあえず、自分の名前、性別や国籍、自分に貼っているあらゆるレッテルやビリーフを横に置いて、自分はそれで一体何者なのか、感じてみてはいかがでしょうか?

それはまた、“私が休む”のではなく、“私でいることからの休憩” (a break from being me)となり、しばし幻想のドラマからの休憩にもなるかもしれません♪

 

☆EFTとマトリックス・リインプリンティングの振込みを14日以降にしてくださった方は、確認がしばしできませんので少々お待ちいただけましたら幸いです。

☆ちなみに「私はいない」という非二元のメッセージの観点からすれば、気づく誰かは存在しないとなりますが、こちらのブログは現象の観点を軸に書いています。

ポジティブ投影

ポジティブ投影という言葉は、たぶん私が勝手に作りましたが、インテグレイテッド心理学を受けてくださった方は、意味はお分かりですね。

講座を受けていない方のために、まず「投影」の意味を乱暴にまとめると、「思考のフィルターを通してものを見る」ことです。

ですので、椅子を見て、椅子だと解釈するのは投影です。なぜそう解釈するのでしょうか? それは教わったからですね。つまり、知識(=思考)を通してものを見ているんです。

こういう最も中立でシンプル、かつ表層的な投影から、心の奥底に抑圧された何層もの思いや感情によって投影される複雑なものまで、基本的に自我は投影ワールドに暮らしています。

ネガティブ投影は、苦手意識や嫌悪感、嫉妬、怒り、無力感などなど、いわゆる苦しみを生み出し、そういう意味で分かりやすいです。

一方、ポジティブ投影は、ポジティブな感情が生まれるので、その分その人の中で問題化しないことが多いですね。

例として分かりやすいのは、アイドルやスポーツ選手へのポジティブ投影です。

一見、誰かを敬愛したり、尊敬しているように見えるので、投影している本人も、される本人もポジティブな関係に見えます。

ちなみに、純粋な敬愛や尊敬とポジティブ投影の違いは、ポジティブ投影の場合、ほぼ間違いなくその人を等身大以上に盛っています。つまり、自分のストーリーや解釈が勝手についてしまうんです。

例えば、かつてアイドルはトイレに行かないと思われていたそうですが、いつもあの人の周りは笑いで溢れているに違いない~、などといった自分の妄想を相手に投影するんです。

なので、アイドルやタレントさんの中には、ファンが自分に勝手に抱くイメージと、本来の自分が違うということで悩む人もいますよね。

さて、このとき投影している側に何が起きているかというと、自分には相手が持っているものを持っていないという思いを強化しているんです。

少し説明させてください。

まず、前提は、私たちにはすべてがあります。インナー天使も、インナー悪魔も、優しさも冷たさも、はなやかさも地味さも、あらゆる要素のすべてがあります。

ところが、そのなかのある部分が育った環境や何らかの理由で抑圧された場合、どうしても外に投影されてしまいます。自分にないものは、誰かが持っていることになるんです。

例えば、自分はいつも混乱していて明晰さがないと感じていたら、誰かが明晰さを持っているように見えてきます。または、誰かに持っていて欲しいんです。

良い例えではないかもしれませんが、自分の部屋が真っ暗で光がなかったとしたら、誰か明かりを持っている人を探したくなるんです。で、誰かが持っていたら、その人のそばに行けば、自分の周囲も明るくなりますね。(正確には、なったように感じる)

自我は、常に完全になりたい、欠けているものを埋めたいと思っているので、自分がないなら、持っている人を探したくなるんです。(または、埋めてくれるもの)

そして、これらはぜんぶ無意識にやっていることです。

で、見つけると、“あの人は、あんなに自信を持ってクリアにお話をしている、素晴らしい人だ!”となります。

そして、次に当然したくなるのが、その人のそばにずっといること。恋愛の始めは、お互いがポジティブ投影をしているケースがほとんどです。

ただ、時間の経過とともに投影が落ちていきますので、その後が試練ですね。(笑)

アイドルの追っかけなども同じです。その人の追っかけをしているときは、自分にないものが埋まったかのように感じて、気分が高揚するんです。

これはもちろん、スピリチュアルな集まりでも見られます。覚醒者やスピリチュアル・ティーチャーにポジティブ投影するんですね。

私もセラピーを教えているだけですが、それでも、“あゆかさんでも、まだ癒すことあるんですか?”というポジ投影の言葉をよくいただきます。もちろん、めっちゃ、あります!!

ちなみに、自分を癒しきった日が来るというのは、自我の妄想です。がっかりしてしまいましたか? ただグッドニュースは、あなたは自我ではないということです。

自我の不幸、自我の抑圧、自我の苦しみは、あなた(=気づきの意識)によって100%受け入れられ、愛されているから、そこには平和があります。

受容、愛である大海の中で小波が苦しんでいたら、一番良いのは大海の意識に寄り添うことでしょう。

ただ、こういった言葉も頭の理解であったり、苦しみの最中にいたりすると、あまりぴんと来ないかと思います。ネガティブな感情や思いの感覚のほうが大きすぎて、そちらに引きづられてしまうからです。

ですので、まるまる癒す必要はありませんが、今苦しいのであれば、やっぱりセラピーはお薦めです。

話を戻して、もし誰かにポジティブ投影していたとしたら、まずそれをしていることに気づいてみるのが良いかもしれません。自分の部屋の中にも明かりがあることを思い出すんです。

そして、一体自分は何がないと思い込んでいるのか? どうしてないと思い込んでしまったのか?を見てみます。過去の出来事?育った環境での刷り込み?思い込み?抑圧された感情?

どこまで癒されたかに関わらず、最終的に「(個の)わたし」が手放されたとき、投影はかげろうであることがはっきりと見えてくるでしょう。

相手を盛り上げることも、盛り下げることもなく、私とあなたというものもなく、境界線のない出来事が現われては去っていきます。絶対に支えられた、うたかたの夢。

ここがいつも私たちの家。

リラックスしていきましょう♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

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境界線について学ぶだけでもだいぶ楽になります。ご都合がつく方はぜひ!

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存在の耐えられない軽さ~意味や目的を超えて~

雑誌「スター・ピープル」の“ノンデュアリティ特集”以来、私の中で遠慮がなくなってきました。ので、今回も自我のこころと非二元について♪ というか、これからずっとになりそう。

さて、「わたし業」というのは、素晴らしくもあるけど、本当に大変な仕事(?)でもありますね。

「わたし」というのは、生きていく上で、基本的に精神的な支えが必要です。つまり、生きる意味とか目的、生きがいとかいったものです。

それらがいらない、という話ではありません。生きがいや生きる目的が、自分に力を与えてくれるのなら、しっかり握っていてください。

でも、生きがいや生きる目的には、いつの間にかたくさんの「べき」がつき始めたりもしますね。

例えば私の生きがいは、“お客さんの笑顔を見ること”だとしたら、そのためには、私は~~すべき、こうあるべき、あの人たちも~~であるべき、などといった思いが募り、知らず知らずのうちにストレスで一杯になってくるかもしれません。

達成する努力に加えてストレスがたくさんつき始めると、楽しいのか、苦しいのか分からなくなってくる人もとても多いです。

それでも、とりあえず目的に向かっている間は良いのですが、結局達成されなかったり、またはそもそもいきがいが持てなかったり、見つからなかったりすると苦しみになりますね。

または、目的を見事に達成したときも、その興奮が冷めると虚無感に陥る人もそれなりにいます。なので、すぐに次の目標が必要です。

振り返れば、私が一番落ち込んだのも、人生の目的がまったく見えなくなったときでした。病気になったわけでも、家が焼けたわけでも、愛する人を失ったわけでもなく、なにも大したことが起きていないのに、なぜ自分がこんなに苦しいのか分からず、どうしようもありませんでした。

なので、もし当時の私が“すべては意味や目的もなく、ただ起きている”という非二元のメッセージを聞いたら、ものすごく落ち込んだと思います。

とりあえず、“人生に意味や目的などない”と聞いて、ワクワクする人はほとんどいないはずです。

なぜなのでしょう?

毎日ぷらぷら生きているのでも良いはずです。なぜ、私はあんなに苦しかったのでしょう?

生きる意味や目的とは、私たちの多くにとって「存在の理由」になります。~~のために生きていこう!というような自分を持続させる動機になるんです。

自分が、立ち止まらずに前に向かっていけるために。

基本的に「わたし」(自我)とは、実体のない現われては去っていく一つの現象です。

その実体のなさを自我(私たち)は深いところでうすうすよく分かっているのです。

なので、自分の存在理由がどうしても必要となるんです。

苦しんでいた当時、オーストラリア人の友人が「存在の耐えられない軽さ」という本に夢中になっていましたが、まさにタイトルの通り、自我は自分の実体のない軽さに耐えられないんです。

でも、生きている意味、生きる目的、生きがいなどが、自分が生きている証、存在の理由となり、安心感をくれるんです。存在に重みがつくんですね。

でも自我が本当に落ち込むのは、「私はいない」という非二元のメッセージかもしれません。

生きがいや人生の目的がないよりも、自分がそもそもいないのですから、目的さえも持ちようもないんです。意味を見出すことも、それこそ意味がないんです。

なので一瞥体験をした人や非二元の教えに深く触れている人の中で、虚無感を持つ人も少なくありません。

自我って、存在してもしなくてもけっこう大変・・・。

ただ「私はいない」と知って、虚無に陥るのは、まだ自分がいるからです。

このとき、自我がまったく気づいていないのは、幻想の自分も含めて、すべては生きる意味とか目的といったものをはるかに超えた、神秘的で無限の愛である生命にしっかり支えられているということなんです。

というより、そっちが本来の自分だということですね。そもそも、生まれたということ自体が夢だったんです。(不生不滅)

当時の私に、もし何か言えるなら、まずは “あなたのハートを信頼して大丈夫。もがくのを辞めれば、必ず勝手に沸いてくるパッションがあるから。”とういこと、

でも、もっと本当に言いたいことは、

“ここは本来、生きがいや目的を超えた世界で、あなたはその世界そのものだよ。”

ということです。

最終的に個人の夢、目的、意味、情熱が手放されたとき、「わたし」のかわりに全体(生命)が生き始めます。

そのとき、意味や目的を必要とするのは、狭い世界で不自由なのだと気づくでしょう。

意味や目的に縛られないとは、言い換えれば、100%未知だということです。

生命が次に何を起こすか、皆目検討もつかないんです。

でも、何も知らないということがどれだけ自由で安心か、それが見えてきたとき、世界は虚無ではなく、神秘で親密なところになるはずです♪

※すべて手放したほうが良いとか、何をしたほうが良いかという話をしているのではありませんので、響くものだけただ受け取って頂ければ嬉しく思います。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ご覧頂いた方も多いかと思いますが、地球ひろしさんのearth TVに出演しました♪

「すべては愛の中で起きている」

自我は自動操縦♪

今回も癒しと非二元が限りなく混ざったお話です♪(だんだん、ブログを分けた意味が・・・、まぁいいや)

さて、般若心経のなかに五蘊というのがありますね。自我を構成している5つの要素です。実は私は英語で理解してしまったので、英語でここに書くと、

the body, feelings, perceptions, mental formations, consciousness
体、感情、知覚、思考、意識(←変化する意識作用)

となります。

これが、個としての「わたし」を構成しているんです。くれぐれも私に自我があるのではなく、「個のわたし」=「自我」です。

さぁ、この5つの要素の中で自我的には足りないものがあるはずです。あってしかるべきものがない!

そうです。それらの5つの要素の「所有者、主」です。主体であり、思いや感覚をコントロールしている存在です。

で、下記のご質問を頂きました。

“身体”や“感情”、“思考”をすべて無くしてみたとき、その中心にあると思っていた“私”というものは存在しないということですが、それはとりもなおさず(←えっ!そんな簡単にスルーしないでください!笑)、ある特定の“身体”や“感情”、“思考”というものの統合されたものこそが、“私”ということ他ならないいうことではないでしょうか?

その通りです。それが「個の私」ですね。でも、ポイントはやっぱりそこに主体はいないということです。自我はこれらの統合されたものが、あたかも主体であるかのように強く錯覚しているんです。

でも、きちんと自分の経験を見つめてみると、

思考は沸いては、去っていくものなので、主体になれません。もし、思考が主体でしたら、思考が去ったときに主体も去ってしまいます。また、一体どの思考が主体なのでしょう? 体も独立した意思を持っているわけでもなく、また感情も沸いてくるだけです。

脳みそが主体だ!というのが、現在の物質主義の考え方かもしれません。でも、そうであれば、私の脳という言い方は間違いですね。“私は脳だ”ということになります。

また、最近の科学では、次に何が起きるかを心臓の波動のほうが、脳よりも早くキャッチしている(HeartMath Institute)とか、私が今はまっているBernardo Kustrapというオランダの科学者なども、脳じゃないよ~という発表をしています。

ポイントは、普段私たちは、

「私」が私の体をケアする
「私」が私の思いをポジティブにする
「私」が私の感情を解放する

という感覚でいます。

でも、五蘊の要素にも、自分の直の経験を見つめても、その「私」はいませんね。所有者がいないんです。

“身体”や“感情”、“思考”というものの統合されたものが私だ、という強い思い込みがあるだけなんです。

私の言葉を信じるのではなく、ご自分の体験をよくよく見つめてみてくださいね。

さて、これは言い換えれば、運転手なしに走っている車です。自動操縦です。車にはそれぞれ特定の色やデザインやモデルがありますね。で、ちょっとイメージして頂いて、車の機能に高精度のナビ(思いや感情)がついていたら、車は自分が操縦していると勘違いしてしまうかもしれません。

もちろん、人間はただの機械にすぎないと言いたいのでは、まったくありません。また、すべては常に変化していますから、人間も車も固体というより流動体です。

ちなみに量子的にも、物質の99%(だったかな)は空間だそうです。

では、例えば「私は無能だ」というビリーフが誰かにあるとします。車の例えに戻ると、それがナビに表示されたわけです。本来ならば、運転手がそれを読むのですが、読む人は不在で、ただナビに表示されただけです。

つまり、思考も感情も、持ち主なしにただ流れているだけなんです。ただナビには、「それは私の感情だ」「それは私の思いだ」という情報が、デフォルトとしてセットされています。

ので、あたかも「わたし」がいるような錯覚が生まれるんです。でも、ぜんぶただの思いです。

しかし、思いには感情や体感がくっついてくるので、実体感、リアル感が強いんですね。

エックハルト・トーレが彼の著書で「ペインボディ」という言葉を使っていますが、私はこの言葉は見事だなぁと思います。「傷ついた私」はいないんです。ただ、ペインボディだけがあるんです。

つまり、誰かがペインボディを持っているのではなく、私たちが苦しんでいるとき、私たちはペインボディなんです。

さて、なまの自我は車の例えなんかよりも、ずっと複雑で脈々と変化する生命体です。なので癒しも、そう簡単にはいきません。

でも、思いや感情は本来誰のものでもない、ということが知識でもわかっていると、癒しには役立ちます。少し緩むんです。思いや感情が「わたしのもの」という思い込みから解放され、動きやすくなるんですね。

体もそうです。「私のもの」という思い込みから解放し、生命のもの、源のものとして扱ってあげると、心なしか体が喜んでいるように感じます。

そして、ペインボディも、そしてもちろんヘルシーボディ、ハッピーボディもみな、気づきの意識、生命のエネルギーから現われ、100%受け入れられています。

ですから、自我は決して真実を防ぐ邪魔者ではありません。パラドックスですが、自我を超えるには、自我の要素を受け入れる(愛)ことなんです。

でも、受け入れるのが難しいと感じるときは、その難しいと感じる心を受け入れてあげてくださいね♪ (そんなときは、セラピーがお薦め)

 

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