あなたが本当に求めているもの♪

ものごころがつき始めたような小さな頃。

きっとみんなにあったと思う。うっすらと。

なんか違うところに自分がいるような、

なんか自分にはほんとうの場所があるような。

でも、人生はすでに始まっていて、自分はもうここにいるしかないという感覚。

微かだけど、何かを忘れてきた感覚。

そして、その何かこそがリアルなものであるような感覚。

成長するにつれ、私たちは“私の人生”にどんどんはまっていき、人生はリアル以上にリアルになり、小さい頃の感覚は遠い彼方にあたかも幻想のようになって消えていく。

でも、日常の忙しさの中で、人生の喧騒の中で、ふとそんな感覚が一瞬でもよみがえってくることがあるかもしれない。何か自分が大切なものを忘れている感覚。

癒しの真の目的は、その忘れてしまった本質をもう一度思い出していくことだろう。

人生の中で起きる不条理、愛する人との別れ、裏切り、ただ仕事をこなす日々・・・。自分はなぜなんのために生きているのだろう?

そんな思いが横切っても、答えなんかあるわけないと払拭して、スーパーの買い物袋に食品を詰めていく。

日常すぎる日常。

でも、ふとそんな瞬間があったとしたら、私は品物を詰めているあなたの横に立って“一緒に帰ろう”と言いたい。“どこへ?”とあなたは聞くかもしれない。

私は言うだろう。“あなたが私で、私があなたであったところへ”と。

そしてそれは、“いまここに、まさにいまここがその場所だよ”と。

この日常過ぎる日常の中で、あなたと一緒に微笑んで一緒に本質を思い出したい。

なんていったって、分離は幻想だから。

これはありきたりの真実♪ 荘厳なスピリチュアルでも、到達すべき悟りでもない。

そしてそれはあなたが一番心の底から求めているもの。いつもいつも。

分離から本質(愛)に目覚めることを。深いところで熱く恋焦がれるように。

それをあなたはずっと勘違いしてきた、自分の欲しいものはパートナーの愛だ、成功だ、お金だ、夢が実現することだ、いきがいを感じることだ・・・と。

違うよ。あなたが求めているものはぜんぜん違うもの。

私たちは私たちの夢を長く見過ぎた。もうそろそろ目覚めるころだって、本質が呼んでいる。

そう、幼い時、うっすらと自分は違う場所に来たように感じたあの感覚。

それは目覚めへの鍵♪

でもね、私たちは決して違う場所にきたのではなかった。人生にはまったのではなくて、分離という幻想にはまっただけだった。

だからあれは、真の自分を忘却の彼方に見失っていった感覚。

ほんとうは私は初めから正しい場所にいて、そう、私は常に本質とともにいた。

真の癒しとは、忘れた感覚をもう一度呼び覚まし、分離したと思った幼心を暖かく包みなおしてあげることだろう。

ケセラセラ、“私が大きくなったら可愛いくなれるの?お金持ちになれるの?”

幼い少女の胸は人生への期待と魅惑、そして不安でつまっていて、そしてその胸は大人になるにつれ、いくつもの傷を抱えてしまったかもしれない。

人生の裏切りが大きすぎて抱えきれず、倒れてしまったかもしれない。

だから、癒しとは人生を生きる中で身にまとっていたたくさんの苦しみのストーリーのベールを落としてあげること。

ストーリー(思いや感情)を改善するのではなくて、ストーリー(思いや感情)をはがして取っていく。

そして、人生に好奇心を抱いていた幼いあなたに戻っていくこと。

あなたの胸を温めてくれたたくさんの人やものごともあったことを思い出していくこと。

そして最後に、リアルだと思っていたものが幻想で、幻想だと思っているものが実体であると気づいて、あなたは微笑む。

あなたは私、私はあなた。

それがカミングホーム。私たちは100%祝福されている♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

久しぶりにリアルお話会を開催いたします。

自分の本質について、癒し、自我、人生についてのお話会です。

満席となりました。

キャンセル待ち&カフェ案内ご希望のかたは申し込みフォームからどうぞ♪

日程:10月20日(日)13時~15時半

場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html

参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/F4TPE

誤解されたと思ったとき・・・

ロンドン郊外の今日の気温はなんと18度。みんな頭が夏モードなので半そで来ているけど、寒そうに見える。

さて、今日のお題は「誤解」。何を隠そう、私は誤解されるのはすごく嫌なんです。たぶん、私だけではなく、きっと多くの人が自分が誤解された、誤解によって批判や否定をされたと思えば、その誤解を解きたくなるはずです。

とりあえず、私はすぐにどう誤解を解くか?と考えてしまいます。言い換えれば、防衛ですね。私は悪くないのだと証明して、自分を守りたい。

で、ただ誤解を解こうとするだけではなく、ついでに“そんな誤解するなんてアホじゃないか、お前こそ間違っている!”と怒りも湧いてきます。つまり、相手を攻撃したくなる。

例えば、“そんなことをするなんて、なんて卑怯な人間なのだ!”と言われたとして、自分は“えっ、そんなつもりじゃなくて、それはこういうことで・・・”とすご~く言いたくなるし、誤解だとわかっていても、腹が立つし、傷ついたりもします。

えっ、私のどこが卑怯なの?私は卑怯じゃない!あなたは間違っている!!みたいな。と、同時に、ひょっとして私って卑怯? そう思って振り返ってみると、確かに自分には卑怯なところもある。言われても仕方ないのか、でもなんかモヤモヤする・・・。

というわけのわからない感情と思考の樹海の中をいつの間にかさまよい歩いていたり・・・・。

もちろん、自分の思いや事実を説明することは、自分を大切にするという観点でしたほうが良いと思うのです。

でも、自分にも卑怯なところがあるし・・・とか思ってしまうと、それもどこまでして良いのか分からなくなるかもしれません。

また、もし相手に自分の思いを伝えたとしても、“なるほど、自分が間違っていました。ごめんなさい”と言ってくれる確率がどれぐらいあるかどうかも大変怪しい。

どちらかというと、相手に言い返される確率のほうが高いかも。そして、相手との行く先が見えない戦い?(対立、分離)がやはりモヤモヤと続く。

言わなくてもモヤモヤ、言ってもモヤモヤ。

どうしたらこのモヤモヤした樹海から抜けだすことができるのでしょうか?

ということで、誤解されたと思ったとき、心の中で何が起きているのか、少し見ていきませんか?

例えば、あなたは卑怯な人間だ!と言われとき、これはある意味、本当は黄色のジャケットを着ているのに、“なにその赤いジャケット?”と批判されたような気分になっているはずです。(この例え良いのだろうか?)

なので、“私は赤いジャケットなんか着ていない!これは黄色だ!”とすごく言いたくなるみたいな。でも、その訴えもむなしく、その人の中で赤いジャケットを着た自分が勝手に一人歩きしているような感覚・・・。

つまり、誤解を解かない限り、卑怯な私がある種の実体をもってきてしまうような落ち着かない感じ。人から押し付けられた自分像が自分自身よりも大きくなっていってしまうような恐れ。ほんとうの自分自身が間違った自分像に消されていくような感覚。

モヤモヤ、モヤモヤ。

このとき私たちを救ってくれるのは、もちろん、自分をきちんと見つめて、“私は黄色のジャケットを着ている”ときちんと事実確認をすることですね。つまり、私は私の真実をちゃんとわかっているということ。

これが私だ、私は真実を知っているから大丈夫。真実は必ず私を守ってくれるという原点に戻っていくことでしょう。

黄色のジャケットとは、自分の真実、自分のまっすぐな情熱、自分のビジョンです。そして、それを日々生きているということ。(黄色のジャケットを毎日着ているということ)

なので、相手に伝わらないとき、誤解が解けないと感じたき、最も大切なことは、自分がこれらを忘れないでいることだと思うのです。

そうすれば、押し付けられた自分像は自分の中で影響力を失っていくでしょう。

しかし、それがあやふやであれば、あなたは~~~な人です、と言われるたびに、私たちの心は右往左往してしまうはずです。

さて、自分の真実、情熱、ビジョンとは一言でいえば、その人なりのハートのことです。バラがバラになり、タンポポがタンポポになるように、その人が持っているもっともナチュラルでその人の中にある自分らしい開き方、その人なりの色、パッションです。

ところが、私たちはどちらかというと、ハートよりも自分像をベースに生きてしまっていることが多いものです。

例えば、自分は大した人間ではない、取るに足らない存在だといった自分像があった場合、その思いにふさわしい行動をし、その思いにふさわしい経験をしていきますよね。つまり、ハートよりも自分像のほうが人生を歩いているわけです。

でも、自分像というのは、よく見てみると、そこには思い込みと感情、そしてイメージがあるだけです。つまり、どれも実体のないものです。

しかし、本人にとってはそれは事実そのもので、それが現実だと思って真剣に生きてしまうわけです。もちろん、自分はそういう人間だと思い込むほどの環境や出来事があったからで、そう思ってしまうことが悪いわけではありません。

刷り込まれた思いに心の傷がたくさんついているほど、私たちはハートよりも自分像を生きてしまうでしょう。しかも、ハートを育てるよりも、ポジティブな自分像を作る(変わりたい、違う自分になりたい、良い自分になりたい)ほうに邁進しがちです。

でも、自分像を生きるとは、思い込みが一人歩きしているような状態です。なので、それがたとえポジティブなものでも、そのポジティブなイメージを守る必要がでてきます。

でも、もし思い込みではなくハートを一人歩きさせたら?

そのとききっと私たちはイメージという実体のないものを超えて、生命という確かなものが私たちを支えてくれるでしょう。

あっ、でも、癒しの順番として、まずはポジティブな自分像に落ち着くちというのは十分にありです。そしてそこからハートにシフトしていくのも良いですね♪

ハートというもっとも存在の真実に近い場所、強さと優しさの源、そこに何度も立ち返りたい。

誤解を解く戦いから自分を解放し、正気に戻れる場所、そして本当に自分でいられる場所♪

うっすら不幸感と炎上のしくみ

世の中を見まわして、なぜこんなに生きづらい人が多いのだろう?
なんか社会がギスギスしている感じがするのはなぜ?
なぜYouTubeのコメント欄にはびっくりするような誹謗中傷があったりするのか?
そして何よりも、私はなぜ幸せな感じ、平和な感じがしないのだろう?

と思ったりすることは、おそらく誰にでもあるでしょう。

ということで、いきなり悟りと非二元の世界に飛んじゃう。

非二元本である「奇跡のコース」には、「罪悪感」を癒す大切さが何度も出てきます。私たちの心の深層にある罪悪感を癒すことが本質への目覚めにつながると・・・。

ここでいう罪悪感とは、何か悪いことをしでかしてしまった罪意識というよりも、“何か自分には欠けているところがある”、“なんか自分はうまくやれていない”といった、自我の根底にある自己否定を指しています。

自分の本質である「純粋意識」、仏教でいう「空」という、分離もなく、身体や思いでもなく、そして時空もない、純粋意識な意識そのものである自分を忘れ、自分は分離した存在であるという勘違いをしたとたん、「全体でない、何かが欠けた分離している私感覚」が生まれます。

つまり、人生が何一つ始まる前に、この勘違いから生まれた罪悪感が私たちの中にすでにビルトインされているんです。

そして、生まれ育つ過程で、 “頑張らないといけない”(=今のままではダメ)と思わされたり、家庭環境が暴力に満ちていたり、または衣食住に欠けていたり、または学校でいじめに遭ったりなど、私たちの中にもともとビルトインされている「自分ダメ感、自分足りない感」がさらに強化されてしまいます。

このように大きくなってしまった罪悪感は、普段、うっすらとした不幸感や不満、または不安や恐れ、怒りといった形で表面に現れてきます。しかし、日常の忙しさの中で私たちはそれらの感情に気づくことはあまりありません。

たとえ気がついたとしてもどうしたら良いかわからず、せいぜい気をそらす何かを見つけるぐらいです。

ですが、この私たちの中にある未処理の罪悪感は、必ず外に向かい、攻撃する相手を見つけ出そうとします。(もちろん無意識)

なぜなら、誰か、または何かを攻撃することで自分が正当化され、自分が悪いのではないと落ち着けると無意識に思うからです。こうして無意識下で、常に「攻撃レーダー」が作動し始めます。

そしてまずは、一番身近な人がターゲットになります。ので、夫や妻、子供など家族が犠牲になること多しです。(たいていはお互いに攻撃し合う)相手の言動のいろいろなことが気に食わない、腹が立つ、許せない、おかしい・・・と、心の中が戦争状態になります。

ですが、家庭内での戦争に勝てなかった場合、くすぶりはさらに増えていきます。すると次に犠牲になるのが、職場の人々や近所の人など次に身近な人たちですね。または始めから、家庭と会社の両方で同時に戦っている人もとっても多いです。

しかし、なかなかそこも勝てる場所ではありません。そんなとき、誰か芸能人のスキャンダルでも起きれば、よっしゃ~!と罪悪感は勇んでコンピューターに向かい、自分が会ったこともない人を攻撃します。

つまり、炎上とは罪悪感のはけ口とも言えますね。どこかに吐き出さないと苦しい。心が平和で幸せな人にとってはそんなことをするほうが疲れるはず。

または特定のグループや民族を常に敵対視することもありますね。自分自身はその人たちから直接にはなんの被害も受けていないのですが。

しかし、罪悪感は自分が直接にはまったく何も被害を受けていないという事実はまったく無視し、他の罪悪感と呼応し合います。集団化してしまうんです。

グループの中で誰か一人がほかのメンバーを批判し始めると、他の人も一緒に乗って一人を攻撃するとか、大人の世界でもありますよね。

さて、でも残念ながら、どんなに自分の考えが正当に見えて、どんなに相手を攻撃したところで、私たちの心はまったくスッキリしません。なので、攻撃が終わらないし、罪悪感はうろうろとさまよい続け、不幸感はやっぱり残ります。

ということで、ほんと~にスッキリして心が平和でいるにはどうしたら良いのか?

そうです。皆さんもお分かりのように内なる罪悪感を癒すことです。

ここで難しいのは、相手や社会や状況を長い間批判してきたことで、自分の中に正論や怒りもしっかり育ってしまっていることです。

なのでまずは、正論の後ろに隠れている声、怒りを癒してあげることが必要なんですね。“なんで話聞いてくれないのよ~”、“私をバカにするな!見下すな!”、“いい加減にしろ!甘えんな!”といったような声です。

そして、それらの声の下にあるのが、“私を受け入れてほしい”、“私を認めてほしい”、“私も助けが欲しい”といったような声。

そしてそのさらに下にある声が、“私はそもそも受け入れてもらえない人間だ”、“誰も私のことなんか重要視しない”、“助けてくれる人なんていない”というような声。

そしてその下に(場合にはよってはもっと下に)やっと罪悪感の声があります。“私は存在自体が迷惑”、“私は透明人間”、“私は天から見放された存在だ”・・・。

そもそもこの声が生まれた理由には、その人特有のストーリーがそこにあります。それを丁寧に癒してあげたとき、そこから生まれていたいくつもの思いや感情も一緒に癒されていくんです。

どんな汚い言葉、キツイ言葉、乱暴な言葉が表面上に発せられていようが、最終的に傷ついた子供の声にたどり着くんですね。

もし、みんなが自分の中の罪悪感を見つめて、傷ついた子供の声を癒してあげることができたら、世の中はもっと生きやすくなるだろうと思うのです。

そして、さらに言えば、もし私たちが自分の本質を思い出すことができたら・・・・。ということで、最後にまた非二元に飛びます。

「本質の私」に立ち戻れば、どんなにリアルな思いも感情も最終的にすべて実体のないものです。移り変わりものはすべて基本的には存在しておらず、究極的には何も起きていません。(空)

あなたは悪夢を見ているだけで、ほんとうは暖かいベッドの中にいつもいるのだよと、「奇跡のコース」がいうように、自分を傷つけた相手も、傷ついた自分というのも存在せず、私たちは本質的に大丈夫なんです。

ということで、幻想とはいえ、「ユニークな個である自分」の大切な人生を時々本質に立ち戻りながら自分を表現していけると良いですね♪

自我、観察者、本質という三つの私♪

毎日、毎日朝目が覚めてから夜熟睡するまで、ず~~っとある「私という感覚」。実はこの「私という感覚」、当たり前すぎてスルーされていますが、ここにすべての秘密が隠されています。うふ♪

もちろん、真実への秘密です♪

この「私という感覚」、私たちはそこに「一人の私」しかいないと思っているものです。でも、よ~く見ていくと、そこには三つの「私」が同時に存在していることが見えてくるはずなんです。

一つは「思いや感情そのものの私」、“私は悲しい”、“私は惨めだ”など感情や思考と完全に同化している私。つまり、70億人のほとんどの人が「私」だと思っている私。

この私の中には「コメンテーター」がいて、そんな自分を一見冷静に見ているフリをしたりもします。例えば、 “私よりもっと大変な人がいる、悲しんでいてはいけない”、 “うまく行ったこともある、自分は惨めなんかじゃない”、“あまり嬉しそうにしたら子供っぽいから押さえよう”などなど。(でも、心の中は本当の意味ではスッキリしない)

自分の言動をチェックし、コメントしまくる声です。自分を励ましたり、さらに踏みつけたり、または分析したり、原因探しをしたり、かなり忙しいです。

ここにすでに二人の自分がいるように見えますが、思い、感情を無条件に信じているということで、同じ私です。

さて、二つ目の私とは、思いや感情をほんとうの意味で冷静にかつ客観的に観察する「観察者の私」です。

例えば、“なぜ私は惨めだと思うのだろう? 私は惨めだって本当だろうか?”、“今私の中で悲しみが起きている”など、コメントなしに純粋に観察できる私。

このとき、思いや感情への同化ははずれ、無条件に信じるということもなくなります。瞑想やマインドフルネスで、この二つ目の自分が主体となってくると、体もだいぶ落ち着きていきますね。

一つ目の私が黙り始め、二つ目の私も限りなく静かになり、深い平和や愛を感じ始めることが悟りだと思っている人もそれなりにいますが、違います。

なぜならまだもう一つの私がいるからです。

では、三つ目の私とはどの私でしょう?

そう、この二つの私に「ただ気づいているだけ」の私です。「私」に関するあらゆることに気づいている意識です。でも、そこには当然思いも感情も感覚も一切ありませんね。それらはすべて一つ目と二つ目の私に属しているものですから。まったくの「空」です。気づいているという以外は。

また、そこには「個」という概念も、時間も空間もなく、いわゆる「私」を超えた私です。

この三つ目のまったくの「空」で「気づいている」だけの私は、観察者である自分にも気づいていて、もちろん感情の波に溺れてもいなければ、思考のパニックにも陥っていません。

それが私たちの本質で、ほんとうの私ですね。ほとんどの人がスルーしている私です。気づいているだけで何もないから、自分にまとわるあらゆるストーリーから自由である私です。

こうやって見て行けばお分かりのように、私たちが一つ目の私に完全に同化してしまったとき、一番苦しい状態になります。客観的な目もなくなり、主観的な思いだけが暴走し、その思いそのものになってしまう。苦しくてたまらない状態とは、この状態なんです。

また、同化すればするほど、自分がなんで苦しいのかもわからなくなり、「ただとにかく苦しい」、「ぜんぶが辛い」みたいに苦しみの海のなかに溺れていってしまいます。

この状態でなんとか自分で自分を癒そうと頑張っている人がけっこういますが、溺れている人が溺れている自分を助けるのはほとんど無理です。たいていは、自分の思いを無条件に信じたままやってしまうので、その時点でアウトです。

話を戻して、もっとも苦しい状態から抜け出すには、そうです。まずは二つ目の私の視点を持つこと。

思いを無条件に信じることを辞め、湧いてきた感情を静かに眺める。そして、今までとは真逆のことをしてみます。つまり、それはほんと?と疑ってみるんです。(バイロン・ケイティのザ・ワークもお勧め)

無条件に信じていた状態から、疑ってみる状態へのシフトは非常に大きいです。これは自我の解体の始まりです。

ちなみにオープン・アウェアネス・ダイアローグ」の「オープン・アウェアネス(Open Awareness)とは、気づきの意識、この三つ目の私のことです。

開かれた気づきの意識の中で、この“それはほんと?”と問いかける役をセラピスト、またはご本人がします。

それを「気づきの問いかけ」と呼んでいますが、いくつかの問いをすることで、それが実は思い込みだった、分厚い投影だったということに自ら気がついていきます。コメンテーターの介入はゼロ値です。

思い込みには、その思い込みを支えているたくさんの他の思い、感情の蓄積、記憶、またはトラウマなどがあります。なので、セラピー(EFTやマトリックス・リインプリンティング)もともに使うことでそれらが解消され、癒しが起きるんですね。

目覚めとは、まず自分は思いや感情に深く同化しているということを認識することから始まるでしょう。「同化」と「無条件に信じる」は同じ意味です。湧いてくる思いをすべて受け入れ、信じまくっている。

なので、二つ目、三つ目の私の視点を自分の中に育てていくこと。三つ目の視点とは、いわゆる非二元、悟りの視点です。一番見過ごしていた視点です。

気づいているだけでそこに一切何もない(空)から、掴むことができない。だから自我は見過ごすし、探しに行ってしまう。

でも、これはなぐさめでもなんでもなく、譲れない事実、真実として、本質の私は、笑っちゃうぐらい身近に、というか一つ目と二つ目の私そのものでもあり、常に今ここにあります。

自我が持つたくさんの思い込み(ドラマ)を解体すればするほど、それが本当の自分であることが、もっとわかりやすくなっていくでしょう♪

理想という名の魔境♪

自我にとって一瞥体験は非常にインパクトが大きくて、どうしてもあの体験をもう一度~!状態に陥るものです。

私もしばらくかなり深くはまっていました。当時、“それはただの体験に過ぎない”と言われたら、たぶん猛烈に反発してしまったでしょう。

私は真実を見たのだ!という思いが強すぎたのです。でも、問題は、そのために苦しんでいるという事実。

幸いなことに心はがっかりしてしまいましたが、非二元のティーチャー達に一瞥体験にしがみつくことは大きな間違いだと教わり、早めのうちに一瞥体験教から目覚めることができました。

何にしても求めるということは、どうしても苦しみを生み出します。

しかし、これは何も一瞥体験した人だけの特有のパターンではなく、日常を振り返ってみると、私たちは常に深いところで何かを求める衝動がカラカラと走っているものです。

私自身も自分をちょっと振り返れば、基本的にいつもより満足できるほう、良い気持ちになれるものを求めているなぁとつくづく思います。

悪いことだと言っているのではまったくありません。何が良いか悪いのかではなく、たんに自我のしくみというか性質のお話です。

自我とうまく付き合っていくために、その性質をよく理解していたほうが、悩みや苦しみが減りますよね。

とりあえず、ある意味当たり前すぎて、多くの人がその衝動に無意識ですが、無意識であるがために、人生を軽く振り回さすぐらいの多いなエネルギーになってしまいます。

自我とは言ってみれば、エネルギー体ですね。思いも感情、感覚、体も常に変化している流動体です。

そういう意味で人をエネルギーの流れとして見るインドや中国の医学は、人を肉の塊とみる西欧医学よりも、やっぱり本質をついているなぁと思います。

で、そのエネルギー体が衝動のエネルギーとして稼働している場合、そのエネルギーが大きければ大きいほど、それに反比例して“今”が空っぽになります。

そうすると心が渇き、余計求めるというサイクルに。

例えば、ワークホリックの場合は、頭の中にワークリストが常に消えない。それを終わらせれば自分はリラックスできると思っているけど、実際終わると物足りなさ、落ち着きのなさを感じ、ゆっくり休むよりは、また仕事を始めてしまう。

ここである意味難しいのは、仕事をすることで喜びや満足感を得つづけるので、ほんとうは衝動、焦燥があることに気づきにくいことです。

と、ここまで読んで、自分は仕事楽しいと思ってやっているんだけど、本当は衝動のサイクルにはまっているの?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

それを見分ける方法は簡単です。常に疲れてきたら、そのサイクルにはまっているということです。

なんで分かるのか?というと、私がはまっているからです。へへ。

ただ、自分で言うのもなんですが、気づいているのと、まったく無意識であるのとでは雲泥の差があります。なぜなら気づいていれば、一度止まって振り返ることができるからです。

で、衝動のエネルギーをじっと感じて、なにがこのエネルギーを生んでいるのかを探ってみます。たいてい、不安や恐れです。

では、楽しんでいたはずのものがいつの間に恐れや不安になってしまうのでしょう? それは、もちろん人それぞれです。私の場合は、公私にわたっていろいろと責任が増えてからだなぁというのがよく分かります。

そこで今度は、その「公私にわたった責任感」というのを見てみます。ストーリー的にはもっともらしく、正論であり、守っていかなければいけないようにどうしても見えます。

家族のため、社員のため、~~のため・・・・みたいな。

でも、正しいストーリー、またはある理想的な形というのは、ある意味一番魔境で一番引きつけられてしまうものです。

生身の身近な人間が絡んでくるその幻想を見破るのは、かなり難しいものですね。とくに家族となれば、愛情もがっつり絡んできます。この子たちが自立するまでは・・・・・。親が退院するまでは・・・・。

今の状態が大変であるほど、気持ちはなんとか理想の形、または今より良い形へ持って行こうという衝動でいっぱいになるでしょう。

しかし、私自身を振り返っても、そういった衝動に基づいた行動は、どうしても無理があり、また人とぶつかることも多いなと思います。なぜなら、自分が思う理想の形へ周囲を引っ張っていこうとするので。

繰り返しますが、そういう意味でも、気づくことはとっても大きいことですね。サイクルを一旦中止させる。で、難しいけれども、自分が思う理想の形(魔境♪)は、実は実体のない絵空事であると見抜いていく。

衝動がもたらす望みというのは、衝動にとってはとっても必要に見えて、そして大変リアルなものです。でも、もしそのために苦しみがあるなら、やっぱり幻想にしがみついているということです。

苦しみとは、それが手に入っていないから苦しいのではなく、求めているものが幻想だから苦しいんですね。実体のないものにしがみついているから苦しんです。

じゃぁどうしたら良いのか?

それは今ここにないものではなく、今まさにあるものをよく見ていくこと。つまり、頭の中にしかないものを横に置いてみること。80%以上のストーリーは消えるはずです。

そしてできれば、苦しみのストーリーを生み出す、今まさに自分の心にあるものを見つめてみませんか?

“今”という実体へ少しづつシフトしていく。ほんと正気に戻れます(笑)。

 

☆☆☆ 衝動の下にあるもの ☆☆☆

さて、前々回、摂食障害について書きましたが、OADセッションを受けた方の素敵な感想文を頂きました。この感想文の素晴らしいことは、セラピストさんに頼るだけではなく、自らも普段から「衝動の声」に耳を傾けていらしたこと、良くなったり、戻ったりを繰り返しながらもあきらめずに向き合われてきたことです。衝動の下には何があったのでしょう? 宜しければぜひお読みください♪ →感想文

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幻想の終わりは生の始まり♪

生と死が幻想だって聞いたら、
自我は生きる意味を見出せなくなるかもしれない。

どんな風に生きたって良いってこと?
今自分が楽しいっていうことも幻想なんだよね、
今自分が苦しいっていうことも幻想だよね、
人を殺しても幻想なら良いってわけ?
どうせ幻想なら、今頑張っても頑張らなくても良いってことだよね?

じゃぁ・・・・、どうしたら良いの?

でも、ほんとうに生と死が幻想だと真に気づいたら、
そこに見えているのは、
すべてが祝福されているということ、

わぁ、そうだったんだ、わぁ・・・。
そして大きな安堵感

そして気づく、生に執着しないから、生を目いっぱい讃えることができるのだと。
そしてまた、生に執着していたから、人生は自分の思うような形でないといけなかったことを。

私が思う幸せが欲しい、
私が思う夢を叶えたい
良いことだけが起きてほしいと思う

そのために私はどうしたら良いの?
そのために私は何をすれば良いの?

生の執着から解放されたとき、
叶わなかった夢もいとおしく祝福されていて、
一瞬、一瞬、起きていること、
ただそれだけで素晴らしく、

あはは、ただそれだけ・・・・
“ただそれだけ”という言葉がどんなに優しいのか知らなかった
自我は笑いながら、やっと生の素晴らしさを知る

死を恐れないから、
未来よりも今が大切になる
今、何が大切かよく見えてくるだろう。

より良く生き延びるために、死ぬまで安泰に暮らせるように
今を生きるのではなく、
今、自分にとってかけがえのないものが見えてくる。
もう人生の祝福を見逃さない。

あなたが犯したと思っている罪も
あなたが抱いている絶望も
あがいてもあがいても這い上がれないような暗闇も
すべてがこの瞬間に切なくも愛おしく、
祝福され、受容されている

だから、自分が自分を否定している重さ、痛さ、締め付けが
苦しみのストーリーを生み出していることがことさら見える
そして、自分を締め付ける手をそっと緩める

生と死が幻想であると分かって、
初めて自我は生を祝福できるのだろう♪

 

自分自身のユニークな人生の歌を聴きたい場合、それは“こうありたい”、“こうだったら良いのに”、“こうならないといけない”、“こういう自分でないと”・・・・と、ありたい状況、こうありたい自分になろうとする声ではなくて、もっと静かな部分に意識を向けてみませんか?

思いや言葉ばかりに気を取られている自我は、「静か=ない→何もない」と思ってしまうでしょう。でも、その静かな部分があなたの本質で、そしてあなたのユニークな人生を常にともにしている意識。純粋意識。空。

そして、言葉ではなくて、自分が最も良く知っている感覚、一番自分らしい感覚を探してみませんか?

その感覚から出てくる衝動、その感覚にマッチする思い、感情。それがあなたのユニークな人生の歌ですね。

たとえ今そこに悲しい歌が流れていたとしても、その自分らしい感覚が必ず癒しに導いてくれるはず。

あなたが流れるべきところへと連れて行ってくれるでしょう♪

 

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“自分にやさしい介護者(ケアラー)になる”

投影~思考は現実化しない♪~

「非二元蓋」という言葉を春のノンデュアリティの会で話したところ、かなりの人が「非二元豚」と受け取り、非二元の知識で肥えてしまった豚という意味だと思ったそうです。あはは、それはそれで面白い。

ですが、音ではなく漢字で見ればそのまんまですが、苦しみを非二元のメッセージで蓋をしてしまうという意味です。私はいないはずだから、私の苦しみも幻想なのだ・・・みたいな。

他に、自己啓発蓋、スピリチュアル蓋などもありますね。

さて、私たちが苦しいと感じるのは、自分の中に抵抗や否定、抑圧などがあるからです。

自分を許せない、自分は他の人より劣っている、ありのままの自分でいてはいけない、自分はどこにも属さない、などなど、100万通りの抵抗や否定を私たちは抱えています。

例えば、新しい職場で働くことになり、緊張と期待で行ってみたら、職場の雰囲気が殺伐としていて、分からないことを聞ける感じではないとします。

このとき、意識の深いレベルで“自分は能力がない”と思っていたら、不安の度合いはどれぐらいあるでしょう?

とりあえず、職場のほかの人たちが自分をどう思っているのかがすごく気になったり、または常に他の人と自分を比べ、自分は出来ていないと判断して焦ったり、自分をさらに否定をしたりするかもしれません。

家に帰っても緊張が残り、次の日の通勤電車の中でも重たい気持ちになっている・・・・、そんな日がずっと続く。

解消されない思いや感情を毎日持ち続けるとエネルギーが下がり、苦しさも増していきます。

でも、私たちはどうしたら楽になるかなど知らないので、自我が一番良く知っていて手っ取り早い方法が、なんとか抑圧すること。

お酒やネット、食べることなどなどで気を紛らわして蓋をして抑圧する。または、苦しみが大きくなると非二元蓋や宗教蓋、人によってはドラッグなどが必要になるかもしれません。

もちろん、本当の意味ではまったく楽にならず、どんなに蓋をしても、それらの思いも感情もしっかりあります。

で、次にどうなるかというと、それを外に投影するんですね。

蓋をして自分の中にはないことにしたものは、ぜんぶ外に投影され、リアル感100%です。これを“思考が現実化する”と勘違いする人が非常に多いのですが、まったく違います。(ないことにしたので、自分ではまったく気づかなくなります)

そのへんを説明するのに、もう少しついて来てください。

例えば、自分が気づいていないけど、実はしっかりある思いは、「自分は思っていない→他の人が思っているのだ」になります。

つまり、周囲の人が自分のことを“お前は能力がない”と思っているように見えるんです。

なので誰かが、“ちょっとこのレポート分かりにくいです”と言えば、“能力がないと思われている!”と解釈したり、上司に“ダメだ、こんなやり方は!”などと言われた日には、この思いにヒットしすぎて、すごく痛い。

で、たいていは“上司は自分のことをダメだと思っている。自分なりに頑張っているのに。上司ならもっと丁寧に部下を指導するべきだ”などと、上司憎し・・・になったり、または、上司が怖い、苦手だ・・となったり。

これは、嫌な上司を引き寄せたのでも、バカにされる現実を自分が作ったのでもなく、単に自分がそう解釈しているだけです。そう見えて、感じてしまっているだけなんです。

ただ、本当にそんなふうにしか見えないので、自分がそう感じているだけだとは到底思えないものです。なのでクライアントさんでも、それは事実です!と食い下がる人多しです。(細かくはインテグレイテッド心理学でやっています)

それだけ真実味、現実味が高いという意味では、人は自分の思考の現実を生きていると言っても良いでしょう。

ですが、基本的に思考はいつも後だしジャンケンです。思考がなくても、現象は起き続け、思考も現われては消える現象の一つです。

ただ多くの人はあまりに思考に同化しているため、自分=思考=主体のような感覚になっていますよね。

思考は観察される側であるのに、常にものごとを判断したり、解釈したり、レッテルを貼っているので、自分は観察側だ、主体の側だ、現象をコントロールできるのだと勘違いしてしまっているんです。

話を非二元豚に戻します。あっ、パソコンが豚と変換してしまった。蓋です。

ここで本当に苦しい原因は、“自分は能力がない”と思い込んだ自分が抑圧されていることですね。ちなみに、これはまだ大雑把なので、OAD(オープン・アウェアネス・ダイアローグ)では、どんなふうに能力がないのか?なにが欠けていると思っているのか?などを探り、もっと深いセルフイメージまで見ていきます。

するとそこにはたくさんの感情、思い、記憶、イメージがあります。そして、それらが暗闇にすっかり抑圧されていたため、苦しみを生んでいたのですね。上司や職場はある意味関係ないんです。

セッションはたいていとても個人的なストーリーから始まります。夫が~~、仕事場で~~、お金が~~~、姑が~~、子供が~~~とあらゆる個人のストーリーがあります。

しかし、深いレベルまで見ていくと、途中から状況はほんとうにある苦しみ、自分が抑圧した苦しみを刺激しているだけなのだと分かってくるでしょう。

また、この抑圧された思いは、基本的に私たちが100%そうだと信じている思いです。なので、ものすごくリアルですし、“個の私がいる”感をバンバンに感じさせます。

ですから、実は苦しい人ほど、分離感、“個の私がいる”感が強く、非二元のメッセージなどはすごく遠く感じるはずなんです。

ちなみに、自分がいなくなった状態になるのではなく、“初めから個の自分はいなかったと知る”です。どんなに個の自分がいる感じがしても、それはこういったビリーフや感情の集積がそう感じさせているだけです。

ということで、まずは自分を自分の抑圧から解放してあげられると良いですね。

みんなの中に本質、愛へ戻りたいという欲求が必ずあり、それを癒しを通して実現することも目覚めの一つのかたちでしょう♪

 

PS: 思考が現実を創る~の誤解に関しては、その人がどう定義しているかにもよるでしょう。とりあえず、今回は非常に端折っていますのでいつかちゃんと書いてみま~す。

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