私がいるという強い思い込み

何も思い通りにならなくても幸せになる。そのためにまず、前回当たり前を疑うということ事実と解釈を分けるという、目覚めのための2つのコツのお話をしました。ですが、これを目覚めのハウツーだと思わないでくださいね。そうではなく、これは自分を含めた「存在」そのものの“自然観察”なんです。

般若心経のはじめに「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時」とありますね。般若波羅蜜は原語でPrajnaparamitaで、その意味は「the wisdom of directly realizing the non-conceptual simplicity of all phenomena(すべての現象を概念なしに直接に気づく知恵)だそうです。

これは私の先生でもあるルパート・スパイラさんが教えてくれた「ダイレクトパス」とまったく同じことで、ありのままの現象を一切の概念を通さずに深く見つめていくということです。

それによって、釈迦は私たちの本質は空であると見抜いたということなのです。

つまり、解釈(概念)も、当たり前だと思っていること(深い刷り込み)もすべて横に置いて、ただあるがままを観察するということです。徹底的な本当の意味の“自然観察”です。

さて、そうやって自分を見ていったとき、「自分」という存在を構成しているものは、前回の記事に書きましたように、思い、感情(感覚)、体のみですね。

その中でも一番私たちが分離を感じさせるものは、やはり「体」に違いありません。自我の一番の恐れは死であり、最も強い欲望は、自己の存続です。つまり、体を生き残らせること。

インテグレイテッド心理学では、自我の根本の恐れ(=人間の根本の苦しみの源)は、身体と精神の死であるとお話ししています。つまり、食べていけなくなること、また、存在価値がなくなること(役に立たない私、愛されない私・・・・)です。

でも、もし私たちの安全と永遠の生が確実に約束されていて、それを十分に感じていたらどうでしょうか?

言い換えれば、食べていけなくなる恐れも不安もない環境が整っていて、自分の好きなことだけに打ち込める。また失敗しても、性格が悪くても、どんなダメダメな自分でも周囲にいつも100%受け入れてもらえる環境であったら?

どれぐらい私たちの苦しみは減るでしょうか? または苦しみは生まれるでしょうか?

一時期、“分離のゲーム”という言葉が流行りましたが、これはある意味真を突いた言葉ですね。なぜなら基本的に分離した自分というのは幻想だからです。でも、母親のお腹の中で胎児としての存在が始まってから、私たちが体に同化してしまうことはほぼ必然であり、その結果自分という個体がいると思い込むことは免れないでしょう。

ちなみにリバーシングというセラピーがありますが、胎児の頃を思い出してもらうと、両親の気持ちや自分が両親から祝福されて生まれて来るのか?それとも迷惑、邪魔に思われているのか?などを繊細に感じ取っています。

つまり、“自分”という感覚がすでにしっかりあるわけです。そして、胎児が一番気にしているのも、やはり自分の存続です。祝福されていれば、自分は安泰で生き残っていける。

もちろん、分離を感じさせるのは体への同化だけではありません。“私の思いは私にしか分からない”、“私が一人で部屋で経験していることに気づいているのは私だけ”、だから「意識が分離している」、「分離した個の意識がある」という感覚に私たちは落ち込みます。(そうじゃないの?と思った方、おいおいお話して行きます)

こうやって「私という分離した個体」がいると強く感じた私たちは、自分を存続させるために、「より良い私」、「より良い人生」に勤しむわけです。

そして、この生き残りのための「より良い・・・」が、多くの苦しみを生み出します。今のままではいけない、成績が悪いとダメ、能力がないとダメ、それなりの知識がないとダメ、こんな欠点があってはダメ、自分には魅力がない、つまらない人間だ、何も提供するものがない・・・、と自己否定のリストは永遠に続きます。

または、誤った人生、間違った人生、失敗した人生、どこかでおかしくなった、自分は頑張ってきたのにこんな人生になっている、思い描いた人生とぜんぜん違ってしまった・・・、もちろん、自分を肯定している人も自分の人生に満足している人もいらっしゃるでしょう。ですが、肯定できて満足している理由がある限り、幸せはその理由に依存してしまいます。

望んだことが手に入ったから、思い描いた通りにことが運んだから幸せ。もちろんそれ自体は素晴らしいことですし、大いに喜びを満喫することは心身ともに良いことですね。ですが、このブログが提案する何も手に入らないけど幸せ♪もぜんぜんありなのです。理由がなく幸せ。望んだ通りにまったく行っていないけど心が平和。決して逃げていかない幸せ。

もしそこに興味があるなら、まずは「自分」がどんな存在なのかを深く知ってみることから始まるでしょう。

一つは、今までお話してきた自我としての自分の構造(体、思い、感情・感覚)。そして、もう一つは、自分特有の精神構造(自分の歴史、信念、価値観、セルフイメージなど)をよく見ていくこと。

さて、それらを深く見ていく前に種明かしをしてしまいましょう。今それが分からなくてもまったくかまいません。種明かしとは、「私という自己はいない」です。非二元の探求をしている人はよく知っていることですね。(ただ、知っているのと分かっているのはまったく別の話)

自我にとって一番のショックは、思いも感情も体もあるし、山も木も海もあって、あらゆるものがあるけど自分だけ存在していなかった・・・という真実です。(ほんとうは事象すべてないけど)

でも、実際には個としての自分がいる感は非常に強いわけです。繰り返しになりますが、そこをなぜか?と深くみていくのが、苦しみを解いていく鍵であり、また理由なき幸せへの入り口なんです。

なぜないものが、これほどまでにあると感じるのか? ヒントは、私たちは苦しいときほど、分離感が強く、分離した自分がいると感じるものです。

さて、もし現在もやもやと苦しい、または絶頂に苦しい、またはひく〜いレベルで苦しい感じがする・・・などあったら、それが体のどこに感じているのか?を見てみましょう。そして、そこに向けて深呼吸をし、自分にとって安心安全なイメージをしてみましょう。そして、また深呼吸♪

これは苦しみをしのぐ緊急手当で根本の処置ではありません。本当には楽にはなりませんが、苦しみからの休憩にはなるはず。

真のあなたはいつも愛・平和・力♪

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当たり前の中にある真実♪

さぁ、またブログを再開していきます♪

これからのブログは本を書くような気持ちで書いていこうかなぁと思っています。ので、連載を読むみたいな気分で読んで頂ければと思います。(*^^*)

ということで、

あなたが求めているものは何でしょう?夢を実現させること?平凡な幸せ?自分らしくあること?手に入っていないものを得ること?病気が治ること?家族が幸せでいること?

私がブログでお連れしたい場所は、これらがどれも手に入らなくても大丈夫な場所です。(笑)もちろん夢に向けて歩むことは素晴らしいし、それをあきらめる必要はぜんぜんありません。でも、もし夢が叶っていないから、または人生が自分の思うようになっていなくて悲しいと感じていたら、それでも大丈夫だよ〜と言いたいのです。

自分や人生がどんな状態でも、私たちには平和な場所、愛を感じられる世界があるからです。絶望の向こうにある真実という究極に平和な場所♪ このブログはそんな場所へのご招待です。

そのためには、非常に矛盾する道をご提案させてください。どんなふうに矛盾しているか?というと、この場所にたどり着くために2つの同時のことをやって行きたいのです。一つは、自分を深くきちんと見つめること、もう一つは自分は存在しないことをきちんと知ること、です。

そう、自分を徹底的に見つめるんだけど、同時に自分が存在しないことも見ていく。そんな矛盾した旅です。

私のブログの読者さんは、非二元に興味がある方、深く探求している方も多いでしょう。ので、自己の不在(私はいない)は馴染みがある概念かもしれません。(概念ではないですが)。もし馴染みがない方も個の自分という幻想を超えた真実に興味があれば、ぜひお付き合いください。

ということで、今後このブログは癒やしと非二元の話しが交互になって行く予定です。

さて、何一つうまくいかなくても、何も手に入らなくても、平和で満ちた世界を知るために、持っていたいコツをちょっと書いてみます。

◎当たり前を疑う

真実を探す・・・、悟る・・・、というとある特定の瞑想や修行をする、またはヒーリング、波動を上げるマントラを唱えるなどなどいろいろやることで今とは違う状態に到達する、という考えがあるかもしれません。

しかし、実際は探さなくても良いし、到達しなくても良く、単純にあまりに当たり前過ぎて見過ごしている中に真実は見いだされます。ですが、私たちは真実はここにはなくて、どこかにあるのだと探しに出かけてしまいますね。

もちろん、これらは悪いことではないというか、これらの試みも役に立つに違いありません。ただ、必ず抑えておきたいポイントは、真実は当たり前の中にあるということです。

ということで、最も当たり前な感覚、“私がいる”という感覚をまず疑ってみたいのです。

では、これを疑って見るためのコツがまたさらにあります。それは、

◎事実と解釈を分けること

私たちが生きる上での大いなる勘違いは、解釈を事実だと思ってしまっていることです。私たちの多くが思考に頼って生きているため、思考による解釈、分析、レッテル、知識によって加工されたものが事実だと思ってしまうんですね。

この事実と解釈の混乱はあまりに私たちの中に深く入りすぎ、その区別がつく人はほとんどいません。というか、ほぼ100%に近い人が自分の解釈の中を生きています。

でも、この事実と解釈を混乱するところに苦しみがあり、ほんとうに求めているものを無意識に避けたり、自分に制限をかけたり、不要な恐れに閉じこもったりしてしまいます。

とはいえ、解釈を事実だと思い込んでしまう理由があり、それはある意味避けられないことです。ただ、その理由を解体していくことはできるんです。解体したときに、あぁ、事実じゃなかったのだと自分の夢から目覚めるんですね。

また私たちは、事実にレッテルを貼って会話しやすくすることもします。例えば、「学校」を例にとってみると、学校はレッテルですね。事実は「建物があって、その中に子どもたちがいて、勉強をしている」です。それを会話しやすいように「学校」というレッテルを貼っている(名前をつけている)んです。

そろそろ、何を当たり前の話を・・・と思い始めてきたでしょうか? だとしたら、コツの1を思い出してみてください。あまりに当たり前の中に真実がある。ということで、これは非常に重要なところなんです。

振り返って、“私がいる”。「私」は事実として存在するのでしょうか?それとも“私”は、“学校”のようにレッテルでしょうか?

「私」の構成要素は、思い、感情、体ですね。自分をよく見てみてください。自分を構成している要素で他に何かあるでしょうか?または、どれか一つが欠けても自分が成り立つでしょうか?

自分をどれだけ見つめても、実際にあるのは、思い、感情、体(感覚)だけはなずです。それを「私」としているんです。う〜ん、やっぱり当たり前に聞こえる?いえいえ、私たちは普段、自分はそれらの所有者だと思っているはずです。私の思い、私の体・・というように。思い、感情、体のほかに「私」がいると思っているはずです。

そんな当たり前を疑ってみたいのです。

なぜなら、それが真実への入り口だから♪

そして、そこから見える風景は私たちの世界観の真逆の世界♪

あなたが思っているあなたは、夢の中のあなたです。そこから目覚めていくこと。そのためには、夢の中の自分をよ〜く見つめてみること。

あなたは絶対大丈夫♪

ブログで募集していませんでしたが、昨年オンライン・インテグレイテッド心理学を開催しました。また、現在インテグレイテッド心理学を受講した方向けに「気づきの問いかけ」講座も募集しています。

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私たちは自力でコロナ流行に気づけたか?

またも久しぶりのアップです。書きたいこと、伝えたいことは山ほどあるのですが、発信の方法をブログから動画か音声に変えていこうかなぁと考えています。

私は心理セラピストなので、自分では人とのやりとりが一番楽しい、そして自分が輝く(笑)と思っています。ただ、動画や音声の編集とかできないし・・・みたいな感じでストップしておりました。

ということで、皆さんにお聞きしたいのは、ブログ、動画、音声のなかで一番どれが皆さんはお好きでしょうか?よろしければコメント欄に叫んでみたください。

さて、コロナ禍がまったく収束しませんね。ロンドンはまたもロックダウンに入り、これで3回目。私は現在一時帰国していますが(無事陰性でした♪)、劇場やコンサート、ミュージアムの再開を心待ちにしている身としては、やはり気持ちが下がります。

ですが、どうでしょうか? もし、政府やメディアが一切コロナについて報じていなかったら? 私たちはコロナが流行っていることに気づいたでしょうか?

もし、私たちにインターネットやメディアというものがなく、自分や周囲の状況しか分からない状態だったら、同じ現実をどう捉えていたでしょうか? コロナに関するニュース、情報、知識をすべてを横において、ただ自分や周囲に起きていることだけに集中したとき、自力で気づけたでしょうか? それとも自分の日常が淡々と起きているだけでしょうか?

コロナなんてないようね、と言いたいのではありません。いつもながらの私たちは事実よりもストーリーを生きているという話をしたいのです。

ちなみに私が事実というとき、例えば、“私は人間です”も解釈であって、事実はそういった知識もない「ありのまま」を指しています。

では、新型コロナウイルスの事実というとデータのみになりますね。

陽性者数、感染者数、死者数、回復率、致死率、年齢別、基礎疾患の有無などなどといったデータです。そして、そこに危機だ、大変だ〜、このままでは〜〜といった解釈がつきます。

で、私たちは数字ではなく、解釈の方に反応しますよね。例えば、東京都の感染者700人、過去最多だ、広がっている、警戒しましょう〜!と聞けば、大変だ〜、気をつけないと〜という解釈のほうを信じて反応します。

しかし、同じ700人でも、人口1200万人のうちの700人です。不必要に恐れないで大丈夫ですよ〜という解釈もできます。これはこれで、大丈夫なんだ〜と信じて反応するでしょう。

下手すれば、数字も理由も聞いた瞬間に忘れて、危機だ!大丈夫だ♪という部分しか私たちは捉えていないかもしれません。

このブログの読者さんはよ〜く分かっていらっしゃると思いますが、自我とはこんなふうにほぼ100%事実よりも解釈(ストーリー)に反応し、解釈を事実だと思い込んでストーリーにどっぷりハマっていくものですね。

町を歩きながら、すべての人がマスクをしている光景を見ていると、全員がここまで同じストーリーを共有している姿もなかなか見られないなぁと妙にシュールな気持ちにもなります。みんな現実を生きていると信じて疑っていないでしょう。

ですがたとえ、そこが分かっていたとしてもなかなか事実に寄り添うのは難しいものです。どうしても、解釈との区別があいまいで、解釈を事実だと思ってしまう。

例えば、「感染が拡大している」は解釈だといえば、大方の人がまさか!と思うでしょう。ですが、これは解釈です。「拡大している」は解釈で、事実は数字があるのみです。増え方として許容範囲だとしたら、拡大という言葉は使わないかもしれません。

“私は人間だ”も解釈であるということを思い出していただければ、事実(ありのまま)のみにしっかり寄り添うことの難しさが分かりますよね。

ちなみに「私がいる」・・・・終わり、という世界はとても平和な感じがしませんか?自分についてのすべてのストーリーから解放される。レッテルや思い込み、過去の記憶や将来への思いなどなどあらゆるすべてを脱ぎ去ったありのままの自分。

こちらが実体で、他の全ては幻影なんです。でも、私たちは幻影こそ現実であると信じ、必死に生きてしまいますね。

さて、話をコロナに戻して、私のフェイスブック上には欧米の友人も多いのですが、マスク派、アンチマスク派などなどの反応は人間どこでも同じだなぁと思います。ですが、日本の独特のコロナストーリーだなと思うのは、コロナの陽性と分かったら世間に迷惑をかけるから謝らないといけないというヤツです。同じ「陽性だった」という事実に対してここはイギリスと日本のストーリーは随分違いますね。

ですが日本でも、検査で陽性だったという事実に、“お大事に”といういたわりの声をかけるというストーリー(=私たちが思う現実)も私たちは描けます。ただ往々にして、恐れベースのストーリーはいつも生きづらいほう、怒りや攻撃が進むストーリーになってしまうものです。

また、世界が一つの共有した幻影の中にいるとき、自分だけ違う解釈、または自分だけストーリーに入らないでいるというのは、家の一歩外を出ると難しいでしょう。

それでも私たちは集団の催眠から抜け出して、自分で解釈を選ぶことができます。そしてどんなときでも愛ベースでいらふれることを忘れないでいられると良いですよね。

とくにこんなときこそ、愛、力、生命といった私たちの本質を覚えておきたいと思うのです。

本質とつながりを失わないこと、これが私たちがほんとうは心の底で求めていることで、死なないために緊張して生きていくことではないでしょう。

ということで、今日も自分に優しく、思いっきり深呼吸をして、思いっきり笑って、お過ごしください♪

★集団の催眠とはコロナだけではなく、例えば「社会人たるもの・・・」「良い母とは・・・」など、社会が共有するビリーフも含めてです。

リセット~苦しみを伴う恩寵~

おぉ、こんなに長く書いていなかった!何度も書いていますが、今年はコロナ騒動が始まる前に13年続けた養成講座も閉じ、お休み年にする予定でした。ので、ブログも今年はすご〜くのんびり。ただ、フェイスブックはそれなりに投稿しております。

さて、2020年を勝手にリセットの年にしていましたが、蓋を開ければ、私個人だけではなく世界がリセットの年になっているようです。

いろいろなリセットがありますが、本物?のリセットには、それなりの恐れ、または今まで見てこなかった膿やネガティブな出来事が伴うことが多いかもしれません。

現在のコロナ渦も“とにかくお上の言うことを聞いていれば良いんでしょ”という思考停止状態に陥らず、私にとって一番大切なものは何か?、“私はどう生きたいのか?”と真剣に振り返ることができれば、今までの生き方をリセットできるとても良い時期かなと思うのです。

というのも、みんなが今まで通りに生きていない、または生きられない状態のときは、全体のエネルギー自体が不安定であり、ポジティブに言い換えれば、流動性が激しいからです。

ですが、リセット(変化)の過程では、今まで怖くて見てこなかったもの、避けていたことに直面せざるを得ないこともあるかもしれません。

または、自分の人生の土台を一旦ゼロにするとか、逆にコロナ渦によって自分の土台が崩される、言い換えれば人生に“リセットだよ!”とつきつけられることもあるでしょう。自分を今まで支えてきたもの(仕事や人間関係やいろいろ)の崩壊。

人生のリセットと目覚めとは実はよく似ていると思うのは、自我の目覚めも、自我が今まで信じていたことの根本的な崩壊だからです。目覚めるという言葉だけ受け取ると、とても気持ちが良くて、至高体験みたいなことを思い浮かべる人もいるかもしれません。

しかし、実際は非二元のティーチャーのアジャシャンティがよく使う言葉“fierce grace”(凄まじい恩寵、過激な恩寵)を伴うほうが圧倒的に多いでしょう。つまり、相当な心の痛みが伴うということです。

というのも、私たちはそれが好きか嫌いかにかかわらず、同じことの繰り返しということのなかに安心を感じているからです。自分が信じていること、大切にしていることがずっとそこにある、または自分があまり好きじゃないこと、好きじゃない人だけどずっと付き合っていて慣れているという安心感。

なので、それらが奪われ、安全だったものがなくなるというのは、実は私たちにとって非常に恐ろしく、またはトラウマが刺激されたり、ネガティブなストーリーでいっぱいになったり、かなり苦しくなります。

でもこの凄まじい恩寵は、私たちを裸にし、すがるものを取り上げてしまう分、人生に“降参”せざるを得なくなりますよね。(目覚めに向かう、または抗い続けて苦しむ)

さて私の場合、仕事だけではなく、パートナーシップのリセットも始まり、お休み年のはずだったのに人生がドラマチックに動いております(笑)。簡単に書くと、長年ともに暮らしたソウルメイト2と別れることになり、一冊目の本に書いたソウルメイト1が人生に舞い戻ってきたという展開です。

このへんのところは、過激な恩寵という観点からまた本でも書いてみたい。

と言いつつ、私のストリーをちょっと書くと、幼少の頃けっこうなニグレクトを経験してしるため、潜在意識の深いところで「自分は放置されている、誰も助けてくれない、自分は危険だ、攻撃から自分を守ることができない」という深い思い込みがありました。(まだ少しある)

これは、単に思い込みというより、私のコアであり、私の世界観であり、生きるベースでもあったのです。なので、20代の頃はほんとうに生きづらく、でも理由がまったく分からないと思っていました。

ので、ソウルメイトをそんな不幸感や危険から救ってくれる存在とみなし、他の人はどうせ私に興味ないし、本気で私を心配してくれるはずがないと決めつけていたのです。

もちろん、これらの思いは無意識に持っていたもので、意識上に現れてくるのは、“彼は私に興味があるだろう?”、“何を言えば、自分にもっと興味を引いてくれるのだろう?”、“こんなことを言ったら嫌がられないか?”みたいな思いがわんさか。

で、そういった現実を生きて行く。しかし、実際の体験から生まれた思い込みは、私達にとって非常にリアルなため、どうしてもそれが現実だと感じてしまうんですね。

しかし、これはまったくのストーリーであって、そんな現実(誰も私を守ってくれないとか)はどこにも存在していません。にもかかわらず、私たちは潜在意識の中にある思い込み(ストーリー)を無意識に、しかし全力で生きているんですね。

ですが、それらの無意識の思いやストーリーをきちんと出してあげて、見つめ、対話し、癒していくことで、無意識に握りしめていたストーリーは崩壊していきます。

ある意味、真のリセットとは自分のコアになっている信念、アイデンティティの崩壊や手放しかもしれません。自分がなにものか分からなくなるし、生きる意味や生き方も分からなくなるでしょう。魂の闇夜ともいえるでしょう。

でも、そんなとき道しるべにできるのは、やはり私たちの本質の光。どんなに混乱していようと、将来が不安であろうと、または過去からの恐れ、過去への後悔などなどがあろうと、それはすべてストーリーであって、私たちはそこにい続ける必要はまったくない。

私たちの本質はストーリーのない常に静寂な愛。ここに寄り添いながら、自分らしく生きる。そのあとは生命に丸投げ、おまかせしちゃいましょう♪

※一冊目の本のタイトル「「運命の人」と出会うスピリチュアル・レッスン 英国流ソウルメイトの探し方 (大和出版)」

かなり不思議な体験だったと自分では思っています。そして言い訳ですが、タイトルは自分でつけていません(笑)。またこれはスピ系の本で、非二元を知らなかった時期に書いています。

愛されていないという悪夢から目覚める

今日のイギリスはとってもさわやかなお天気です。というか、すっかり秋の気配を感じています。

さて、私たちの多くはおそらく、自分が相手から好かれているか、受け入れられているか、愛されているかということが気になるものでしょう。

分離した個として生きている限り、受け入れられること、愛されることは生き残っていくためにもとても大切なことです。受け入れられている、愛されている、自分の居場所がある、自分は求められている・・・、これによって分離している世界の中で私たちは温かみ、安心、つながりを感じることができますよね。

でも、もし好きな相手が冷たかったら、別れることになったら、周囲の人がとげとげしかったら・・・。自分の居場所がない感じ、自分の存在が忘れられた感じ、孤独、世間は怖くて危険な場所にとたんになってしまいます。

つまり、自分の安全、幸せは相手や周囲次第ということですね。

そこで無意識のうちに私たちは相手をつなぎとめておくため、周囲に受け入れられるために自分を磨いたり、役立つ存在になろうとしたり、相手が喜ぶことをしたり、いろいろと頑張ります。

私はありのままの自分はつまらなすぎて、人が相手にしないと深く信じ込んでいた(こう信じ込んでいたことも気づきませんでしたが)ため、友人関係を続けるためには、相手のニーズに答え続けることだと無意識に信じていました。

ので、友達に頼まれたことはすべてやり、ノーと言うことをまったく知らなかったのです。もちろん嫌だなぁと思うときや疲れるときも山ほどありましたが、人間関係ってそんなものと思っていたのです。

小さいころにニグレクトを経験していたため、とにかく一人ぼっちになることを避けていたんですね。しかし、問題は一人ぼっちを避けていたその下に、愛されたい、必要とされたい、いつも私を見ていて欲しいという大きな飢え(=ニーズ)があったことです。

問題と書きましたが、もちろんニーズあることが悪いわけではありません。ほぼすべての人にあり、ニーズができた状態をよく見れば、そこに誰も悪い人はいなんです。

ただ私の場合、その後その飢えが刺激されるたびに、死にたくなるほどの苦しみを何回も体験し、また普段もどこかで薄っすらと生きづらさを抱えていたなぁと思うのです。

さて、このニーズが大きいほど、私たちは愛、受容、安心安全を強く求めます。当然ですよね。そして、愛されていると感じれば、恍惚の嬉しさを感じ、病みつきになります。(ストーカー問題はここにあり)また、他者や世界をその目を通して解釈していきます。

相手が自分に何を言ったか、どんな振る舞いをしたか、相手や周囲の動向に敏感になります。そして、いちいち解釈するんです。

その解釈も自分のメガネを通しているので、彼が~~って言ったということは、私のことを考えていなからだ・・・、仕事を割り振られなかったのは、私の仕事ぶりが信頼されていなんだ・・・などとたいていネガティブになります。

自分の解釈ですが、私たちのほとんどは、それが自分の解釈というより、“実際に起きていることだ、事実だ”と思ってしまうものです。

私は最近、「誰も人生なんて生きてなくて、みんな自分の思考を生きているだけ」と少々乱暴なことを言っています。実際、ほとんどの人が自分が解釈したことを事実としてその世界に生きているだけなんです。言い換えれば、事実ではなく、自分の思考(解釈や意味づけ)を無条件に信じて生きている。では、人生を生きるってどういうこと?事実を生きるということ?

それはおそらく一瞬、一瞬が真新しい瞬間であって、一瞬、一瞬に生命の匂い、エネルギーを感じて生きるということでしょう。自分の心の傷や過去の出来事によって生み出された古くて繰り返されている思考ではなく、生命が送ってくれる愛から来る思考で人生を創造していくこと。

じゃぁ、その区別はどう分かるの? 生命が送ってくれる愛ベースの思考は、ニーズや期待がなく、ありのままを愛している思考です。

私自身のニーズはいくつかのトラウマともつながり、幼い私は怯えきっていて、一人ぼっち、そして世界とのつながり(愛)と完全に分離していました。セッションを受けたり、自己ワークしながら地道に癒しを繰り返し、最終的には非二元の理解の中で幼いトラウマの私は癒されていきました。(やっぱり癒しと非二元の両方って良い♪)

ニーズが癒されると見えてくるのは、愛とは愛されることで手に入るものではなく、人を無条件に愛することで知るものだということです。そこでほんものの安心安全と平和、無くならない愛を得るんですね。

だから、ほんとうに大切な問いは、私は愛されているか?ではなく、私は人を無条件に愛せるか?だなぁとつくづく思うのです。愛される私になるのではなく、愛することができる私になっていく。

さてそれじゃぁ~と、いきなり無条件に人を愛そうと頑張る前に、まずは、自分が条件をつけてしまうところを見ていくと良いですよね。なぜならそこに自分のニーズ、心の飢えが隠れているからです。

ということで、まずは自分のニーズと出会い、受け入れ、理解していくことが第一歩でしょうね♪

すべての人が十分に愛に支えられている、自分は一人ぼっち、愛されていないという悪夢があるだけ。

追伸:今回のテーマもインテグレイテッド心理学オンライン講座で詳しくご説明します。ご興味がありましたら、ぜひPC越しに交流いたしましょう。

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社会が変わるときこそ、過去や未来から自分を解放しよう♪

今年は仕事の分量を5分の1ぐらいにし、まったく新しい人生設計でいこうと思っていた矢先にコロナ騒ぎが始まりました。ある意味、タイミング的には良かったかもしれません。が、世界の変動と自分の人生の転換期が重なると、思考がいつもよりフル回転し始めます。

ということで、思考の観察。というか、ただ眺める。実はこれは私の長年の習慣で非二元や悟りなどほとんど知らなかった頃、ロンドンの本屋さんでまったく知らない人にエックハルト・トーレのThe Power of Nowを薦められたのがきっかけで始まりました。

それまでただ考えているという状態が当たり前だったため、考えていることをいちいち眺めるのは相当な努力が必要でした。しかもかなり地味な作業で、退屈でもあり、思考が大好きな刺激(分かったぞ!そうか!などのワオ!体験)もなく、やる気を維持するのはけっこう大変でした。

しかし、あれから十数年。眺める癖がついたおかげでかなり自分との距離ができ、そのため逆に自分との付き合いもだいぶ良くなりました。そしてつくづく思うのは、私たちは誰も人生を生きておらず、みな自分の思考を生きているだけだなぁと。(思考が現実を作るという話ではありません)

ほとんどの私たちの人生とは、生まれてくる思考に乗っ取られた人生であり、自分の思考ワールドに囚われた人生なんですね。なので、英語では悟りのことをliberation(解放、自由)といったりもするのでしょう。自分の思考から解放され、真の自由を見出す・・・。

また、思考から解放されると、もれなく時間からも解放され、時間がいかに存在しないかもはっきりと見えてくるでしょう。

過去の思い出とか未来への夢、または不安といった思考自体は、“今”現れてくるかもしれません。でもそれらは記憶という形や将来へのイメージとして存在しているだけで、そこに実態はありませんね。

ただ、その過去の思い出に感情がたくさん紐づいていれば、体も反応し、非常に実態感が強くなります。その最たるものがトラウマで、トラウマは私たちを過去に引き戻し、そしてそっちが現実だと強く主張します。

また、私たちが無意識に抱えているたくさんのビリーフ自体が過去の経験による産物です。幼い時に突然母親が自分を置いて去ってしまった経験があれば、“私の存在は無用だ”とか、その人それぞれですが、何らかのビリーフが強烈に出来上がります。

で、私たちはそのビリーフをベースに人生を生き続けるんですね。つまり、過去を生きているということです。

また、未来に関しても先が見えなければ見えないほど、思考は安心安全をどこかに求めます。

“こうしておいたほうが良いかな”、“あれをやっておけば大丈夫かも”、“こうなったら良いな”、“うまく行かなかったらやばいぞ”・・・。

未来への思考はとくに“自分の望む人生を創るミッション”にいそしみやすいので、それはまた“自分の人生をコントロールする”という方向にあっという間に行きやすいです。

しかし、人生なかなか自分の思うようにコントロールできず、そこで悩んだり、苦しんだり。こんなふうに私たちの多くは過去をベースに現在を解釈し、未来へのコントロールを握りしめて生きているものです。

でももし、それらから一切解放されたら? 自分の思考ワールド(=投影)から自分を自由にできたら?

私たちはそこで初めて“生命”、“現実”と出会うのです。自分の思考を生きるのではなく、生命を生きる。これ何も思考を持たないとか、過去や未来を考えないという意味ではまったくありません。思考の幻想性を真に知れば良いんですね。思考は正しくも間違ってもいなく、何も真実を指していないとはっきり見抜けていれば良いんです。

でも未来への考えを信じないといっても、目的や目標って必要じゃない?と思われるかもしれません。例えば、コロナ禍のためにお店の経営が傾いてしまったとして、売り上げを目指すという場合。

もちろん、一見経営を良くするという結果を目指すのですが、でも、私たちがやることは瞬間、瞬間を生きることなんです。経営状態改善という方向性に向けて瞬間、瞬間現れているものに過去や未来を投影せずに、シンプルに対応していく。

湧いてくるアイデア、現れてくるTo Do Lists、過去に戻ったり、先走ったりせず、目の前に現れてくることをシンプルに丁寧に生きて行く。

そのうち、このアイデアどこから湧いてきたの? To Do Listsをこなそうという行動はどこから来たのかな?自分の中?それとも?と深く深く見ていくうちに、そこにはコントロール主(自分)というものはいなくて、生命のエネルギーが生み出していることが見えてくるでしょう。

そしてたぶん、私たちにとって一番平和や幸せに近い場所はここであって、そして変革の中を一番スムースに移行できるのだと思うのです。だから生命の声が聞こえる自分でいたいなぁと思うのです。

とはいえ、何度も思考にはまりながらデコボコに進んでいくのが私たちですね。自分に優しく行きましょう♪

 

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私たちが幸せを犠牲にして求めているもの

先日ある人とのやりとりをしていて、私たちが真に求めていることってなんだろう?

と改めて思ったことを書いてみようと思います。

ブログの読者さんにとっては耳タコですが、基本的に自我は私と社会、私と世界、私とそのほかの人たちという分離感がベースで生きています。そしてその分離感覚から恐れと無力感も生まれてきます。

というのも、自分と社会を比較して、圧倒的に自分のほうが小さい存在だと感じるからです。で、この恐れと無力感は大人になるとたいてい「正論」という形で現れるため、普段私たちが自分の中の恐れや無力感を認識することはあまりありません。

また、自我にとって人生で一番大切なことは「生き残り」です。これは幸せよりも優先されるんですね。多くの人は幸せを求めているつもりでも、自らかなり幸せを犠牲にしているものです。

嫌なことでも食べていけないよりはまし、窮屈だけど感染するよりはまし、我慢は嫌だけど批判されるよりまし・・・・。

こんな仕事やっていられない!と思っても、生き残りへの恐れと、「正論」(不景気の世の中で正社員であるだけでもありがたいことだ)によってその思いは抑圧されがちです。

正論なので良いことをしている、正しいことをしているつもりですが、自分の中では自分を生きていない窮屈感が増し、イライラや怒りがたまっていきます。

また、無力感は、自分は外界の敵に対して無力なため、いじめであろうが、ウイルスであろうが、不景気であろうが、自然災害であろうが、何にしても自分ではどうにもできないと深いレベルで感じています。

なので、自分が生き残るためには、周囲が自分のために生き残れるように振舞ってくれていないといけないんですね。つまり、無力な自分なんだけど周囲をコントロールしないといけない。

そのコントロールするためのツールが「正論」なんですね。正論で他者を批判し、その通りに従うよう強制していく。ちなみに、なぜ恐れが正論を生み出すかというと、恐れはハートをスルーしてしまうので、思考中心になってしまうからです。愛は正論を必要としませんが、思考は正論づくりが非常に得意です。

さて、このように自我のベースが分離感覚である限り、自我で構成されている社会はやはり恐れに同調しやすいでしょう。なので、しないようにする、やらないようにする、なるべくリスクは避ける、強制に従うという流れに行きやすい。または前述したように、防衛のために嫌だけど~~するという守り優先になりやすい。

このように、恐れや無力感は基本的に抑圧する、閉じる、型にはめる、疑心暗鬼になる、見張る、批判するというエネルギーのほうへと向かいます。

一方私たちの本質は、成長する、伸びていく、創造する、自由事変であるなどという生命のエネルギーです。なので、正しいこと、自分を守ることをしているつもりが、いつの間にか窮屈でどこかに緊張感が常にあって、生きづらく感じるようになってしまいます。

個人のレベルでもまったく同じです。正論で自分を抑圧すればするほど、息苦しくなり、イライラが増し、何よりも安全を優先したつもりが、自分らしさがなくなることで心は不安定になってしまう。不安定になるからますます恐れが増し、自分や他者を縛っていくという悪循環に陥りがちです。

では、ここからどうやって生命としての私たち、のびのびとした自分、自由だけど安心安全な人生(または社会)に転換していけばよいのでしょうか?

それはもちろん、「無力な私」という幻想から抜け出すことです。または、自分が握りしめている「正論」をよく見つめてみることですね。正論はもとを深く辿っていけば、必ず恐れと無力感につながります。

私たちが生命の創造物である限り、私たちのすべてに本質が持つ「力」があり、自分の人生を創造したり、世の中を変えたり、いじめや差別をなくしていく力があります。

また、本質の性質は愛、共感、受容でもありますね。なので、本質の自分をベースにすれば、自然に人は助け合い、困っている人に気持ちを寄せ、智慧を出し合い、危機を乗り越えていくことができるはずです。

ということで最初に戻り、私たちがほんとうに求めているものってなんだろう?と振り返ったとき、恐らく本質の自分として生きて行くことじゃないのかなぁと思うのです。

閉ざしていくほうではなく、外に向かって表現し、のびのびと自分らしさを発揮していくこと。生き残りと幸せの二者択一ではなく、生命に支えられた両方が自然に融合する生き方。

その第一歩はまず、それが可能であることを知ることから始まるのかもしれません。そして、

自分が手放せない正論や自分がどうしても怖いからやらないと感じている部分を見つめてみてみる。もしかするとそこには癒されるのを待っているトラウマがあるかもしれません。

癒しの真の目的は、私たちが抱えている幻想を解体し、本質の自分を思い出していくことでしょう。

そんな人生を送っている人が増える社会に住みたいな♪

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コロナと自分中心の生き方♪

わぁ、こんなに間が空いてしまいました!というのも、今年はもともと仕事を半休みする予定で、13年間続けていたセラピスト養成講座も終了しておりました。そこにコロナ騒ぎで世界が止まったかのようになり、余計のんびりしてしまいました。

さて、自粛もほぼ全面解除になってきましたね。私はイギリス在住なので、まだまだロックダウン中(規則は緩和されてきました)で窮屈感はかなりあります。

さてこのコロナウイルス、イギリスの標語もしばらくは“ステイホーム”でしたが、最近はステイアラート(注意しよう)に変わってきました。

私は過去にインフルエンザに二回ほど罹り、二回とも死ぬかと思うほどひどい症状になったことがあります。40度越えの熱と体の内側からハンマーで殴られているような体の痛み、とにかくものすごく辛かったので、もう二度と罹るものかと心に誓いました。

ですが、インフルということで誰も別に同情もしてくれず、タミフルも飲みたくなかったので、1週間寝て治しました。

この話がどうつながっていくのかというと、日本でもイギリスでも政府やメディアは私たちには免疫機能があるということを完全にスルーしているように思えるのです。

例えば、イギリスは死者数が日本と比べてけた違いに多いのですが、イギリス政府の専門アドバイザーで一番表に出ているクリス・ウイットニーは、5月8日(感染のピークの頃)の大学の講義で、 “このウイルスは大多数にとって無害(harmless)であり、少数の人が病院へ行く症状が出て、その少数の中で残念ながら死に至る人がいます。しかし、強調したいのは、ハイリスクの人たちの中でも大多数は回復するということです。”

と述べています。

つまり今回のウイルスの場合、大多数が回復するということは、人間の免疫機能がきちんと働いているということです。また、言い換えれば重篤化した人はほぼみな基礎疾患があり、免疫機能が落ちていたことになります。(こう書くとまれな例を出してくる方がいますが、ごく少数の例を一般かして考えるのはあまり妥当だとは思いません。)

この“事実”をベースにすると、本来はステイホームやステイアラートよりも、“ステイヘルシー”(健康でいよう)を標語にしたほうが状況にマッチしていると私は思うのです。みんなでいつもより自分の体をケアする健康促進キャンペーンを全国でやってみるみたいな。

こちらほうが、恐れよりも前向きな感じがしませんか? しかし、単に前向きになれるということ以上に実はここに根本的に重要なことがあると私は思うのです。

私たちに免疫機能があることを完全にスルーして、マスクや消毒、家にいることを奨励すると、だんだん私たちはそういったものだけがウイルスから自分の身を守る方法だと思い込んでいってしまうということです。つまり、何か自分以外のものがないと自分を守れないという感覚です。

ウイルスという外敵から身を守るには、マスク、消毒液、みんなが家にいること、ワクチン、また感染したら治療薬が必要、とにかく自分の免疫系なんてあてにならない、という感覚です。ワクチンができるまで怯えていないといけないみたいな。

一方、自分の健康を高めるということは、外のものに頼らず“自分でやる、自分でできる”という「自分主権」の心が基本になります。

“自分には力がある”と感じていて、外の何かに頼ろうという前に自分の足で立てるよと思えている気持ち。つまり、自分のことは自分で守れるという内なる力を感じ、外のものへの依存ではなく、自分が自分の中心(自分主権)にいるかどうかということです。

その上で、きちんと手を洗ったり、咳が出るならマスクしたりと自分をサポートツールと、他者をいたわる行動(これって、普通にみんなやっていると思います)をすれば良いですよね。

しかし、自分に主権がない場合(私は無力だ)、自分一人では対処できない、権威者や専門家に頼りたい、または周囲の状況(みんなに家にいてもらって少しでも自分の感染率を減らしたい)に依存したい・・・という感覚が出てくるでしょう。

依存というのは、基本的に思考停止状態です。自分に自信がないから、誰かの考えについていく。恐れ+思考停止のコンビネーションは皆さんもお分かりのように、深い深い眠りへの誘いです。ですが、私たちは小さいころから大人の言うことを聞くように、先生の言うことを聞くようにと考えない教育をされてきています。

ので、自分が実は思考停止状態に陥っていることにとても気づきにくいんですね。それよりも言われたことをちゃんとやっている自分・・・と思っていたりします。

しかし、思考停止状態というのは自分がない状態ですから、いつもどこか不安定さを感じ、不幸じゃないけど喜びも薄いとか、状況の変化にストレスをひどく感じるとか、または怒りや不安といったネガティブな感情のほうが普段多く感じるなど、生きづらい方向にどんどん行ってしまいますね。

ということで、私たちが自分の本質に真に目覚めたいのであれば、本質としての力が自分の中にあることを再確認することが大切でしょう。私たちの体には内なる叡智があり、私たちの存在そのものにも本質の智慧がビルトインされています。

智慧と愛はある意味同義語ですよね。恐れベースの深く眠った生き方から、自分主権の自分で考え、自分で選択していく生き方は、一つの大きな目覚めと言えるでしょう。

そしてそこから私たちの本質そのものへの目覚めはとても近いですよね。

ということで、思考停止になっていないか振り返ってみよう、疑問を持とう、自分で考えよう♪

 

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コロナウイルスと心理学

告白すると、4月に入ってから私はとりつかれたように新型コロナウイルスについて調べています。というのも、8割が軽症か無症状のウイルスに対してパニック度がマッチしないなぁと感じ始めたからです。

ちなみに軽症、または無症状とはその人の免疫系が健康に働いているということですね。つまり、健康であれば人間の免疫で十分に対抗できているということです。

しかし、イギリスのジョンソン首相が世紀に一度のチャレンジだと言っていたり、マスコミの騒ぎ方が、感染したら最後、バタッと死ぬぐらいの煽りようなので、えっ、そうなの?と頭に疑問符が飛びすぎ、もともとイギリスの食事療法のカレッジでウイルスについても学んでいたこともあり、好奇心が暴走しております。

ということでもう一度、ウイルスとはなんぞや?という基礎から学びなおし(科学的知識)、マスコミのセンセーショナルな見出しではなく、ほんとうのところどうなの?ということで、各国のデータを見始め、そして国内外の様々な感染専門家のサイトや動画を参考にしたりしていました。(事実確認)

そうやってリサーチしていくうちに、最初の感染発生から数か月も経つと、各国の様々なデータや研究の結果が揃い始め、いくつかのレポートが新型コロナウイルスの致死率は0.1%以下であると発表し始めてきました。

そこで、ウイルス怖いと思っている人たちに少しでも安心してもらいたいなと、最も信頼できるサイトをフェイスブックでシェアをすると、ほっとして喜んでくれる人が多い中、いや絶対もっと危険なウイルスだ!、こんな投稿をするなんて無責任だ!という人も必ずいるんですね。

しかし、ランダムサンプルの調査の結果、致死率は~~であるというような無機質な事実は、あるいみ「あるがまま」なわけです。(データが改ざんされていない限り)

しかしそれでも納得できない、いや違う、自分の考えのほうが正しい、その事実は間違っていると自分なりの証拠や理論を持ち出してきて、論破しようと試みてくる人が後を絶たない。(おそらく、危険度が低いとみんなが知る→みんなが緩む→自分が感染する確率が上がる→自分は死ぬかもというストーリーが走っているのかなと思いますが)

が、実はこれはセッションではいつも起きている出来事なんです。ということで一見話は飛びますが、

例えば、“自分の話なんかつまらない、人は私といても楽しくない”といった悩みの場合、その人にとってはそれは紛れもない事実なので、話が面白い自分になりたいと思っていらっしゃったりするわけです。しかし、そこでその思い自体が思い込みであるという方向に持って行こうとすると(思い込みだよとは決して言いませんが)、過去の経験という証拠や~~さんがこういったとか証拠をたんまり持ち出してきます。

しかし、どうしてほかの人がつまらないって思っているのか分かりますか?と事実を確かめると、“つまらなそうな顔をした”とか、“私が話すと横を向く”とか、事実というより主観的な見方がほとんどです。

それでもなんとか思い込みを紐解いていくと、“私は頭が悪い”→“人よりものを知らない”→“私の話はつまらない”みたいな心の流れがあるわけです。

では、“私には頭が悪い”がほんとうか?というと、これも当然刷り込みなんですね。もちろんご本人は学校の成績が悪かったとか、これまたいろいろ証拠があるのですが、これは“教育刷り込み”で、どこからが頭が悪くて、どこから頭が良くて・・・とじっくり考えれば、頭の良い悪いの定義は、すべて主観にすぎないことが見えてくるはずなんです。

自分は頭が悪いんじゃなかったんだ!というのは、グッドニュースのはずですが、深く刷り込まれた思い込みほど、いや違う!と反発がおき、このセラピストさんは私を理解してくれない~!になりがちです。

なので、刷り込みが強いと感じた場合は、薄皮をめくるようにその人が長年抱いてきた自分像、世界観が崩壊しないようにセッションを勧めていきます。

さて、話を戻して、例えば思っていた以上にウイルスの致死率は低かったという事実は、同じようにグッドニュースなはずであるのに、そこに反発するというのは、同じ心のしくみだなぁと思うのです。

バイロン・ケイティは「事実と言い争えば、必ず負ける」と言っていますが、基本、事実に背を向けると私たちは苦しみます。乱暴に一言で言ってしまえば、心の悩みはすべて思い込みから発しているからです。

でも、誰しもネガティブな思い込みをわざわざ持とうとしたわけではなく、それが事実だと感じるような刷り込みが人生のどこかでされているんですね。

セラピーの世界で使われている言葉として、「感情学習emotional learning」というのがありますが、これは生まれてから6,7歳ぐらいまで私たちは感情をベースにものごとを学んでいくという意味です。

この年までの人間の脳はサバイバルに必要な脳幹と危険を察知するために必要な大脳辺縁系のほうが発達し、理性などを司る大脳皮質はまだそれほど発達していません。

例えば、おもちゃに夢中になって遊んでいたら、不機嫌なお父さんに“いつまで遊んでいるんだ!とっとと片付けろ、うるさい!”と大声で怒鳴られたとします。すると、子どもは怖いという感情とともに“ありのままの自分はダメなんだ、どこか自分は悪いんだ”と学習してしまったりなどです。(人によってそこで持つ思いは様々です)

そしてそれがもし日常化していた場合、その恐れと思いは大脳辺縁系にしっかり回路が出来上がり、本人にとってはありのままの自分はダメというのは、紛れもない事実となっていきます。そして、これはもちろんすべて「無意識下」で起きることです。

もちろんそんな思いを持ち続けることは苦しいので、セッションに来るのですが、でも手放すのも自分の中で反発が起きる(抵抗)・・・・。私自身の中にもいくつものこういった抵抗がありましたし、誰の中にも必ずあるものです。

さて、今回のウイルス騒ぎで思ったことは、マスコミが恐れを煽るたびに、私たちが感情学習をしてしまっているなということです。毎日毎日繰り返される、どんなに危険か、こんな人も死んだ、医療が崩壊するという報道に、怖いという感情とともにそれらの言葉が自分の中に浸透していく。

そして、いつの間にかそれが自分の世界観となり、その世界観に合わないものを逆に脅威とみなしてしまう。なので、グッドニュースであるはずの事実も脅威に感じてしまうんですね。

恐れが大きくなると、それが怒りに代わって他者を攻撃し始める、または自分を守るという閉ざした方向に行き、鬱っぽくなるか。またはその両方。そして、恐れは人を閉じる方向に持って行くため、思考の幅もどんどん狭くなります。

しかし、人間が成長し、前向きに生きるために必要なエネルギーは、恐れではなく、愛ですよね。愛は事実、真実を好み、そして全体を包括し、共感、つながりへと私たちを導いてくれます。

もしあなたが普段からスピリチュアルや非二元の教えに傾倒しているのなら、今こそ愛を選ぶときでしょう。そして、自分は恐れよりも愛ベースで生活している感じたら、その安定した自分のエネルギーで周囲に広げてみませんか?

ほんとの強さは恐れではなく、愛から生まれる♪

 

※感情学習しちゃっていると感じたら、テレビを切る、丁寧な深呼吸(深呼吸をバカにしてはいけません)をする、心が安らぐ音楽を聴いて口ずさむ、自然の中で心を休める、または自分が楽しいと感じることをやるなどお勧めです。

※EFTなどで大脳辺縁系に幼少の頃から出来上がった回路は解除することができます。

 

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コロナウイルス、本質が教えてくれること♪

私が3月10日にイギリスを発った時、イギリスの日常生活はまったくいつもと変わらず、空港では、“東京に行くんだ、ウイルスに気を付けてね”と空港スタッフに言われたぐらいでした。

ところが、その2,3日後から事態が変わり始め、2週間経った今、とうとうイギリス全土がロックダウンとなってしまいました。ジョンソン首相は昨晩、“私は皆さんにとてもシンプルな指導を伝えます。あなた方は家にいないといけません。”と語り始めました。

必需品の買い物と一日一時間の外でのエクササイズ(これも一人でやる)、買い物も他者との距離を2メートル置く。もし、不要な外出をしたら警察がパトロールしているので、罰金。

ビジネスもすべて営業停止、但し、従業員を雇い続けている会社は、従業員のお給料の8割を国が負担する。(←これ素晴らしい!でも、私みたいなフリーランスは?あとでググってみよう)

何が言いたいかというと、崩れ始めるとものすごいスピードで今まで築き上げてきたものが消えていくということです。それは地震や津波も同じですね。何十年という町の営みを一瞬にして破壊します。

私の友人はロンドンで20年以上お店を経営していますが、都市封鎖が終わった後、またビジネスを再開するのは不可能だろうと言っています。

振り返って日本は、唯一まだ日常が保たれている国ではありますが(しかし、オーバーシュートはなにかのきっかけであっという間に始まる)、それでも経済への打撃は大きく、コロナウイルスによる痛みは避けられないでしょう。

もちろん、私は無用に人を怖がらせたいのではありません。そうではなく、こういうときにこそ、物事の本質を見極めて行きたいなと心から思うのです。ということで順番にお話させてください。

まず一つはもともとすべては不確定で、ほんとうの意味で分かっているという状態はないこと、また将来も予想することがせいぜいで、いつも先のことはまったく見えていないということです。

つまり、私たちは常に未知の状態にあるよねということです。

ですが、ある意味私たちが一番恐れを感じるのは、未知であること、方法が分からないこと、正体が見えないことですよね。

もし、いついつまでに終息するとか、どうなるか分かっているとか、ウイルスの性質が解明されているとか、インフルエンザみたいに、毎年何万人が亡くなっても、必ず終息すること、またどう終息するか見えていれば、そこまでこのウイルスに脅威を感じないでしょう。

私たちは常に未知の状態にありながら、あたかも知っているかのように振舞い、世界は未知であるという真実を突き付けられると恐怖におののきます。

そしてまた、私たちはものごとは同じように続いていくという幻想の中に生き、そこに安心感を得て、またそうありたいと強く願うものです。なので、政治でもとりあえず現状維持が見える政権を選びがち。

ですが、もう一つの本質は、ものごとは常ならず(無常)だよと私たちに教えてくれます。変わっていくことに抵抗しても無駄だよ~ということです。しかし、私たちは突然の変化にパニックになりやすく、不安の渦が社会全体を覆ってしまうものです。

長く築き上げてきたものが崩される、自分の生活が壊される、蓄えていたものを失う・・・。どれも私たちの生存を脅かす恐ろしいことです。ですが、あったものは必ず消えていくのが常であり、同じ生活が続くほうが幻想ですよね。

もしかすると、ここで自分という存在や世界がとても不安定なものに感じられたかもしれません。

でもここからが大切。本質は、私たちは変化の中にくるくると振り回される小さくて無力な存在ではなくて、変化そのものだよとも教えてくれています。たとえ無一文になっても、あなたはまたそこから新しい変化(創造)を作り上げる存在であるよと。絶えることのない生命のエネルギーがあなたであるよと。

そして最後の秘密は、私たちはもともと自分の人生のかじ取りをしていないということ。

これは無力な存在ということではなく、生命のエネルギーというゆるぎないものに任せて良い(サレンダー)ということです。常に変化するということは、言い換えれば常に何かが新しく生まれるということ。

私たちが絶えることのない生命のエネルギーであるということは、すべてを失ったように見えても、無限のエネルギーという無尽蔵のパワーなかにいるということですね。だから、今の自分、これまでの成果に執着しなくて良いということ。

もし私たちが本質の自分に寄り添うことができれば、破壊は必ず新しく生まれるものの祝福へと変化するでしょう。

ということで、地に足を着けて、分からないことを良しとして、今というときに寄り添い、自分と生命を信頼しながら、目の前の生活や出来事に粛々と対応していく。

それだけしかできないし、それで充分♪

 

※もちろん、人が生きて行けるように、事業が倒産しないように最善の政策を智慧を出して守っていくなど、やれることをやった上での話です。

 

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