ネガティブと戦わずして得る平和♪

「戦い」や「禁止」が多い社会って、どうでしょうか? 過ごしやすいとはあまり思わないですよね。ところが、私たちは自分の中をこの戦いと禁止事項でいっぱいにしていたりするものです。

しかも、社会がそう信じているように(さらなる武力と法整備を!)、それによって自分の心の中に平和が訪れ、心の秩序も保たれ、より良い社会(自分)になると私たちは思っていたりするのです。

ということで、今日は「戦い」と「禁止」というキーワードで見てみようかなと思います♪

「戦い」とは、自分の中に何か悪いもの、悪い傾向、トラウマ、いらないもの、ネガティブな思い、ネガティブな感情などなどがあるから、それを取り除かないといけないという思いで、それと戦ってしまうことです。

私たちは育っていく中で、自分の中に何か悪い部分があった場合、「それを直すべき」→「そのために何かをする」→「良くなる」という思考パターンを刷り込まれていますね。

なので、それがなくなれば楽になれる、幸せになれる、または悟れると思ってしまい、どうやったらそれがなくなるか?を必死に考えてしまったりします。

ですので、セミナーでもいきなり「瞑想を続けるにはどうしたら良いでしょうか?」みたいな、自分がやっているハウツーの質問もそれなりに多いです。

まぁ、瞑想とか続かないのなら、やらなくて良いのに・・・・と私は思ってしまいますが。

しかし、たいていこういったご質問の裏には、それをすれば何か克服できる、何か今とは違う状態になれるというような思いがあり、「そのために何かする」発想で瞑想でも何でもやっていることが多いですね。

で、そういう場合はたいてい楽しくないし、本当にやりたいわけではないので、やっぱり続きません。私のジム通いみたいに。えへへ。

ですが「何かをする」という発想にはまっていると、続けられない自分を責めて、だからやっぱり自分はよくならない・・・・とさらなる苦しみになっている人もそれなりに多いです。

そこで違うハウツーを求めて、セミナーやティーチャーを渡り歩いたり。

で、頭の中の知識だけは増えていき、今度はそれがお互いにぶつかりあったりして(あの人とあの人は言っていることが違う~~)混乱!みたいな。これは「戦い」が長期化し、入り組んできた状態とも言えるでしょう。

楽になれるはずの悟りや癒しや自己啓発が、さらなる苦しみのもとになってしまっているというか。

また同じ発想で、私たちは「禁止」事項も増やしてしまったりします。

例えば、「今ここ」にくつろぐと楽になるというメッセージを聞けば、頭の中で「今ここにくつろぐべき」に翻訳され、そして、→「過去や未来のことばかり考えてはいけない」→「あぁ、また考えている」→「私はまだまだダメだ」というように・・・・。

と、“じゃぁ、どうしたら良いの?”と思考はやっぱりハウツーを求めてくるかもしれません。
でも、そうです。ハウツーを考えてはいけないという話でももちろんありません

ということで、戦争や禁止よりも穏やかで先に進めるハウツーとなれば、それは、まさに世界平和と同じく「対話」であると経験上断言してしまいます。

例えばもし、何らかの病気があって、それを取り除きたいと思っているのなら、病気に対する思いや感情と対話していくんです。

“将来が途絶えた”、“思うようにできない”、“人に頼る自分は嫌だ”といった思い、絶望感、苛立ち、悲しみと対話をしてみるのです。

例えば、「将来が途絶えた」→「生きる意味がない」となったら、そう思っている自分と対話してみます。

“どんな気持ち?”→“惨め”→“惨めなんだね。言い分思いっきり聞いてあげるよ”→“惨めなの!嫌なの!バカバカしいし!もう消えてしまいたい!めちゃくちゃにぶち壊したい!”ぶわ~~~~っ、びえ~~~っ、涙~~。

もし、徹底的に言い分を聞いてあげて、感情をすっかり吐き出させてあげられたら、きっと“私は私を愛している”という感覚がこみ上げてくるでしょう。(何度も経験済み)

なぜなら、自分への絶望値の深さは、自分への愛の深さと同じだからです。愛していないものに対して、私たちは絶望も抱きません。

愛を感じること。これが一番パワフルな問題解決方法だと思うのです。

ただ、「生きる意味がない」のところで対話が終わった気持ちになってしまい、そこに留まってしまったり、またはそこからどんどんストーリーに行ってしまったり、単に苦しくなって終わってしまう人も非常に多いです。

ので、セラピーだと早いし、便利だよと思ってしまいます。うふふ。

ですが、もちろん皆さん次第です♪

いずれにせよ、自分の中にある衝動、衝突、正論、絶望、欲などなどと対話をしていくと、それらの下にはたいてい、とっても繊細で愛を忘れて震えている感覚(思いや感情)があるだけです。

それを受け止めるだけでも、心は落ち着きを取り戻していきますね。

問題は相変わらずあるかもしれません。でも、私たちはもっと優しい目でそれを見ることができるようになっているんです。そして、そんな静かな心から湧いてくる思いは、戦わずして私たちをさらなる高みへ連れて行ってくれるでしょう。

ということで、自分との対話いかがでしょうか?

が、もちろん「対話するべき」と頭の中で変換しないでくださいね~。

やってみたかったらやってみるというシンプルさでどうぞ♪

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名古屋:5月14日(土)、大阪:5月15日(日)

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ハートレジリエンス協会ショートセミナー

「人は鏡~対人関係のストレスを本質的に解消する方法」

講師:寺石ゆか

 

あなたをずっと待っているあなた

今年のイギリスでのカウンセラー養成講座(Integrated Counselling Diploma Course)は、募集をする前に定員数の4倍上のお問い合わせがあり、すでに満席となりました。ほんとうにありがとうございます。

募集開始を待っていらっしゃった皆さん、心よりお詫び申し上げます。私も問い合わせるよりは待ってしまうタイプですので、余計申し訳なく感じます。

実はイギリスでの開催は今年で終了し、来年からは日本での開催となります。イギリスの形式とはまったく変わる予定ですが、現在いろいろと模索中です。いずれにせよ、地に足の着いた中身の濃いコースを提供したいと思っております。ですので、今年ご参加できなかった皆さん、またはコースに興味があるという皆さん、ぜひ来年以降日本で受けて頂ければ嬉しく思います。

さて、あるアメリカの非二元のメッセンジャーが、セラピーは問題を取り除くという姿勢だから、非二元とは違う・・・といったようなことをおっしゃっていました。

なるほど、確かにそれが一般の人のカウンセリングやセラピーのイメージかもしれないと思ったのです。実際、そういう姿勢でやっているセラピーも多いかもしれません。

しかし長年の経験から、カウンセリングやセラピーの真の目的は、問題を取り除くというよりも、その人の中で抑圧されていたものに光を当て、抑圧から自由にしてあげることだとつくづく感じています。

実際にそのほうが変化はずっと起きます。

例えば、私はフォーカシングというツールなども頻繁に使いますが、これはどんなネガティブな思いや感情ともまず友達になることから始まります。フォーカシングのマニュアルのタイトルに“過激な受け入れ(Radical Acceptance)”とあったりしますが、とにかくどんな思い、感情、感覚もすべて受け入れます。

で、始めた当時はまったく気づいていませんでしたが、これは非二元にもすごくマッチするなぁとこれまたつくづく思うのです。

で、自分の中の抑圧された部分とは、置き去りにされた傷ついた自分なんです。で、その自分が一番望んでいるのは、誰よりも自分に受け入れてもらうこと。

自分を見つめるというのは、基本的に億劫なものです。特にどう見つめていけば良いかなど私たちは教わりませんので、たいていの場合、見つめているつもりが、単に自分の思考のなかに埋没してしまいがちです。

ということで、これを話すと驚く人も多いのですが、私のカウンセリングのコツは、「ストーリーを無視すること」。

先日もイギリス人の友人(セラピスト)が私のやり方をちょっと体験してみたいということで、簡単な問いかけセッションをやってみました。

私は彼女のなかに抑圧されている思い、そしてそこにたっぷりくっついている感情を探すため、いくつかの質問を投げかけると、質問に答えるや否や、 “でも、それは母親にこんなふうにされて、こんなふうに言われたことが原因で・・・”と過去のエピソードが始まります。

そのたびに私は、それはとりあえず今横に起きますね。とにかく、問いにだけ集中してもらって良いですか?という会話を何回も繰り返しました。

心理学やセラピーを学んでいる人ほど、自分の問題の原因は“~~だ”と頭で分かっていたりするものです。ところがそれがいくら分かったところで、楽にならないことが多い。つまり、苦しい本当の原因である抑圧されているものが見えていないからなんですね。

さて、抑圧を違う言葉で言えば「抵抗」です。自我の性質の一つは、常に変化するということですね。思いも感情も体も日々変化し続けています。それは生命のエネルギーであって、川の水が常に流れているように、自我も流れるエネルギーの生命体です。

ところが抑圧とは、嫌なものだから感じたくない!と、ネガティブな思いや感情を封じ込め、その流れを止めてしまっている状態です。で、その封じ込め(抵抗)が苦しみを生み出します。

ネガティブな感情や感覚が好きな人はいませんので、私たちはたいていどう取り除くか?ということしか頭に浮かばないものです。怖い、嫌だ、私は大丈夫か?なくなれ!というように。

これらは当たり前の思いではあると同時に、嫌だ!という思いは起きていることに対する「抵抗」なので、逆に自分の中に閉じ込めてしまうんです。

ちなみに「抵抗」が悪いということではありません。そういった何かを悪いこと、取り除くべきという発想では、癒しはなかなか起きないよね~という話なんです。(抵抗も受け入れる!抵抗の言い分を聞いてあげる♪)

さて、ストーリーを無視するという話に戻ります。もちろん、無視するといっても、情報収集は必要ですので、お話はきちんと伺います。ただ、ストーリーの内容自体は重要ではないということです。

それよりも、一番抑圧されている感情は何? 怒り?恐れ?罪悪感? そして、どんな思いが隠されているの? “今”その人の中で何が起きているの?ということを中心に耳を傾けるんです。

つまり、過去の話という「今ないもの」ではなく、今実際に「あるもの」に集中するんです。

今感じている感情や今ある思い。そして、そこからつながって出てくる、今“現在進行形”で抑圧され泣いている自分を見つけ出し、癒すんですね。

その自分を受け入れ、自由にさせてあげる。本質のエネルギーに戻してあげる。

さて、明日から3日間マトリックス・リインプリンティングの講座です。(これは昨年キャンセル待ちになった方々用なので、一般の募集をしませんでした。)

マトリックス・リインプリンティングは、抑圧された自分とガッツリ対話し、受け入れ、エネルギーを本質に戻して、変容させるのに優れたツールです。(今年11月開催予定)

ということで、私たちは嫌なもの、悪いものなど一つも抱えておらず、ただ受け入れられるのを待っている思いと感情があるだけなんです。

それらを受け入れ、自由(解放)し、抵抗がなくなるほど、生命への信頼へも高まりますね♪

 

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守りを落として分離を癒す♪

ほんとつくづく、批判したり、嫌ったり、さらには憎んでしまったりする相手というのは、自分の中の分離を癒す絶好のチャンスになるなぁと思うのです。

で、よく相手は自分の鏡と言いますが、嫌いな相手を“自己中な奴だ!”と解釈し、私も自己中なんだ~と振り返るのは、ちょっと大雑把かもしれません。

自分の中の分離と書きましたが、ある意味「自我=分離の錯覚」ですので、正確に言えば、私=分離です。私が分離感を持っているのではなく。ですが、他者を嫌っているときというのは、より深い分離の錯覚にはまっていると言えるでしょう。

その分離幻想が見せてくれるものとは、本当は手放して良いのに、私たちが握り締めてしまっているものなんです。

ということで、説明させてください。

例えば、あるクライアントさんは、同業者のある人に対してすごく苦手意識があり、また嫌悪感があるというテーマでいらっしゃいました。(そしてまた、自分を宣伝するのがとても怖い)

で、潜在意識を掘っていくと、「自分が本当に信じていることを話したら殺される」という思いがあったのです。(過去生が絡んでいました)

まず、私たちは自分が深く信じてるものを、いつの間にか自分のアイデンティティにもしてしまいます。なので、自分の信じていることに対して誰かが「間違っている」と言えば、それは自分を否定されたことにもなるんですね。

その方の場合も「本当に信じていること」というのは、「自分の仕事の上での信条」であって、それは彼女にとって非常に大切なものだったのです。

なので、その同業者が、自分とまったく違う信条を降りかざし、堂々と自分を宣伝し、人気があることがすごく嫌だったんですね。

殺されてしまうから声を挙げられない自分は、その人がそばで活躍するのを見ているしかない。でも、なんだか自分の信条が置き去りにされていく、無視されていく、つまり、自分自身が置き去りにされていかれるような気持ちになっていたんです。

こういったところが見えてくるまで、彼女は「成功している同業者を嫌う自分」を恥ずかしく感じ、責めてもいました。

最終的には「自分が本当に思っていることを話したら殺される」と思っている部分の自分を癒すことで、その人はその人でいいんじゃな~いぐらいまで緩んだのです。

これは無数にあるうちのほんの一例に過ぎません。いずれにせよ、私自身の自己ワークでも、クライアントさんへのワークでも、誰かを嫌ったり、憎んだり、批判したりなど、強い分離感を持っているときは、

「セルフイメージ」「自分の大切な人」「自分の大切なもの」「自分が深く信じている思想」など、自分が同一化してしまうほど大切で守らなければいけないもの、

または、

一生懸命隠している、絶対知って欲しくない部分の自分(ダメな私、バカな私、etc)や守り通して見せないでおきたいもの。

という「守りたいもの」を必ず見つけることができます。

つまり言い換えれば、守りたいもの、握り締めておきたいものが多いほど、人間関係において分離感も強くなるんです。

では、なせそもそもセルフイメージとか、信念とか、そういったものを私たちは握り締めているのでしょう?

自我の構造を考えた場合、自我とは体と思い、感情(&感覚)の集積です。私の体、私の思い、私の感情(&感覚)・・・・というように。難しい理論を持ち出さなくても、自分を振り返れば、これらが自分の構成要素であることは分かるでしょう。

ということは、ある意味、

自我=セルフイメージ、ビリーフ、信念といったものの集積なんです。

つまり、セルフイメージ、ビリーフ、信念といったものは、自我にとっては自分そのものなんです。なので、それらを手放すということは、ある意味自分の死でもあるんですね。(もちろん無意識のレベルで)

例えば、ネガティブなセルフイメージをどうしても手放せない場合も、深いところで、自分がいなくなるよりましだと思っていたりすることも多いんです。

ということで、大切なビリーフほど私たちはしっかり守ろうとするし、考えを攻撃されると自分が攻撃されたと受け取り、様々な感情が出てきます。

カウンセリングやセラピーで、こういったビリーフを緩ませていったり、すべての感情の奥底にある「愛」を度々経験していくことで守りの壁が落ちていき、か~なり楽になっていきます。ほんと。

と同時に、もし、真の自分は「気づいている意識」のほうだと認識できれば、必死に握りしめていたものは、ただの思いだということもよ~く見えてくるはずです。

しかも、そもそも守らなければいけない自分などいなくて、ただそういう思いがあるだけであることも。

それが見えてくれば、自分にとって苦しみとなる「守っているもの」、つまり手放してよいものと、愛の思いから守っていたいのものの区別がつくようになるでしょう。

自分の癒しを進めていくことと、ノンデュアリティの理解を深めていくことは、お互いにサポートしてくれることも多いなぁとつくづく感じています。

ここ数年の欧米のノンデュアリティシーンでは、心の癒しとノンデュアリティの融合がますます強いトレンドとなっているようです。前回、そして今回の「科学とノンデュアリティの国際会議」でも、トラウマの癒しやサイコセラピーとの融合といったテーマでの会議がいくつもありました。

もちろん、一方で癒しとノンデュアリティはベクトルが真反対に向くことも多く、ケース・バイ・ケースの繊細さがそれなりに必要です。

ということで昨年に引き続き、名古屋と大阪で「ノンデュアリティと癒しのカフェ」を開催いたします。基本的にはノンデュアリティが中心のお話し会です。ご都合がつきましたら、ぜひいらしてください♪

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「ノンデュアリティと癒しのカフェ」

名古屋:5月14日(土)、大阪:5月15日(日)

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癒しをスピードアップさせるコツ♪

もし、あなたが癒しをスピードアップさせたいと思ったら、そのために何が役に立つと思いますか?

もちろん、その人の状態とか人それぞれ違うでしょう。が、それでも私は「思考と距離を置くこと」と言ってしまいたいのです。

思考を眺めるとか、自分の思いに気づいているとか、そういうことです。これができていないと何も始まらないとさえ思っています。

かつてロンドンにある書店で、ぼーっとベストセラーコーナーの前に立っていたとき、ある若者が “この本めちゃくちゃ良いから。絶対お薦め!”と熱心な声で指差した先が、エックハルト・トーレの「The Power of Now」でした。(これ前にも書いた気がする)

そんなに言うならとつい買って、家で読み始めたところ、1ページ目から目からウロコが落ち始め、読み終わったときには全身のうろこが激しく落ちていました。(笑)

で、あらゆることが三日坊主に終わってしまう私ですが、思考のおしゃべりに乗っ取られるのは辞めよう!と深く決心し、その日から自分の思いを眺め始めたのです。

始めは、「ただ考えている状態」に慣れすぎていたため、思考を眺めるのがとても不自然で億劫に感じました。ので、一日1分みたいな短い時間から始め、長くやるというよりは、その回数を増やすというやり方で行ったのです。

すると半年も経ったころでしょうか、思考を眺めることが普通に自然にやれるようになってきたのです。で、今振り返っても、この恩恵は計り知れないと思っています。

これは、お金もスキルもなにも要りませんのでほんとお勧めです♪

とはいえ、始めのうちはどちらかというと、思考が思考を観察しているような感じになる人が多いかなと思います。例えば、“私は今~~と思っているのだ、そうかそうか”というように思考を眺めて、それを思考が確認しているみたいな。

最初のステップとしては、これでもぜんぜん良いかと思います。ただ、人によっては眺めている思考に対する思考のコメントがうるさすぎて(“ちっ、またこんなくだらないことを考えている”)苦しくなる人もいます。

ので、次のステップは、そういったコメントもただ単に眺めて流しちゃいます。そういう思いがあるなぁと気づいているだけで充分です。

また放置してしまうことで、思考のパワーは勝手になくなっていきます。

ちょっと例えを使ってみましょう。

これが雲を眺めるエクササイズだったとして・・・。

思考が思考を観察している状態とは、雲(思考)の上に乗ったまま、他の雲の動きを見ているような感じです。

ですがここで言う「思考を眺める」とは、雲から完全に降りてしまって、青空に浮かんでいる雲をただ眺めている感じです。このほうが雲の様子がよく見えませんか?

ちなみに、思考に振り回されてぐるぐる行き詰っているときは、雲の上にも乗っておらず、完全に雲の中に取り込まれ、青空も目に入らなければ、俯瞰した視点もまったくない状態です。

こんなふうに思考にはまったまま、癒そうとしても、思考が邪魔をして遅々として進みません。癒しの方法や癒しの進み具合、セラピストさんに対してなど、いちいちあれこれ思考が走り、ものごとを複雑にしてしまいます。

思考にはまっているから苦しい、でも同時に、思考にはまっているから抜け出せない・・・という行き詰まり状態になりがちです。

とはいえ、じゃぁ眺めれば良いのだ~と言っても、それもなかなか難しくありませんか? 私たちはどうしてこれほど思考に呑み込まれてしまうのでしょうか?

例えば、目をつぶって“今日は晴れだ(雨だでも)”と思ってみてください。そこになにか感覚や感情があるでしょうか?

で、次に目をつぶったまま“近いうちに消費税が10%になる”と思ってみて、さっきと比べてどうでしょうか? 何かちょっと感情や感覚が走りませんか?

では、最後に“~~さんに馬鹿にされた”、“私は本当はできていない”、“メールの返事が来ない”とか、直接自分に関わるネガティブな思いを思ってみてください。一番最初の思いと比べて何か重量がありませんか?

思い、そして感情&感覚、体は、基本的にいつもコラボしています。

ですので、感情や感覚を強く引き起こす思考は、強烈な三位一体のコラボとなり、私たちは瞬く間に取り込まれてしまうんです。

繰り返しますが、「を巻き込む思考」に私たちは呑まれやすいんです。なのでここでEFTやマトリックス・リインプリンティングなどの感情解放のツールが役立つんですね。

感情や感覚が体からなくなってしまえば、思考を支えられなくなるので、自然に思いもなくなったり、もっと緩やかなものに変わったりします。

さて、でもこういった苦しみを生む思いよりも、意外にやっかいな思考は、おそらく「大切そうな思考」、「当たっていそうな思考」、「自分を支えてくれそうな思考」などでしょう。

例えば、「生きる目的を持ったほうがいい」、「癒しとは、~~~という感じで進むもの」、「私は以前よりずっと分かっている」などなど。

こういった思いは、なんとなく良いことのように感じるので、スルーしてしまいがちです。しかし、自分を振り返ったとき、一番手ごわいのは、実はこういう微妙な思考だなぁとつくづく感じるのです。

知らないうちにその思いに固執し始め、柔軟性を失ったり、真実を見過ごしてしまったりするからです。

でも、たとえ思考に巻き込まれながらでも、雲から降りる習慣がつけば、ある思いはまってしまっていることにも気づけるようになるでしょう。そうやって気づけて手放せるようになればなるほど、思考の中ではなく、もっとハート中に安住できるようになりますね♪

 

インテグレイテッド心理学

本日よりインテグレイテッド心理学講座の募集を開始いたしました~!(と昨晩書いて、今朝見たら、全講座すでに満席となっていました。ありがとうございます!)

心理学というと、普通は学問を指すわけですが、インテグレイテッド心理学は心理学といいながら、まったく学問ではありません。私自身はアカデミズムもそれなりに好きなので、心理学系、哲学系の本なども昔はよく読んだものです。

ただ、このブログにも何度も書いておりますが、今まで何千というセッションをしてきた経験上、理論や分析がまったく役に立たないことはもう心底身にしみております。

で、私が密かに疑問を抱いているのは、過去の著名な心理学者たちは、自分自身の心の深いところをどれぐらい分かっていただろうか?ということです。

大学で心理学を教えている教授も、自分の心の深いところにどんな思いや感情があるのか知っているかな? 心療内科や精神科の先生はどうだろう?

聞いたことがないのでもちろん分かりませんが、もし、これらの専門家が自分自身の心の中にある闇、抑圧された思いや感情、それらがどう自分のものの見方、感じ方に影響しているのかが分かっていれば、もう少し世の中には楽になっている人が増えているはずではないか?と思ってしまうのです。

かつて私自身、自分と向き合おうと思ったとき、“嫌なことを思い出さなければいけない”、 “惨めな自分を見たくない”、“自分が思っている以上に私はダメかもしれない”・・などといった思いがわんさか沸いて、決心したのに半年以上始められませんでした。

しかし、なんとか重い腰をあげて、いやいや向き合ったとき、そこにあったのは、置き去りにされた傷ついた自分とそこに付随している感情や思いがあるだけでした。

自分と向き合うとは、つまり、泣いている自分、忘れられた自分、心細い自分、一人ぼっちの自分・・・を救いに行ってあげることなんだとよ~く分かったのです。

これらの自分を“ネガティブな感情”、“ネガティブな思い”とさらに批判し、向き合うなんてとんでもない!と、抑圧してないふりをしていたから、苦しかったわけです。

で、抑圧されたものは必ず周囲に投影されますので、例えば人間関係であれば、あの人は私を軽く見ている、あの人は私を信頼していないなどと感じたり、人生のあれこれにふか~い投影をし、苦しみを強めていたのです。

そういう意味で、インテグレイテッド心理学は、私たちのこころのしくみ、そして心の深いところを見ていくものです。

そして、多くの人にできれば経験してもらいたいなぁと思うことは、自分の深いところを見ていけば行くほど、どんなネガティブな感情の下にも必ず愛があるということです。最後はそこにしか行き着かないんですね。

“すべては愛である”と頭でいくら理解してもまったく意味がありませんが、こうやって経験していくことで、自分の体験として分かってくるんです。

“愛ってなんですか?”という質問を頂くたびに、まずは自分の中にある愛を感じて欲しいと思うのです。それを幾度も経験すれば、だんだんそれは「私の中の愛」ではなく、ただある普遍の愛だと分かるはずだからです。

もちろん、これを実感しても、何かが起これば感情的に巻き込まれることもあるでしょう。しかし、大丈夫感がそれを支えてくれるので、回復力がまったく違います

さて、話を戻します。

インテグレイテッド心理学のもう一つの特徴は、ご存知の通り、悟り(非二元)をベースとしていることです。「奇跡のコース」に記述されていた自我の働きがあまりに目からウロコだったため、当初はほぼそのまま採用していました。(最近はだいぶ変化しました。)

そして何よりも私にとって大きかったことは、それによってセッションで結果を出せるようになったことです。一見当たり前のことですが、一人の人間が苦しい状態から楽になっていく過程をサポートするのはけっこうな仕事です。

かつて自分の勉強のためと思い、ロンドンにあるアルコール依存症回復センターでボランティアをしていたときがありました。しかし、そのときセッションルームで話される数々の悲惨なストーリーの前に、私は無力感に打ちひしがれていたんです。知識はいろいろあるけど、なにを聞いたら良いのかまったく分からなかったからです。

しかし、インテグレイテッド心理学を基に、まず自分の心を一年以上見つめたおかげで、セッションの効果が飛躍的にアップし、新規のクライアントさんを断るまでになりました。(長い話を超短くしています)

通常の心理学では、人を完全に「個」として扱います。個(分離)とは幻想であるという視点はほとんどありません。地球上の多くの人の世界観に反することは入らないんですね。

ところが、人間の根本的な苦しみはそこから始まるわけで、これを抜きに語るわけにはいかない!と心から思うのです。

また、自我(通常の私たち)が自我を観察することはかなり無理がありますが(自分が自分を見るのが一番難しいように)、自我の視点を離れたとき、つまり非二元の視点で自我を見たときに、もっと鮮明に自我の性質や働きがよ~く見えてきます。

なので、自我目線ではない悟りのティーチャーやメッセンジャーの話などは、非常に参考になりますね。(バイロン・ケイティ、エックハルト・トーレ、アジャシャンティなど)

ですがもちろん、この講座は悟りや目覚めを目指しているわけではありません、あくまでも私たちがどう楽に自然に生きていくか?がテーマです。

非二元とこころの癒しは、重なり合う部分もあれば、ベクトルが間逆に向いているときもあります。そういう意味で、両方を同時に語ることはほんと難しいなぁと感じることもしばしばあります。

でも、真実が癒しのベースになったとき、単純に傷ついた心を癒すだけではない、もっと深いレベルの癒しが実現できるでしょう。それは、深い深い夢から覚めていくことの始まりでもあり、埋もれていた真実の芽の誕生となるかもしれません♪

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一般社団法人ハートレジリエンス協会(旧ハートサークル)ショートセミナー

ストレスと食べ過ぎ~ついつい食べ過ぎてしまうあなたへ~

心と身体のダイエット専門家の君崎綾子が講師を勤めます♪

セラピストと古刑事、そのこころは?

前回の記事にコメントをくださった皆さん、ありがとうございます。(*^_^*) 日本滞在中の忙しさがピークになっておりまして、なかなかお返事ができません。でも、とても感謝しております。

さて、 “さんざん癒しのワークをしてきたのにまだ同じ問題にぶつかる”、“こんなにやってきたのに、まだ癒されていない”、“きりがなくて嫌になる”といったお言葉をけっこう耳にします。

また同時に、セラピーの講座などで“もうそのテーマは癒したから大丈夫”、“私は悟りを実践しているから、今悩みはないです”とおっしゃる方々にもお会いします。

ところが実際ワークを始めると、抑圧された感情がコチコチにあるにもかかわらず、自己防衛がガッツリ走り、まったく手が付けられないというケースもそれなりにあります。

さんざんワークをしても思っていたように楽になっていない場合、よくあるのは、そんな自分に向き合っているのが辛くなり、無意識に“大丈夫な私”にしてしまうことです。

そんな場合、今までやってきた自分の癒しや悟りの知識などでしっかり自分を守り、もうそれは分かっている!の一言で、自分の中に目を向けようともしなくなります。

こういったタイプの人にワークをするのはかなり難しい、というかほとんど不可能です。

ちなみに、さんざん癒しのワークをやってきたのに楽になっていないという場合、一番多いのは、ご本人は根本のレベルでワークをしたと思っているけど、実は深い所がまだ見えていないケースです。

一つのテーマは、たいてい一本の木のようになっていて、たくさんの枝があります。枝は細い枝ばかりではなく、それなりに大きいものもあるんですね。また、一つの枝にはいくつかの感情がついています。

ありがちなのは、枝のいくつかをワークしてワークをしたと思っているケース。木の根っこはまったくスルーされているケースです。

枝にワークをしていても、それなりにワークをした感、解放感がありますので、それでワークをしたと思ってしまうんです。

非常に多いです。ほんと。

他には、思考のレベルでワークをしていて、感情、体が置き去りになっているケース。

一つのある特定のセラピーだけでワークをしているケース。(取りこぼしがあったりします。)

などなど。

で、この本当は苦しいのに無意識に大丈夫にしてしまった場合、誰かを悪者にし、その人に怒りをぶつけることで少し楽なった気分になる・・・ということもしがちです。ネットなどその温床ですよね。

なので、まだ自分は苦しんでいると自覚している人はよっぽど良いです。

いずれの場合にせよ、カギは「自分に正直になること」ですね。

分かったこと、癒したつもりになっていないか? 自分に正直になってみることです。これは意外に難しいです。私もほんとうに何度も“そこはもうクリアした”というような思考の罠に陥ったことか。

“前は~~が見えていなかったけれど、今の私は違う。だから、もう見なくても良いのだ”などなど、思考は巧妙に横入りしてきます

ので、考えを横に置いて体に集中して問うてみると良いかもしれません。

また、“ノンデュアリティと癒しのカフェ”でも、質問は非二元についてですが、質問の動機自体は、自分の悩みを解決することであったりすることもとっても多いです。

“自分の人生の悩みは、このノンデュアリティの真実で解決されるかもしれない・・・・”という思考に乗ってしまうんですね。分離がないと分かれば、人間関係の苦労から逃れられるかも・・・・といったような。

ですが、その前提自体が誤った認識でいれば、迷路に迷い込んで行くばかりです。

また、真実を知りたいという動機が自分の悩みの解決だった場合、おそらく真実も見えてこないでしょう。自分をどうにかしたいという思いが最後まであり、自我が頑張ってしまうので。

なので、本当に望んでいることは何か?を見つめ、今自分の一番正直な思い、感情をスタート地点にしてみるんです。

正直とは、言ってみれば、今自分にとっての真実ですね。真実をベースにすれば、新たな真実がそこからまた開いていきます。

これも何度か書いていますが、私は自分のカウンセリング&セラピーを「現場主義」と呼んでいます。今、その人の心の中になにがあるか?というシンプルな“事実”をベースにしているからです。

その人の心の中といった場合、抑圧された部分(=本人がまったく気がついていない思いなど)ももちろん入ります。今、その人の中で何が起きているのか?その人の自我の構造はどうなっているのか?をひたすら引き出していきます。

私自身の分析や推測、アドバイスなどは一切入りません。それをしたとたん、現場から離れてしまうからです。

例えが悪いですが、刑事が現場検証や取調べなしに、勝手に何が起きていたのかを分析したり、推測しても意味がないのとまったく同じです。

べたな刑事ドラマみたいに、エリート長官ではなく、私は現場の古刑事なんです。あはは。

で、べたな古刑事と同じことを言いますが、現場はすべてを教えてくれるんですね。

違う思いや勝手な推測で覆わずにシンプルにただまっすぐ見てみる。そして、それらがどんなネガティブな思いや感情でも、受容し、批判の声(こんなこと思ってはいけない、まだこんな思いがある、etc)で蓋をしないこと。

そのとき、私たちは初めて自分の深いところと愛ベースの関係を作り上げることができます。

癒しとは、問題を取り除いたり、嫌なものをなくしたりすることではなく、自分の中にある愛と再びつながること、その一言に尽きるかもしれません♪

 

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落とし、減らせば、愛が見える♪

今回もコメントにお返事というより、感想?考え?を書いてみます♪ 長いコメントでしたので、言葉の省略、切り貼りを勝手にさせて頂きました。コメントをありがとうございます。

私の子供は生後半年頃突然死にかけました。その時の薬の副作用で脳死状態になり、今は退院出来ましたが脳のダメージは大きく、言葉を話したり、理解をする事は出来ません。私としては、こんな状態になって何の生きる希望があるのか、生きていく意味なんてあるのかと、散々塞ぎ込みました。<大幅省略> そんなスピ探求を続けている中で、体が突然不調を起し始めました。とにかくお腹が痛むのです。激痛で2,3日寝ていることもしばしばでした。病院を転々としましたが全く原因が分からず、気づくと行きついた病院は「心療内科」で、医師から「心身症」と言われました。
もし、この方の状況に自分を重ね合わせれば、その苦悩の一端だけでも想像に難くはありません。人生でこのようなことが起きたとき、私たちが一番苦しいのは、ある意味答えも解決方法も見えないことかもしれません。

まったく不確かで先の見えない状態に置かれ、理由も分からないからどう受け止めたら良いかさえも分からない。なぜ、このようなことが起きたのか? どう考え、どう生きていけば良いのか? テレビや雑誌、そしてどんなに検索してもネットでも答えは見つけ出せません。

そんなとき、スピリチュアルな教えなどは一つの救いになるかもしれません。だから人が宗教にはまってしまうのもそれなりにうなずけます。

まず私たちは、無意識に“あるべき人生”、“最低ラインの人生”というものを描いています。あるときセミナーで、息子さんの悩みについての相談を受けました。最後にそのお母さんは、“息子が元気で笑っているだけで良しとしなければいけませんね”とおっしゃったのです。

そのとき、いやいや、元気で笑っている状態をどれだけ多くの人が求め、そのためにどれだけのビジネスがあるのか?と思わず、突っ込んでしまったような記憶があります。

つまり、自分や家族が元気なのは当たり前、それが人生の最低ライン、その上で自分の夢は何?、それは実現できるの?できないの?、どの大学へ行くの?就職先はどうするの?、などなど、あらゆる人生の出来事が始める・・・というような。

でも、病気になったり、障害を持つことで、そういった人生の構築が閉ざされてしまう、人生がなくなる・・と私たちは感じてしまうでしょう。生きている意味も見出しにくいし、存在している理由も分からなくなります。

もちろん、日々の対応そのものも大変ですが、私たちが苦しんでしまうのは、こういった思いからなんです。

そして街に行けば、常に“他の普通の人生”を生きている人たちとついつい比べてしまうでしょう。こんなとき、私たちの中にいつの間にか様々な怒りが生まれてきます。

自分への怒り、関わっている人たちへの怒り、神(天、誰か)への怒り、人生への怒り、社会への怒り・・・。その他にもちろん、後悔、悲しみ、罪悪感、無力感などなど、様々な感情や思いがどっと押し寄せます。

これらをずっと心に抱え続けていくことで、ある日体調を崩して、体の症状として出てきても少しもおかしくありません。

個人的にはスピリチュアルな探求でかなり救われたなと思います。でも、それで様々な感情が解放されるわけではなく、結局あまり楽になっていないということはよくあることです。

特にやっかいなのは、思考型の人で頭のレベルの理解が進んだだけなのに、体験的理解も進んだと勘違いしてしまうことです。(このコメントの方は違います)

なので、明らかに苦しそうなのに、自分はもう分かったからセラピーは必要ないと言い張る人に何人も今まで出会ってきました。

でも癒しに必要なものは、知識とか理解とか何かを増やしていくことよりも、自分の中からどんどん減らしていくことなんですね。

たまった感情を減らす、無意識の期待や思い込みを落としていく。とことん減らす、落とす・・・。

そのためには自分を見つめないと、自分が抱えているものを知ることができません。どんな思いや感情が苦しみを生んでいるのか?を見つめ、それらを受け入れ、変容させていくこと。

そして、もちろんもし真実の視点に立つことができれば、許し、受容、そして愛が苦しみを癒してくれるでしょう。なぜなら、そこで初めて私たちはストーリーを超えることができるからです。

“人生はこうあるべき”という思いは、私たちが抱く当たり前の思いですが、しかし、ものすごくカタチに囚われた思いです。健康であるない、学校に行ける、行けない、結婚できる、できない、といったカタチです。

また、カタチには必ず時系列があります。過去にこれがあって、今こうなって、だから将来こうなるかもしれない・・・。自我はカタチしか知らないから、それはもうリアルで、当然それしかないと思い込んでしまいます。

でも、そうやってカタチに囚われてしまって、見えなくなっているのが、いつもそこにある「愛」です。

私は子供を心から愛している、子供も私を愛している、家族を愛している、何よりも自分は自分を本当は愛したい、愛しているのだといったことが、自分の中にため込んだ様々なネガティブな感情や思いで見えなくなってしまう。

また、カタチに囚われることで、絶望感や欠如感を生み出し、愛や優しさといったものの存在を完全に見過ごしてしまう。

本当は時間というものはなく、それは頭の中、記憶の中にあるだけ。「私の人生」というつながったストーリーというものはないんです。あるのは愛だけ。

ただ、自分の思い込みを一つ手放すのもなかなか難しいものです。まして、人類が一斉に陥っている勘違い、思い込み、カタチを超えた視点へのシフトは、決して簡単なことではないかもしれません。(または、簡単に起きるかもしれません)

いずれにしても、私たちは本来愛から生まれ、愛そのものです。また、カタチ(状況、状態)、ストーリーを超えて、私たちの心に平和と優しさを取り戻してくれる真実でもあります。

だから愛を見えなくしているものを落とし、減らすことで常にあった愛を見つけることは誰にもできるはずですね。そして、それが必ずあなたを癒してくれるでしょう。