生命の発動としてのあなた♪(マスターへの依存)

写真:山村琴美

写真:山村琴美

あっと言う間に大晦日になりました。皆さん、一年を振り返っていらっしゃいますか? このブログを年明けに読んでいる方もいらっしゃるでしょう。新年は、なんとなく新鮮な気持ちを運んできてくれますね。

さて今回も、コメントにお返事させてください。コメントをありがとうございます!

機会があれば是非伺って見たいことがあります。いわゆるスピリチュアルジャーニー、と言われる人達やマスターの教えというよりは、マスターに依存対象が移っただけに見える人々達についてです。自身がそうだからなのか要素があるからなのか嫌悪感を覚えます。カルト信者と何が違うのかとの疑問も湧いてきました。

とても鋭い疑問だと思います。というのも、お酒やチョコレートへの依存は分かりやすいのですが、スピリチュアルへの依存は、意外に分かりにくいと思うからです。

お酒などと違ってスピリチュアルは、「ワンネス」「無条件の愛」「精神性の向上」「真実」といった言葉が散りばめられているため、依存しているというよりは、自分にとって良いことをしているという気分になりがちです。

大きな意味で言えば、自我(エゴ)自体が常に中毒、または何かに依存しています。つまり、「私と私の人生に関するストーリー(思考)中毒」なんです。私はうまくやれているか?私はこんなふうだ、私の人生はこんなんだ・・・と、基本的に自我は「私中毒」です。そして、もし今その私や私の人生がハッピーなものでなければ、幸せにしてくれる何かが必要になります。

またたとえ、今幸せだったとしても、それを維持する必要があります。なぜなら、何かがうまく行かなくなったり、失ったりすれば、幸せも消えてしまうからです。つまり、自我は常に幸せを自分以外の何かに依存しなければいけないんです。

しかし、自我が気がついていないことは、自分が心の底から望んでいることは、分離感から解放されることで、それは「今ここ」にあるということです。

ところがそんなこと誰も教えてくれないどころか、何かを得ることが大切だと周囲から私たちは教わってきます。ですので、「今ここ」を離れ、さらなる収入、素敵な彼、成功、権力、美しい容姿、または素敵な自分になること(自己変革)、または至高体験をすることなどなど、今ここにないものを求めます。

しかし、ある意味宝を探しだすのに、宝がある「今ここ」を離れて探しに行くようなものなので、この旅は必ず失敗に終わります。欲しいものを得たとしても、また足りない感覚(分離感)か、または見ないようにしていた感情がうずいてきたり。するとたいてい「今ここ」ではなく、またさらなる満足を求めて外に出かけます。なにかもっと自分を幸せにしてくれるもの。もっともっと・・・と。

さて、マスターへの依存という話に戻ると、もしあるスピリチュアルリーダー(または自己啓発の先生など)の話によって、自分の長年の悩みが吹っ飛んだとします。すると、その気持ちよさにすっかりはまり、もっとそばにいたい、もっと教えて欲しい、もっと癒して欲しい・・・となっていくことは良くあるでしょう。

グルやまたはその教えが自分を幸せにしてくれたと思ってしまうんですね。自分を幸せに導いてくれるメッセージや教えはもちろんあるでしょう。しかし、実際に自分を幸せにするのは、自分しかいません。この違いは大きいです。

スピリチュアルな教えや非二元の教えは、美しい言葉で自分の中の欠けた感覚が埋まったように感じたり、または扱いきれない感情に一時的に蓋をしてくれたりできるでしょう。もちろん、スピリチュアルなメッセージに耳を傾けるのがいけないという話ではまったくありません。

ただ、自分を見つめることをせず、美しい言葉に酔い、誰かの教えをただ実践していれば、私は大丈夫、私の精神性は向上する、波動が高まって良いことばかり起きるようになる、私はスピリチュアルな善人になれる、またはいつか悟れると思っていると、だんだん依存になり始める可能性がありますね。

また、無条件の愛を実践するために励んでいる私、真実を学んでいる私といったセルフイメージは、気持ちが良いものです。もしかすると、そういうことをしていない“普通”の人たちより、私は先に進んでいるという優越感もあるかもしれません。

また、往々にしてメッセージを発する人にポジティブ投影(自分にないものをこの人は持っている)し、神格化し始めることも多いでしょう。

メッセージを発する側も自分をきちんと見つめていないと、ポジティブ投影されていることに酔い始めてしまうかもしれません。そして、その投影されたイメージを守ることのほうが大切になってしまい、メッセージや言動に曇りが出てくることもありますね。

何かに依存するという意味では、対象がグルであれ、お酒であれ、まったく同じです。ただ、スピリチュアルや非二元の教えへ傾倒は、一見とてもポジティブに見えて気がつきにくい分、ある意味たちが悪いかもしれません。

年明けて私自身さらに深めて行きたいなぁと思っていることは、“私から自由になる”ことです。自我、自我と連発してきましたが、自我は存在しないと見抜いていくことですね。言葉って難しいですね。“私が私から自由になる”という言葉がすでにかなりの矛盾。ふふ。

でも、私から自由になるということは、何かを得るために頑張って生きる生き方ではなく、もっともっと軽い生き方に移行するということです。

私にはこれがない、だから、そのためにあれこれ方法を実践して、そして得るのだ・・・・という従来の考え方ではなく、ハートから沸いてくる思いにただ従い、現れてくる一瞬、一瞬を楽しみ、実行していこう、私は生命の流れなのだからという生き方です。

たとえば、私自身は現在、心理学やカウンセリング、セラピー教えたり、ハートサークルの活動をしたりすることがとても楽しいです。そして、それらは生命のエネルギー(空、大いなる意識、神、etc)が溝口あゆかという現象を通して現れている形なんです。

もし、私が私の仕事は、“私”が工夫し、頑張って築き上げてきたものだ、それが私であって、私の人生だと思い込んでいたら、私は自分の仕事を維持し続け、成功させたいと強く思うでしょう。そして結果に執着し始めてしまいます。

そうすると、最初は純粋な楽しみ、やりたい♪が、いつの間にか「維持し続けなければ」「成功させなければ」と「ねばならない」になって行きがちですね。そして、私の幸せは仕事が続くこと、成功することに依存し始めていきます。

でも、私がそれを手放し、大いなる生命のエネルギーにゆだねたとき、私は何にも依存しない真の安心感を得られます。そして、ものごとはなるようになり、必要なものは与えられでしょう。もしかすると自我的には、なんだかつまらないように感じるかもしれません。

しかし、もしそうなったら、あなたの心はとても軽く、頑張って獲得し、維持する幸せから、自分自身を表現する幸せ、生命の発動の喜びにと変わっていくでしょう♪♪

♥ 本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます 

かぐや姫的世界観

わ~い!ウソのように毎日良いお天気になりましたね。カール・ドーソン氏のマトリックス・リインプリンティング(MR)のアテンドはとても楽しかったです!精神科医のお医者様や脳外科のお医者様も参加してくださり、日本のメンタルケアの未来に明るい兆しを感じました。MRに関しては、書きたいことはたくさんありますが、次のコースの前にまた書かせてください!

さて、カウンセリングやMRのようなセラピーで潜在意識の深い思いを探っていると、小さい頃に虐待を受けていたわけでもないのに、“ここ(この世、地球)にはいたくない”、“なんで生まれてきたのだ”、“私はここにいない”といった声にしばしば出会います。

というか、あまりに多いので、今回はこれをテーマに取り上げることにしました。

さて、そういった言葉の後に、“この世は薄汚い”、“この世は怖い”、“この世はうそ臭い、みんなウソっぽい”などなどといった言葉がたいてい出てきます。それだけなら、小さい頃の経験からそんな思いが生まれたのかもとも思えますが、その後に“お家へ帰りたい”とか“来たところへ戻りたい”という言葉が続くのです。

そして、お家ってどこ?と聞くと、愛と光の世界、真実の世界などといったお返事が返ってきます。ここで強調したいことは、ご本人が意識上でそういっているのではありません。潜在意識を深く探っていて、最後のほうに出てくる思いです。ご本人も、そんなふうに思っていたのかとびっくりなさることも多いです。ただ、出てくれば、ものすごく思い当たりますが。

で、そんな場合、小さい頃の出来事などをいろいろ癒しても、最終的にこの思いにいつもぶちあたり、本当の意味ですっきり!というところになかなかたどり着けません。また、お話を伺っていると漠然と小さい頃から自分は周囲と合わないと感じていたり、なんだかいつも生き辛い、または深く生きている気がしないといった感覚も共通しているようです。

さて、このような「かぐや姫的世界観」は、私たちのなかでおそらくもっとも多い見方だと思います。この世は、汚いことや苦しみがたくさんあり、そんなものがまったくない天上の桃源郷のような場所がどこかにあるはず、または、あったらいいなという思いです。

私も子供の頃に強く桃源郷に惹かれましたが、大人になったとき、それは“そんなものないんだよな”という冷めたあきらめに変わりました。また、何を隠そう、私自身“神様から離れて遠くに来てしまった”とさめざめと泣くインナーチャイルドを癒したりしたものです。(それもそんなに昔のことではない)

ただ、私がそのときまったく分かっていなかったことは、それは自我の視点から見た世界観だったということでした。自我は、年中判断をしていますね。これは良い、これは悪い、これは綺麗、これは汚い・・・といったように。

こうやって二極的な判断している限り、桃源郷にはたどり着けないことをまったく知らなかったのです。ですので、桃源郷への憧れが、ますます自分を二極の世界に閉じ込め、苦しくなることにも気がついていませんでした。

いわゆるスピリチュアルな教えは、愛とか光、宇宙とのつながりなどなど美しい言葉が多いですね。そのため、桃源郷志向が強い人は、ますますそんな次元に戻りたいと憧れを持ってしまいます。

エゴベースで不安や恐れが多いこの世ではなく、不安を捨てて愛だけになって、真の自分になろう、本来の場所へ戻ろうというような思い抱くというか。

間違っているわけではありませんが、もし、不安VS愛という二極の見方で、不安や恐れを悪いことと、持っていてはいけない感情だと思ってしまうと、どんなに愛に向かって励んでも二極の世界に留まってしまいます。

それじゃぁほんとうの自分、ほんとうの家へはどうやったら戻れるの?と聞かれたら、二つの道があるかもしれません。一つは、チルチル、ミチルの青い鳥が教えてくれるように、「ここが本当の家なのだ」と気がつくことです。または、奇跡の学習コースが教えてくれるように「私は一度も暖かなベッド(本当の家)を離れたことはない」と知ることです。

つまり、神様のもとに帰りたい、光の世界に戻りたいと嘆いているけれど、実は一度も離れたことがないし、今も神の懐(以外のところは存在しないし)のなかに包まれていると知ることです。

それが見えなくなっている理由は、自我を真の自分だと勘違いしていまっているからですね。自我を解体すると、思考、感情、体です。そして、それらのすべては現れては消えていく実体のないものです。

で、このように現れては消えていく実体のないものが、不変不滅の真我を捉えることは不可能なんですね。つまり、自我の状態で愛や光の世界を知り、そこに永遠に留まるということはできないんです。なのに現実を否定し、その世界を求めてしまうと、さらに深い自我の夢のなかに入り込んでしまい、地に足がつかなくなり、ときには現実生活に支障をきたすこともあるかもしれません。

なので、自分はすでにほんとうの家にいることを知るには、現れては消えていくものに気をとられず、それらすべてに気がついている、常に不変でそこにある意識(真我)に寄り添っていくことです。

欧米で大人気の覚者ムージーは、自我とは、雨の日に車のワイパー(←思考や感情のこと)を見ながら運転しているような状態だ、ちゃんと道(真我)に集中し、運転を続けようと話をしていました。

また、もう一つは、逆に事象(思考、感情、体の感覚)をとことん見つめ、そこにあるものをきちんと見ていくことです。あらゆるネガティブな感情は、最終的に恐れに行き着きます。そして、その恐れは、自我が自分は分離していると勘違いしている(インテグレイテッド心理学でやりましたね)ことから生まれるわけですね。

なので、恐れを悪者にするのではなく、恐れがあることを許し、受け入れることで、最終的に愛しかなかったんだと気がつくことです。このとき、自我が汚い、薄っぺらい、偽物、うそ臭いなどとレッテルを貼っていたものも愛から生まれていることを知るでしょう。

空即是色、色即是空というように、空(真我)に寄り添うことからも、そして色(現象)をきちんと見つめていくことからも、結局真実にたどり着けるのだと思います。

もちろん、それらを実践することは、こんなふうにブログで数行にまとめられるほど簡単ではありません。しかし、今の自分、今の状況、そしてこの世を否定して、愛や光が見えることはまずありません。それよりも、自分がダメだ、汚い、醜いとレッテルを貼るもの(または、自分自身)の下にある恐れを見つめ、それを愛で抱きしめてみませんか?

そのとき、自分がなぜここに来たかったのかが見えてくるかもしれません♪

字幕はほどほどに

いきなりお知らせです!動画を見てくださった方も多いかと思いますが、マトリックス・リインプリンティングの開発者カール・ドーソン氏が来日します。彼は世界で28人しかいないEFTマスターの一人ですので、彼から直接EFTとマトリックス・リインプリンティングを学ぶ良いチャンスです。私も今回アシスタント講師としてお手伝いいたします。詳細はこちらへ→★

さて、前回文末に一言、“あなたはぜんぜん大丈夫です”と書いたところ、“ぜんぜん役に立たない!、深呼吸することもできなければ、何が助けになるんだろう?”というお声を頂きました。他にも、「治らない病気で痛いとか不快な思いをしてる、家も食べ物もない状態にいる、というような時に“自分は宇宙とつながっているから大丈夫”とはなかなか思えないのでは」というお声や、「自然の美しさや外界を感じることができない時、深呼吸も難しいような状態の時から、そういう余裕のある状態に移行するためにできること、(頭の理解ではなく、)は何かあるのかなと感じました。」というようなコメントも頂きました。

前回にとりあげた方は、「私は無能だ」という思いに苦しみ、そのために今の状況を作ってしまっているということがポイントだと思い、 “あなたは無能じゃないですよ。ぜんぜん大丈夫です。”という意味で書いたんですね。ちなみに、実際のカウンセリングでは、あのようなお話は一切しません。お話の場ではないので。ただ、カウンセリングの場では話せないけど、ブログで書けることもあります。ので、ぴんと来ないだろうと思いつつも、真実はとりあえず書きたくなっちゃうんですね~♪

ただ、深呼吸もできないというのは、私は信じないんです。また、心に余裕のある人だけが、自然を感じられるというのも信じませんし、スピリチュアルはある程度心が安定している人のためのものというのも、信じないんです。

例えば、呼吸より簡単なことってどんなことがあるのでしょう?努力して呼吸している人はいないはずです。ちょっと深めに呼吸をすれば良いんです。コメントを書くほうが、深呼吸をするよりずっとエネルギーを使うと思います。ちなみに深呼吸は、思考でがんじがらめになっている緊張をほぐしてくれます。

また、思考に深くはまってしまうと(苦しいと)、周囲も目に入らなくなり、自然などとても感じている気分にはなれなくなるというのは、よくあることです。だとしても、朝陽を感じようなかと思えば、できるんです。例え一秒後にはまたどっと苦しくなっても、心にとって大切な一瞬になります。

目覚めのメッセージは、どなたかも書いてくださいましたが、頭で理解している限り、不可解だったり、ぴんと来なかったりするでしょう。なので、多くの人にとって自分と無関係に感じられるのも不思議ではないと思います。

さて、思考は、どうしても状況を“判断”してしまいます。それ以外のことができないんです。

なので例えば、「年金が払えない→良くない(判断)」。これ以外に何か見方ってあるの?事実は、事実じゃないですか。事実に目をつぶるわけにはいきません!スピリチュアルなんてフワフワしたことを言っている場合じゃないんです!という反応になっても、まったくおかしくないです。

また、状況を判断するということにあまりに慣れすぎているので、私たちは覚者も同じように、状況を判断していると思ってしまいがちです。しかし覚者といわれる人々は、状況を判断して、“こんなに悲惨だけど、でも大丈夫♪”と思っているのではなく、状況を判断せず、あるがままの状態だけが見えるから、大丈夫だと“知って”いるんです。つまり、思考が介入していないんです。

例えば、「年金を払うお金がない」という状況をテレビで見ているとします。そのテレビは無声テレビですが、字幕が出ます。字幕には「私は無能だから、年金さえ払えない」「すべては私が無能だからだいけない」「家族に迷惑をかけるなんて最低だ」「こんな状況変えなければいけない」「でもどうしたら良いかぜんぜん分からない」「この年で仕事経験もない私に未来があるのか」などと出ています。

他にも次々にネガティブな思いが書かれている字幕が映り、しかも、その字幕は画面全体に大きく映し出され、それを24時間読み続けています。ものすごく苦しくなりませんか? しかも、この字幕は、自分が歩いていくところどこでもついてきます。どうにかしなくてはと思うほど、字幕の数は増え、焦りが増え、さらに字幕が増え・・・それを一つ残らず読み、ほんとか~?とか突っ込みもせず、すべてその通りだとうなづき、苦しくなる・・・というサイクルに陥ります。

このとき、意識を一旦字幕から、自分の呼吸に移し、深く息を吸ってみると、わずか数秒ですが、字幕を見ない瞬間が生まれます。また、意識を字幕から朝陽に向け、顔に暖かさを感じてみると、これも数秒かもしれませんが、字幕を見ない瞬間が生まれます。このとき、意識を100%朝陽に向けないと、朝陽に字幕がついてきてしまうでしょう。で、これが心にとってはとても大切な空間なんです。交感神経が活発になっていた状態から、副交感神経にちょっと移行できるきっかけが生まれます。

意識を自分の思考からほかのものへ移すということは、どんな人でも必ずできます。ビクトール・エミール・フランクル博士は、ナチスの強制収容所のなかで仲間が毎日死んでいく中、自分は絶対生き残り、精神科医として仕事をすると信じ続けていました。彼は「彼らが私のすべての自由を奪おうとも、私の心の自由を奪うことはできない」というような言葉を残しています。

テレビに映るものが何であれ、そこに字幕をつけるのは自分しかできず、また、どこに意識を持っていくか選ぶことも自分しかできないんです。もちろん、セラピーでは、なぜネガティブな字幕しかつかないんだろう?という原因は探っていきます。それでも、最終的にその人がどの思いを持ち、どこに意識を持っていくかまで他者が介入することは不可能なんです。

逆に言えば、すべての人が力を持っているということです。

コメントの出だしにいきなり、“救いにならない、まったく役に立たない!”と書くということは、なんで助けにならないことを書くのだ!といったような欲求不満の現れかなと思います。で、そのエネルギーは、けっこう生命力を持ったエネルギーです。このエネルギーを自分の力にできるといいなと思います。

さて、目覚めの観点からすると、あらゆるすべての事象がスピリチュアルです。目覚めの意識から生まれていないものなど一つもないんですね。

ですから、使える制度を探すとか、誰かに助けを求めるとか、具体的な行動も含めてすべてある意味スピリチュアルなんです。(セラピストの仕事ではありませんが) 良い情報をくれる友人が、そのときのあなたにとってのエンジェルであり、はっとする言葉をかけてくれたお店のおばさんが、そのときのあなたのマスターであり、震災時などに“助けよう”と一斉に人々が働く動きが無償の愛なんです。それらが見えることがスピリチュアルだと私は思っています。

ちなみに、テレビに字幕が一切映らなかったら、映像はどんなふうに見えるでしょうか?字幕だけでなく、年金とかお金とか、私とか、私がいる、私が見ているという概念すらなかったら?そこに見える風景はどんなものでしょう? 私がプチ覚醒体験したとき、洋服に小さな蛾がとまっているのが目に止まりましたが、そのとき蛾とか虫といった概念がなく、それはただそこにいて完璧でした。自然と笑みが浮かび、愛しさが沸いてきました。

またもし、テレビに出てくる字幕を読んでも、それは画面に現れては、消えていくものだからと真剣に読まなかったら、苦しみは生まれるでしょうか? もちろん、これを苦しみの真っ只中にいる人に今実践しろ言っているのではありません。覚者が苦しまない理由を書いて見たいと思ったんです。

それでは明日は、スピリチュアル心理学基礎講座です!参加者の皆さんにお会いするのを楽しみにしています♪

 

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セミナー大混乱の巻

先週末は、久しぶりにこちらのカレッジ(ホリスティック・ヒーリング・カレッジ)でEFTとマトリックス・リインプリンティングを教えてきました! いつも思うことですが、日本人でもイギリス人でも、悩みはほんと同じですねぇ。文化の違いゼロです。

マトリックス・リインプリンティングのデモをやったとき、被験者になってくれたのは、背も高く横幅もある男性でした。椅子に座ってやるのですが、タッピングをする私の手が彼の頭に届かず、クッションを3枚椅子にのせました。アシスタントさんがクッションを抱えて持って来てくれたとき、一瞬「笑点」のテーマソングが頭に浮かびましたが、絶対通じないジョークなので黙っていました。残念(笑)

ちなみに彼のテーマは「彼女が自分をコントロールしてくると、自分の感情を無視されている感じがして腹が立つ」でした。ほらっ、恋愛の悩みも同じですね~。ちなみに、彼女が本当に彼をコントロールしているかどうかは、とりあえず私の頭の中では置いておきます。というのは、それは投影である可能性が非常に高いからです。

長い話を省略し、結果として、たくさんの涙を流した後、最終的に怒り、罪悪感、悲しみ、不安など多くの感情を解放しました。次の日彼は、長年の大きなわだかまりをシフトできたと目をキラキラさせて言いに来てくれ、こういうときは、セラピスト冥利につきるなぁと思います。

さて、マトリックス・リインプリンティングは、潜在意識にダイレクトにワークするので、終わった後は、少し放心状態になったりします。(ならないことも多いですが) また、長年抑圧していた傷口がぱかっと開いて、そこにワークをするので、精神的にもとても敏感になったりもします。(ワーク後、お茶を飲んだり、何か食べたりすることで通常の状態に戻ります)

彼も少し放心状態になっていて、真横に座っていた私は、彼がだいぶ敏感になっているのも感じられました。で、彼は“今見たデモの話は、絶対に秘密厳守にして欲しい。僕の心の深いところが露呈して、なんだか敏感になっているから、あれこれ今話をするのを辞めて欲しい”と、デモを見ていたほかの参加者の人たちに告げました。

たぶん日本ではおそらく、そうかぁ、じゃぁ、聞きたいことあるけど、今はやめておこうといった配慮を暗黙にしたりすると思いますが、ここはイギリスです。「空気を読む」という言葉は存在しません。

“えっ、でもどこでシフトを感じたか知りたい”、“話し合わないとデモの意味がないじゃないか”、出挙句の果て、“デモに手を挙げておいて、それはないだろう。そんな子供みたいじゃダメだ”という声や、“彼の気持ちを尊重してあげましょうよ”、“私は今彼にハグしてあげたい気持ち!”とか、みなてんでんバラバラ、人が話し終わる前に次々と自分の意見を口にし、その口論にあきれて勝手に休憩に行く人も出たり、その場は大混乱になってしまいました。

もちろん、私も声を大きくし、“ちょっと話を聞いてください!”と何度も言っていたのですが、誰も聞いていない・・・・。結局、私のしきりなしに、全員勝手に休憩となりました。

ただ、こういう状態は今まで何度もいろいろなミーティングやセミナーで目撃&経験しているので、お陰でまったく動揺はしませんでした。(強くなった!)そして、実は言いたいだけ言って割りにからっとしているので、後腐れもあまりないんです。

しかし、人を癒す仕事に就く人たちが、お互いに指を指しあって、口論しているだけでは、ちょっと困ります。また、このコースはスピリチュアルな考えを統合させているのが特徴で、みんなスピリチュアルなことへの関心がとても深いんです。

が、スピリチュアル系のミーティングやセラピーのコースなどで、それなりに見かけるのは、「普段の私」と「スピリチュアルな私」が無意識に分かれているケースです。なので、ワンネスだとか、無条件の愛とか、そういった言葉を口にしながら、自分が攻撃されたと感じると、急に「普段の私」が顔をだし、1分前に話していたワンネスが吹っ飛んでしまい、相手を批判し始めたりします。

今回もちょうどそんなケースでした。あちこちの口から「shouldべき」が飛び交い、それぞれが相手がどうあるべきかを主張し、ランチ後には、私がどうするべきだったかまで言いに来た人もいました。

しかし、一番大切なことは、もちろん誰が正しいかとか、どうあるべきかではなく、そういったストーリーにはまらないことです。誰も間違っていないし、ある意味みんな正しいんです。

「みんな思うこと、感じたことをありのまま言い、行動している」マル、終わり、です。

なので、意見をまとめようとか、どうあるべきかみんなで考えようということよりも、私は、今自分の中でなにが起きているかに注目して欲しいなと思いました。例えば、誰かの言葉にむっとしている、誰かの行動に腹が立った、びっくりした・・・、などなど、今まさに自分の中でなにが起きているのだろう?それは、なぜ起きているのだろうか?と自分を理解することです。

人の言葉に反応したり、ジャッジしたりしてもぜんぜん良いんです。今日一日考えることをすべて決めることが誰にもできないように、思いは勝手に浮かんできてしまいます。

もちろん、潜在意識に不安が大きくある人は、どちらかというとネガティブな思いや感情が沸きがちですし、自己愛が多い人は、その反対になります。とはいえ、不安が大きいからダメ、自己愛が高いから良いという話ではなく、ここでのポイントは、次にどんな思いが沸いてくるかをいちいち私たちはコントロールすることはできないということです。

ただ私たちは、出てきたもの、沸いてきた思いにちゃんと気づくことはできます。また、出てきた思いを信じるか、信じないかという選択もできます。あっ、今私はあの人をジャッジしているなと気づき、ふ~ん、これは私のストーリーだなぁ、さてどうしようかと決められますね。つまり、「何が正しいのかストーリー」にどっぷり浸からずに自分を観察することが出来るはずです。

そして、ハートは何を求めているだろう?とハートに意識をシフトすることもできるでしょう。もしかすると、自分を理解したい、自分に愛を送りたい、または相手を理解したい、相手とつながりたいと求めているかもしれません。

エゴ(正しさ)のなかで癒しは起きませんが、理解(愛)があるところには、癒しが起きます。カウンセラー&セラピストになるコースですから、私はここはぜひ気づいて欲しいと思い、ランチの後にこの話してみました。ランチ前の大混乱とはうってかわって、みな静かに聴いてくれ、なんと拍手までもらってしまいました!う、嬉しい~。

思考のストーリーにはまれば、苦しみが生まれ、ストーリーから抜け出せば、苦しみも消える。シンプル。ただ、重たい感情がくっついていると、抜け出すことがなかなか難しいですね。トニー・パーソンズというイギリス人の覚者は、“セラピーは牢獄の部屋を住みやすくするもの”とよく言います。(牢獄とは、「私」という小さい分離した自分のこと)

いやぁ、実にその通り!と思いますが、それでもストーリーから抜け出すツールとしては、とても使えると思います♪

心の風景、外に見える風景

ロンドンのカウンセリングコースが終わりました。私のパッションと経験と知識とスキルをフルに使った二週間でした。今年は、新しい先生も迎え、参加者の皆さんも大いに学び、楽しんで頂いたかなと思います。ちなみに、このコースでは、私を入れて5名がコースの講師をしていますが、近いうちに、彼らのプロフィールをカウンセラー養成講座のコーナーにアップしますね。(6年間これをどうして思いつかなかったのか!)

さて、今回もコメントにお返事させて頂きます。コメントありがとうございます!

素朴な疑問なのですが、スピリチュアルではよく「自分の内面が外側に反映される」と言いますよね。自分を愛せるのならば、その反映として自分を愛する人が表れるや、自分が満たされていれば満たされた状況が表れるなどなど。でも、いわゆる悟りを開いた覚者でも人生で健康面、人間関係、経済状況などで困難に立たされている場面を度々目にするのは何故なのでしょう。悟ると、状況が変わることではなくて、状況に対する自分の反応がかわるのです、とはよく聞く言葉ですが、だったら内面の反映とかいう話はどこへいくのだろう?と疑問に思います。

良いご質問です!そして、このへんは、混乱している方も多いのではないかなと思います。一番の混乱は、「自分の内面が外側に反映される」という意味を、外面=状況だと思ってしまっている、またはそう教えている人もいることにあるのかなと思います。

または、「自分のなかに愛が増えれば、生きることが快適になる」と書くと、状況が良くなるから快適になると解釈する人も多いかもしれません。

しかし、スピリチュアル心理学を受けてくださった方は、お分かりかと思いますが、外面に反映されるという意味は、「内面の心の状態を通して周囲、社会を見る」(投影)という意味ですね。

とりあえず、自分を愛するとは、どういうことでしょうか? そうです。自分の中に愛がたくさんあるということですね。で、愛とは、すべてのポジティブな感情の総称です。なので、自分の中に信頼、勇気、共感、つながり、思いやり、強さ、優しさ、感謝、健康な警戒心、安心感などなど、いろいろな愛から生まれるクオリティーが増えるわけです。

自分を愛しているけど自信がないとか、自分を愛しているけど感謝の気持ちが持てない、または、自分を愛しているけど世間が怖い、などなどという状態は、ありえないんですね。

例えば、潜在意識のレベルで「私は力がない」と強く信じていれば、恐れのレベルが高まるので、世間は怖いところに映るでしょう。道を歩いていても、人が冷たく見えたり、自分に無関心に見えたり。また、誰かが大声で怒鳴っていたりすると、怖いと思うかもしれません。

または、人が不親切に見えるので、ときには、自分はいじわるされたと思うかもしれません。自分をネガティブに見ている分だけ、周囲や社会もネガティブに解釈し、また、ネガティブな面ばかりに意識が行きます。

ところが、「私には力がある」と潜在意識のレベルで思っている人は、道を歩いていても、人が親切そうに見えたり、気軽に友達になれそうに感じたり、みんなそれぞれ一生懸命生きているなぁ、素晴らしいなぁと感じたりなど、世間は温かい風景として見えるでしょう。

同じ道を歩いていても、見えている風景、経験していることが違うのは、心の風景(状態)が違うからですね。

つまり、自分の中に愛があれば、周囲と社会の中にたくさん愛を見るわけです。これが、「自分の内面が外側に反映される」という意味です。

私たちが思い、感じ、そして行動したことが、結果となりますので、もちろん、心が愛ベースであるほうが、結果もポジティブになることが多いでしょう。ただ、いつもすべてが100%ポジティブな結果というわけではありません。

ただ、例え何が起きても、そこに愛(ポジティブな要素)を見ることが出来るので、苦しみの度合いはうんと低いでしょう。病気という状態のなかで愛が見え、経済的な困難な中でも愛が見えたら、心は幸せですね。

反対に、完璧な状況になっていても、心に愛を感じなければ、幸福感はゼロでしょう。

さて、いわゆる悟った人への誤解もあるかなと思いますが、悟った人(覚者)の私の定義は、「個としての自分はいない」「この世には誰もいない」という目覚めた意識で現実を生きている人です。

真の自分の姿は、個でも、事象でもなく、起きることのすべてに気づいている無限のエネルギー、覚醒意識、知的意識(呼び名はなんでも)であるという意識で生きている人です。

決して、心の隅々まで癒して、ネガティブゼロ、ポジティブ100%のエネルギーで生きている人ということではないんです。

プチ覚醒体験直後、左側の腰が非常に痛み、歩き辛かったことがありました。しかし、そのときの私は、痛みは自分のものではない(私はいないから)とはっきり分かっていたので、無からこんなふうなふうに感覚(痛み)が生まれるんだなぁ~、すごいなぁ、ミラクルだぁ~と感じていました。

痛みはありましたが、苦しんでいなかったんです。そこで初めて、今まで自分がどれだけ「痛み=苦しみ」という強いエゴの刷り込みで生きていたかを思い知りました。

起きた出来事を「これは、良い出来事」、「これは悪い出来事」というように判断するのは、エゴ(思考)のお仕事です。

ということで、どの人の人生にもいろいろな出来事が起きます。しかし、幸せを状況に委ねなくて良いという真実は、大きな救いだと私は思っています。つまり、誰も状況の犠牲者ではないからです。

真の愛ベースの生き方とは、自分の中の不安や恐れを受け入れ、場所を与えてあげ、ポジティブもネガティブもすべて受け入れた状態で生きることでしょう。

「打倒、ネガティブ!」ではなく、しっかり受け入れたとき、恐れに振り回されずに恐れを感じることができます。そのとき、ポジティブかネガティブかという二極を越えた無限のスペースが自分の中に広がるのでしょう。

ゲームの目的は、愛、智恵、そして力を経験すること

今週から二週間、ロンドンカウンセリングコースが始まりました!( Integrated Counselling Diploma Course)いろいろな意味で、私にとってとても大切なコースであり、やりがいと喜びが感じられるハートわっくわっくの仕事です。でも、更新が遅れてしまいます。

さて前回は、目覚めの話でしたが、コース中でもあり、私のハートはやはり「癒し」にあるなぁとつくづく思います。ということで、今回もコメントにお返事させてください。

さまざまな今生での出来事を経験したくてここに来た、というなら何となくわかります。辛くても,それが自分(?)の希望だったと理解して,耐えるというか経験していくという意味で。だからどうして自分だけこんな目にって思うこといっぱいあっても,別の視点(経験しにやって来た)から見るように自分を持って行くっていう。<省略>最近本当に多く感じるいじめで自ら死を選ばざるを得ないと思ってしまう人達がいるけれど,そういう悲しさや悔しさもゲームなのだろうか。

まず、「いろいろな出来事を経験する」というのと、「いろいろな経験をする」というのは、意味が微妙にまったく違うでしょう。私たちは、いろいろな出来事に遭遇するために生まれてきたのではなく、いろいろな経験をするためにここに来たんです。

「経験」というのは、ものすごく主観的なものです。例えば、3人がまったく同じ出来事に遭遇していても、経験はそれぞれ違いますね。

経験とは結局、出来事に対して「自分が思ったことと、感じたこと」です。

かつて私が東京で働いていたとき、上司と一緒に役所へある問い合わせをしに行ったことがありました。私は、担当の女性がすごくぶっきらぼうで横柄だと感じ、途中からむかむか腹が立っていました。

上司も同じように感じているだろうと隣にいた上司の顔を見てみると、まったく気にしてない様子で、そのまま淡々と用件を済ませていました。私は、少々驚き、部屋を出たあと、“担当の女性の態度、すごく横柄じゃなかったですか?”と聞くと、上司は、“そうだったかしら・・・?”とまったく感じていない様子でした。

つまりこのとき、「役所で私は横柄に扱われた」というのが私の経験で、「役所で用を済ませた」が上司の経験になるわけです。

当時、私は自分が「自分は能力以下に見られる」と真剣に悩んでいました。それを友人たちに相談すると、“グレーのスーツを着るとできそうに見える”、“眼鏡よ、眼鏡、かしこそうに見えるから”とか、“低い声で話すと、信頼されるよ”とか、いろいろアドバイスをもらい、ぜんぶ試してみましたが、効果ゼロでした。

話が逸れましたが、「私は能力以下に見られる」という思いを担当の女性の態度に投影し、適当に扱われたと思って、腹を立てていたわけですね。ところが、そういった思いを癒し、「私は、それなりにやっている」という思いにしっかり変わっていくと、「人からバカにされる」という経験もなくなっていきました。

さてイギリスでも、激しいネットのいじめも含め、いじめはやはり大きな問題です。思春期までの子供にとって、いじめはかなりきつく、とても辛い出来事です。当人が自殺してしまった場合、家族はもちろん、関わった人全員の心の中に深い暗闇ができてしまいます。

じゃぁ、魂はいじめられるという出来事を選んで来たのでしょうか?そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。

しかし、ここではもう少し広い視野で見てみると良いかもしれません。魂が、辛さや深い暗闇を経験することを計画してくることもあるでしょう。でも、それは最終的に「愛」を真に体験したいからだと私は思っています。

ガイアも「(あなたの)人生の目的が何であるかにかかわらず、愛、力、智恵というこれらの三つが必ず盛り込まれています」と言っています。また、人間ゲームをやっている私たちが住む宇宙は、「調和を生み、もたらし、そしてさらにもう一段高く、拡張した調和へと発展していくように作られているのです」とも言っていますね。

つまり、私たちがここにいる理由は、単に、“出来事があった、苦しかった、辛かった、終わり”ではないんです。

忘れてならないのは、苦しさ、辛さ、暗闇は、必ず癒されるということです。癒されない心の傷、癒されない心の闇というものは、存在しません。(断言)

ただ、無意識に癒しに抵抗する人はたくさんいます。例えば、人によっては怒りをずっと抱え続けたいと深いレベルで思っている人もいます。怒りを解放するということは、加害者を許すことだ、そんなことは絶対しないぞ、とその人が決めていれば、その怒りを癒すことは誰にもできません。

でも、怒りを抱え続ける苦しさを経験し尽くし、ある時点でその人は、もう手放したいと願うかもしれません。そして怒りを解放し、相手を許したとき、実は許しとは、相手のためではなく、自分のためだったと学ぶでしょう。(智恵)

そのとき、その人の心の中に今まで経験したことがなかったような心の平和が広がり、許し(愛)の力を経験するでしょう。魂によっては、この許しに至るまでに、いくつもの生を経ることもあるかもしれません。

しかし、暗闇を通っただけに、自分の中に感じた許しの愛のパワーに大きなインパクトをきっと受けはずです。それは、愛を深く体験した一瞬です。それを経験したとき、この人の中で、いじめの出来事は、最初に感じた経験とまったく違う経験に変わりますね。なぜなら、思うことと感じることが変わってきているからです。

真の癒しとは、ひどい目に遭ったかわいそうな私を癒すだけではなく、癒しを通して、学び、成長し、さらに高い視点に立てることだと思います。

被害者も加害者も心の闇を癒し、真の智恵を身につけ、愛を体験し、そして、その人たちがもたらす智恵と愛の波動が、この地球と宇宙をさらに高い調和へと導くのだと思います。

前回の続きで書くと、この驚異的で荘厳、かつ深遠で壮大なゲームは、夢から覚めたとき、“あっ、今まで何も起きていなかった”と分かります。

でも、私たちはありえないほど大掛かりで、奇跡としか言えないようなゲームをしているんです。大いに楽しみ、しっかり人生を味わいたいですね♪

☆スピリチュアル心理学基礎講座 in ロンドン

 内容:こちらをクリックしてください→☆
 日程:2012年10月27日(土)、28日(日)(10時~4時半)
 場所:Caterham(ゾーン6 私の自宅)
 費用:150ポンド(二日間)
 申し込み:info_ayukahealingspace@yahoo.co.jp まで
 「ロンドン・スピリチュアル心理学講座申し込み」と題し、お送りください。

☆日本でのスピリチュアル心理学、基礎、中級、上級講座は、来年2月と3月に開催予定です。詳細は、追ってメール&ブログでお知らせいたします。また、目覚めのセミナーも開催しますので、ご都合がつく方はぜひいらしてください!

誰がゲームを辞めるの?

ロンドンはオリンピック酔い(?)から、みなしらふに戻り、普段の生活を前に、あぁ~あ、ずっと酔っていたかったという声があちことで聞こえます(笑)。さて、今回もコメントにお返事させてください。コメントありがとうございます!

すべて幻想でゲームで、この世に生まれてきたことは、経験するためということを聞きました。楽しいことばかりではなく、苦しさも、死ぬほどつらいこともいろいろ。そのために生まれてくるのだと。でも一方で、もう本当の自分に戻りましょう、とか、自分と向き合って、もう辛いゲームは止めましょう、本当に自分とつながって楽になりましょうなどということもよく聞きます。<省略> 経験することが目的ならば、もうそういう経験は止めましょうといっているような感じのことに違和感を感じることがあります。<省略>やっぱり経験するためと言ったって、しんどいことは悪とみなしてしまうのかとか。ゲームであるなら、楽な方がいいから、それを選択するといいですよということですか?

とても鋭い観点です。このような疑問を持たれることは、素晴らしい!と思います。

で、ここには、とても微妙に入り込んだ誤解があります。このコメントの方が誤解しているということではなく、目覚めに関して、発信する側がときどき真偽をごっちゃにしている感があります。または「真の私」の定義が違うのかもしれません。いずれにせよ、当然受け取る側も誤解するでしょう。

とりあえず、まず誤解とは、「私は生まれてきた」という誤解です。真実は、「私は生まれてきたと思っている夢をみている」です。

言葉の限界がありますが、できるだけわかりやすく説明してみたいと思います。

「本当の私」とか「真の私」といった言葉がすでに混乱を招くなぁと思いつつ、他の言葉がないので私も使ってしまっていますが、「真の私」と言うとき、「個としての私」をさしているんではないんですね。

「真の私」とは、無限に開かれた状態です。人でも何かでもありません。英語では、Open Intelligence(開かれた知性)、Pure Awareness(純粋な気づいた意識)などと書かれたりもします。

そして、その無限に開かれた状態の中に、様々な現象が現れてくるわけです。そして、その無限に開かれた状態は、刻々と形を変え、動き、現れ、消えていく現象(人間ゲームとか)を観察しているんですね。そして、その観察しているほうが、真の私(あなた)です。

で、「ゲームをやっている私」は、現象のほうの私ですから、夢の中の私です。つまり、ゲームをやっている私は存在していないんです。

例えば、夜寝ているときに見る夢の中の自分は、実際に存在しているでしょうか? 朝、目覚めたとき、夢の中の自分はどこに行ったのでしょう? 夢の中にいた人たちや場所はどこへ行ったのでしょうか? そしてもし、毎朝目覚めるのではなく、長期間ずっと目覚めなかったら、あなたは夢の中の自分は現実に存在していると思ってしまうかもしれませんね。また、夢の中で体験したことを、実体験だと思ってしまうかもしれません。

それとまったく同じことなんです。目覚めたとき、あっ、はじめからゲームなんてしていなかった、今まで何一つ起きていなかったのだ、私は存在していなかった、というか誰も何も存在していないのだ・・・と気づくんですね。

奇跡の学習コースでも「この世には誰もいない(No one is out there )」と繰り返し言っていますね。(始め聞いたときは、意味がさっぱりわかりませんでした)

なので、「もうゲームからおりて」というとき、「誰が、降りるの?」というのが、私の最初に浮かんでくる質問です。で、それが個としての誰か、例えば、溝口あゆかがもうゲームからおりて、ただ愛であることに気づく・・・ということを意味しているのなら、そこが大きな誤解なんです。

真のメッセージは、「“ゲームをおりましょう”ではなく、“真のあなたは、そもそもゲームなどしていないことに気づきましょう”」なんです。

私も、人間レベル(夢の話)と覚醒の話を一緒の記事の中で書いたりしてしまうので、皆さんを混乱させてしまうのにだいぶ加担しているなぁと反省していますが、苦しんでいる方、悩んでいる方へ「自分を見つめると楽になりますよ」というメッセージは、完全に人間レベルのメッセージです。つまり、楽しい夢を見るためのメッセージです。(これからも続けます!)

話を戻すと、アセンションも壮大な夢で、無限にあるように見える宇宙さえも夢です。でも、仏教に「空即是色、色即是空」とあるように、空としての開かれた意識は、同時にこれらの現象(色)でもあるんですね。

無限で開かれた意識(覚醒した意識、開かれた知性、空など)と現象は、コインの裏表のように分けることができません。

ですから、決して現象を否定しません。それどころか、その驚異に感嘆し、すべてを受け入れ、すべてを愛しています。辛いことも、恐れも、喜びも、愛も。すべてのゲームを受け入れ、愛しています。

現象の中では、ゲームは永遠に繰り広げられます。でも、もし自分は個であるという幻想を抱いているあなたが、ゲームをしているという幻想(輪廻)から抜け出したかったら、あなたは、ゲームをしている存在ではなく、ゲームを観察している意識のほうだったのだ、ということに目覚めましょう、というのが古今東西の多くの覚者のメッセージですね。

「個としての私」がゲームを降りるのだ!と頑張ってたどり着く先は、「私は人間ゲームをおりた」という夢です。ここが多くの人がごっちゃにしているところでもあり、分かりにくいところでもあるでしょう。

もしかすると、今回の記事は、なるほど~!という人と、もっと混乱した~という人の二つにぱっかり分かれるかもしれません。が、こんな狭いスペースでは書き切れません。いずれにせよ、こうやって疑問を持ちながら真実にたどり着いていくんですね♪

さて、お知らせです!

☆スピリチュアル心理学基礎講座 in ロンドン

 内容:こちらをクリックしてください→☆
 日程:2012年10月27日(土)、28日(日)(10時~4時半)
 場所:Caterham(ゾーン6 私の自宅)
 費用:150ポンド(二日間)
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 「ロンドン・スピリチュアル心理学講座申し込み」と題し、お送りください。

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