自分から自由になる♪

「私という自己はいない」。前回の続きです。しかし、当然私たちは「(個)の自分がいる感覚」が満々にあります。 そして個がいる限り、分離があり、分離がある限り所有がありますね。つまり、私の思い、私の体、私の感情、私の人生、私の親、私のパートナー、私の子供、私の家、私の仕事、私の夢・・・・。

これ自体は何も悪くありませんし、分離のゲームを健全に生きるには、境界線を引くこともとても大切です。

しかし、この所有感覚が強ければ強いほど、私たちはこれらをコントロールする必要がでてきます。自分の領土、資源を守る、できればもっと領土を広げたい、自分の利権や権力を守る、それらは多ければ多いほど良い・・・。地球上で起きている争いの多くはここにあるとも言えるでしょう。

また、もっと個人のレベルでも、私の子供の進学はなによりも重要だ、私の老後はお金の心配がないようにしたい、などなど。言い換えれば、自分の人生は自分が思うようになっていないといけない・・・。

そしていろいろ思い通りにしない中で、実は最も大切なのが、どんな自分であるのか?なんです。自分は自分だけが所有していて、その自分は何よりも一番大切。馬鹿な自分ではなくて、優秀な自分でいたい。嫉妬しまくっている自分ではなくて、心優しい自分でいたい。孤独な自分ではなくて、みんなから愛される自分でいたい。

どんなに権力、財産、パワーを有していても、最後まで気になるのがどんな自分か?なんですね。例えば、もうすでに権力もお金もあるのに、さらに求めている人がいるとしたら、それはお金や権力が欲しいのではなく、「それができる自分」でい続けることが大切。

なぜならそれが一番の安心感と満足感を与えてくれるからです。つまり、良い自分でい続けること。(根本的には愛の欠如、そして本質からの分離を埋めたい)

ということで、個の自分が一番気にしているのは、自分という所有物をコントロールすることです。じゃぁ、どうやってコントロールするのか?

そう、こうやって良い自分でいたい、良い自分にするのだというミッションの元、私たちの中に「コメンテーター」が生まれるのです。これはオープン・アウェアネス・ダイアローグの講座の中(気づきの問いかけ講座でもやります)で説明している「もう一人の自分」です。

個の自分というのは、基本的に存在しない幻想の自分です。その「幻想の自分」の中に二人の自分がたいていどの人の中にもいます。

人生いろいろあるなか頑張って生きている自分とコメンテーターの自分です。コメンテーターは基本的に頑張って生きている自分の監視役です。

例えば、頑張って生きている自分がありのままでいると、コメンテーターが、“ありのままのあなたは受け入れてもらえないよ”とか、“ありのままでいると嫌われるよ”、“もっと笑顔を振りまかないと、そんな話題つまんないし”などなどと注意してきます。

または、やさぐれたコメンテーターなどは、“どうせ誰もあなたのことなんか好きじゃないんだから、ふてくされちゃえ”、“どうせ嫌われるんだから、その前にみんなを嫌ってやれ!”、“嫌われる自分なら知っているから、嫌われる振る舞いをわざとしちゃえば?”といったコメントもしてきます。

とにかく常に自分の言動をジャッジし、良い悪いのレッテルを貼り、誰よりも厳しく監視している自分です。

このコメンテーターの声が大きすぎると、自分を見つめるとか、自己ワークなどもなかなか難しくなります。例えば、悲しんでいる自分に対して、“もっと大変な人もいるんだから”とか、または自己啓発やスピにそまったコメンテーターは、“これもベストのタイミングで起きている”、“すべては学びだ”と語りかけてきます。

しかし、コメンテーターがやっていることは、そうやって悲しいというピュアな感情に蓋をしてしまっていることです。

ちなみに自己啓発、スピのコメンテーターは基本的に正しいことを言っていることも多く、また優しい言葉であることも多いでしょう。なので、非常に気がつきにくいのですが、自分がスッキリしていなければ、蓋になっているだけなんですね。

さて、このコメンテーターは自分だけではなく、周囲も監視しています。つまり人の目を気にしているのです。人からどうやって見られているか?は、自分という所有物を良くするために非常に大切です。

ところがここで一つ大きな問題があります。

それは、コメンテーターに見えている”人の目”は、ほんとうは自分の目だということです。つまり、ものすごく主観的な判断でほとんど役に立っていないんです。しかし、そこに気づいていないために自分で自分を縛るという一人芝居の苦しみ(または喜び)に陥ってしまいがちです。

例えば、抑圧投影を学んでくださった方はお分かりだと思いますが、“私は田舎者だから服装に気をつけるべき”という思い込みをコメンテーターが持っていたとしたら、他者の目がいつも自分の服装を見ている(ここが投影です)ような気がして緊張感がある・・・など。

ものすごく大雑把に言ってしまえば、コメンテーターの目が厳しければ、人の目も厳しくなり、コメンテーターの目が優しければ、人の目も優しくなりますね。

さて、話は一番最初に戻り、そもそも頑張っている私もコメンテーターの私もいないのなら、一体ここで何が起きているのでしょうか?

そこにあるのは、自分がいるという思い込み(思考です)、感情、体(体感)が複雑に絡み合い様々な反応をしている動きがあるだけです。そして、それらすべてに気づいている意識があり、気づいているのは幻想の自分ではありません。

わかりにくいでしょうか?追々説明させてください。

いずれにしても、頑張っている私もコメンテーターの私も気づきの意識の中で現れ、許され、受容され、無条件に愛されています。だからどんな自分でも大丈夫♪

コメンテーターでなく、本質である気づきの意識の視点に立ったとき、私たちは自分をコントロールし続けるストレスから解放されますね。

コメンテーターの自分から自分を解放し、本質の視点から自分を生きる♪

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