あなたは何に“自分”を見出している?

かつてロンドンの駐在員の奥さま達から「婦人会」みたいなものがあると何度か聞いたことがありました。(今もあるかどうか定かではありません。)

それは大使館員の妻が一番上で次に金融・・・みたいな分かりやすい?格付けがり、その順番にテーブルに座るなど、いろいろ気遣いをしなければいけなかいそうです。

その話を聞くたびに、自分じゃなくて旦那さんの職業なのに・・・とつい思っていましたが、その心理自体はよ~く分かります。

ということで、毎度のエックハルト・トーレの言葉です。

“エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンティティである” (ニュー・アースより)

自我とは基本的に実体のないものです。自分が何ものなのか、どうして存在しているのか、深いレベルではいつも不安定、不確定なんですね。

なのでなにか「これ」というものを求めて、自分探しに出かけたり、存在の意味を知ろうとするわけです。

でも、実体のなさはどうしようもありません。そこで、なにかに同化して「自分の存在」を安定させたい、存在している意味を持ちたいという無意識の衝動が常に走ります。

そして、その同化するアイデンティティはできればより良いもののほうが、存在を強固にすることができると無意識に思っています。

なので、○○の妻(○○には世間的に地位が高いとか有名とかそういったもの)というアイデンティティは、専業主婦の私よりもアイデンティティが高まるわけです。

あるクライアントさんの母親は夫が商社を辞めて、田舎の家業を継いだあと、ずっと“私は商社マンと結婚したのに・・・・”と不満を言い続けていたそうです。

これもある意味、“商社マンの妻”というアイデンティティを崩された不満ですね。

もちろん、そういったことに価値を置いていない人もたくさんいることでしょう。ですが、すべての自我が何かにアイデンティティを見出そうとするという点では同じなんです。

しかし、問題はアイデンティティが保てなくなってしまったり、崩壊したときに、それが私たちにとって無意識のレベルで「死」を意味してしまうことです。

なので、アイデンティティを攻撃されたと思うとものすご~い怒りとなります。または、鬱状態になるなど。

例えば、会社や仕事にアイデンティティを強く持ち、それに誇りを持っていた人ほど、定年後は人づきあいや、趣味に没頭することが難しく感じるはずです。

会社人としての自分というアイデンティティで生きていために、それがない自分がどう社会とかかわり合うのか、楽しみにしていた趣味よりも失われた自分への喪失感、不安定感(ぜんぶ無意識です)のほうがはるかに大きすぎて楽しめなかったり。

アイデンティティとは、自我にとって自分を支えるもの、自分の存在を確認するもの、自分が生きていく上での軸となるものなので、基本的にその人にとって「理想的なもの」「大切なのもの」であることが多いです。

自分にとって価値のないものや価値が下がるものに好んでアイデンティティを見出す人はほとんどいないでしょう。

例えば、誰かが“私は何もとりえのない専業主婦です”というとき、それは本当はもっと良いアイデンティティが欲しいけど、ないから妥協している、心底満足していない場合が多いはずです。(もちろん人によります)

ちなみにアイデンティティの創造も崩壊もほぼすべて無意識下に行われています。

と、ここまで書いた上で、皆さんをもっと自我の深層にお連れします。うふふ。

ここまではある意味大人になってからのアイデンティティについて書いてきましたが、一番コアのアイデンティティは幼少のころに出来上がっていきます。

セルフイメージといっても良いかもしれません。育った環境の中で自分はどんな人間なのか、どんな存在であるかといった思い込み(ビリーフ)が無意識に形成されていくんですね。

例えば、両親が忙しくて自分にまったくかまってくれない場合、「私は取るに足らない存在だ」「私は重要ではない」といった思い込み(ビリーフ)が生まれたとします。

この場合、たんにビリーフだけではなく、実はもっと大切なのがそこにある「自分のイメージ」なんです。

例えば、取るに足らない自分のイメージは隅っこでうつむいているかもしれません。そして周りはみんな自分に無関心で忙しそう、そこにある感情は寂しさ、心もとなさだったとします。

このイメージ、感情、感覚は次第に私たちのアイデンティティとなっていき、するといつもどこかに寂しさがあったり、グループの中でも周囲が自分に興味を示してくれるように感じなかったり・・・。

コアのアイデンティティは、このように育った環境から出来上がってきたいわゆる「セルフイメージ」とも言われるものがほとんどです。

で、この私が大人になって「商社マンの妻」という新しいアイデンティティも獲得したとき、取るに足らない私は、自我を強化してくれるこのアイデンティティを手放したくないですよね。

基本的に不安定さを埋めたいといつも私たちは思っているので。

でも、そもそもこのアイデンティティ、つまり、思いとイメージ、そしてそこに付随する感情、感覚は、基本的に実体のないものですね。

実体のない自我が自分を確かなものにしたいと必死に求め、獲得し、守ろうとしているアイデンティティもまた、まったく実体のない絵に描いた餅なんです。

これを見破るまで、おそらく私たちはアイデンティティの獲得と防衛、そして喪失というゲームを繰り返すのかもしれません。

では、自我はどこに安住を求めることができるのでしょうか?
それは自我がずっとスルーし続けてきた自分の本質。自分が生まれた起源。

そしてそれを思い出すためには、まず自分のアイデンティティをきちんと見ていくこと。自分の中を通って、私たちは本質を思い出せるんですね。

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あなたは何に“自分”を見出している?」への8件のフィードバック

  1. あゆかさん、こんばんは。
    家で一人で、日向ぼっこして、ぼんやりと空を眺めているとき、
    あ、私っていないなあ。生かされていて、一部だなぁ。すごいなぁ。生きてるなあ。と感じることができるようになりました。
    すごく不思議で、すごく幼い頃、こんな感覚だったなあ。似てるなあと思います。
    何だこれ。とも思います。
    とても空っぽなのに、満たされています。

    で、仕事場などでは、できるできない、失敗、合わないなどなど、当たり前だけどいろんな人がいて、仕事の流れを大事にするために自分のも、他人のも、アイデンティティ的なものや比較をバシバシ感じます。やってもらった。とか、やってあげた。とか。若いからとか、歳だからとか、とか。
    自分からも出てきます。すべきなのに。とかできなかった。とか。上司への気遣いとか、同僚とうまく付き合う。とか。可愛い。とか、ぶりっ子だ。とか。調子いい奴!とか。

    家に帰ると、そのギャップに辟易してしまいます。クタクタです。
    うまくやりたい。と思います。
    流れを滞りなく。とも思います。
    いい職場にしたい。とも思います。
    そうすると、凹凸や滞りや、上手い下手。嫌でも目につくのです。
    不満になります。不安にもなります。得意にもなるし、自分のダメなとこと判断もしてしまいます。
    で、家に帰って愕然とするのです。

    • ユミさん、こんにちは♪

      分かりますよ~。と、書いて違っていたらごめんなさい。とりえず、私はこうありたい、こうあるべきがとっても強かったので、けっこうクタクタになっていました。

      こうありたい、こうあるべきという思いがあるとしたら、その下にすごく何かを求めている私がいて、私はその自分と対話して、ありたい、あるべきを手放していきました。

      同じことを書いているかどうか分かりませんが、だいぶ楽になりましたよ~♪

      • 応えられる自分であるべき。
        理想的であるべき。模範であるべき。
        と出てきました。
        同時に反比例として自分に否定と叱咤されて圧倒されて置いていかれていじけている自分も。
        いやー、理想高すぎですね。汗
        そしてその理想は、私が求めている状態ではありませんでした。。。
        そういえば私も4歳くらいの時、両親が別の病気で揃って入院してしまい、嫌がる叔母に無理やり預けられ、えらい否定されまくりました。嫌オーラがこわかった。
        今、叔母の立場になれば、そりゃそう反応しても仕方ないよ。とにかく死なないようにしてさらに幼稚園に通わせてくれただけでも大感謝なのですが。
        そして今、他人の子供が嫌いです。子供いません。結婚も恐ろしい。
        まるごとでくるから。
        あーー。。。忘れてた。
        ありがとうございます。
        飛び込んできます。

        確認なのですが、下にある自分とは、
        その時反応してしまって、記憶に残っている分離された自分ですよね?そこからの作り上げてしまった幻想世界とか。
        たまにギャップがきつすぎて混乱します。どっちだっけ?って。笑

        あと、アイデンティティで出てくるのは、
        見た目です。
        モデルさんや、化粧品のCMに出てくるような女優さんをつい追いかけてしまいます。女性なら一度はいいなあと思ってしまうと思うのですが、そしてそうではないと思ってしまった自分を近づけようとちからづくな無理しようとする感じがします。
        そういえば私はいないなあと感じているときは微塵も出てきません。化粧なんてとっとと落としたい。眉毛の形なんていいわ。いまこの器を大事にできればいい。くらいに思ってる。笑笑
        完璧さに圧倒されるばかりです。

        • ユミさん、お返事ありがとうございます。

          下にある自分とは、もっとナチュラルな自分のことです。傷ついて、抑圧され、分離された自分の下にいる自分です。顕在意識上の自分、抑圧され、分離した自分、そしてその下にナチュラルな自分、人間ってほんと複雑です。(*^_^*)

          • わあ!ありがとうございます。
            なるほどです。

            視野広すぎですね!
            腑に落ちる感じがします。
            分析してしまう思考より、もっと向こうまでいくのですね。

  2. ブログいつも楽しみに拝見しています。
    行動してみると気づくのが、毎回興味を持ち、行動に移せるものをしてみると同じような状況やパターンに遭遇していることに気づきました。
    感情とは向き合いつつも、一歩引いてみると、本当に投影を癒やす(気にならなくなる、あるいはひっかかりがなくなる)ために何度も起こっているようにさえ思います。外から観ていると巡り会う人と人が偶然とは思えないような人生を歩んできて、出会っていたり、考えすぎかもしれませんが、ある種のプログラムのように思える時があります。(投影を癒やすためだから、サクセスストーリーのようではありませんが)
    癒しを拒否してもまた違う形で準備ができたら、向かいあう。
    荷物を降ろしていくように。
    そう考えると流れを信頼するということができるような気がします。
    今は承認欲求や権威に対しての投影に向かい合っているように思います。
    また、取り留めもなくコメント失礼しました。

    • はたさん、こんにちは♪

      なんでしょう、めちゃくちゃ味のあるコメントをいつもありがとうございます。

      お酒飲めないのですが、飲みながらお話ししたい気分になりました♪

      • 味のあるコメントと言っていただきありがとうございます!
        あゆかさんのブログに出会い、行動することや人と関わることへの恐れを少しずつ手放せています。世界を観る角度を変えることができ、強い支えがあるようです。
        本当に感謝しています。

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