酔っぱらって帰り道を忘れる~本質への回帰~

体の痛みが私たちに体のどこかがおかしいですよ~とお知らせしてくれているのに対して、心の苦しみも私たちに何か間違ったことを信じていますよ~とお知らせしてくれていますよね。

または、何かナチュラルではないもの、本質ではないものを抱え込んでいますよ~というお知らせ。

もちろん人それぞれ悩みも苦しみも違いますので、そこは詳しく見ていかなければいけません。

でも、とりあえず人類に共通しているところから始めると、それはアイデンティティの間違い。

自分は固有の体、思い、感情を持つ分離した存在であるという間違いです。エックハルト・トールが「ニューアース」の中でも繰り返し書いていることでもありますね。

言い換えれば、私は日本人で女性で~~才で~~の仕事をしていて、~~に住んでいるものです、という「私のストーリー」への完全なる同化。

ただ「間違い」と言ってしまうとネガティブかもしれませんね。ある意味これは間違うように設定してある「神の遊戯」であって、本当の意味では決して間違いではないからです。

しかし、分離した個である自分という遊戯は、本質を忘れることがルールであるために、どうしてもゲームの最初から「恐れ」を持つことになります。

分離した自分というだけで何一つ人生に起きていない状態ですでに「つながりを失った恐れ」、「全体の中の小さな一部の自分としての不安」、「完全なる全体から切り離された欠けた感覚」が心の深い層に生まれます。

また、永遠である本質とは違い、分離した個の生命は有限であって、「死」が必ず待っています。しかもその「死」は、寿命が尽きたときに来るだけではなく、いつなんどき来るか分からないのです。

で、実はこの「死」と「自己価値」は心理的にすご~く密接な関係があるんです。

例えば、生まれたばかりの赤ちゃんがお腹が空いて泣いたとき、すぐにおっぱいがもらえれば、「自分は安全だ、大丈夫」というサインになり、自律神経や脳が正常に機能していきます。

一方、ニグレクトされ、放置されてしまうと「自分の命はあやうい、危険」と判断され、「自分は大丈夫ではない」と判断します。もちろん、ぜんぶ無意識のレベルで起きています。

心理的には、「自分は安全」というのは分離している恐れ、不安を埋めてくれ、「自分の存在は大丈夫、自分はいても良い」となりますが、ニグレクトの場合、「自分の存在が保障されない、いても良いの?」と自分の存在自体に不安になります。

私自身振り返ってみると、親はそれなりに愛情を注いでくれましたが、4歳ごろに親と離れていなければならず(祖父の借金問題で)、物理的にニグレクト状態になってしまいました。

預けられた先で誰ひとり話しかけてくれる人もおらず、遊ぶ友達もいなければ、とにかく会話がゼロ、目に入る範囲に人がいないという状態で過ごす日々が続いていたのです。

なので、その後の私と言えば、いつも自分がここにいて良いのか?ここにいて良いと思えるには何をしたら良いか?を無意識に探っていたなぁと・・・・。

それ以外にも自分の存在を確かめたい衝動はあちこちに出ていました。特にこの調子で恋愛をしたときは、苦しい、苦しい。はぁ、大変だった~。

でも、グッドニュースは、幼少期に深く無意識に刷り込まれたもの(シャドー)も、意識の表面(光)に持ってくることで、癒され、シフトしていくことです。

いつも思うのですが、最終的にどれぐらい自分に正直になれるのか?どれぐらい思考に邪魔されずまっすぐに感じ、見て、対話することができるのか?が、大きなカギだなぁと。

話を戻して、分離した自己が常に確かめたいことは、「自分の存在の安全」「自分の存在の意味」です。

インテグレイテッド心理学の言葉にすると、「肉体の死」と「精神の死」を避けて、いかに生き残っていくか?が大切なんですね。

つまり「食べて行くこと」と「自分が受け入れらていること(役に立っているなど)」がすご~く大切。ですから、私たちの多くはこの二つを常に達成するためにかなりのエネルギーを費やしているはずです。

なので、食べて行けない状態や自分がいても仕方がないと思い込んだとき、無意識下では、自己価値も下がってしまっているんです。

つまり、生命が確保され、安心な状態な時、自己価値や自己肯定感も高まり、その逆だと下がっていく・・・・。

で、苦しみとは、食べて行けないとか状況ではなく、この自己価値の低下が真の原因なんです。

自分の存在や価値を無意識に否定しまう。

逆に言えば、まったく同じ状況でも自己否定がなければ、苦しみも生まれません。

なので、私たちが苦しいときは、状況や状態がどんなであれ、なんらかの自分否定が走っていて、その否定のストーリーは「死」に向かっているんです。

でも真実は、この分離している存在の私は幻想であって、ほんとうはいつも受容と愛のなかにいる。このブログでも何度も書きましたが、「私たちは暖かいベッドから一度も離れたことがなく、悪夢を見ているだけ」という奇跡のコースの言葉通りなんです。

オープン・アウェアネス・ダイアローグの「オープン・アウェアネス」とは、無限に開かれた意識、つまり、暖かいベッド(私たちの本質)という意味でもあるんです。

私の場合、誰も私の存在に気づいてくれない、私はいるのに他の人の目には見えない、という間違った思い込みを抱えた自分と対話をしていきました。

すると、それは「私はいたい」「存在している強い感覚が欲しい」「生きていると感じたい」という思いに変わり、その声を受容しているうちに「私は大丈夫」「私は生命だ」という自分がオープン・アウェアネスそのものだったと思い出されてきたのです。

さらっと2,3行で書きましたが、幼少から長年抱えてきたものは、自分のアイデンティティ、コンピューターで言えばOSになっているため、それなりに時間がかかります。

でも、それはとても意味あるプロセスですね。それは間違って思い込んでしまった夢からの目覚めでもあるでしょう。

最後にペルシャの詩人ルーミーの言葉:

存在から発生したものに存在がとりつかれ、酔っぱらったかのように帰り道を忘れてしまう。
(神の遊戯にはまりすぎて、本質への帰り道を忘れてしまう)

帰り道は自分を深く見つめることで見えてきますね。

 

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酔っぱらって帰り道を忘れる~本質への回帰~」への3件のフィードバック

  1. 今まさに、役に立ってない、自分の存在意義がないのではないかという状況にあって(人と比較してしまう)、意義のある確固たるものが欲しい、掴みたいという自分がいます。けれども同時に何も掴まなくて、手に入れる必要がなく、ただ全体の中で漂っていられたらどんなに良いだろうとも思うのです。映写機に写すものが何もなくなったら、そうなるのかなと考えたり。
    今は深く落ち込むと、(自分を深く落ち込ませてあげるという感じになりました)投影元があるのだなと思えるようになりました。
    無住は無常につながる。という言葉を知り、人は安心するため何かを掴もうとするけれど、そのこと自体が苦しみの原因になるのかなと今は思います。
    本当に大切なのは競い合い優位に立つことではなく、お互いが癒されることなのかもしれない、という意識は自分を楽にしてくれます。詩人は本質を見抜いている人が多いのですね。
    取り留めもなく、長文のコメント失礼しました。
    ブログいつも楽しみにしています!

  2. この果てしない仕組みによって、我・私に成った途端、期待や希望を抱きますが(探しますが)、同時に何者かに成ってしまったが為、不安と恐怖も抱くようにもなります。(それを崩されんが為)

    「我」感も、「私」感も、思考や、知ろう、分かろう、理解しようという分析も、

    この果てしない仕組みの(現象の)自然で当たり前な現れ、表現、味わいが起こっていますが・・

    もし、「我」感、「私」感の質感が現れなくなったら(感じられなくなったら)、ネガティブな人間生活を営んでいる意識たちには、良いことなのだろうか。

    もちろん、「ネガティブな」感や、判断も、万物/何者かの内の、人間意識に成ってしまってるがゆえに起こるわけですが、

    オギャーと産まれおちました時よりの、基礎的な備え(恩恵)によるものも前提条件として省けませんが、それよりのちの刷り込み・インプリントに因る影響も多大ですね。

    ありがとうございました。

  3. 久しぶりにコメントいたします。

    >「自分の存在が保障されない、いても良いの?」

    まさに、これでした。
    私がいることに意味があるのか?私はいていいのか?そもそも私はいるのか?と、存在そのものがおぼつかない。

    若い頃この状態での恋愛が悲惨だったのはその通りで、男性が近づいてくると、「あ、私はいていいのかも♪」と舞い上がり、そしてあっという間に幻想は壊れ・・・
    後になってみると、私は相手を好きでもなんでもなく、ただ「私がいていい感じ」が欲しかっただけなのだと気づいたのでした。

    恋愛に限らず、何かをすること、何かを得ることも、隠れた動機は「いていい自分になるため」でした。

    ほんとうに欲しかったものが「いていい感じ」なのだとはっきり自覚できたときに、逆説のようですが、「いていい私」に半ばなっている気がします。

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