“自分の人生はどうありたいか?”、“どうなって欲しいか?”というのは、やはり私たちの最大の関心事でしょう。
例えば、若い人ならざっくりと「自分の家庭を持つこと」「仕事で成功すること」「自分の好きなことをしていくこと」とか、仕事を引退する年齢になれば、「夫婦で旅行をたくさんすること」「会社に縛られずに自分を表現すること」などなどかもしれません。
人生の目標を持つことや、こうありたいと願うこと自体はとても自然で、それが人間としての営みを面白く、深くもさせてくれますよね。
一方で目標を達成するために、または願いを叶えるためには、自分がどうにかしないといけないわけで、そうなるようにと頑張ったり、それを目指した行動をしたりするでしょう。
ところがこの自分がしなければ~の思い(私の意志)が強いほど、人生は「私」が頑張ることになり、他者や状況は「私の」目標や夢に合っていないといけなくなります。
家庭を持つことであれば、なかなか結婚に踏み切れない彼をどうにかしないといけないし、仕事で達成することであれば、それに関わる人たちは自分の思うように動いて欲しいし、夫婦で旅行をするなら、相手も同じ夢を持ってくれないといけません。(または健康でいてくれる)
しかし、人生はときには残酷で、思ったように運ばないこともたくさんありますよね。そんなとき、目標や夢が大切であるほど、私たちは生きる意味までも見失ってしまったりします。
でも周りを見渡せば、“仲良い家庭”や“仕事の充実”、“幸せな老後”を得た(ように見える)人たちは社会にたくさんいて、自分の人生は失敗だった感がますますリアルに感じられたりするかもしれません。
あっ、お気づきになっていると思いますが、心理セラピストであるので、私はどうしても楽しんでいる人ではなく、悩んでいる人、苦しんでいる人に思いが行ってしまいます。特にクリスマスや年末は・・・。
さて話を戻して、もし自分の人生が自分が思うように行かなかったとき、気づいてみれば、こんなふうになるはずではなかった・・・と失望や落胆、後悔に暮れてしまうとき、それは実は一見キラキラしてみえる「理想」「目標」「夢」の囚われの身だったのかもしれません。
「私の人生はこうあるべき」という形以外は目に入らず、その思いの中でしか人生が見えず、生命が違う形でくれたものに価値が置けない。
目の前にある幸せも、自分が思うものと違うから受け取ることができない。または気づかない。
私自身も“仲良い家庭”を持つことに強く憧れていたので、夏休みやら、クリスマスやら、家族の行事が持ちあがるシーズンは、一人ぼっち感と無力感(自分でどうにもならない)が増していたものです。
その無力感は、一度は私を精神的な死に向かわせましたが、死ぬほどの絶望感もなく、宙ぶらりんな気持ち悪さを抱えたまま、結局残された場所は一つしかない。そう、私は自分の中へと行くしかなかったのです。
途中、抑圧された思い込みや感情とたくさん出会い、決してスムースな旅ではありませんでしたが、おかげで私は私自身と親密になれ、しかも生命そのもの、自分の本質と出会うことができたのです。
自分の夢という囚われの身から自由。一人で過ごすという形にこだわりすぎて、自分自身の存在のありがたさ、多くのつながり、サポート、あらゆる関わりの奇跡を見過ごしてしまっていた。そして、その生命が織りなす人生は、これからどんなふうになるのかさっぱり分からない・・・・。私はいかなる形にでもなりうるのだ。
深い呼吸ができて、自分と自分の人生の無限性に目覚めたというか。
そして「私の意志」は、「生命の意志」に仕える道具となり、サレンダーとは無限への切符だと知ったのです。
まだまったくのヨチヨチ歩きではあっても、歩み出したことで人生は達成するもの、夢を叶えるものではなくなり、寄り添うもの、あるもの、現れるものを深く味わうものとなりました。
正直言えば、子供たちにクリスマスのプレゼント~みたいなことをやってみたかったと寂しく感じることもあります。
でも、そんな寂しさも一杯のコーヒーのおともなんです。
自分の寂しさに酔っているという意味ではありません。そこにあるのはサレンダー。
本質の錬金術が、コーヒーの味を受容と愛に変えてくれますね。
そしてサレンダーとともにあゆかの意志はなくなり、本質の流れが主役となる。
あゆかが必死に一人にならないように頑張るとか、寂しさをどうにかしようとするのではなく、本質があゆかの寂しさを受容し、あゆかを無限に目覚めさせてくれます。
クリスマスや年越しを一人で過ごす・・・というのは、あゆかにとってはそれがすべてでも、本質にとっては無限の一つの現れ。一つの愛の形。
そう、寂しさも愛! すべて愛!
すべては愛の中にしかいない。
このように書くと、自我は“よし!サレンダーすれば良いんだな。”と読み取り、サレンダーしようとしてしまうかもしれません。
が、その方向はほとんどウソっぽいサレンダーになりがちです。それよりも、思考を横に置いて、寂しさなら寂しさとともにただあってみるのはどうでしょうか?
寂しさというものがただのエネルギーになって、その後もただそれとともにあること。一切の取引きもなく。一体自分がどこにいるのかさえ分からなくなるまで。受容の静けさが感じられるまで。
でも、潜在意識の中にたくさんの思いや感情があれば、本質よりもどうしてもストーリーに引っ張られてしまうかもしれません。
例えば私の中には、仲が良い家庭を持つ人→人生の勝者、持たない人→敗者、みたいな強い思い込みがありました。しかも、敗者は人間以下の地獄にいる餓鬼みたいな様相(←自分へと投影)をしていたのです。うひゃ~。
この餓鬼の私の思いと向き合い、その私を抱きしめてあげたり、なんやかんやで(覚えていない)すっかり落ち着きました。(*^_^*) (私の場合、タッピング+自分との対話は最強の組み合わせです。)
最終的に癒しとは何かを得るためや、自分を変えるためではなく、その人を本質に向かわせるものだあぁと思うのです♪
ということで皆様、良い年越しをお迎えください☆
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ありがとう。あゆかさん。
♡ 自我の現状 ♡
父が病院で、一人ぼっち。
母も田舎で、一人ぼっち。
私は家族の中で、一人ぼっち。
4人の子どもたちも大人になり、それぞれが賑やかな街へ。
夫は師走の仕事に追われ、ぐーっすり眠りの森へ。
妹も家族の中で、一人ぼっち。
でも♡
そう!寂しさも愛!すべて愛!
ありがとう。あゆかさん。
ひとみ ♡
Isseiさん
ありがとう
ありがとう
ありがとう。
非掲載じゃなくてよかった。
ありがとう
心の底から
ありがとう。
ひとみ
ひとみさん、いつもありがとうございます♪
私もIsseiさんのコメントに心がとても打たれました。でも、ご本人の非掲載でというリクエストを尊重し、そのようにいたしました~。(こちらのブログは自動的に掲載になってしまうので)
少なくともここに二人ハートが震えた人間がいますね♪
あゆかさんの言葉にいつも助けられている読者のひとりです。
毎年、この時期になると、ひとりぼっちの私が強くクローズアップされ、置いていかれる寂しさに悶えていました。
このテーマについて何度も、EFTやMRのセッションを受け、自分と向き合い、悲しくて今にも消えてしまいそうな気持ちだった以前よりは、随分と楽になりました。
それでもまだなお、自分の中の癒されていない部分が刺激されてズキズキしてしまうことがあり、少し絶望的にすらなっていました。
そんな先日、ある瞬間にふっと
「ああ、もう寂しくても辛くても、この気持ちが無くならなくても構わない。また悲しくなってもいい。だってこれが今の私なんだもん」という思いがすうっと湧いてきました。
切なくて、温かくて、ほんのりうれしい気持ちになりました。
まだ、チクチクすることもあるけれど、この「悲しみを無き者にしたいのにできない苦しみ」からは解放されました。
今年は強がらず、自分自身を労わり優しく過ごす年末年始になりそうです。
あゆかさん、いつも本当にありがとうございます。
「この悲しみを無きものにしたいのにできない苦しみ」
あまりにも図星の言葉で ガツン!ときました。ありがとうございます。
また、なるほどなぁ〜と感じました。
私は愛に飢えているんだなぁ・・・とチャイルドワークで思い知らされました。
愛に飢えているその悲しみを 私は無きものにしたいんだなぁ・・・と
yumiさんのこの言葉で気づかせていただきました。
愛に飢えているその悲しみを(独占欲、支配欲、欲張りともいえますが)
丸ごと受け止めたら楽になるんだなぁ・・・と
今、気づかせて頂きました。
yumiさん ありがとうございます。
ひとみさん、こんにちは。
時々、あゆかさんが書いていらっしゃいますが、私も、もし目の前にひとみさんがいらしたら、ぎゅーっとハグしたい気持ちです。
愛されたくて、それを実感として得たくて、でも得られなくて…
という痛みと十数年向き合い、セラピーを受け、癒す中で、「本当はここにあったんだよ」と小さな私に伝えてきました。
それでもまだなお、時折チクチクする自分の感情と、闘おうとしてしまう時があります。
そして毎年、この季節にあゆかさんが出される記事をいつも読み返して、助けられています。
ひとみさん、ありがとうございます♡
yumiさん ありがとうございます。
今、ちょうど「境界線」について学んでいます。
これが深くて深くて・・・^ ^
残っている感情とともに 自分が醜すぎて
う”=========って感じです。^ ^
そこに ちょうど
「相手と自分の境目(境界線)が無いと」⇦これは自己肯定感の低さから出ます。
「相手と自分の境目(境界線)が無いと
相手に踏み込み過ぎたり
相手に侵されたり
はたまた
相手を拒絶したり・・・
と、《適切な距離感》を保つことができません。
自分に自信が無いのを
相手の存在や、相手の言動で補おうとすると
【自分】と【相手】との境目である《境界線》が
滅茶苦茶、破茶滅茶 に なってしまうのです。」
と ありました。
わたし、なぜだか「滅茶苦茶」「破茶滅茶」という語句に惹かれ
これらから「茶」を取ると
【 滅苦 】【 破滅 】になるなぁ〜と思い破滅はわかるけど
滅苦がわからないので調べてみると
とんでもなく素晴らしいことだったんです。
ヘェ〜~~ こんなに素晴らしいことを、いつのまにか実践してたんだー!
実践させられてたんだ!と 気づかせて頂きました。
境界線を引かずに一体を求めると
滅茶苦茶、破茶滅茶= 滅苦、破滅
にいく。と
そして滅苦とは ホント!素晴らしいことだった!と。
あゆかさんの言葉を借りるなら
すべては愛だったんだ!と。
もしもお時間ありましたら 滅苦について読んでみてください♡
長々と失礼しました。
すごく分かりやすかったです。今、まさにビンゴな記事でした。
ずっと追い求めてきたものがあったけれど、もうわからなくなってしまいました。
これからどうやって生きていこうか?そんな気持ちが誰かにわかるはずもなく、孤独感もあります。
寄り添うしかないんだな~とあらためて。