「この世は幻想」の二つの意味、二つの夢♪

先日、脳科学の観点から心について書かれた本を読んでいて、ほらね~~っ!と嬉しくなってしまった文面がありました。

それは、

“the world is not an external reality at all, but rather a vivid illusion or mirage maintained by his own implicit constructs experience themselves.”世界とは外側に存在する現実ではまったくなく、むしろ(世界とは直接関係のない)彼自身の経験そのものによって維持されている、とても鮮明な蜃気楼、幻想であるのだ。(by ‘Unlocking the Emotional Brain’)

ちなみに私はこの蜃気楼、幻想のことを投影と呼んでいます。またこれは、「思考が現実を創る」・・・ともまったく違う話です。

例えば、知らない人たちのグループに始めて参加するとき、そこでほんとうに起きていることは、「いろいろな人たちがいる」終わり、ですよね。

でも、そこに「自分だけ溶け込んでいない」「自分は上手に話ができていない」「みんなが自分のことを変だと思っている」などなど、そこにないものを盛り込み、あたかもそれが外側にある現実かのように強く感じてしまうことを言っているんです。

「グループに溶け込めないという現実」を作っているのではなく、「そう感じる」「そう見える」ということです。

もちろん、本当にそれを信じ込んで、自ら溶け込めないふるまいをし続ければ、当然周囲もそんなふうに見始めるでしょう。こうやって蜃気楼は強固なものになっていくわけです。

またかなり昔、とあるコミュニティの食事会の後にお皿を洗っていたところ、ある女性に「それは私がやろうと思っていたんです!!」とすごい剣幕で怒られてしまったことがありました。

ずっと後でお話しして分かりましたが、その女性はコミュニティの中で自分は何もできていない、役に立っていないと引け目を感じていたらしく、そのため、自分が唯一役に立つチャンスを奪われたと感じてしまったためだったのです。

これらはすべて、事実とは直接何の関係もない、自分の中にあるまったくスルーされた思いと感情によって見えてしまっている蜃気楼、幻想なんですね。

しかし、癒しが進んでいくと、幻想がいくつも落ちていき、ありのままのシンプルな優しさが顔を出してきます。

これはこれで、ある意味とても大きな目覚めだと私は思うのです。

さて、ノンデュアリティのメッセージでも、「世界は幻想である」とありますよね。じゃぁ、それはこのことを言っているのか?と言えば、そうではありません。

そうではなく、私たちが「起きている」と思っていること、「ありのまま」にあると思っていること自体が「起きていない」ということなんです。

何も起きていないんです。

もっと正確に言えば、「起きていて、起きていない」です。

ここからは思考はついていけないし、言葉も追いつきません。

じゃぁ、なんで書くの?といえば、

大切なポイントは、「私は何?」に尽きるかと思うからです。自分は何ものなのか?です。

自我は事象のしくみを知ることに意識や情熱が向かいがちですが、自我が分かるものは、どうしても自我目線のものでしかありません。

でも、私は何か?という問いを「男である」「女である」「人間である」といった思考のレッテルを剥がしていき、徹底的に体験のみを深く見つめて行けば、それは自我目線を超えた経験的な理解に落ちていくしかありません。

何もないとか、何も起きていないと分かっているのは、誰なのか?

最後の最後まで、レッテルを剥がしまくり、ストーリーを取り去り、現象を取り去り、あらゆるすべてを取り去っても、最後に残るものは何か?

これを考えずに、体験的に見つめて行く。ある意味とてもシンプルですが、思考がものすごく入り込んでくるため、いつの間にか体験ではなくて、考えを見つめていたりするでしょう。

しかもそのことに気づかない。自我はそれぐらい「思考」そのものです。

そういう意味で、これは哲学でも思想でもなく、教えでもありません。

強いて言えば、ありのままをただ見つめていく自然科学です。

自分とは起きていて、起きていないことの目撃者であって、同時にその幻想そのもの。

まずは、自分の心が生み出した夢から目覚め、そして、今度は自分という夢から目覚める。

もちろん、この順番はどちらが先でも良いし、順番通りに起きることでもありません。

ただ、自分の心が生み出した夢を現実だと深く信じているうちは、ノンデュアリティのメッセージも本当の意味では伝わらないかもしれません。

生き辛さを感じている人ほど、悟りやノンデュアリティに惹かれる様子を見ると、心理セラピストとしては、先に自分の夢から覚めると楽だよ~~と言いたくなります。

とはいえ、何がその人にとってベストなのかなど私は分かりませんので、単に一つの見解です。

起きていて、起きていないということ、

私は何か?という問い、

これが指し示しているのは、誰も本当の意味で傷つくことはできないということ。

取り返しのつかない人生、償いきれない罪、もう二度と会うことができない愛する人、無駄になった人生、などなどすべて何もないということ。

苦しみも喜びも「本質の私」という受容の中であたかも起きたかのように過ぎていく。

でも、私たちが二つの夢から覚めたとき、そこにあるのは「受容」と「愛」だけ。それは究極の癒しですよね♪

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「この世は幻想」の二つの意味、二つの夢♪」への7件のフィードバック

  1. 覚醒体験後、いつも気付きの意識に引き戻してくれるのはあゆかさんのブログなんです。本当に感謝しています。癒しのツールも学ばせて頂き、幻想の私はお蔭で随分と楽になりました。問いかけやEFT、MR、RFTは幻想界を生きる上で必須アイテムです(笑)

    今回の記事も読み終えてなんだか安心して笑ってしまいました。
    こんなにも、ハプニングに満ちた人生を心の底から楽しめるのもあゆかさんはじめ、コース生の方たちのお蔭です。これからもブログを楽しみにしています。

    • こんにちは!

      素敵なコメントをありがとうございます♪ 心がほっこりいたしました。(*^_^*)

      本質の私を知っても、幻想の私も愛おしく、というよりさらに愛おしく、きちんとケアをして、抑圧された声を拾っていってあげたいですよね。

      今後ともどうぞよろしくお願いいたします★

  2. こんにちは

    あゆかさんのブログを長く読ませてもらっています。

    まだまだですが、自分が辛い時腹がたつ時、自分の何かが反応しているんだと少し冷静に見つめられるようになってきたところです。
    そういった癒しとは違うのかもしれませんが、
    長年私は何事もすぐ諦めてしまう癖があり、治したい努力したいと思うのですが長続きしません。このままの自分でいいとも思うのですが、このまま成長しない、何事も成し遂げないのも人生がつまらなく感じてきました
    成し遂げなければ!というよりも、何かしたいけど出来ないという感覚です。

    そういった場合もセラピー等は有効なのでしょうか?

    • まこさん、こんにちは!

      まこさんがそうかどうか分かりませんが、何事もすぐあきらめてしまうということ自体が、その人の自分に対する投影(思い込み)ということもすごく多いんです。

      たくさんのセッションをやった経験から、悩みそのものが思い込み(私は空気が読めない、読める私にしたい。私は人と交われない、コミュニケーションが上手な人になりたい、長期の努力ができない、できる自分にしたい、などなど)だったということは山ほどあります。

      ので、まず私ならそこから見ていきたいです。私は、今の悪い私を治して良い私にするという癒しはしないんです。

      その発想そのものが苦しみを生み出しますよね。それよりも、何がしたいのか?を思考のおしゃべりに引っ張られず(前回のコメンテーターの記事を参考に~)、ただシンプルに見ていき、まずそこをクリアにしてみたらいかがでしょうか?

  3. まこさん。
    横からで失礼いたします。

    まこさんの書き込みを読んで、私のことかと思わず目にとまりました。
    私も、あんなに熱心にしていたはずなのにある時を境に熱意が冷めてしまったり、最後までやり遂げることなく終わることが多く、何をやっても無意味に思えた時期がありました。
    私の場合、今思えば、、、ですが、承認欲求がとても強かったのだと思います。
    その根底には、あゆかさんのブログでもよく取り上げられている「無価値感」が自分の中にあって、それをなんとか払拭したいという思いが原動力になっていたように思うのです。

    ところが、自分は何をやっても所詮ダメだ、という「無価値観をなくしたい」という気持ちを軸にして物事に取り組んでいるために、ある時を境に(私の場合はもう少しやれば終わるという段階で)「どうせダメに決まってる」「ああ、やっぱりなんか違ったんだ。やっぱり自分はだめだった」という思いが湧き上がり、熱意が冷めるということの繰り返しになってしまっていました。
    最後までやってもいないくせに、勝手に自分で「ダメな自分に落ち着くように納得」させていたんです。。。

    私は、このことに気がつくまではいろんなセラピーやそれこそ妄信的なスピリチュアルなど片っ端から「こんな私をどうしかしてほしい!」と手当たり次第にやってきましたが、ごめんなさい。正直に言います。セラピーをしてもどうせダメだよね。っていう思いがあったので、セラピーが直接効いたようには感じていません。
    それで、何が一番良かったかというと、やはり、時間をかけて自分のハートにじっくり耳を傾けるという問いかけを重ねたことです。

    ゆっくりでも、自分の心を抱きしめられる瞬間がまこさんにもきっと訪れると私は思いますので、どうぞ焦らずに、ご自身のハートをいたわって差し上げてください^^

    長々と失礼いたしました。
    あゆかさん、スペースいただきましてありがとうございます。

    • 書き漏れがありました。
      セラピーを否定するわけではなく、セラピーをすればすぐに解決するだろうと丸投げで依存した上でジプシーしてしまってたので、原因を探ると「セラピーしてもどうせダメだという思いが私の中で凝り固まっていた」というのを追記させてください。

      • マロンさん、こんにちは!

        素敵なシェアをありがとうございます♪ 最終的に私と同じことを書いていらっしゃるのが笑えます。あはは。

        セラピーは何かを治すために使うものではなく、自分の中の否定された自分と会話するものだと私は思っています。例えば、どうせだめだという声と会話する、などです。そうでないと、否定の上になにをやってもおっしゃるように滑ると思います。

        私にとって癒しは、否定という幻想から自己愛という本質に近づくことかなと思っています。カウンセリングやセラピーをそのツールとして使いたいですね。

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