基本的に自我は、自分がどううまく生き残るか?ということにまい進して生きているものです。
なので、経済的に安泰であればあるほど良いし、自分が社会的に受け入れられていればいるほど良いわけです。
お金が十分に稼げないとか、周囲からバカ扱いされるというのは、たんに心配だとか、腹が立つということだけではなく、深いレベルでは、「生きる意味がなくなる」ことへの恐れを感じているんですね。
ので、どう自分を経済的に安定させるか、どう“良い自分”にしておくかというのは、自我活動の大きな基盤です。
これはある意味私たちにとってあまりに当たり前になりすぎていて、自分がそれをやっていることにも意識がないかもしれません。
生活費を稼ぐためにあれこれ考えるとか、周囲との折り合いをつけるためにそれなりに良い自分として振舞うとか、普通にやっていることのはずです。
でも、どうでしょう?
ロンドンでカウンセラーのカレッジに通っていた時、印象的な話をある先生がしてくれました。その先生のクライアントの一人にアメリカ人の大金持ちがいて、その人の家も何もかもとにかく豪華だったそうです。でも、その人はひどい鬱で何一つ楽しめず、家の中の輝く装飾と対照的であったそうです。
ひどい鬱というのは、自殺願望も生み出し、自我が描いている安泰な人生とは程遠いですよね。
この人ほどではなくても、お金は物質を供給しても、親子の確執や失恋の痛手をカバーしてくれるわけではないので、経済的安定が必ずしも「うまく生きていく」ことを保障するとは限らないわけです。
では、世間受けが良い自分でいることはどうでしょう? 「できる私」「成功している私」「優しい私」であれば、私の人生は安泰するということで、自分が思う「良い私」づくりにまい進したとします。
で、頑張った甲斐があって、他者から賞賛されたり、尊敬されたり、すごいね~と言われて良い感じ。ところが、あれっ? 腹を割ってバカ話する友達がいない・・・・。
良い私でいるために、自分のバカなところ、弱いところ、しょうもないところをぜんぶ隠してしまったため、表面的な付き合いの友達と呼べないような友達しかいない。
そして、だんだん心が空っぽな気がしてきます。お金もあるし、人からも賞賛されて、人生は安泰してきたけど、なんだか生きる意味があやふやになってきた・・・・。
またもロンドンでの話ですが、毎日乗っていたバスの経路にある病院があり、その病院の前庭のベンチには、いつもホームレスの酔っ払いのグループがたむろしていました。
最初はあまり気にかけていなかったのですが、さすがに毎日見ていると、彼らの様子が分かってきます。で、ある日気がついたのです。彼らはお互いにものすごく助け合っているということに。
泣いている人の肩を抱いて、みんなでなぐさめていたり、食べ物や飲み物をシェアしていたり、心が通じ合っている様子がよく分かります。
実は気にかけていなかったというより、私の偏見のためにそれがしばらく目に映ってこなかったのです。
そのとき、この人たちは惨めなかわいそうな人たちじゃなくて、幸せな人たちなのかもしれないという感覚が襲い、軽いショックを受けたのです。
そのことを思い出すたびに、最終的に私たちが生き残るために必要なものは、「つながり」なんじゃないかと思うのです。
たぶん、こんなこと今まで多くの人が言ってきたことでしょうし、そりゃそうだよねと思う人も多いことでしょう。
にもかかわらず、世の中の動きを見ると「つながり」を育むというよりは、政治や経済では、攻めと守りのレース、また教育では、良い点数、良い大学、良い就職先、自己啓発においては、素敵な私や自分の望む状況を実現するのだ!みたいなエネルギーが強いなぁと思うのです。
日本は特に「自己責任」とか、人に迷惑をかけてはいけない、という社会的な暗黙のルールが強く、人とのつながりで持ちつ持たれつ助け合うというよりは、自分でなんとかするべきと思っている人の方が多いかもしれません。
前にも書いたような気がしますが、高校を卒業する最後の日に担任の先生が、“お前ら、人にいくらでも迷惑かけて良いんだぞ。でも、人を傷つけるのはいけないんだ。”と言ったとき、私は内心、ひゃっほ~、迷惑かけて良いんだ~と思ったものです。
他人に迷惑をかけないでいようとしたとたん、私たちは「一人で頑張る」という孤独の世界を歩きだすしかないですよね。
そうすると、「経済的な安定」や「できる私」でいる必要性もうんと高まります。
でも、“うまく生きていく”ということが、人とつながって助け合っていくということであれば、私たちの努力は違う方向へ向いていくはずです。
つまり、私は人とつながれるほどハートがオープンだろうか? 恐れや不安で城壁を巡らしていないだろうか? 私は私が好きか? 私は自分を許している? 私は愛を感じている?
こんなふうに見られたいという思いに囚われて、自分を見失っていないだろうか?
みんなの期待に応えようと、無理していないだろうか?
できない、分からないって言ってはいけないと思っていないだろうか?
ほんとうの自分を知られたらマズイと思っていないだろうか?
自分に強いている頑張りや無理、抑圧を解いて、ただ生身の人間になって、生身の人間とつながる。
弱さを見せられることが、本当の強さであることを学んでいく。
逃げも隠れもしない「ただの私」がそこにいて、人と交わって、助け合って生きていく。
うん、安泰♪ 安泰♪ (*^_^*)
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Ayukaさま、はじめまして。いつもブログ楽しみに読ませていただいています。今日この記事を読んで気持ちが救われました。人に迷惑かけちゃいけない、もう大人なんだから、色んな刷り込みで、本当に困っても助けてと言えない、そんな自分に疲れてしまったところ、今日この記事を読み救われました。ありがとうございました。これからも楽しみにしています。
こんにちは♪
素敵なフィードバックをありがとうございます。(*^_^*)
とても励みになります♪
これからもぜひお読みいただければ幸いです☆
素晴らしい
本質そのもの
むき出しの
生粋の
本質そのものの言葉
こういう言葉に触れたとき
人は本質を思い出し
また自分も
「ただの自分」「本質そのもの」で在りたいと
奥の奥から何かが蘇ります。
あゆかさん
ただの自分 の言葉こそ
人をただの自分に寛がせる大きな大きな力が存在しますね。
「生身のただの自分」
まさしく非二元ですね。
感謝
ひとみさん、こんにちは☆
いつもありがとうございます。ただの自分でいることが楽なのに、ただの自分でいられない防衛の気持ちが強く、自我という稼業もほんと大変だなぁと思います。(*^_^*) でも、防衛を落とすとほんと楽~。
あゆかさん こちらこそいつもありがとうございます。
「防衛」これってどうして起こるんだろう、、、と
いつも不思議に思っていました。
どうしても答えが欲しいと望んでいました。
すると
「見下している」から「見下される」
だから防衛が必要になるんだなぁ〜〜となりました。
私は傲慢そのもので見下すことをガッチリしていました。
特に両親。
見下すから、見下される で防衛に入る。
傲慢甚だしく酷すぎる自分を認め全身全霊で謝りました。
全身全霊で謝ったら、これまたなぜか?いつも在るこれと繋がりました。
多勢のなかの「ただの自分」繋がっているのを感じます。
只今 自分を厳しく躾け直しているところです。
やさしいやさしい あゆかさんへ
心から感謝の気持ちを捧げます。
こんばんは、いつも楽しく拝見しています。
お金の話だったのでタイムリーだと思ってコメントに残したいと思ったのですが、
最近テレビなどでも拒食症と窃盗症が色々問題視されてますが、実は自分も小さいころから
盗み癖があって、いつかやめなきゃな…と思っていても今は辞めれそうにありません。
私はたくさん食べる方で拒食症などではないですが、お金を使いたくない(人と接したくないのでお金がかぜげないから)のと、最近は店員の態度がお客なのに冷たい人がいて、接したくないしお金も落としたくないという強めな思いがあります。2年ほど前から子供の頃だけだった盗み癖が再発してしまいました。
一方で心にある飢餓感、親に世界に根本で愛されてないという危機感が常にあり、数年セラピーをしていてもまだ埋めれていません。おそらくバーストラウマとかまでさかのぼるレベルの話だと思います。
あと、面白い話ですがOリングテストなどで、「私は天使だ」というビリーフが自分にはあります。生まれる前の魂からの記憶が私にはわりと濃くあり、人間生活や人のかかわりが冷たく乾いたもののように感じられてなりません。周りの大人たちはそんな私を小さいころからとても批判してきました。かなり親たちにはプレッシャーをかけて育てられたので、これが私には自己価値を低くする要因の1つだと思います。
あゆかさんのセミナーも4年間からいくつか受講し、マトリックスなど手法も実践してますが、いまだ根治はしていません。
盗み癖は飢餓感の表に現れた症状のほんの1例だと思います。
自己価値はセラピーをする前より格段に上がってますが、根本のコアがクリアになればとは思っています。
良かったらブログテーマでも何かヒントであったりとか、いつか取り上げてもらえればうれしいです。
理恵さん、こんにちは☆
人の心は自分が思っている以上に複雑なので、もしかすると、プロの助けが必要かもしれませんね。というのも、一人一人ほんとうに心模様が違うので、窃盗症の場合は・・・・みたいに大雑把にヒントとか書けないんです。
きっとこのせいかも~みたいな当たりをつける方も多いのですが、五分五分で当たっていたり、外れていたりです。
とはいえ、ヒントとして、2年ほど前から再発したということで、そのころどんなことがあり、どんな抑圧されていた感情や思いが触発されたのか?を見られていくと良いかもしれません。そこからもっと過去に遡れるかなと思います。(ただ、これも自分でやるのは難しいかも)
しかし、大切なのは原因ではなくて、抑圧された声や感情を受容していくことです。それによってシフトが起きるんですね。(*^_^*)
あゆかさん、こんにちは。今回の記事、グサッと突き刺さりました。やっぱりつながりが大事なんだと頭ではわかるのですが、そのつながりを持つことは自分にとってすごく難しい事のように思えるのです。お金の方が信頼できる気がします。中々本当の自分を晒すことは出来ないので、自分を抑圧してるんでしょうね。
のんさん、こんにちは☆
そのように感じていらっしゃる方が社会の大半かなぁと思います。でも、もし今回の記事にピンと来ましたら、「つながり」のほうへ方向転換していくのも良いかもしれません。(*^_^*)
記事がアップされる度に感動しています。あゆかさん、ありがとう!!
文章を読むだけで癒されました(^^;
前回の返信にも感動しました✨
返信に書いてくださった、わたし←という丸ごと愛おしいもの、と完全には感じられていませんが、このような記事を目にする度、時々内側と対話する度、気楽さ&癒しが起きているのは間違いありません。
〉弱さを見せられることが、本当の強さであることを学んでいく。
逃げも隠れもしない「ただの私」がそこにいて、人と交わって、助け合って生きていく。
うん、安泰♪ 安泰♪ (*^_^*)
特に、、逃げも隠れもしないただの私
の部分が好きです。
だって、、逃げも隠れも出来ないし、いつもいつもただの私
ですよね(^^;
ハッとする表現でした(^^;
chikiさん、こんにちは☆
共感して頂きありがとうございます! 嬉しいです~♪
自分を偽ったり(隠れる)、自分の気持ちを見ないようにしたり(逃げる)、ついついしてしまいますが、ただの自分に戻るとほんとホッとしますよね。(*^_^*)
>> “自分を見失う”とは、どういうことでしょうか・・?(世間的な風潮・思い込み?などでの“「自分を見失う」は分かります。)
ここまでが自分で、ここから自分でないとか、
こういのは“自分”だが、こういのは“自分でない”などという範囲がいったい?あるのでしょうか?
或いは、何々用だとか、何々用の“自分”だとか、これは“自分ではない”だとか、決めるべきなのでしょうか?
どこから~どこまでも、自我・・自分/自分の判断や、振る舞いなのではないでしょうか?
おっしゃることの主旨にあっていなければ、抹消して下さって結構です。🙋
isseiさん、こんにちは☆
ここでいう「自分を見失う」は、自分の本心が分からなくなる、自分がどうありたいのか、またはどうしたいのかが分からなくなる、といったような意味です。
自分の範囲を決めるということではないですよ~。(*^_^*)
🌿 ご説明ありがとうございました。
よく分かりました。
あゆかさん、度々の熊本への災害ご支援セミナー、個人セッション、本当にありがとうございました。
改めて、人と人との温かい繋がりが、どれほどありがたく、心救われるものかが心の奥深くに染みました。
セラピストさんによるEFTで、私の中の硬いものに気付かせてもらい、そのまま受け入れることが出来た時、何故かしら力が抜けてふわっと軽くなり、自分の中にこれまで気付かなかった優しさのようなものが戻りました。
そして、これまで、それから今もなお私の回りにいて下さる全ての方の存在へ感謝が溢れて来ます。
全ての存在は、本質の現れかもしれませんが(^-^)、それこそが、今味わえる醍醐味かな、と思ったりします♪
これからも、気持ちが上がったり下がったりしながら、それもよしで、私らしく生きて行きたいなと思います。
心よりお礼申し上げます
ひとりしずかさん、こんにちは☆
熊本では、またお顔を拝見できましてとても嬉しかったです。あまりお話はできませんでしたが、ひとりしずかさんのたたずまいに私も心が穏やかになれます。
被災地のプロジェクトは、現地の方と心がつながってこそ、生きたプロジェクトになると感じています。微力ではありましたが、皆さんにお会いできて、心の交流ができたことは、ほんと心の宝です。(*^_^*)
こちこらそ、ほんとうにありがとうございました。