自我がうすうす知っていること

例えば、相手が自分を認めてくれない、バカにしている、なめている、評価してくれないと私たちが感じたとき、たいていすごく嫌な気分になったり、傷ついたり、腹が立ったりしますよね。

で、インテグレイテッド心理学では、これは自分の投影ですよ~と話をしているわけです。正確に言えば、認めてくれないように感じる、バカにしているように見える、なめられているような気がする、評価してくれないように聞こえる、などなどです。

つまり、感じる、見える、気がする、聞こえるという自分の主観の世界です。

自分はつまらない人間だと深いところで思っていれば、相手の言動が自分をバカにしているように見えたり、聞こえたりするわけですね。

で、その思いが変われば、たとえ相手がほんとうに自分をバカにしようとしていたとしても、不愉快でしょうが、「相手の問題」だと分かるわけです。

なので、どうしてもそういう風にしか見えなくても、感じているのが自分である限り、それは投影だよ~~と分かることが、まず癒しの第一歩なんです。

が、自分中心の解釈しか知らない自我(私たち)にとって、自分の感じていることや経験していることはリアルな事実であって、それが投影だと見抜くのは非常に難しいです。

でも、“うわぁ~、相手は自分のことをバカにしていたんじゃなかった~~!!!まじ~!たまげた!”という体験が一度でもあると腑に落ちやすくなります。

しかし、そもそもなぜ自我は、他者が自分のことをどう見ているか、どう思っているかにそこまで反応するのでしょう?

インテグレイテッド心理学では、それを「自己価値の死」「肉体の死」の二つに恐れがあるからとお話ししています。

他者から受け入れられない→一人ぼっちになる→生きていけない→死、みたいな。

これは何度やっても、セミナーの参加者全員が必ずここに行きついています。

分離している自分、大きな世界の中で生きている小さな自分が生き残るには、他者から良く思われていなければいけない、願ばくは、普通以上に受け入れられているほうが良い、そうすればさらに生き残り率が上がる・・・・。

つまり、バカにされて腹が立つのは、深いレベルでは、生き残りの不安を刺激されるからですね。ですからある意味、人間としては普通の反応です。

さてでも、ここでの話題はバカにされていないのに、勝手にバカにされていると思って怒ったり、傷ついたりしているケースです。究極の一人芝居ですが、この状態が一番苦しいです。

苦しいから、セッションを受けたり、セミナーへ出かけたりしますが、セラピストのささいな言動に腹が立つ、セミナーの講師の言ったことが気に入らなかった、受付の仕方が悪い・・・。あらゆることに反応し、怒りをさらにためていってしまいます。

苦しいから行くけど、またそこで怒りをためる・・・・という悪循環です。本人は、相手が悪いと信じて疑っていないために苦しみは非常に大きいです。

さて、ここから一気にノンデュアリティに飛びます。皆さん、シートベルトをお締めください(笑)。

生き残りとも関わってきますが、自我は深いところで「自分が空っぽ」だと分かっているんです。

自分の頼りなさ、どこに立っていたら良いのだろう? 永遠の暗闇に消えてしまうのではないか? 薄皮一枚でなんとか存在している感じ。私は役に立っている、受け入れられているとか、存在していて良いというストーリーがないと自分はどう立っていられるだろう?

なので、深いレベルで常に自分の存在なんとか証明していたい、自分はいるんだ、生きているんだと感じていたいという思いがあります。

人生がうまくいっていたり、他者との強いつながりがあったり、自分が好きだと思えているときは、この感覚はあまり感じられないでしょう。

でも、自己否定が激しいと、それはこの感覚とマッチし、加速していきます。存在していたいのに、私はダメダメ人間だと自分で自分の存在を否定してしまう。

もちろん、ぜ~~んぶ、潜在意識の深いところで起きています。

とにかく、自分はダメダメ人間だけど、なんとか薄皮一枚の思いで存在していられる。その思いとは、ジャン!、「私は犠牲者だ」

私が悪いのではなくて、世間や他者が悪いからこんなみじめな自分、ダメにされている自分、誤解される自分、理解されない自分でいるしかない・・・・。

このとき、やっと薄皮一枚でつながっている「私は犠牲者だ」という思いを癒すことは、まずものすごい抵抗があります。というか、たぶん、もしそんな話でもしようものなら怒られます。悪いのは相手なのに!!!

さて、このように、自我は自分が空っぽだとうすうす知っていますが、見過ごしているのは、その空っぽさに逃げ込む(ゆだねる)ことが本当は一番の救いだということなんです。

例えてみれば、小波が自分は空っぽだと思っていて、必死に形を保とうとしているけど、もしそれをあきらめて空っぽさに身を投げたら、消えちゃうどころか自分は大海だったと知るという感じですね。

つまり、自我が描いている最悪のシナリオは消えてしまうことですが、実は大海に戻るだけなんです。そしてそこは実は自分が一番求めていた愛、受容の場。

と書くと中には誤解する人もいるかもしれませんので、付け加えておくと、肉体の死(自殺)ではそれは決して見えてこないんです。ここで言っているのは、自己否定や犠牲者意識を手放す(握りしめていたものをあきらめる)という話です。

または、自己受容、自己愛を高めていくことで、自己を超えていく・・・。だから、奇跡のコースでは、「罪悪感を癒す」ということが繰り返し書かれているのだろうと思います。

いずれにしても、他者が悪く見えているとき、それも絶対相手が悪いと確信しているときほど、もし楽になりたいのなら、相手に怒りをぶつけたり、責めたりすることをあきらめてみること。

そして、ストーリーもあきらめ、「感情」に目を向けることです。(怒り、悲しみなど) そして、その感情が持っている感覚の中に沈んでいきます。無抵抗に。あたかも自分は存在していないかのように。空っぽになってしまうんです。(これが降参=受容♪)

こうしてストーリーから自分を解放し、自分の中にあるものに身をゆだねたとき、やっと空回りから抜け出せ、本質、そして癒しへ帰るスタート地点に足を踏み出すことができるでしょう。

多かれ少なかれ、皆が深いところで感じている空っぽさ。一番感じたくない感覚。

でも、その先に実は愛と受容がある♪

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自我がうすうす知っていること」への12件のフィードバック

  1. 私の場合はバカにされているというよりも、私はダメだという思い、それがばれるんじゃないかという不安、あ、ばれたという絶望感。その三点セットです(笑)。
    以前より随分楽になりましたが、今の現実が私の投影ならば私は救いようのない悪意に満ちているので、それを認めたくなくて、いくらなんでもここまでひどくないだろう、私の内面はと信じている気がします。

    • soraさん、こんにちは!

      今の現実のなかに悪意を見るのであれば、自分の中に自分に対しての悪意、つまり自己否定があるかどうかですよね。で、自己否定をよ~く見ていけば、いつもその下には、自分を愛したいという気持ちがあります。そこに出会えると良いですね♪ (*^_^*)

  2. 思考のあるもん!という証明、というか執着はどうして起きてしまうのでしょうか?
    寄る辺のなさ、しがみつきたいのに掴めるものがないというパニックまたは絶望の向こう側にある、受け入れてしまえ。それがある。ないがある。というシンプルさは小波大波放題の中、感覚でつかめてきましたが、、、、、今は行ったり来たりしておりますw
    仕事やお買い物、お金になると思考に乗っちゃって急行列車GO!めんどくせえ!w
    家に帰るとポワポワーーー。なんだったっけ?
    アホすぎる。
    一周廻ってあれそもそも執着して同化しちゃっているこの思考や感覚って????
    なんで起きたんだっけ?って。www

    あ!消えてしまうのではないか怖い!(そもそも波現象だから起きたら消える)死んでしまうのではないかイヤだ!嫌われたら、放置されてのたれ死んじゃう!恐怖!
    だから居続けられるように引き延ばそうと躍起になって小さな現象拾ってイライラうんざり嫌われてるしのいじけの1人レース。が執着?

    全体に広げようとする。と執着の幅広いシーソーゲームの中におります。
    ごめんなさい何が書きたいのかわからなくなってしまいました。
    感覚を言葉にして説明するのは難しいです。
    この思考の自分が自分が自分が、、、、、、消さないで!ってこれはいつか落ち着くとこに行くのでしょうか?
    嘘だと薄々知ってても泣き出したくなるくらい手放したくないんですね。

    • ゆみさん、こんにちは!

      コメントの内容を理解しているかどうか不確かですが、なんとなく努力しているように感じられます。(間違っていたらごめんなさい!)

      好奇心を持って、自分をなくすのではなく、自己の不在をはっきり見抜いてみてくださいね。で、とりあえず、恐怖の感情と恐怖が持っている声をしっかり受け入れてあげるのはいかがでしょうか?

      • 返信ありがとうございます。
        今読み返してもじたばたしてますね。本当にありがとうございます。
        自分を消そうとしてしまっていたのかもしれません。
        そのほうが楽なのにって。
        ないほうが穏やかに暮らせるんじゃないかって。
        全部思考のせいにできて、脱ぎ捨てられたら楽になるって。
        で委ねるという行為に逃げようとしてたのかも。
        感情と癒しへの働きかけをすっかり忘れてました。
        それにしても空っぽなのに感情が創造され、癒しが創造され。なんなんだこれっていつも思います。

        あゆかさんのブログを読むと、いつも俯瞰されている目が高く広く、処理も冷静でいらっしゃるので、とても勉強になります。
        お見苦しいコメントをしてしまい失礼しました。
        これからも楽しみにしております。

  3. 気づいている意識にどこまでも寄り添ってみる
    すべて流れていった
    大海はずっといっしょだった
    小波は大海
    大海そのもの
    何もない安心感

  4. 少し前の私、今の私もそうかもしれないけれど、

    他者から受け入れられない→一人ぼっちになる→生きていけない→死にたい

    だったかな

    • rkさん、こんにちは!

      ここで書いているのは、自我には、「死」への恐れが必ずあるということなんです。

      どんなに自己愛が高くて、人生が調子が良いときでも、自分を存続させたいという思いがある限り、必ず死への恐れはあるんです。(もちろんあっても良いのですが)

      なので、調子が良いときや癒されたらなくなるというのはないかなぁと思います。(死にたいではなく、死への恐れ。この違いは大きいですね。)

      • 返信ありがとうございます。
        そうですね。
        自傷行為(やってないですが)はやっぱり恐いので、
        私にも死への恐怖があると思います。
        より恐いのは、苦しみながら生きるということです。

        現実、しがらみがなくなるということありませんけど、
        もし、しがらみが全くなくなって、安楽死(寝たまま死へ)が出来たとしたら、
        私は、その安楽死を選ばないとも言えません。
        (自殺を考えているわけではありません、念のため)

  5. いつも楽しく拝見しています。
    ずっと忙しくて、久しぶりにパソコンを開き、あゆかさんのブログを読んでまたもやビビビ!ときました。
    今朝、私が見た夢がまさしく「私はひとりぼっちだ」というタイトル(?)のものだったからです。
    意識の表層では、私は「家族がいる。友達がいる。仕事がある。趣味がある。私を愛してくれている人がいる。」などなどいつもその存在に感謝する毎日なのに、心の深い所では「私はどこにいっても受け入れられない。ひとり取り残される」と思っているんだなぁ、と。

    これまでも、団体行動の最中にはぐれたり、遅れたりして独りぼっちになる夢は何度も見ています。
    いつもこういった類いの夢を見るたびに憂鬱になっていましたが、自分は小波だったんだな。と気付くだけでも少し気分が晴れますね。

    いつもタイムリーな記事をありがとうございます。

  6. 今回の記事を、度々開いて、声に出して読み返しています。一度目は読みながら涙が溢れました。
    (音読すると心にとても響くので、なぜだろう、不思議だなぁと思います。)

    仕事で上司からの評価が著しく悪くなり、何をしても、何を言っても裏目に出てしまうこの頃です。
    厳しい叱責を受け「怒り」より「悲しみ」が大きいつもりでしたが、内心で「どうしてそんなに怒るんだろう」「どうして何もかも悪く受け取るんだろう」「もっとこうしてくれたら」と、相手に対する抗議の気持ち(憤り、抵抗)もかなり渦巻いていたと気づきました。

    この感情に沈んでいってみると、子ども時代の感情が重なって出てきました。

    母から、毎日のように叩かれたり、殴られたりしていました。生活の中で不意にそうされる度に、驚き、恥ずかしさ、悲しさと悔しさでいっぱいになりました。
    その時の内面を今言葉にすると、「私の人間としての尊厳が傷つけられ、辱められていく。生きる力が奪われていく」という切実な恐怖だったと思います。

    「そんなに悪いことはしていないのに。どうしていじめるの?!」という心の叫び、まさに「私は被害者だ!」という意識が薄皮一枚で存在を支えていたこと、記事を読んでよく分かりました。被害者だ!の思いだけが強く残りすぎて、実際何があって母が手を上げたのか、たくさんのエピソードがあったはずなのに、具体的なきっかけは何も思い出せないくらいです。

    大人になる過程でずっと、自死は人間に与えられた最後の救いであると信じてきました。人間は互いを著しく傷つけ合う生き物だからこそ、どうしようもなく傷つき、尊厳が地の底に落ちた時に、最後の自衛策として自分をこの世から消し去る術が与えられているのだと。自ら死を選んだ人は、そうして自分の尊厳、魂を守ったのだと思っていました。

    実際に、私も「辱められ傷ついたこんな自分と、この先ずっと生きていくなんて嫌だ」と死を願った瞬間が幾度もありました。

    でも今回の記事を読んだ後、ふっと自然に疑問が浮かんできました。
    「”傷つけられた私の尊厳”って…?」
    「傷つけられた”こんな私”って誰?”そんな自分は嫌だ”と思っている”私”って誰?」
    刺激され、強化されていたのはエゴ(マインド)の恐怖、傷つけられていたのはマインドの作ったストーリーだったのだな、とわかると、苦しみがすうっと消えていくようです。

    それでもなお「…でも私はこう感じる!」と「私にとってのリアル」を主張したがるマインドの声の強さはどうしてなのでしょう。そんなに投影を真実と思い込んでも、自分を辛くさせるだけなのに…。

    少しずつ、繰り返し、手放していきたいです。

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