くすぶりを見つめると愛と出会う♪

例えば、すごく嫌なことがあったとして、ネガティブな感情を感じ続けているのは、すごく不快ですよね。

で、自分を観察していてそんなとき何をしていますか?

ネットに向かったり、音楽を聴いたり、人と話したり、テレビを観たり、おいしいものを食べたり、いろいろ気を紛らしているかもしれません。

と、同時によ~く観察してみると、その嫌なことを納得して、終わらせたいという気持ちもどこかにあるはずです。

なので、“これが人生というものだ”、“~~さんにも事情があるのだろう”、“私も悪かった”などと、どうにか丸く治めようとする思考も出てくるはずです。

これが悪いといっているのではもちろんありません。出来事を違う方向や広い視野で見ようとすることは健全な心である証拠でしょう。ストレスが高まると、考えが狭くなり、自分中心の見方しかできなくなりますから。

ただ、このときに少し注意深くなってもらいたいのが、「こころの状態」です。というのも、考えによって「本心」が隠されてしまうことがよくあるからです。

つまり、何かくすぶってしまうことです。自分でもどこかすっきりしていないのは分かっているし、本当に心が晴れていないのも分かっているはずです。

でも、そうやって思考で納得したのだから・・・と、そのくすぶった心を放置してしまう。

くすぶった心がたまってしまうとどうなるかは、インテグレイテッド心理学でもやっていますが、今日は少し違う観点から書いてみたいと思います。

基本的にくすぶった感じ、すっきりしない感じ、どことなく沈んだ感じ、なんかイラついている感じ、うっすらとして不幸感などは、愛が隠されてしまっているよ~というサインですね。

でも、このサインはあまり主張しないし、言葉を持っていないので、大きな声で分かりやすい「思考」にあっという間に隠されてしまいます。

なので多くの人が、「考える」→「行動する」というパターンばかりを繰り返して、「感じる」を忘れ、心を置き去りにしてしまいます。

でもやっぱり、なんかすっきりしないので、どうしたら良いか?とまた考えるみたいな。で、そこでそれは置き去りにした心があるからだと気づく人はほとんどいません。

なので、たいてい「状況が変われば、きっと楽になる、幸せになる」という考えに着地します。

状況が自分の思うようになれば、私は幸せになるはず、というのは多くの自我がはまっている幻想です。社会全体で一斉に深くはまっているので、これが幻想だと気づいたり、抜け出すのはけっこう大変です。

でも、放置している自分の心をきちんと見ていくだけで、状況に関わらず、「愛」(安心、平和、幸せ)を取り戻せるんです。

「愛」というと、なにかふんわりした優しいものみたいなイメージをする人もいるかもしれません。でも、もちろんそうではまったくなく、愛には何事にも立ち向かっていける強さ、忍耐、強靭さがありますね。また共存、共鳴というすべてを包括する広がりもあります。

思考は、前にも書きましたが基本的に「必殺仕分け人」なので、ものごとを切り刻んで解釈する、レッテルを貼る、というような「分離作業」がその役割です。

ですから、思考中心になればなるほど、効率性とか損得、価値や有効性、役に立っているかどうかなどが大切になり、また分離感も強まるので、自分と相手は違うものという感覚も強まりますね。

しかし、愛を中心に世界を見れば、相手が外国人だろうが、障害を持つ人だろうが、あらゆるものが共存することがいかに自然なことか、きっと感じられるはずです。

思考は、防衛と攻撃によって自分は生き残れるといい、愛は、共存とつながりによって生き残れるといいます。

現在の社会では、愛とか平和、共存という言葉を発すると、理想主義と言われ、地に足が着いていないと思われがちかもしれません。

しかし、それを自分のレベルに落とし込んだとき、自分の中で心の葛藤や攻撃が起きているとき、そこに自分を維持し、成長させてくれる生命の輝きはあるでしょうか? またそこに力強さはあるでしょうか? それとも萎縮した緊張感があるだけでしょうか?

また、愛は決して現実から目をそらさず、むしろまっすぐ本質に向かってそれを見据えようとします。

例えば、社会に起きた悲惨な事件、芸能人のゴシップ、世界の情勢、政治などなど、思考はああだこうだと批判したり、分析したり、自分の考えが正しいと言い張ったりします。

でも、愛はその出来事になかに、自分を見つけることはできるだろうか?と探します。なぜなら、すべての本質は自分(愛)であって、それが抑圧されているところに摩擦や苦しみがあると分かっているからです。

なので、出来事を批判したり、分析するよりも、愛が抑圧された場所を知り、その抑圧が解かれることを願います。自分を一見分離させているものを本質に戻そうとするんですね。

ここまで思考型になった社会が一夜で愛を思い出すことは、なかなか難しいでしょう。それまではどうしても、今ある制度や政策が必要かもしれません。

でも、心をきちんと見ていくということ自体は、そんなに難しいことではありません。なので、今までのやり方を維持する、強化するというよりは、私たちの本質である「愛」をどう取り戻していくか?に人々の意識が向けば良いのになぁと思うのです。

という気持ちもあり、ハートレジリエンス(ハートから生まれる強靭性)協会の活動もやっていきたいと思ったりしています。地道に気楽に~♪(基本、まったりしているときが一番が好き。)

そうそう、もしかすると、もしこの世界がありのままですでに完璧なら、または、もしこの世界が幻想なら、どうして、世界のために何かするの?という思いを持っている方もいらっしゃるかもしれません。

で、私が好きな言葉は、バイロン・ケイティの“それが愛がすることだから”です。(*^▽^*)

 

☆近々、EFTマトリックス・リインプリンティングの一般募集を始めます。ご興味がある方は、次回のブログをぜひお読みください。

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くすぶりを見つめると愛と出会う♪」への7件のフィードバック

  1. あゆかさん、いつもブログを楽しみに拝見しています。

    嫌なことがあるとなんとかして分析して相手も傷ついてるんだから、とか人間ってそんなものだよね、と結論付けて感情がこれ以上揺れないように抑圧してしまいます。

    心を見ていく
    感情に寄り添う

    という表現はたくさんのスピリチャルな文章で見聞きする表現ですが、

    それがどういった事なのかいまいちピンときません。

    自分の嫌な感情の源を見ていくとどんどん分析して行ってしまい、なるほど私はこんな思いがあるんだな、だからこんなに嫌なんだ、、となって、わかった事で少し楽にはなりますが、消えて無くなる訳ではなく、思考の世界でケリをつけてるような気持ちになります。

    愛、という表現も漠然と受け止めてしまって、自分自身の愛に気づく、、というような表現もよくわかりません、、。

    自分でも何を聞きたいのかわかりませんがσ(^_^;)、心、感情を見る、ってどういうことなんでしょうか。。

    • すずさん、こんにちは☆

      そうなんです。心や感情を見る方法って、私たちは教わってこないんですよね。なので分からない方のほうが圧倒的に多いかと思います。

      とりあえず、分析に行かないというのも一つのポイントです。(*^▽^*)

      嫌な感情に寄り添う(どうしてあるのか?とか分析はNG)→ただじっと待つ→なにか思いや記憶などが出てくるかも→でてきたら、その思いや記憶についている感情を探る→そのまま感じている→さらに違う思いや感情がでてくるかも→出てきたら、じっと感じる・・・というようなことを繰り返し、自分が気づいていない思いや感情が出てきて、それを完全に受け入れるということをしていきます。

      頭で考え始めずに、忍耐強くじっと待ってあげるのもコツです。

      とはいえ、これは大雑把なやり方で、フォーカシングとかマトリックス・リインプリンティングとか知っているとかなりやりやすくなりますよ~。

      ちなみに、これはスピリチュアルというよりセラピーです。日本では、セラピーと自己啓発とスピリチュアルがごっちゃになっていますよね。

      • あゆかさん、早速ご返信いただいてありがとうございます!

        私が考えていた心を見る、寄り添う、というものとは違うんだな、とわかりました。

        どうしてもつまりこういうこと!としてまとめたがる思考が先行し、振り払おうとしてもいつまでも消えない重くて鈍い痛みをハートに感じています。

        フォーカシング、マトリックス・リインプリンティング、大変興味があります。
        経験してみたいと思います!

        ありがとうございました(^^)!

        • あ、念のため付けたしですが、ハートにある鈍い痛みは悪いものではないので、振り払おうとするのではなく、受け入れてあげてくださいね。泣いている子を抱きしめてあげるように。

  2. おはようございます。

    いつも、ありがとうございます!

    「それが愛がすることだからです」(^_^)
    あゆかさんを見ていて そのとおりだなぁーと
    しみじみ感じます。

    あなたがあなたを使わなくなったとき
    あなたの中の神が、あなたに変わって動き出します。
    あなた本来の仕事をし始めるのです。(津留晃一さん)

    という言葉を、しみじみ感じました。 (大拍手)

    ところで、この泣いてる子を抱きしめるように。。。
    これって最初(私の場合)
    泣いてる子どもそのものになっているので
    とても難しかったです。
    仲間ハズレの中で、味方が1人もいない状況で、
    とても怖くガタガタ震えている状態で
    自分が自分を抱きしめる難しさです。
    神側に行き、神さまにしがみつき《私は在る(私はいない)に在り》
    やっと、ジーーっと見つめることができました。 (^_^)
    抱きしめ癒すことができるようになりました。
    あゆかさんのおかげです。

    なんだか最近は、まーったりのみ(平和そのもの)が大好きで大好きで
    このまま、まーったりで
    この世に在りたいなぁーーと なっています。 (^_^)
    まるで、雨の日の紫陽花のように
    とても静かで
    潤い満ち満ちているこのままでいたいなぁーとなってます。

    感謝

    • ひとみさん、こんにちは☆

      わぁ、津留晃一さん、素晴らしいですね。

      そうなんです。自分が自分を抱きしめるのは難しいときがありますよね。

      私やクライアントさんのケースでも、自分が自分(の一部、置き去りにしていた自分)を嫌いすぎて、触りたくもないと抵抗することもそれなりにあります。

      セラピーを長年やっているおかげで、そんな場合の対処も学んでいきましたが、流れを信頼するというのが一番ということろに今は着地しています。(*^▽^*)

      こちらこそいつもありがとうございます♪ 

      • 「流れを信頼するというのが一番というところに
        今は着地しています。」 (^_^)

        あゆかさんからこぼれでる言葉は
        全部、素晴らしい言葉ばかりで
        いちいち反応し
        しみじみとした愛に包まれ
        心地いい。。。
        いつも気持ちよくなります。
        本当に、ありがとうございます。(合掌)

        そういえば子育てで悩んでいるときに
        「愛することは信じることなのです」と
        教えてくれた方がいました。
        私は子供たちの中の命を信じることに決め
        それからは彼らのことは彼らに任せることにしました。
        とても楽になりました。
        今から思うと、この物語も
        平和の境地にいない自分を受け入れるお稽古だったんだなぁ・・・

        子どもたちのことも、夫のことも、そして両親のことも
        また今まで出会ってくれた全ての人も
        まるで神さまからの使者?のように
        しみじみと感じます。(この歳になってやっとです)

        まだまだ 笑
        モコモコっと
        感じきってあげてない感情が顔を出してくれますし
        (いろいろな人のおかげで)
        エゴの囁きもありますが 笑

        その都度その都度
        丁寧に丁寧に 向き合っています。

        北海道は秋の足音が少しずつ近づいています。
        いつかお会いできる日を楽しみにしています。

        では。

        ☆どうぞお元気で☆

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