人事を尽くして天命に“あって”みる♪

「介護をしているケアラーのあなたへ~こころを軽くするヒント集」申し込み欄にいろいろなメッセージを頂きまして大変ありがとうございます!(無料冊子です。ご希望の方はこちらへ→☆ 子育て中の方にも通じるものがあるというフィードバックも頂いています♪)

ゴールデンウィーク中に“大発送大会”を行う予定でおりますので、発送を申し込まれた皆様、しばしお待ちくださいませ。また、着払いにさせて頂きましたが、郵送料を負担しても良いよ~というお気持ちはほんと涙ものです。

また、文字校正を自発的にしてくださった方もいらっしゃって、と~ってもとありがたく、心より嬉しく思います。

さて、介護の現場はもちろん、介護だけではなく、人生においては誰がどう見ても大変な状況というのはありますよね。

痴ほう症の夫が妻をなぐったり、不登校の子供が将来の絶望を口にしたり、何もかもやる気をなくした鬱病の妻がただうなだれていたり、私たちがどうにかしたい!と心の中で叫びたくなる状況は、あちこちにあることでしょう。

で、大変であればあるほど、ある意味当たり前ですが、私たちは解決方法を必死に探し求めます。もちろん、それは言うまでもなくとっても大切なことです。きちんと地に足の着いた対処法やサポートをを探っていくのは前提中の前提です。

たまにスピリチュアルにはまり過ぎている人が、実質的な方法をすっかり忘れて、スピだけに頼ってしまうのを見かけます。どんなスピの方法を使っても良いと思いますが、実質的な面をしっかり押さえることも大切ですよね。

話を戻して、私たちは解決しようとするあまり、今の現状をものすごく否定的に見てしまう傾向があります。

どうにかしたい!という必死な思いは、裏を返せば、往々にしてこんな状況嫌だ!間違っている!という思いですね。なので、知らないうちに私たちは自分の置かれた状況を敵視してしまうんです。また、その中で誰かを悪者にしてしまっているかもしれません。

その悪者とは、自分かもしれないし(私のせいでこうなってしまった・・・)、関わっている誰かかもしれないし(夫がもっと協力してくれていたら・・・)、心配している相手かもしれません(本気で治りたいと思ってくれないから・・・・)。

そうするうちに苦しみは増幅し、皆の心が通わなくなり、さらに緊張を生んでしまいます。

また、どうにかしなければ、という思いに囚われれば囚われるほど、緊張や恐れや不安が高まるため “これしかない”とか、“こうならなければいけないとか”、一つのせま~い思いにも陥ってしまいがちです。。

とはいえ、大変だ、悲惨だ、辛い~などと感じているときに、今の状態を否定的に見ないということは、容易なことではないですよね。

それでも、どこかで覚えていられたら良いなぁと思うのは、あらゆる思い、感情、状態が100%受け入れられているという“真実”があるということです。

いまここに「苦しみ」があるなら、それに抗っていない“真実”があって、
いまここに「痛み」があるなら、それに抗っていない“真実”があって、
いまここに「うまくいっていない」状態があるなら、それに抗っていない“真実”があるんです。

“真実”とは、あらゆることに気づいているだけの「気づいている意識」または、「純粋意識、存在、全体、それ、etc」です。

かつて、非二元とかそんなことも知らずに苦しんでいたとき、無意識にどこかに助けを求めていたものです。でも周囲は静かなだけで、そのとき、この静けさは単に孤独を意味していただけでした。

でも、そのときはまったく分かりませんでしたが、単に静かであるのと、静けさに「ある」のとでは大きく違うんです。

深い静けさとは「ストーリー(現象)を超えた無限」であって、同時に「あらゆるストーリー(現象)の無条件の受容」であったのです。

他の言葉で言ってみれば、人事を尽くして、天命にただあってみる。天命を待つのではなく、そこにあってみるんです。(私たちは、天命そのものでもあるから)

そこはすべてが受け入れられ、許され、愛されて、そして流れて変容している場です。

何もしないで最もシンプルに「ただあって」みるんです。外から車の音がして去っていき、風が吹いて、木々がただ揺れていて、体のどこかがかゆくなって、またそれが消えたり、湯沸しの音がシューシューとしていたり・・・・。

ただただシンプルにそこに「あって」みます。あらゆる動きがあたかもすべて自分であるかのように思えるまで。(本当はそうだし)

そのうち行き詰っていたような感覚から、生命の流れがまた感じられてくるかもしれません。そして、否定的な思いで固く緊張しきっていた思いが緩まり、優しさが顔を出してくるかもしれません。

もちろん、大変な最中にこの静けさ、天命、生命の流を感じることが、とっても難しいことは百も承知で書いています。というか、こういうことを思い出しもしないことでしょう。

でも、もしどこかでふっと思い出せて、完全に見過ごしていた事象のもう一つの側面に目を向けられるようになったら?

どうにかしたい!は、どうにかなるだろうに変わるかもしれません。そして、最終的に、悪い状況、間違った状態、悪い人、間違った人はいないと理解されたとき、あるがままをただあるがままに対応していけるかもしれません。

事象の陰にすっかり見えなくなっている真実、静けさという側面は、何も言わないし、何も約束しないし、うまくいくとかいかないとか、まったく示唆もないでしょう。

でも、そこには究極の癒し、そして私たちの本質が潜んでいますね♪

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人事を尽くして天命に“あって”みる♪」への6件のフィードバック

  1. 人事を尽くして、天命に在る

    いいですね。心のバリアーが溶けていきます。
    部屋に貼りたい名言!(笑)

    日々いろいろあって
    胸が痛むけれど
    わたしはわたしの人事を尽くして、
    今に在っていようと思います。
    天命に「在って」いようと思います。

    • きゅーさん、こんにちは♪

      あはは、部屋に貼るというのはいいですね。私も誰かお習字が上手な方に達筆で書いてもらおうかな。(*^_^*) 何も求めず、何も変えようとせず、ただあることの穏やかさがいいですよね。

  2. あゆかさん こんばんわ 何回かセミナーに参加させて頂いていましたが、今回のショートセミナーは行かれそうにありません。
    天命を待つ のではなく 天命にあってみる
    分かったようで解らない
    私の病気はもう治らないと云う事に対して 抗がん剤を受けるのを拒否し、只静かにその時を待とうと思っていた時にこの文章を読みました。

    主人は先への不安からか涙ぐむ事が多く成って、私は周りの人の気持ちを重々承知しながら延命治療を拒否しましたから、(人事を尽くして天命を待つと云う周りの気持ちを受け入れる事無く、我儘を通しました)私は自分で決めた事(私は居ない。2元と云うのもよく分からないのですが…)なので納得もし受け入れもしていて涙も出ない状態なのですが
    主人にはどの様に受け入れてもらったらいいのか?、何を言っても無駄なのか? 
    天命に在ってみる 多分なにそれ?と云う返事が返ってくるような気がします

    私は何て言ったら良いのか分からなくてこんな質問をしている次第です。

    もし何か言葉が有ったら教えて頂きたいと思いますが…

    • チョロコさん、こんばんは☆

      セミナーに何度かご参加頂きありがとうございます!

      ご自身の現状を受け入れられていらっしゃることが本当に素晴らしいと感じます。治らないと決めつけることもなく、治ろうともがくこともなく、いまにあっていらっしゃることは、なかなかできないことかと思います。

      私もまったくどんな言葉が良いのか分かりませんが、ご主人様のお気持ちはとても自然なものかと思います。

      愛する人が嘆く姿を見ることは心痛むことかと思いますが、ご主人様が不安を感じていらっしゃることも受け入れてあげ、何も言わずに、ただ手を握ったり、ご自身が受け入れているという感覚をそんな形でシェアしてみても良いのかもしれませんね。(もちろん、これが正しいとか良い方法とかいう意味ではなく)

      こんなふうにコメントを頂きご縁に心より感謝いたします。

      • あゆかさん

        有り難うございます
        今は、以前より色々な事を話していますが、時々私の死後事務手続きが
        (自営で会社の事務・経理をしているので)出来ないであろうと推測して
        ノートに書いておくから… とか 口で言っても忘れちゃうでしょう…とか
        責めてはいないのですが、責めている様に聞こえるらしく、病気が言わせているだね と またまた鼻をすすっています
        伝えることは早く伝えないと と焦る私が居て、語気が強く成ってしまった様でした
        早く夫の手を取って、感謝の気持ちを言わなければいけないのですが、言葉に詰まりそうで、それこそ涙が出そうで何時言ったら良いかと思案中です
        きっと分かっているとは思いますが、言葉に出す事が大事かな?とも思っています

        有り難うございました

  3. あゆかさん
    はじめまして。私はキネシオロジーのセラピーにかかりはじめて一年ほど経つ者ですが、癒しが進んだことにより自分をより深く見つめることのできる段階に入ったのか、不思議なご縁であゆかさんのブログにたどり着きました。以来、無意識に意識的になることに目覚め、まだまだ境界線の薄さを実感しながらも自分との一体感に多幸感を感じはじめています。
    出身大学や、今自分が現代アートの現場に立っていることなどから勝手にあゆかさんに親近感を感じております。(ポジティブ投影?笑)

    さて、あゆかさんのご意見を伺いたいのが、アート全般に通ずる「ストーリー」についてです。私は作家としても活動していたのですが、今迄の自分の苦しい創作の仕方に疑問を感じていました。自我全開の力強くもペシミスティックなボイスは代弁者としての訴求力で一定のファンを得ますが、なんだか自分以外の誰かの気持ちを代弁させられているような感覚が拭えず、私は自我のボイスやあらゆるものに対する極度の投影をパワープレーで使っていたのだと思い至りました。あるいは、純粋に自分の感情が創作を通し解放されていた瞬間も多々あったかもしれません。しかし、ダンスのように身体行為を伴わないので思考に偏っていきがちです。それは、アートに解釈を与える今の仕事(クリティカルライティングなど)も同じです。

    わたしたちを苦しめているのはストーリー、解釈であるといいます。現実を楽にするというレベルでは、ポジティブ、あるいは癒しのストーリーを創作のモチベーションやスタイルにすることも人によっては選択肢のひとつ、あるいはミッションかとは思いますが、非二元、真実の視点ではストーリー、あるいはアートに解釈をつけて他者に繋げる行為など何の意味もないのではないかと。。どうせ全て無だし、夢だし、、ああ、思考がグルグルしてきました。

    私個人のことでいえば、もっと心を優しく掃除してハートの声を聴いたときに、ストーリーなるものから離れる可能性もあり、と思っていますが、悟られたあゆかさんがアートや文学に対してどのような意義を感じておられるか伺いたく、コメントさせて頂きました。色んな次元がゴチャゴチャになった質問で恐縮ですが、どうぞ奇譚なきところお聞かせいただけましたら幸いです。

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