私でいることからの休憩

明日から、アジャシャンティのリトリートへ出かけていきます♪ リトリート大好き人間なので、もう楽しみでしかたがありません。一生、リトリートだけやっていられたら良いのに・・・と思ってしまうぐらいです。うふふ。

さて、拙書「こころがスーッと軽くなる「さとり」セラピー」(おぉ、なんか自分の本についてあまり書いていないので、なぜか恥ずかしい)に、“名前がなくなっても、世界はなくならない”という見出しがあります。

言葉を覚える前は、名前のない世界にいたはずなのですが、いつの間にか、名前やレッテルがあるのが当たり前というか、私たちは普段「レッテル=事実」という感覚になっているでしょう。

自分自身についても含めて、周囲を見渡すとすべてに名前がついていますよね。私たちは常に概念に囲まれた世界に住んでいるんです。

で、例えば私の場合、“溝口あゆか”、“私は女である”、“日本人である”、“セラピストである”などが私についた(&自分がつけた)レッテルです。

多くの人が、“女である”、“日本人である”は、紛れもない事実を言っているだけで、レッテルじゃないでしょ・・・と思うかもしれません。

でも、女だ、日本人だ、セラピストだという概念がなくなっても、私は消えませんよね。

また、性転換もできるし、国籍も変えられ、仕事ももちろん変えられます。

それらがどんなに変化しても、「わたし」は相変わらず存在しています。

バラは自分をバラと呼ばれていることは知らないでしょうが、そんな概念などまったく必要なく、見事に花開きます。

赤ちゃんも、自分の性別や名前、国籍など知らなくても、実に溌剌とした生命の躍動感であふれていますね。

名前やレッテルはもちろん会話するために便利ですし、ないほうが良いという話をしようとしているのではありません。

ただ、それらがなくてもものごとは何の問題もなく存在し続けるし、出来事は起きていくということなんです。

国境も同じで、それは人間が勝手に引いた線ですね。動物や木々、山々にとっては、何の意味もありません。

こういった国の名前や人種のレッテル、国境などをはずしていくと、そこには大きなつながった一連の生命の動きがあるだけです。

私はテキスタイルが大好きなので、民族衣装展などにいくと、食いつくように見入り、できるものなら触りたいし、匂いもかぎたいのに・・・と思いながら、その多様性、歴史の深さにもう感嘆のため息ばかりついてしまいます。

なので、様々な文化や国はただのレッテルだよね、とっぱらって、みんな一つだね、みたいな話をしたいわけでもありません。

ただ、こういった名前やレッテル、区別を深く信じ、そしてそれらに強く同化すればするほど、自分と自分ではないものがしっかり分けられ、それはやがて分離の悪夢に転がっていくと思うのです。

個人の苦しみだったり、人類全体の苦しみだったり。

ルパート・スパイラの言葉に、

『人生には三つの可能の生がある

何かであること、無であること、すべてであること。

最初の場合には、苦悩がある

二つ目の場合は、平和がある

三つ目の場合は、幸せと美と愛がある』

というのがあります。

世界を見渡せば、今まだ多くの人が「何かであること」を深く信じてで生きているでしょう。自分の性別、国籍、職業、または、“私は優しい人間だ”、“私は能力がない”などといったセルフイメージに同化し、それを基準に世界を眺め、人生を構築していく。

でも、どれぐらいの人が、二つ目と三つ目の可能性に気づき始めているのか?

悟りや非二元という言葉を知らなくても、自然に直感的に気づいている人たちも必ずいるはずです。

もちろん気づいたとしても、長い間「何かであること」が深く刷り込まれた私たちにとって、無であること、すべてであることを実感するのは容易ではありません。

それでも、二つ目と三つ目の可能性に気づき始める人が増えたら、それだけでも分離の幻想は少しづつ溶け出していくかもしれません。

そして、それはエックハルト・トールの本のタイトルにあるように、人類の夜明け「ニュー・アース」の誕生になるかもしれませんね。

とりあえず、自分の名前、性別や国籍、自分に貼っているあらゆるレッテルやビリーフを横に置いて、自分はそれで一体何者なのか、感じてみてはいかがでしょうか?

それはまた、“私が休む”のではなく、“私でいることからの休憩” (a break from being me)となり、しばし幻想のドラマからの休憩にもなるかもしれません♪

 

☆EFTとマトリックス・リインプリンティングの振込みを14日以降にしてくださった方は、確認がしばしできませんので少々お待ちいただけましたら幸いです。

☆ちなみに「私はいない」という非二元のメッセージの観点からすれば、気づく誰かは存在しないとなりますが、こちらのブログは現象の観点を軸に書いています。

私でいることからの休憩」への3件のフィードバック

  1. こんにちは、
    今更、最近
    溝口さんのホームページを知りました。わたしがずっと知りたかったことを書いてあって
    なぜもっと早く見つけなかったのかと思う日々です。
    私も癒したいことが沢山あって
    間違った思い込みで何年も苦しんできました。
    出来事を癒しても
    長年苦しんできた虚しさも
    癒したりと、癒しても癒しても
    キリがない苦しみが襲います。

    きっかけをくれた溝口に感謝いたします。

  2. こんばんは。
    ブログ、いつも楽しく拝見しています。
    ちょっと質問がありまして、初めてコメントさせていただきます。

    あゆかさんのブログでは、しばしば感情を感じ切って解放する、という表現があります。
    ワクワクしたり、喜びを感じたり、など所謂快な感情は何となく解るのですが、
    ネガティヴな感情を感じ切って解放する所でいつもつまづいています。
    不快な感情がどっぷり思考と紐付いてしまい、心の奥底にあるニーズまで辿りつかず、思考が自分の意思とは裏腹に勝手に決着をつけている感じがするのです。

    例えば誰かを怖いと恐れている場合、「あの人を怖がるのは、小さい頃に親に愛してもらえなかったからだ」と一旦結論が出るのですが、思考が最もらしい理由付けをしている気がしてならないのです。
    非二元の事も、考えて理解した気になっているので、まだまだ体験するに至ってないどころか、リラックスするにも程遠い状態です。

    私のように思考がガチガチで、頭で理論的に理解する癖がついている者でも、セラピーやワークを時間をかけて受けたりするとリラックス出来るのでしょうか。過去、私と同じように頑固な方をセッションされたりしましたか?

    長文、乱文、失礼しました。

    追伸
    11月のあゆかさんのセミナーを受けるので、すごく楽しみにしてます。

  3. 確かに、何かであることは苦悩があります!
    ○○な私や、こう思われたい自分像を意識して手放すと自由で平和な感じがします(^^)

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