他人の目を緩めるには?

振り返ると、かつては他者の目に縛られて生きていたなぁと思います。私の場合、他者から見て、「まともな人間」「良き市民」に見られることがとっても大切でした。

ですが、過去の記事でも何回か書いていますように、基本的に「他者の目」は、「私の目」ですね。

「私たちは、他人の思いは読めない」という明白な事実を忘れ、他者の思いを常に推測していますよね。ちょっとまとめてみると、

◎確信的推測

Aさん、怖い表情をしている・・・、昨日私がしたミスをまだ怒っている・・・
みんなが私のことを~~~だと思っている。

自分の推測というよりも、それが事実であるというぐらい確信がある。当たっていることもあるでしょうが、よく振り返ってみれば、圧倒的な確率で間違っているはず。

◎普通の推測

たぶん、○○○と思っているだろう
きっと、○○○って考えているに違いない

など、100%の決めつけよりは多少軽いですが、きっと~、たぶん~と言いながらも、基本的に相手はそう思っているに違いないと信じている。

◎まったく分からない

相手が何を考えているのか、まったく分からない場合、ある意味これが一番怖いかもしれません。「理解できない」ということは、自我にとっては対処できないということですから、不安の闇に落とされます。

と、まぁ、こんなふうに分けてみましたが、前の話に戻って、私たちは他者の心は読めませんので、“分からない”も含めて、とにかくぜんぶ「自分の思い」です。

ということは、自分への思いが優しければ、他者の自分を見る目も優しくなるということです。

反対に、自分に対する目が厳しいとき、他者の視線も厳しくなりますね。

なので、他者の目が怖いとか厳しいと感じるときは、自分の思いを見つめてみれば、自分を責める声や叱咤激励する声、うるさくチェックする声、または“お前は無力だ~~”などといったネガティブなセルフイメージなどがあるはずです。

でも、おかしなことに私たちは自分の声をほったらかしにして、他者の目を気にして、怖がり、緊張しながら生きているんです。

ですがこのように見ていけば、人目を気にしないでリラックスできる道は、明らかに自分の中にありますね。

自分の中の声は、もともとは、親に言われたことや学校の先生に言われたこと、またはいじめに遭って友達から言われたことなど、その人の中では実際に「そう見られていた」という経験に基づいているかもしれません。

しかし、親や先生や友達が神様か?と考えれば、当然そんなことはなく、つまり、彼らの言ったこともまったくの主観で正当性はゼロです。

でも、自我は深いところでいつも「自分は不完全だ」と感じているものです。なぜなら、自我は自分は分離した存在だと信じているわけで、分離感は常に「不完全感覚」を生み出すからです。

なので、他者からのネガティブな言葉は、なんとなく思い当たってしまうんです。そのため、最初は他者の声だったものが、いつの間にか自分の声になってしまい、自分が自分を責め始めるんですね。

ということで、過去に言われて傷ついた言葉、小さいときにいつも言われていたネガティブな言葉、そこにまとわりつくネガティブな感情を癒すことは、とってもお薦めです♪(マトリックス・リインプリンティングは最適!)

さぁ、ここから話が一気に飛躍します。ぐぐっと非二元の世界へ。

興味がない方、スルーしてくださって、まったく問題ありません。

「私の思い」と書いてきましたが、究極的にはあまり正しい表現ではありません。

私たちは普段、“これは私しか分からない思いだから、私の思い”、“これは私しか分からない感情だから、私の感情”。“これは私しか痛みが分からないから、私の体だ”というように、自分が思いや感情や体を持っている、それらの所有者だと信じて疑っていないでしょう。

でも、じゃぁ、それらの所有者はどこにいるの? と真剣に探してみると、どこにもいないんです。(探してみてくださいね)

では、部屋で聞いている音楽は、自分しか聞こえない音楽だから、それは私の音楽でしょうか? それともただ音楽が流れているのでしょうか?

思いも感情もよく見つめてみれば、所有者(主体)なしに、そこにただ現れているだけなんです。誰のものでもないんです。

そうやって、「私の思い」という思い込みを放棄してしまうと、同時に「他の人の思い」も消えてしまいます。

そこには、誰のものでもない思いが、ダンスをしながらストーリーを紡ぎだしている姿があるだけです。

なんでこんなことを書いているかというと、これが明白になるにつれて、真に他者の目からも本当の意味で解放されるなぁと感じるからです。

他の人の言葉への恐れが限りなくなくなっていくんです。

ということで、自我の癒しを超えた、究極の癒しの地平線があるというのは、大きな救いですね♪

※とはいえ、非二元のメッセージを癒しのツールにしないように~。

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他人の目を緩めるには?」への9件のフィードバック

  1. いつも興味深い記事をありがとうございます。
    今日の記事も納得しつつ読み進めていたのですが、最後の、とはいえ非二次元メッセージを癒しのツールにしないように、という言葉にハッとしました!正にその通り、癒しになると思っていたからです! 非二次元を意識することで、大きな癒しが起こるというような、、
    この辺りのことを詳しく教えて頂けませんか?
    過去ログももう一度読んできます〜

  2. あゆかさん、いつもいつも叡智を分けてくださってありがとうございます。
    ちょうど最近、友人関係で悩んでいたので、今回の記事には救われる気持ちがしました。

    でも、最後の「非二元のメッセージを癒しのツールにしないように」で私もひっかかりました。嫌な感情をどこかへやってしまいたいとどこかで考えていて、自我が消えてくれればいいのに、的な思いをどうしても持ってしまいます。下心ってやつですね。なので、私もこのトピックについて詳しくお聞きしたいです!

    結局、二元的・世俗的な問題には自己愛を増やすことしかないのでしょうか?すみません、自己愛についてのあゆかさんの過去記事を読み直したいのですが、選りすぐり記事のページのどの記事あたりになりますか?

    教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  3. あ!いま過去記事のページをよくよく見たらテーマ別にまとめてくださっていたことに気づきました。なので自己愛についての記事もすぐ見つけられました。

    お騒がせしてすみませんでしたー!

  4. あゆかさん、いつも興味深い記事ありがとうございます。

    私もコメントの皆さんと同じく
    「癒しのツールにしないように〜」の部分に反応しました(笑)あゆかさんはやんわり書いて下さってますけど、非二元のメッセージを自分に都合いい逃げ場にしてしまうことを、私はよくやっています(ToT)非二元が本当に腑に落ちていることと、頭だけの理解の差がいまひとつわかりません。いまひとつわからないってことが、腑に落ちてないってことなんでしょうね(笑)皆さんへのお返事たのしみにしてます(^-^)

  5. 皆さん、コメントをありがとうございます! 何気に加えた追伸に3つもコメントを頂き、なるほど~~と思いました。では、次回にお返事させてくださいね♪ (*^_^*)

  6. あゆかさん こんにちは。

    3ヶ月前は、ありがとうございました。

    3日前に、カウンセリングコースのこと等についてメールをお送りしました。届いてますでしょうか?

  7. 新しい見方をすることができました。

    誰かの思いがダンスをしているだけ。気を楽にしてもいいなぁ、と思えました。

    ありがとうございます!

  8. 「誰かの思いがダンスをしているだけ」
    良い言葉ですね♪
    私も、そう感じると気が楽になりました。

    「素敵だな」と思うならば、一緒にダンスすればいいですもんね。

  9. 思考も感情も、誰にでも共通のものということでしょうか?
    「私」という感覚のほうが強くて圧倒されてしまいます。

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