思考の催眠シリーズ:ザ・比較

自我の動きが見えてくればくるほど、そりゃぁ、自我は常に自分と他者を比較するよね、と腑に落ちてきます。

インテグレイテッド心理学講座を受けてくださっている皆さんは、お分かりだと思いますが、自我の最大の恐れは、肉体の死と自己価値の死ですね。つまり、生き残りへの恐れです。

なので、私たちの行動の動機は、ほとんどこれらの二つを避けて、いかに自分が安全にうまく生きていけるかになってきますね。

ですから、どうしても無意識に「自分は大丈夫か?」というチェックが常に入ります。

例えば、何か講座を受けている場合だったら、周囲を見て、自分は他の人のようにやれているか?ついていけているのか?という思考が走ったりするでしょう。

そしてもし、自分はついていけていないと判断したら、自分は能力が低いことになり、そして、能力が低い私は食べていけない・・・・と、連想ゲームをしていくと、最後に「死んじゃう」になるはずです。

または、パーティーで彼が私よりも他の人と楽しそうに話していると、その人のほうが彼の注意を引いている、私のほうを見ていない、という思考が走るかもしれません。

そして、注意を引いてもらっていない私は、十分に愛されていない→愛されない私は・・・・と、連想ゲームをしていくと、やっぱり最後は「死んじゃう」になるはずです。

このように自我の連想ゲームを見ていくと、入り口はどこでも、最後は笑ってしまうぐらい「そして、死んじゃう」になります。

つまり、人と同じか、人より上でないと、自我はいつでも最終的に生き残れないと恐れているんですね。

で、そうであれば、人と同じよりも人より上の方が尚さら良いですね。生き残りの確立が高くなりますから。ので、できるなら人より能力が高い、人より財産が多い、人より人気者・・・などなど。

とにかく私が一番!みたいな。(経験バリバリあり)

これらの思いは全員の中にあります。が、自己否定が激しかったり、こういう思いを持ってはいけないと判断していると、深く抑圧してしまう人もいるかもしれません。その場合は、能力が高く見える人、財産があるように見える人、人気があるように見える人に嫉妬したり、批判したりしてしまうでしょう。

また、実際に自分と他者を比較しているときを振り返ってみると、たいてい心は緊張していませんか?

もし、自分の方がダメだと判断したら、目の前には「苦しみ街道」が広がり、自分が上だと判断したら、今度は「維持する努力」街道が待っています。

どちらも緊張感あふれた道です。

そして、それだけではありません。自我の妄想の中では、比較に勝った方は、すべてを持って行けることになっているんです。

私は、ABBAの歌がけっこう好きなのですが、歌詞を知ると、いつもあまりの暗さに驚いてしまいます。たとえば、題名がそのまま「The winner takes it all:勝者はすべてをもっていく」の歌詞は、失恋したということで下記のようになります。

The winner takes it all  勝者はすべてをもっていく
The loser standing small 敗者は小さくたたずむ

The winner takes it all  勝者はすべてをもっていく
The loser has to fall 敗者は落ちていくだけ

恋のゲームに負けたら、相手にすべて持って行かれ、自分は小さくなって落ちていくだけなんです。ここには引用しませんでしたが、続きの歌詞によるとそれは運命で仕方がないそうです。

そんな大げさな~と思う方、ためしに自分が他者と比べて駄目だ、負けた、下だと思っているとき、よ~~く自分の感覚、イメージを見てみてください。

きっと自分より上の相手、自分より勝っている人は、自分より多くのもの、またはすべてを持っているように見えているはずです。そして、自分は暗く小さくなっているというような。

意識上では、他者と自分を比較しているとき、ここまでのイメージはないでしょう。でも、苦しくなってしまうのは、この無意識のストーリーが流れているからですね。

最終的に、私たちが自分と他者を比較しているとき、真に求めているのは安心感なんです。

もし、自分がどんなんであれ、衣食住すべてが豊かに与えられ、みんなが自分を受け入れてくれたら、自分が人より上か下かなど、たぶんあまり気にならないでしょう。

さて、タイトルに思考の催眠と書きましたように、もちろんこれらの比較は、すべて頭の中で起きているだけです。何一つ真実ではありません。

でも、生き残りの恐れと合わさると、こんなにもリアルなんですね。

自我は、“でも、あの人は合格して、私は不合格だった”、“あの人は90点で、私は60点だった”などなど、分かりやすい例や数字を持ち出してきて、だから私は負けたとか、下だと言ってきたりもするでしょう。

しかし、そんなのなんの証拠にもならないんです。ちなみに医療やセラピーの世界では、そんな一個の例を持ち出されても、エビデンスとして評価されません。

なにが言いたいかというと、一人の人間の視点はとても狭くて、見過ごしているもの、見えていないものだらけだということです。

最終的に、決して尽きない生命エネルギーの海原のなかで、誰が生き残りゲームの勝者かということ自体が、基本的に不毛で思考の催眠です。

ので、「わたしは、わたし」以上。

それぐらいシンプルになれたら、思考は催眠からあなたを解き放ってくれるでしょう♪

そして、生命のエネルギーに守られていることが感じられてくるかもしれません。(*^_^*)

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思考の催眠シリーズ:ザ・比較」への4件のフィードバック

  1. あゆかさん

    以前こちらで何度かコメントしましたりょうと申します。
    ブログ楽しく読んでおります。
    実は先日、初めて所謂ワンネス体験というものを経験しました。
    主観も客体も無い世界という感覚がようやっと分かりました。
    この体験によって今までの人生はほぼエゴによる動機付けで
    生きてきた事がはっきりと分かりました。
    でも予想していたとおり一晩寝ると元の感覚に戻っていましたが(笑)

    ここからは質問なのですが、ワンネス体験によって今までの人生の目的はほとんど
    消えてしまったのですがそこから何も起こらない状態になってしまいました。
    アジャシャンティは自分を手放す事を理解しようとしない、分かろうとしない、
    分からないという感覚に生きるなどと表現していました。
    その感覚で生きる事があゆかさんの言うハートの声を感じる事だと思うのですが
    何も起こらないのはまだ自分を手放しきれていないからなのでしょうか?
    現在は自分が真我とエゴの狭間(アジャシャンティはLimboと表現していました)
    にいるような感覚でけっこう苦しい状態です。

    あゆかさんも以前このような状態になった事があるとブログに書いていましたが
    どのようなきっかけでさらに先に進む事ができたのでしょうか?

    りょう

  2. >しかし、そんなのなんの証拠にもならないんです。ちなみに医療やセラピーの世界では、そんな一個の例を持ち出されても、エビデンスとして評価されません。

    エビデンスという枠組み自体が,思考の催眠(のツールのひとつ)のように思われます。
    多数の例があれば,それはより動かしがたい法則なのだと思わせられてしまう(The Winner Takes It All の歌詞にも,rules must be obeyed などと出てきます)ことによって,より多数の例が生み出されていきます。

    たとえ大多数の人にとってそうであっても,「わたしは,わたし」ということを(現実を直視しつつも)言えるためには,エビデンスという枠組み自体を相対化できている必要があるように思います。

  3. まさにリアルタイムな記事でした!
    私のために書いてくれたの?!と錯覚してしまうような(笑)
    ありがとうございます!

  4. みんなが受け入れてくれたら、どちらが上かなんて気にならない・・・その文章を読んだら、一瞬ですが、とても心地良い感じがありました。

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