誰が人生を生きているの?

日本に帰ってきました♪ 今回もセミナーやシンポジウム、そしてハートサークルでは東北に3回訪問と盛りだくさんです。いつも日本でのんびりできないので、今回は年末年始を日本で過ごします!ふふ。

さて、今回はコメントにお返事をさせてください。コメントをありがとうございます!

こんにちは、あゆかさん。行為者の不在について、教えて下さい。私の今の(世間的な)感覚ならば、やらなければならないことをできないのは、意思の力が弱いから、だと思っています。うーん、それだけではない、と知識ではわかっていますが、例えば朝起きれない、とか、片付けできない、とか、時間にルーズ、と言うと、その人のやる気の問題だ。と言われます。そういうことは、頑張れば、意思を使い、出来なくはないのですが、まぁ、苦手は苦手なのです。そういう場合さえも、自動的に起こっているのでしょうか?つまり、一切介入できないのでしょうか?

これも自分を見つめてみると答えが見えてきますね。見つめるといっても、“私はなぜ片づけが苦手か?”といった自己分析をすることではありません。そうではなく、自分の経験を見つめてみるんですね。

ということで、根本の根本の経験に立ち返って、

「自分はなにが苦手で、何を得意とするかを決断したことはあるか? 」

と見つめてみたらどうでしょうか?

たぶん、誰も自分の不得意を自分で決めていないはずです。もし自分で決められるものなら、それらを得意なことにしているでしょう。ということは、もちろんそれも自動的に起こっているんですね。

では、次に湧いてくる疑問として、

だったら介入できないのか?もう苦手なまま一生時間にルーズでいくしかないのか?

ですね。

で、もちろん変えたいという意志が沸いてくれば、変化は可能です。もし変えたいという思いが沸いているのに、“どうせ行為者はいないのだから、介入は無理だ”などと考えてしまったら、それは頭でっかちになってしまった弊害です。

さて、「やらなければいけないことができない」という点にちょっとフォーカスすると、ハートがクリアになればこの悩み?は自然に落ちます。

自分の気持ちや、やりたいことがはっきりしていれば、世間一般的にやらなければいけないことも、自分にとってどこまで必要か?(別にできなくても良いよね)とか、または行動の動機が高まったり、勝手に心が整理されていきます。

言い換えれば、自分の人生の優先順位がハートに従ってクリアになるということです。

基本的に一日のなかで自分が一番時間を割いていることが、自分の優先順位のトップです。

やりたくないことを山ほどやっている人の場合、それをやらないとマズイことになる、という思いが優先されているんですね。時間にルーズという場合も、よく見つめれば、自分のなかで時間を優先にしていないはずです。

なので、一番大切なのは、自分はどうしたいか?をクリアにすることです。本当にある想定した時間に起きたいの?ほんとうに片づけをしたいの?ほんとうに時間に正確に過ごしたいの?

もし、ハートにその思いがあれば、変化はもちろん可能です。なぜならもう変化の種は(勝手に)起きているからです。でももしそれがなければ、たぶん無理でしょう。

まったくやる気のないものを無理やり頑張っても続かないことは、私を含め多くの方が経験済みのはずです。その場合は、嫌々ながらやるという状態が続くしかないでしょう。(または、はなっからやらないか)

ときには突然スイッチが入って急にやる気がでることもあるでしょう。でも、よく観察してみると、このスイッチ、いつも突然入りませんか? 自分で無理やりスイッチを入れることはできませんね。

ということで、やる気がないときはやる気がない。終わり。シンプル。真実はときには厳しく、身も蓋もないですね。

とはいえ、ここももう少し見つめてみても良いかもしれません。とりあえず、朝起きる(何時のことかわかりませんが)、時間にルーズ、片づけなどは出来て当たり前という概念を外してみたらいかがでしょうか?

そうすれば、意志の問題ではなく、どこにやりたくないポイントがあるのか?などといった実践的な問題になります。多いのは、やらないことで無意識のメリットがある、分からない箇所がいくつもある(この外国のコイン、絶対使わないけど、どこにしまうの?etc)、複雑だと感じている(まずあの戸棚を整理して、それから~~を用意して・・・)プロセスの途中に解決しなければいけない問題、または面倒なことがある、などなど。

または、意外に完璧主義がやる気を奪っている場合もけっこうあります。(ただこの場合、自分ではそれが当たり前の水準で、完璧主義だと思っていないケースがほとんど)

私もやらなければいけないこと、またはしたほうが良いことをいっぱいしていません。(笑)でも、良いんです。いつかスイッチが入ればやるでしょう。

話を「行為者の不在」に戻すと、行為者がいないというのは、じゃぁ自分にはなにもできないのだと無力になるということでは決してありません。人生を生きているのは、自我ではなく、気づきの意識であるのとだと理解し(体験的に)、そこから生まれる思いと行動を信頼していくということです。

そして、ハートは気づきの意識に一番近い場所です。(こう書きながら、言葉の限界をばんばんに感じています。)

行為者はいませんが、変化を促す思いや情熱が私たちの中に起き、そして人もものごとも変化し続けます。ほんとうのあなたは、生まれもせず、死ぬこともなく不変であるけれど、個としてのユニークなあなたは常に変化し続けていきますね。

不変と変化の両方の性質を持ち、無条件の愛という不変でありながら、自然に起きる変化そのものが私たちなんです。これは思想でもなければ、きれいな言葉で飾られた考えでもなく、私たちが毎日生きている現実そのものです♪

お知らせ

☆☆☆☆☆☆ 次世代癒しのシンポジウム開催! ☆☆☆☆☆☆

☆☆☆☆「悟り(非二元)について語ろう」in 名古屋☆☆☆☆
2014年1221日(日)13151650

☆☆☆☆今月の雑誌スターピープルを読もう!☆☆☆☆
次世代癒しのシンポジウムについて
そして

エレン・エメットさんとの対談記事(ダイレクト・パスについて)を寄稿しました♪

誰が人生を生きているの?」への9件のフィードバック

  1. お返事記事、ありがとうございました(*^^*)

    だいたいわかりました。
    つまり、自分が意志が弱いからだ。とか、
    ダメ人間なんだ。とか、思う必要はまったくないんですね♪

    すごく安心しました。
    それが世間で理解されるかどうかはともかく(笑)。

    私、体調を崩しまして、しばらくあらゆる制限をなるべく外した生活をしていました。

    してみたら、頑張ってやっていたことがたくさんあって、
    制限のあることが随分しんどかったことにも気付きました。

    でも制限を外しすぎると生活に不都合なことも出てきて、
    それはそれでハッピーでもないなぁと思ったんですね。

    これが、変化したい意志なのかなぁと読んでいて思いました。

    で、書いていて気付いたんですが、
    それらのことを制限だ。と思うことも、もしかしたら思い込みかな?

    してもしなくてもいい。のところからやる、やらない。を決めていたならば、
    体調を崩すほどキリキリやらなくてすんだのかもしれないですね。

    本当はやりたくないのに、やらなければにいから。というところから、
    やったりやらなかったりするんじゃなくて、

    全部自分で決めていい。と、決めてよかったんですね(笑)。

    制限されている。ということすら、一人舞台だったかと思うと、少し笑えます(笑)。

    あと、多分完璧主義もあります(笑)。

    なぜ私の基本装備が『ルーズ』なのだろう…と少し思ったんですが、
    そこに善悪はなく、
    ただ、そうである。
    しかし、変化したい意志が沸き上がれば勝手に変わっていくもの、なのかな?

    そう、ゆっくりしたいんです。
    多分、メリットが薄いんです(笑)。
    そうかぁ。
    なんか楽になりました。
    こうしたいなぁ、が湧いてくるまで、
    適当にやっていきます(笑)。

    ありがとうございました(*^^*)

  2. あゆかさん♪

    keeです^^「行為者としての”個”の私」、そして「観察意識」。いろいろなスイッチを行ったり来たりで毎日を、そして現実を生きています♪こんな思いも眺めながら、日々セッションを楽しんでいます。
    ブログで毎回復習です。いつもありがとうございますー!

  3. あゆかさん、はじめまして。
    初めてコメントさせていただきます。

    妻との離婚後の消えない不快感の解消を求めているうちに悟り、目覚め、覚醒と呼ばれるものがあるという事を昨年末に知りました。
    ニューアースを読んだり著名な方のYouTubeなどを観て日常の中で自分の思考を観察する努力を続けた結果、今年の8月末に肉体や思考も全て自分ではないという事が感覚で分かるようになりました。
    この感覚に至るのにあゆかさんのブログも非常に役立ちました。
    私自身この事実のあまりのあっけなさに拍子抜けしてしまいました。

    ここからは質問なのですが、現在は人生が色褪せてしまったような感覚に陥っています。
    絶望とは全く違う意味で生きることに対するモチベーションがなくなってきています。
    悟り、目覚め、覚醒に至るまでの書籍やブログなどは非常にたくさんありますが、その後に関するものはあまり目にした事がありません。
    目覚めを体験した後にこのような状態になることはあり得るのでしょうか?
    また体験後にどのように生きていくかに対するあゆかさんなりのアドバイスはありますか?

    • こんにちは!コメントをありがとうございます。

      ブログはこれでも非二元色?をかなり抑えていますので、それでも役に立ったとおっしゃって頂き、とても嬉しく思います。そして、ほんとあまりにあっけないですよね。だからみんな見過ごすんですね。(笑)

      さて、ご質問の件ですが、コメント欄でお返事するには、いろいろな意味でものすごく難しいのでどうしても大雑把なまとめになるのをお許しください。

      >日常の中で自分の思考を観察する努力を続けた結果、

      いわゆる「neti neti(not this, not this)というアプローチをしていらっしゃったのだと思います。つまり、私は思考ではない、私は体ではない、というように「私は~~ではない」というアプローチですね。そして、「私はなにでもない」に到達し、ただ、「何でもない」なので、今まであった人生のドラマもすべて消えてしまった状態だと思います。

      >肉体や思考も全て自分ではないという事が感覚で分かるようになりました。

      私たちは思いや感情、体と同化していますので、ここに至ったというのは、とても素晴らしいですね。人によっては、ここで自分は悟ったと思ってしまうでしょう。ルパートさんは、このような状態を「悟った二元」とおっしゃっています。

      実は私も多少似たようなプロセスを通り、ルパート・スパイラさんのダイレクトパスでその先に進むことができました。つまり、今度は「私はすべてである」ことを体験的に理解していくんです。そこに圧倒される生命の息吹、そしてミステリーがあるんですね。

      ダイレクトパスでは、見る、聞く、感じる、考えるといった私たちのすべての体験が何からできているのか?「私は何か?」を今度は思考の観察ではなく、ある意味体験そのものを観察をしていきます。

      「私は~~ではない」のは、分かったけど、では、その「私」はいったい何なのか?思考ではなくて、体ではなくて、感情や感覚ではなくて、いったい何なのか? 思考や感覚や体を持っている行為者がいないことも見えたけど、でも確実に経験はある。ならば私はいったい何なのか?

      これが体験的に理解できたとき、空即是色、色即是空の意味がはじめて分かると思うのです。

      または、英語ですがアジャシャンティもりょうさんと同じ質問をしている男性に下記のyoutubeでお返事していらっしゃいますよ。英語ですが良かったらどうぞ♪

      PS:このやりとりをフェイスブックのグループに投稿しても宜しいでしょうか?(気が向いたらしようかなというレベルですので、お断りして頂いてもまったく問題ありません。)

      • あゆかさん、丁寧な回答をありがとうございました!

        ここ1ヶ月半ほどモヤモヤしていた色々な事が少しクリアになりました。
        自分が見当違いの方向に進んでいないことが分かったので安心しました。

        Facebookへの投稿はして頂いて構いません。
        またこちらで質問することがあるかもしれないのでその時はよろしくお願いします。

        りょう

  4. こんにちは。あゆかさん。
    日本の虫の鳴き声は聞かれましたか?

    なんとなく質問したくなりました。

    あゆかさんは、「成長」とか「目的」についてどう思われますか?
    私は最近、何かに向かって頑張る、というか
    目的意識というものが、なんだったのか
    よく思い出せないようになってきました。

    目的がないと、成長してないと
    人生に意味がないように思えて、でも見つからず
    やる気のでない日々をだら〜と過ごしていたのですが
    別に無くても、廃人のようにはならない・・
    虚無的にもならない(なりかけていたことはある・・)、
    ということもぼんやり分かってきました。

    目的も達成意欲もないけど
    こういう方向で、こういうことを
    していくんだろうな、
    したい(知りたい・探りたい)なあ・・・
    というのは不思議と感じます。

    私は今まで「魂」が磨かれて、成長していくことが
    人が生きる意味なのかな〜と今まで思っていたのですが

    磨かれる、とか、成長って、後でくっつけた意味なのかな?
    あらゆる体験をして、自分が変わり続ける(ように感じる)
    ことを、自我がストーリーとして紡ぎ続けて行くことを
    「成長」と呼ぶのかな?

    みんなそれぞれ、色んな体験をしていて
    なんかもうそれだけでいいのかな、
    と思うことがあります。

  5. 2005年からずっとあゆかさんのブログを読んでいますが、最近は観念的な内容が多いように感じられ、分かったような分からないようなというのが私の感想です。

    ここしばらく、思いもかけなかったようなこと(例えば仕事で)が次々と起こり、運命に翻弄されています。自分の気持ちを大切に、最善を尽くしてこれらに対応していっていますが、なぜこんなことになったのか?と悲しく思うこともたびたびです。私の心にこれらの事は、全くありませんでした(予想していなかった)。私の中から出てきたものでは、ありません。私の望みではありませんでした。

    明らかに、「私の意思ではない。運命に翻弄されている」といった状況のとき、あゆかさんはそれをどう解説されるのでしょうか?

    • らびっとさん、わぁ、そんなに長く読んでくださっているのですね。本当にありがとうございます!なんだか家族のように感じます。(*^_^*)

      ちょっとおさらい?的にちょっとまとめさせてくださいね。まず、私が一貫して言っていることは、出来事が私たちを苦しめるのではなく、出来事をどう解釈するかが、私たちを苦しめるということです。念のため、私たちの思いが出来事を起こすとは、一度も書いていないんですよ。

      起きた出来事を自分はどう解釈しているのか、そして、どうしてそういうふうに解釈するのか?そこには、どんな自分の気づいていないネガティブなブリーフがあるのか?を見つめ、それを癒したり、ポジティブなものに変えていくことで、同じ出来事が起きていても、楽に過ごせるようになるんです。決して楽しくはないでしょうが。

      繰り返しになりますが、自分の思いが出来事を作るのではなく、自分の気が付かない思いで出来事を解釈したり、または自分の気が付かないビリーフで出来事に投影するから苦しいんです。そのしくみを何度も説明してきました。一度、オープンカウンセリングをさせて頂くとその意味が実感してもらえるのかもしれませんね。

      最近は、非二元(悟り)の経験から書いているので、人によっては観念的に感じるだろうなと思います。ですが、自分の経験からしか書かないというポリシーは今も同じなんですよ。

      人生は自分の意志と関係ない、予想していないことばかり起きるものですね。でも、それをどう解釈するのかで苦しむか、楽に生きられるかが違ってくるんです。

      また、過去のブログ記事を読んでいただいたり、今後もぜひお読みくださいませ♪

      • ご返信くださり、ありがとうございます。真っ暗闇で孤独なとき、あゆかさんが寄り添ってくださったようで、とても嬉しいです。

        あゆかさんの最近の記事を読んでいると、数年前、自分が好きなこと(仕事、生業)だけして生活にしていたときの感覚が思い出されてくることがあります。なんか、人に伝えたくなるほど、ものすごい多幸感がありました。

        逆に、「出来事が私たちを苦しめるのではなく、出来事をどう解釈するかが、私たちを苦しめる」と教えて頂いてよく考えると、運命に翻弄されていると思うようなときは、不本意なこと(仕事、状況)を我慢しているときだなと気付かされます。卵が先か鶏が先かみたいな話にですが、やはり不幸感という色メガネをかけて色のついていないものを見るから「不幸な色」が見えるのかなと、今日は率直に感じました。

        現実世界どっぷりの、こんな受け止め方しかまだできない私ですが、あの圧倒的な多幸感の世界にまた生きたいなと思います。あゆかさんの過去のブログを、よく読みなおしてみます。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中