愛への帰還♪

ルパート・スパイラさんのリトリート、ほんとうに楽しかったです♪ ルパートさんともアートや般若心経やら、よもや話やらいろいろと二人でゆっくりと話ができる機会もありました。かつてのようなグルと弟子といった上下関係ではないことが、とても心地良いです。そして、今回も友達がたくさんでき、これも醍醐味の一つですね。ちなみに、懐中電灯は夜にトイレとシャワー小屋へ行くために大活躍でした。星空が綺麗でした~。

さて、それなりの人数の方が読んでいるブログで、自分が“いわゆる正論”(基本的に正論というものは存在しないと記事にも書きましたが)にくるくると踊ってしまったところをお見せしたのは、非常に恥ずかしい!と思いつつ、一方でこんなことでもないと私には見えなかっただろうなとも感じています。(意味がわらかない方は、二つ前の記事のコメント欄を見てみてください。恥ずかしいけど。)

とりあえず、前回の記事よりももっともっとずっと大きな学びが実はあったので、それを今回書いてみようかなと思います。

それは、自分を攻撃してくる相手も、自分であって、そしてまた自分は相手でもあるということが明白に深く腑に落ちたことです。

悟りの一瞥体験をしてから、真の自分の本質(真我)に寄り添いながらも、自我の意識ですぐそれが曇る、ときにはすっかり自我に埋まってしまう・・・ということを繰り返してきました。ただ、ルパートさんも、真の自分の本質が分かっても、それが定着するには、時間がかかるとおっしゃっていたので、そんなものなのだなと気軽には構えていましたが。

しかし、今回の出来事は何だか違いました。今まだ説明できる言葉を持っていない気がしますので、どう違ったのかなどのお話は省いてしまいます。ただ、今世界を分離してみるほうが難しく感じ、深いレベルでもう本質を見失うことはないだろうという感覚があります。

リトリートの帰りにポワティエの駅で2時間ほど時間があまり、中世のきれいな町並みを一人で散歩してきました。知らない言葉、知らない人々、なじみのまったくない場所であっても、すべてはとても親密で、ひとつの「気づきの意識」に彩られ、何一つ分離したものは見つけられません。

親切な人もいれば、ぶっきらぼうな人もいて、中には警戒したほうが良さそうな人も見受けられます。それでも、みな同じものに彩られ、そこに分離はないんです。

分離がないことを認識しつつ、でも現象として分離した個という自分がいる、自我にとっては矛盾であっても、真実にとっては絶対的なあるがままの流れ。

分離が見つけられないという意味は、もちろん、物や人がつながって見えるわけでも、またすべての人を平等に愛している、といった感情があるということでもありません。

シンプルに、“本質を見失わなくなった”ということです。

自分の体、自分の思い、自分の感情が「私」であると思っていれば、当然、私たちの意識は、私の思い、私の考え、私の感情にフォーカスされます。私は楽しいか?私は苦しんでいるか?、私はこう思う、私はこうする・・・・。

そしてそうであれば、これまた当然、他者に対しても、その人の思い、その人の感情に私たちの意識は行きますね。あの人はこう考えている、あの人はこう感じていて、だからこう行動している、あの人はこうするべき・・・などなど。

つまり、自分が何を考え、何をやっているか、または、相手が何を考え、何をやっているかばかりに意識が行くんです。

こうやって、思いや感情や行動に意識が行ってしまうあまり、私たちは、自分と相手の中にある本質を見失ってしまいます。

しかし、本質が見えたとき、それは紛れもなくまったく同じものなんです。そこには、分離が一切ありません。本質とは、言い換えれば、「気づきの意識」ですね。

気づきの意識しかないんです。シンプル。終わり。

ルパートさんの言葉を借りれば、映画のストーリーに夢中になりすぎて、スクリーン(気づきの意識)があることを忘れてしまっている状態です。

ちょっとここで前回の続きになりますが、記事に書きましたように私はいわゆる“正しさ”とさよならすることで、恐れがさらにぐっと減りました。根強かった批判精神もなんかかなり抜けてしまったようです。(記事に共鳴してくれた方々ありがとうございます!)

とはいえそれこそ、“正しさ”とさよならすることが正しいと言っているわけではまったくないんです。ですので、私に賛同してくれなくてもぜんぜん良いんです。それぞれの人の道があり、そのときそのときに自分に共鳴すること、気づいたことを大切にして生きる。それもまたとても美しいことです。

ただ私たちは、自分の考えを守るために違う考えを間違っていること(攻撃)にしてしまいがちです。それは大きなスケールでみれば、国家間、宗教間の争いに見られるよう防衛と攻撃の自我の思考パターンですね。

違いを理解し、認め合うよりも否定したり、攻撃してしまう。でも、これをすればするほど、ある意味分離感が強まってしまいます。

最近は、悟りの一瞥体験をする人がとても増えてきました。今回のリトリートでも何人もそんな人がいて、それぞれの経験をシェアするのもとても楽しかったです。そんな会話をしながら、エックハルト・トーレの「ニュー・アース」(←お薦め!)の一節を思い出していました。

“人類はいま、進化するか死滅するかという重大な選択を迫られている。そして古いエゴの思考パターンの崩壊と新たな次元の意識の芽生えを体験している人々はまだ比較的少数であるものの、その数は急激に増加しつつある。”

分離感覚から生まれる欠如感や空虚感。そしてそこから生まれるネガティブなセルフイメージ(私は十分ではない、私はどこかがまずい、などなど)。インテグレイテッド心理学の基礎でやった、「抑圧→投影→攻撃→防御」という自我の心理パターン。

世界で起きている戦争や一部の人間が富を占める構造、虐殺などなど、すべて分離感から生まれるこの思考パターンによるものですね。でも、私たちは自分を深く振り返るよりも、“なぜ、神はこんなことを許すのか?”と嘆いてしまいます。

なので、ほんとうに思うのです。私たちは今、他者を指差すのを辞めて、自分の中の泣いている子をしっかりと抱きしめてあげるときに来ているのだと。そうすれば、恐れは愛に変わり、私たちは本質(愛)へと帰還できるでしょう。

そして、新たな次元の意識とは、分離を知らないハートベースの世界観にシフトすることなのだろうと深く思うのです。

 

追伸:自分の本質を知るのに一瞥体験や覚醒体験をする必要はありません。(ルパートさんもそういった体験をしていらっしゃらないです)

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愛への帰還♪」への6件のフィードバック

  1. 初めてコメントします。
    なぜ神はこんなことするの?で、とまっていました(;゜0゜)‼︎
    神様のせいにしてました・・。
    その先、どう考えすすめればいいのか、もう少しお聞きしたい〜(・・;)

  2. あゆかさん こんにちは。フランス滞在の充実、なによりです。
    今日の質問は、本質って「自身の命や存在感」のようなものですか?です。
    実は、共感ってどこまでしなくちゃいけないモノ?でつっかかっています。
    生まれ育ちでものの見え方って違いますが、出会う人皆の見えている世界を共感するのは、無理!
    今、ギブアップしてます。家族や恋人、親しかったり長い付き合いの友人ならともかく、職場の同僚や取引先ご近所、そんなにたくさんの人の生きる世界や生きてきた人生を全部知らないと共感はできないしそんなの物理的に無理!です。。。なので当たり障りなく遮光するのですが、自分をもっと理解して共感して理解して先回りして気をつかって自分をご機嫌にしなさいよ!な我儘な人が多くて・・・しかもみな大人です。しかも40代50代。社会的に立場が上(親とか年長とか職位が高いとか)が増える世代でみな我儘になっているんでしょうか・・・。なんでもいいから若い人のように「ですよねー」といいっておけばいいか・・と投げやりになりかけてます(笑)・・・。ひととひとが理解し合うって、手間がかかりますね・・・。好き勝ってやってトラブル起こす人が、なんだかまわりに多くて・・・。子供時代が終わると人間関係はスムーズかと思いきや、我儘が多層化していくような気がします・・・。とほほ。あと、孤立すると孤立しているほうが我儘でなくても、我儘扱いされるのもちょっと課題です。ネットワークに入っているだけで我儘同士理解しあえているからなのか、そのなかにいないと、いないほうが「我儘」扱いされるみたいです・・・。普通かしら?
    なんかばらばらとすみません。

    • らびっとさん、いつもありがとうございます♪ 

      いろいろな言葉で書いてしまうので、混乱させてしまっているかもしれませんね。

      本質=気づきの意識=本当の自分=真我です。個の私というのは存在しないんです。なので、自分の存在感(←これは自我です)のことではないんですよ。もしよければ、新刊を読んでみてくださいね。へへ。

      共感は自然に沸いてくるもので、努力してすることではないと思いますよ。“~~しなければならない”という思いからやる行動は、たいてい限界がありますね。また、すべての人の世界観に共感するのは、どんなに悟った人でも無理だと思います。その必要もないですし。

      外に向けてなにかしようと努力するよりも、今自分の中で何が起きているの?どんな思い、どんな感情があるの?癒してあげたい思いや感情はある?と見つめてみたらいかがでしょうか?

  3. こんにちは。
    いま、沖縄から鹿児島へ向かう船の上です。
    すごく気になったので、質問します。
    自分の本質を知ることに、一瞥体験などは必須ではないのですね。
    驚きと共に、少し安堵感をおぼえました。

    そういうのを追い求めていましたが、もうどうでもいいや、と思ってきている今日この頃です。

    私自身、今に安心感を感じながら、生きていますし、これは全て大いなる存在の流れに身を任せているからだと確信しています。
    実際に常に共にある存在を感じますし、人生の状況をだぶいぶ好転してきています。
    すごい感謝を感じつつ、ゆったり生きています。(^^)
    しかし、よく聞く、瞬時に全ての事がわかるような一瞥体験などはないです。
    最終的には、そういう体験がないと、自分はなんなのかと言う真理を理解できないとおもっていましたが、そういうことではないといいうことでしょうか?
    質問なのに長々と書いてしまってすいません。よろしくお願いします。

    • なんだかとても爽やかなエネルギーのコメントをありがとうございます!

      >そういうのを追い求めていましたが、もうどうでもいいや、と思ってきている今日この頃です。

      とても良いですね。体験を求めてしまうと、ほぼ間違いなく本質から遠ざかってしまうと思います。

      真理は、常に自分の呼吸より近く、本当は見逃せないぐらいすべてに浸透していますよね。ただ、普段私たちは体、思い、感情や感覚が自分だと思っているために、見逃してしまうんです。でも、自分は体、思い、感情や感覚ではなく、気づきの意識であるとしっかり認識できていれば、一瞥体験など必要なく、誰でもわかります。ちなみに、どんな一瞥体験も“すべての真理が分かる”ということはないでしょう。個人的には、すべてが分かった、見たという人には気をつけます(笑)。

      >すごい感謝を感じつつ、ゆったり生きています。(^^)

      ほんと素晴らしいですね!これ以上何を望むのか?という感じですよね。

      といいつつ、もしご提案させて頂くとしたら、自分や自分の人生の状態が良いから、自分は真実に寄り添っているという見方から、気づきの意識の観点を広げていき、“自分は存在しない”という認識へ意識を伸ばされるとさらに良いかもしれませんね。

      • ありがとうございます!
        最後のアドバイス。
        「やっぱりそうなってるよね!」っと思いました。笑

        「自分は存在しない」という認識を根気よく続けて生きたいと思います。

        大事なことを教えていただき、本当にありがとうございました!

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