見つめきった先に見えるもの

Anne Hathway's Cottage

Anne Hathway’s Cottage

イギリスは一年で一番きれいな季節です。先日は、シェークスピアの奥さんの実家を訪ねてみました。(写真) お庭が、イギリスの童話の世界そのままでとてもかわいらしかったです。ただ、ガイドによると当時の生活はかなり悲惨だったよう。

さて、前回の記事の続きのような、そうでないような。

とりあえず、始めに明白にしておきます!分かってくだっている方も多いかと思いますが、セラピストとして、クライアントさんに悩みに対して、“あなたの苦しみは幻想です”とは、決して言いません。

人は自分の苦しみが理解されたと感じたとき、少し楽になれるものです。ですから非二元のメッセージを持ち出し、“何もおきていません”などとただ言われても、まるで自分の苦しみが否定されたかのように感じられ、心が傷ついてしまう可能性のほうが高いでしょう。

ただ、もしクライアントさんが、このメッセージを考えのレベルではなく、真に見抜き、感じ取ることができれば、それは必ず根本的な癒しをもたらします。とはいえ、自我的世界観が深く刷り込まれている私たちにとって、それは簡単なことでありません。

ですので、今苦しいのなら、非二元のメッセージでどうにかしようとするよりも、カウンセリングやセラピーを受けたほうが良いですよと私はいつもお話ししています。

で、例えば“すべては幻想”とか、“全てはありのままで完璧”といったメッセージを聞くと、たいていは、“あり得ない!この社会のあり様、悲惨な出来事、人々の苦しみが見えないの!”という疑問がきっと沸いてくるでしょう。

なので、そんなきれいごとを言っている場合じゃないとか、生ぬるい戯言とか、現実を見よといった、批判が出てくるのも理解できます。

でもそのへんを、今日はちょっと違う角度からこのテーマを見てみたいと思います。

私たちは往々にして、外に起きている様々な出来事、他者の苦しみに目が行ってしまいがちです。なので、“全てはありのままで完璧”といったようなメッセージを聞くと、そんなこと言っている場合ではない、人の苦しみを和らげなくて良いのか?といった気持ちになるのは、ある意味しごく当然です。

では、ちょっと目を向ける方向を変えて、自分の内側の世界を見てみるとどうでしょう? そこはどんな世界でしょうか? きちんと目を向けなければいけない痛みや苦しみはあるでしょうか? 自分の中にあるダークな部分、癒されていない心、怒り、悲しみ、絶望感、無力感、喪失感といったものに、きちんと向き合ってケアしているでしょうか?

こう振り返ってみると、多くの人があまり何もしていないんです。何もしていないだけではなく、気づいてもいないことも多いですね。

嫌なことがあっても、気を紛らわしたり、大丈夫なふりをしたり、忘れるようにしたり、または、人生は辛いものだとあきらめ、我慢して過ごしたり。一番の問題は、誰も自分との向き合い方など教えてくれないことだとは思いますが。

いずれにしてもこうやって自分の心の中を見ないことは、ある意味“そんな感情など私にはありません。(何も起きていない)”と言っているようなものなんです。

そんな場合、 “何も起きていない。すべては幻想”といったようなメッセージを聞くと、ケアされていない自分の痛みに触れて、かなり腹が立つはずです。(抑圧→投影) なので、もしあなたが憤りを感じたら、そんなことを言っている場合か!という思いは、本当は自分に向けられたものなんです。

さて、“すべては幻想”とか、“全てはありのままで完璧”というメッセージがほんとうなのかどうかを確かめるには、どうしたら良いのでしょうか? いつか悟り体験や覚醒体験をするのを待つしかないのでしょうか?

もし、葉っぱについて知りたかったら、家で葉っぱについて考えたり、辞書を調べたり、葉っぱの専門家(幼稚な言葉で失礼します)のブログを読んだりするよりも、実際に葉っぱを手にとってよく見てみることが一番大切ですね。

同じように、自分が経験していること、起きている出来事をよく見つめることでしか、これらのメッセージが真実かどうなのか見えてこないんです。なので、決して起きている悲惨な出来事を “本当は幻想だから”と、起きていないことにしてしまうのではないんです。

その反対で、自分の中に沸いてきている思いや感情と真正面から向き合うんです。それも一度だけではなく、何度も何度も。

例えば、自分の存在自体が打ちのめされたようなショック、足元が振るえて立てないほどの後悔、体全身が引きつりそうなほどの悲しみ、上半身中心を通り抜けるような孤独感、いくつものトラウマ的な出来事。

それらと向き合い、寄り添い、そして解放していくうちに、どんな苦しみ、どんな悲惨な出来事も現れては去っていくものだということが、否応無く見えてきます。あんなに自分を苦しめた感情も、感じたくなくて強く抵抗した感覚も、消えてなくなっていくのです。

どんなに頑張って見つめても、すべては流動的で、不変に留まるもの、実体と言えるものは一つもないのです。ところが、それに気づいている意識だけは、ずっとあるんです。ただの一瞬も消えることなく。

そして、その気づきの意識に立っていると、すべては現れては消えていくはかないものにとして感じられてくるでしょう。

ある日思いを眺める瞑想をしていたときです。中にはいくつか私を長年苦しめていた思いもありました。しかし、感情を見つめ、解放してきたかいもあり、私は感情に巻き込まれることも、それらの思いを信じることもなく、とにかくただただ眺め続けていました。するとある瞬間、 “なんだ、何も起きていないじゃないか”とふと腑に落ちたのです。これは、一瞥体験で感じたときよりもずっと普通な感じで入ってきました。

そしてまた、安堵感もそよそよと私の中を流れていきました。私は長い間自分を癒してきたけれど、そもそも「癒しが必要な傷ついた私」というのは存在していなかったと、十分に認識できたからです。本当の私たちは、本質的に傷つくことは不可能なんです。そして、今度はその感覚が私の中に残り続けました。

でもこれを、また頭で「私は傷つくことができない存在である」と情報として受け取ってもまったく意味がありません。だから、傷ついている人にそんなことは決して言わないのです。

気づきの意識に寄り添っているとき、思考が邪魔しない分、人の苦しみももっとまっすぐ感じることができるでしょう。はかないものと認識しつつ、同時に出来事をいっぱいに感じるんです。

はかないのに、生命の息吹に満ち溢れた現象。

絶え間なく存在する気づきの意識。

そしてそれらすべてが、本当の私たち♪

見つめきった先に見えるもの」への1件のフィードバック

  1. こんにちは。
    いつもブログを楽しみに読ませていただいています。(理解できないこともありますが・・・)

    『ある日思いを眺める瞑想を・・・』のところを読み始めたら、なぜか涙が止まらなくなって、「何で泣いているんだろう・・・、泣くような記事じゃないのに・・・」と思っていました。悲しみのような、よくわからない、うまく言葉にできない感情で。でも、しばらくそのままたくさん泣かせておいたら、落ち着きました。
    このような理由のわからない涙を流すことがよくあります。(何か映像が見えるわけでもなく)
    たいてい時間が経つと落ち着くし、苦しいとも感じないのでほっておきますが、あゆかさんのように『何も起きていないじゃないか』という気づきが起これば良いのになぁ~と思います。

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