「すべては幻想」教にはまらない!

写真:山村琴美

写真:山村琴美

あぁ、イギリスって面白い。先日ラジオを聴いていたらある大学で試験を実施していたところ、始まって少し経ってから生徒がくすくす笑い出したそうです。というのも、なんと答えが試験とともにホッチキスで止めてあったとのこと。で、その後がイギリスだなぁと思ったのですが、試験を一時中断し、一時間ほど生徒を散歩に行かせ、見た答えを忘れていることを祈って、一時間後に普通にまた同じ試験をしたそうです。はは!

さて、今日は頂いたコメントにコメントいたします♪ コメントをありがとうございます!

例えば医療関係の仕事をしていて、自分の一つのミスで患者に重度の障害を与えてしまったり、最悪死亡に至らしめた場合、患者本人、家族に「自分が人であるというのは思い込みです」「これは夢で、実際は何も起きていないのです」では通りません。また、医療裁判でも、そんな話は出来ませんよね。<省略>「命」の現場で実際に仕事をしている者は、どのように考えればいいのでしょうか?

とてもまじめなご質問なのですが、ある意味多くの人が陥りやすい罠にはまっている気配が感じられ、取り上げてみました。

まず、「何も起きていない」という意味は、頭のレベルで考えている“何も起きていない”とは、たぶんものすごく違うでしょう。何も起きていないけど、確実に経験があり、存在があり、でも、すべては現れ、消えていく幻想なのです。

頭の理解ではなく、体験的理解であれば、このご質問そのものが出てこないかなと思います。

基本的に頭のイメージで捉えられるものではないので、もし、「何も起きていない」をただ文字通り理解していたとしたら、それは間違った理解だと思って間違いないです。

さて、この方は、ご自分でそれは通らないよねと分かっていらっしゃるので良いですが、非二元のメッセージ、またはどんなメッセージや教えでも、ただ思考レベルで理解し、信じてしまうと地に足が着かなくなってしまいがちです。

実際、コメントの方が出してくださった例と似たような発想?質問?は、イギリスの非二元セミナーでもそれなりに耳にします。すべてが幻想であるなら、人を殺しても良いじゃないか、といったような。

そこまで極端ではなくとも、例えば大家さんに「私はいないのだと悟りましたから、来月から家賃は払いません」とも言えませんし、誰かをぼこっ!と殴って、「すべては幻想で、あなたの痛みも幻想です」とも言えないですよね。

で、どんなメッセージにしても、それをただ頭で理解して信じるだけなら、なんらかの宗教を信じてしまうのとまったく同じことです。

非二元の場合、「私は人ではない」教、「私はいない」教、もしくは「すべては幻想」教に入信した感じですね。

知らないうちに信者になっているケースがほとんどだと思いますが、それでも「教義」を軸に生きていこうとしたり、またはそういう世界観を生き始めてしまうケースはとても多いと思います。

例えば、“神に罰せられるから正しい行いをしよう”という神と私という世界観を生きるのと、“すべては幻想で私もあなたもいない、ただ愛があるだけ”という非二元の世界観(=思考)を生きることは、信じている中身が違うだけでやっていることに大きな違いはないんですね。

また、メッセージそのものがどんなに真実を伝えていても、それを自分の生きる指針、マニュアル、または世界観にしたとたん、密かに「べき」が忍び込んできます。

例えば、自己愛が高いと生きるのが楽になる!というメッセージも、それを自分の「教義」にしてしまうと、気持ちとしては、自己愛を高めたいかもしれませんが、無意識に自己愛を高めるべきになっているはずなんです。

なので、自己愛を高めようと必死に頑張り、思うように自己愛が高まらないと、自分を否定したくなってしまったり。ある意味教義に合わないからですね。“おかしい、これではいけない、私は幸せになれない”という声が高まってくるかもしれません。

自己を愛せない自分を受け入れよう♪というハートの声が、教義に隠されて忘れられてしまうんです。

または、“みんなも私と同じように世界を見るべき”とか、“すべては幻想なはずなのに、私は苦しんでいる、本当は苦しむべきじゃないのに、苦しんでいる私はまだまだだ”など。あっ、なんだか書いていて、自分が通ってきた道なので恥ずかしくなってきました。

とりあえず続けます。

一般的に、宗教は人の生きる道を説くものが多いでしょう。しかし、非二元のメッセージは人が生きる手本、生きる基準とするものではなく、ただシンプルに真実を指し示しているだけなんです。

ある意味、空は青いね、りんごは赤いね、太陽は東から昇って西に沈むねという感じで、事象はすべて幻想だね、と言っているだけなんですね。

言葉が見つからないので、教えと書いてしまいますが、実際は教えでも思想でも理論でもなく、シンプルな真実です。しかし、ある意味、見過ごされた真実です。

さてもし、自分のミスで患者さんに重度の障害を負わせたり、または死にいたらしめてしまったら、ハートは相手に何をしたいと感じるでしょうか?どんな自分でいたいと言うでしょうか?

心から謝ること?自分を許すこと?きちんと自分ができる範囲の責任を取ること?

ちなみに、私はどう考えたら良いかという提案は一切していません。それよりも、自分のハートに尋ねて、自分で考えて欲しい♪と思うのです。

自我にとって何かを理解できた、分かった、目からウロコ!という体験は、とても楽しく、すっきりするものです。なので、いつの間にか“理解したい中毒”、“もっと知りたい中毒”になりがちです。そして、理解するとそこで安心してしまい、体験的な理解に行かず終わってしまうこともとっても多いですね。

どんなメッセージも、自分のハートに響いたなら、それを自分の中に取り込んでいく価値は大いにあるでしょう。

でも、できれば体験的な理解になるまで丁寧に辛抱強く、“すべてが幻想って本当に感じられているの?”、“私はいないって本当に見抜けている?見抜けていないとしたら、何がそれを防いでいるの?”と正直に自分を振り返っていくと良いですね♪

 

「すべては幻想」教にはまらない!」への6件のフィードバック

  1. 医療過誤の場合、
    刑事上:業務上過失(傷害or致死)罪 
    民事上:示談金or損害賠償金支払
    行政上:業務停止、免許取り消し等
    の3つの法的責任を問われます。
    自分が出来る範囲の責任をとるというのは
    この3つの責任という事になるかと思います。
    交通事故などもそうですね。
    しかしながら、この3つの責任を果たしたところで
    相手方の障害がもとに戻る、命がかえってくる事はありません。
    加害者が自殺して償いたいと思う場合もあるでしょう。
    自殺しないまでも、死んだも同然で生きていくだけの場合も
    あるでしょう。

    すべては幻想と言っている場合ではないのです。

  2. こんにちは。
    なかなか深く理解はできないのですが、さとりに辿り着けたら(辿り着くものなのか?も疑問なのですが)すごく楽になれそうだな、と思いながら、折に触れブログ拝読しています。

    医療現場の現実的なお話も、そういった場合は幻想とも言っていられないよなと、共感しつつ。私自身は病気の後遺症で思うようにならない自分自身や周囲との関係の中で、何かと悲観的になりやすい自分の思考自体を疑ってみることだけでもだいぶ救われた気がしています。

    本当の自分自身がどうしたら理解できるのか、まだ道は遠いかもしれませんが、立ち止まる機会を与えてくれた病気を良いきっかけとして自分探求してみたいと思います。

  3. こんにちは、溝口あゆかです。頭でイメージしている”何も起きていない”は、真実とだいぶかけ離れていると思います。幻想だから、対処しなくても良いとか、苦しみを理解する必要はない、と言うことではないんです。むしろその正反対です。また、説明させてくださいね。

  4. 私は、目覚めを体験したことはありません。

    ただ、目覚めの知識を得て、無意識に「現実の苦しい状況から救われるために目覚めたい」と思っていることに気づきました。私の場合、「真の私は思考でも感情でもない」という情報を得て、自分にとって不快な感情を無視して逃げるという態度を強化していたように思います。

    「プレゼンス」購入しましたが、半分くらい読んで中断中です。一生懸命読もうとしている動機が、目覚めを理解したいというエゴだと気づいたからです。でも、体験が伴わない限り理解は出来ない(読んでも理解出来ない)と思い、知識として楽しんで読みたいと思った時に少しずつ読んでいこうと思っています。

    コメントされた方も本当に何をしてもいいと思っている訳ではなく、目覚めを理解したいという思いから例えとして挙げられただけだと思います。私自身も、似たような疑問は持っています。目覚めを理解(体験)していない者が、目覚めの情報を得た時に持つ自然な疑問だと私は思います。

    今は、目覚めの知識を現実とは切り離し、興味の対象として楽しく拝見させて頂いています。ただ、理解はしていませんが、私たちはメンテナンスフリー等々の言葉は心強く、「何があっても大丈夫なんだ」という変な気楽さを持てています。あゆかさん、ありがとうございます。

    目覚めは理解出来ませんが、目覚めの体験が個としての溝口あゆかさんにどのような影響があったのか、機会がありましたらお教えください。

  5. 私の真意が真逆に伝わっているようですので
    もう少しわかり易く書きますね。
    私は「すべては幻想のはずなのに苦しんでいる私はまだまだだ、
    どう考えればいいのか?」と
    いう思いでコメントしたわけではありません。逆です。

    現実に自分のミスで人の命を奪ってしまった場合など
    大きな責任を負う場合に
    「すべては幻想」という考え方は何の役にも立たない
    生ぬるい戯言でしかないという思いをコメントしました。
    すべては幻想が真実であれば、その考えは
    大きな責任を負う人間、何の罪もない人の命を奪ってしまった以上
    せめて自分の命で償いたいと思う人間の気持ちを
    いくらかでも楽にしてくれるものなのではないでしょうか?

    • コメントをありがとうございます。はい、ちゃんと真意は伝わっておりますよ。

      おそらく私の職業や活動をご存じないのかなと思いますが、私はセラピストですので、自分自身と人の心を長年扱ってきております。

      また、昨年の秋から東北の被災地でトラウマ解放のプロジェクトをやっておりますが、もちろん、そこで「すべては幻想」などというお話は一切しません。なぜなら、真実だからといって伝えただけでは、相手が本当にそれを見抜けていない限り、心を楽にすることは決してできないからです。ただ、単に言うだけ、頭で理解してもらうだけは、それは単なる情報になってしまい、相手の苦しみを尊重しないばかりか、逆に心を傷つけてしまいかねないです。ここで大切なことは、真実を持ち出すよりも、心の重荷やトラウマを解放することだと思います。

      実はこのテーマで記事を書き始めておりましたので、お気に召す答えではないかもしれませんが、宜しければまた立ち寄ってみてください。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中