私の思考が現実を創っているの?

写真:山村琴美

写真:山村琴美

さて、今回もコメントにお返事をさせて頂きたいと思います。下記のコメントです。ありがとうございます!

私は今、ある潜在意識についての理論を学ぼうとしています。それは、思考が100%現実化する、という前提でそのしくみについてです。例えば、インナーチャイルドを癒し、自分の感情を変えていくと、不登校だった子供が学校に行き始めた、ということが起きるなど…。なので、私の潜在意識、思考がこの現実を作っているのだという強い思いがありました。けれど、今日の記事を読むと、そうじゃないのかもしれない、と書いてあります。そしてなんとなく私も自分の思考という、肩の荷が降りたような楽な気持ちにもなりました。なので、高いお金を出して学ぶのはちょっと違うのかな…という思いが…。どう思われるでしょうか…?

ぜひ肩の荷を降ろしてくださいね♪

以前、アマゾンで私の本とこの“思考が100%現実化する”系の本が、「よく一緒に購入されている商品」としてセット買いができるようになっていました。う~ん、ぜんぜん違うのだけどなぁ、一緒に買う人が多いのかぁ・・・と実は不思議に思っていたのです。

たぶん、潜在意識にある思いによって世界を解釈するという話が、潜在意識が現実を作っているという話と同じように聞こえるのかもしれませんね。

また例えば、私の機嫌が悪くお店で店員さんにむすっとした態度を取ったら、店員さんにもむすっとした態度を取られた・・・。または、自分に自信がついてきたら、仕事の話が来るようになったということもあるでしょう。

しかし、それでも、私の思考が店員さんや仕事をくれた人の思考をのっとって、そうさせたわけではありませんね。彼らは、私の思考次第でなんとでもなるロボットではなく、こちらの態度に反応しただけです。

または願っていたことが忘れた頃にふっと叶ったということもありますね。それは私の潜在意識の思いが実現したといえるでしょう。しかし、それも私の思考がすべてをコントロールしたのではなく、生命のエネルギーとのコラボレーションだと思うのです。私の思いが生命のエネルギーに影響を与えることもあれば、与えないこともある。

さて、でもこれは現象レベルのお話です。「願いを叶える方法」という本を書いた頃は、非二元(悟り)の真実のレベルが私にはまだ見えていませんでした。告白してしまうと、今は願いを叶えるとか引き寄せとかまったく興味がなくなってしまいました。

で、非二元の(悟り)観点から見ると、この「思考が現実をつくる」という考えは、「私(主体)が思考(客体)を持っている」、または「思考(主体)が状況(客体)を作っている」という、主体と客体関係がある二元の世界観にもとづいていますので、この時点ですでにこの理論の有効性は崩されてしまいます。

この観点からどう違っているのかをもっと書こうと思ったのですが、ものすごく長くなるし、難しいと思いあきらめました。

しかし、非二元(悟り)の観点からではなく現象レベルで考えた場合でも、その「私の思考」はどの範囲の現実を指しているのか?を考えてみることができるかもしれません。

一つの出来事は、いろいろな要素が織り成すオーケストラのようなものです。例えば、不登校という状況を一つとっても、不登校の理由が、○○先生が恐いとか、××ちゃんたちにいじめられるといったことかもしれません。理由が何であれ、他者やある環境や、条件、状態いろいろな要素が関わっています。

例えば、○○先生が恐いのは、もしかすると○○先生の親が厳しかったからとか、××ちゃんたちがいじめるのは、××ちゃんのお父さんがアルコール依存症で怒りがたまっているからなど、出来事を追っていくいといろいろな要素が絡みどこまでも広がって行きます。

そうやってみていくと、私たちは“ここまでが私の現実”とはっきり区切ることはできないでしょう。私たちの毎日を見回しても、農業を営む人がいるから食卓にお米があり・・など、いわゆる“現実”を作っている要素は無数にあります。

思考は往々にして自分中心の狭いの範囲のことしか捉えらず、出来事には多くの要素があることを見逃しがちです。また自分から見て困っている事、自分から見て不完全な事というように、自分から見て間違っている、または正しいなど、「自分の考え」という小さな視点から状況を判断します。

基本的に思考は、物事を判断し、理論やカテゴリーに当てはめ(あいまいなものを嫌う、頭で捉えられないものに価値を置かない)、ものごとを「これは、これ」「あれは、それ」と区別し、分離させ、レッテルを貼り、基準、条件、価値観などをつくるという性質がありますね。

なので、“自分の思考は大丈夫か?”と「思考中心主義」になってしまうと、良い、悪いの基準や価値観に押し込められ、また分離感も強まり苦しくなってしまうものです。

またある意味、エゴ=思考ですので、自我が肥大化してしまう可能性もあるでしょう。

“私の思いで、すべての状況、人をコントロールできるのだ!うはは!”みたいな。

また、ハートをベースに世界を見るということが忘れられ、周囲とのつながりや無条件の愛といったエネルギーが隠れてしまうかもしれません。基本的にものごとを判断しないハートの無条件の愛と、ものごとの良し悪しを判断する思考は相容れないんです。

さて、ここまで自由に好き勝手に書いてきましたが、私の言葉を信じなくてもまったくかまいません。

私の見る真実は、溝口あゆかという現象はあるけれど、溝口あゆかという主体は存在していないということ。すべてがそうであるように思考もただ沸いてきては消えて行くはかないもの。どんな状況も変化し、思考がどんなレッテルを貼ろうとも、自我がどれだけもがこうとなるようになっていく。

本当の私は、状況のすべてを無条件で静かに受け入れる気づきの意識であり、そして同時に起こる事象のすべてでもある。それが見えたとき、悪い状態をなんとか良い状態にしようともがくストレスから解放され、大いなる生命が生み出すダンス(そしてハート)に身をまかせ、あなたはどんな状況でも心が軽いことにふと気づくでしょう。

自分が自分の人生をコントロールしていないことは、自我にとっては恐れとなりますが、本当の自分にとっては喜びとなります。

そして、思考がまったく見落としてしまうもの。それは、思考に気づいている意識。あなたは、思考(波)ではなくそれに気づいている意識(大海)のほうなのです。それが真のあなたです。そしてそこに創造の源と真のパワーがあるのですね♪

 

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多数のお申し込みありがとうございました♪

私の思考が現実を創っているの?」への15件のフィードバック

  1. あゆかさんおはようございます
    ルパート・スパイラ『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス)』
    もうちょっとで4周目を読み終わります
    インスピレーションがわいてくる本です

    孤独のDreamer

    夜寝ている時に夢の中で敵とみなしたある人と戦っていて
    その人に攻撃しようとパンチを振るってやっつけようとしている夢を見ることがあります

    夢の中で敵とみなした登場人物に向かってあまりに力んでパンチを振るおうとしたので 
    身体が興奮して夢から覚めてしまったという体験が僕はあります

    今思えば 夢の中での体験というのは全て自分の心の投影であり 
    夢の中で敵に見えた人物も本質は僕の心でできていて
    それどころか 
    夢の中で体験した世界の対象物の全ては自分の心でできていたと思います

    寝て夢を見ている時体験する世界や他者といった全ての対象物の正体(本質)は自分自身だった
    では目が覚めている時の現実世界の対象物の正体(本質)はどうか?

    やはりそれも更に目覚めた視点から見れば
    現実世界の体験する他者や対象物というのは全て
    真の自己の「気付いている存在」が見ている夢でできているのだろうか?

    物質世界とは神が見ている夢の世界なのだろうか?

    Olivia Lufkin – Bleeding Heart

    そっと目を閉じて
    見えない手で 鍵を閉めれば
    すべて あなたの夢の中で
    できないことはない

    明日 あなたが
    目覚める世界は
    光に満ちあふれてる

    始まりの合図 待ってる
    あなただけが気づく そのしるしを

    ~~
     
    あなたの孤独な夢の世界
    ”あなただけ”の夢の中で できないことはない

    夢を見ていたのだろうか 孤独な夢を

  2. 今回の記事もとても興味深かったです。
    私も、肩の荷が下りました。これからは、引き寄せの法則から卒業して、在るがままの今を楽しみます。

    質問です。
    溝口あゆかさん、という主体は無くて、溝口あゆかさん、という事象があるだけ。
    その、溝口あゆかさんから見た、他者である私(きゅ~)を、あゆかさんはどのようにとらえていますか。

    ルパートさんの本を読んで、私も、私以外の私を取り巻く世界も、私の気づきが浸透した一続きの、区切りのない存在だと、感覚的につかめたのですが(深い安らぎを感じました・・・生まれて初めての安らぎでした^^)、これを他者(人)に当てはめるとなると難しいです。つい、相手の反応に巻き込まれて、腹が立ったり、悲しんだりします。あとで「またやっちゃった。でも、面白い経験だったなぁ」と思えるようにはなって、悲しみや怒りの感情が続くことは無くなったのですが・・・。
    あゆかさんも、気づいている存在、ですよね。他者は皆、現存に気付いている存在、ですよね(自覚の有無にかかわらず)。
    私の「気づき」と、あゆかさんの「気づき」には接点が感じられません。お互いが大海の波だとわかりたいのですが、どうしても、私と他者が、一続きの存在だと感じられません。私という事象を通じてあゆかさんを感じても、それは私の主観でしかありません。私の主観でしか、あゆかさんを知ることができません。
    まるであゆかさんと私の間にラップのように、薄い透明な膜があるみたいです。膜を通じて手探りであゆかさんをとらえているように感じて、本当のあゆかさんとの隔絶を感じてしまいます。
    他者の捉え方がわかると、もっと穏やかでいられるのになぁと思うのですが^^
    言葉に表すのは、難しいですが、あゆかさんの可能な言葉で構いません。
    ヒントをいただけたらと思います。

    • すばらしいご質問をありがとうございます!

      東京周辺にお住まいでしたら、ぜひ「悟りについて語ろう」の会にいらしてくださいね。(4月に一度開催したいと思っています。日程は未定ですが。フェイスブックのほうでイベント案内をします。)

      まず、「私の」気づきではなく、ただ気づきの意識があるだけです。きゅ~さんと私がべつべつに気づきの意識を持っているのではないのですね。

      一連のあまねく浸透している気づきの意識の中に、きゅ~さんと私という現象が生まれているのです。

      他者を見るときに、その人を見てしまうので私たちは分離していると思ってしまうのですね。しかし、その人を見るのではなく、その人を見ている意識に焦点を当てるんです。

      太陽のたとえ話を思い出していただくと、惑星(他者)を見るのではなく、それに当たっている光(見ている意識=気づきの意識)に注目するんです。そうすると、気づきの意識しかなく、また気づき意識は、まったく分離していないことが見えてくるんです。

      ここでお返事をするには限界がありますが、とりあえず、目覚めの意識にいても、腹が立つことは腹が立ちますので、そこはまったく問題ないかと・・・・(それで苦しんでいない限り)。

      • あゆかさん、お返事ありがとうございます!!

        >まず、「私の」気づきではなく、ただ気づきの意識があるだけです。きゅ~さんと私がべつべつに気づきの意識を持っているのではないのですね。
        一連のあまねく浸透している気づきの意識の中に、きゅ~さんと私という現象が生まれているのです。

        はぁ~~~なるほど!大海って、そういう意味だったのですね!!

        太陽のひかりによって、照らしだされているのが個々の惑星ならば、私とあゆかさんや他者やあらゆる経験は、気づきによって照らし出されている現象なのですね。で、私もあゆかさんも実は、気づきが真の自分で、きゅ~やあゆかさんはただの現象・・・、ってことですよね。
        眼からうろこが落ちました~!!!
        壮大すぎて、まだピンときませんが、腑に落ちました。ますます肩の荷が降りました~。
        質問させていただいて良かったです。ありがとうございました!

        他者に腹が立つのも、今では経験のひとつと思えて楽しめる(?)ようになったことで、本当に生きやすくなりました。気づきに照らされるすべてのものは、すべてが平等に私に経験される=それがまさに無条件の愛そのもの・・・という事実が、きゅ~という現象ではとらえきれないほど素晴らしいです。そう教えてくださった、ルパートさん、あゆかさんに心から感謝いたします。私の人生に大きな転機を与えてくださいました。

        この世のシステムってすごすぎて、わくわくします!! 生きてて良かったと心から思いますし、今生きていることが心から幸せに思います・・・。

        「悟りについて語ろう」、とても興味があります。ぜひ参加してみたいです。
        皆さんと思いをシェアしあえたらとても素敵です。
        ありがとうございます^^ フェイスブック、始めてみます(笑)

  3. あゆかさん、教えてください!
    ハートからの生き方(自分を大切にして、自分を愛して、喜びを他者とも分け合える)と目覚めた生き方(私はいないので、大切にする、愛する、分かちあうという主体も客体もない)はどうやって両立するのですか?
    上級クラスで「癒しの先に(がんばったり、努力したり、いい人になったり、精神性を高めたり、修行したりの先に)目覚めがあるのではない」と伺い、それまでは「私にはまだ早い」という感覚だったのですが、「へぇ、そうなんだ。このまま癒していけば。。。って話じゃないんだ」と思い、それから目覚め系のセミナーなどにも興味がでて参加しています。「主体も客体もない」「私は何でもなくて、私はそのすべて」ということはなんとなく体感?実感?しているのですが、「すべてはただ起きている」(起こるようにしか起こらない。わたしにはコントロールできない。)といわれると、「ああ、本当だ」と実感できてその奇跡や偉大さに涙が出るときもあるし、「そうか、私に出来ることは何もないんだ」と無力感を感じるときもあります。
    それは、私に癒しが足りない(自分の気づいていない思いがある)のでしょうか?でも、癒せば目覚めるって訳じゃないんですよね???
    私に責任(?)がなく、ただ起きていると感じると、皆さんがおっしゃるように肩の荷が下りたような安心感、何が起きても全部大丈夫なんだという心地よさを感じるのも事実です。その心地よさや無条件の愛のエネルギーにゆだねる生き方と、夢をかなえたり、やりたいことを楽しんだり(たとえばあゆかさんのハートサークルのような活動をしたり)、「私が」力強さや創造の源の力を感じて発揮する(私が何かをするという主体と客体のある)生き方は両立するのですか?
    どこかを勘違いしているような気もするし、起こることが起きているとき、ゆだねていると同時に私は力を感じているとも思うのですが。。。私は無である=目覚め、私はすべてである=ハート、と理解してしまったのかな。。。と考えるとどんどんわからなくなってきます。(たいていこういうときは考えるのをやめてしまいます(笑)でも、あゆかさんならもっと視野が広く、私の気づいていない箇所が見えていそうなので、ぜひ教えてください!

    • こちらもすばらしいご質問ですね。皆さんすごいですよ~。

      さて、

      >「そうか、私に出来ることは何もないんだ」と無力感を感じるとき

      なぜ、無力感を感じるかというと、「私がいる」と思っているからなんだと思います。私がいて、その私はただ起きることに身をまかすしかない・・・・という考えになっているのでしょう。

      しかし、真実は「私はいない」のです。私という主体は、どこにもいないのです。

      そして、溝口あゆかという私が何かをするというとき、どちらかというと、溝口あゆかという現象を通して思いが浮かび、行動となり、形となっていく・・・・という感じです。私という主体が頑張っているという意識ではないのですね。

      なんとなくまだ単純に、「私がいる」と思っていらっしゃるから混乱してしまっているのかなという気がします。

      • あゆかさん、ありがとうございました。短いけれど力強い言葉で、ドシンと来ました!なるほどです。
        New Earthのウェブクラスで(ごらんになったことありますか?)オプラが「there is no my joy?」とちょっとがっくりして言うシーンがあったのですが、それが思い起こされました。私の思い、私の行動、私の喜び、私の愛。。。というよりも、私という現象を通して、思い、行動、喜び、愛が現象として現れるのですね。
        「悟りについて語ろう」の会楽しみにしています!

  4. あゆかさん、質問させて頂いたものです。
    お答え頂きほんとにありがとうございます!
    嬉しくて、理解したくて一行一行何度も噛みしめるように読んでみました。

    非二元について勉強不足なので、難しい部分もありますが、
    きっといまここでいい気分でいられる感情になるには…
    と自分にも相手にも、今目の前のできごとにも愛を持って感じとっていくことでしょうか。リラックスして。

    もちろんできない時もあるけど、そんな自分も笑ってゆるして、はい、次の感情さんいらっしゃ~い!みたいな…。
    そして自我の数だけ、それぞれが信じる真実があり、それもすべて真実なのかな…って思いました。

    • お礼をありがとうございます!

      しっかりお読みいただき、書いたかいがありました。ありがとうございます!

      >そして自我の数だけ、それぞれが信じる真実があり、それもすべて真実なのかな…って思いました。

      言葉のあやかもしれませんが、自我が信じているものは幻想です。すべて幻想なんですね。

  5. あゆかさんこんばんは

    思考の言葉による精神操作とは
    チェスや将棋における駒の操作としての
    思考の言葉の置き換え操作だと思います

    チェスや将棋のような駒の操作には
    思考の言葉による精神操作には
    ルール(手順と 流れと 終局 ”チェックメイト”)がある

    自分は頭が良いと得意になる(己惚れている)統合失調症患者もいますが
    要は思考の言葉による精神操作が上手ということだと思いますが
    チェスや将棋の対局をしたことがあるなら駒の操作が
    思考の言葉による精神操作が
    自分より上手な人などザラに居るというのはすぐわかると思います

    果たしてそのような優れた知能による思考による言葉の精神操作が
    本当の宝物を見つけるための鍵(本当の資質)になるかは疑わしいです

    自分のカルマに汚れたその手と
    自分自身の心に対する誠実な清らかな態度が 
    真実を知るための鍵(本当の資質)だと思います

    真実の鍵を手にするにはその手は汚れていてもかまわない 
    むしろその手が汚れていることをハッキリと知ることは必要でもあると思います
    その手がカルマに汚れていることを知りながら
    自分自身の心に対して誠実で清らかな態度であることが
    本当の宝物を見つけるための鍵(本当の資質)だと思います

    ルパート・スパイラ『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス)』
    の5周目を読んでいます
    この本凄いです

    • こんにちは!

      >自分自身の心に対して誠実で清らかな態度であることが
      >本当の宝物を見つけるための鍵(本当の資質)だと思います


      すばらしい洞察ですね。

  6. こんにちは。今回も、すっと日常が明るくなる記事でした。
    全体的には、過去よりもうんと生きやすくて、願いがかなったり、ラッキーが続いたり、幸せです。潜在意識の思いが癒されてきたからと思います。
    ただ、ある男性との関係でスッキリしていませんでした。もう会わない、一緒に生きていくのではないと自分で思いつつも、何だか心から離れない人がいます。もっと素直になれたら、彼からの気持ちに応えられたら・・・と少し後悔する気持ち、今でも迷う気持ちもあるのです。ですが、何故か、この恋愛に向き合うのをためらってしまっていました。
    今回の記事を読んで、私たちがどうなるのか、会うのか、会わないのか、話すべきか・・・等、考えるのをやめて、宇宙に任せようと思えました。出会える時にはであるし、出会う必要なければ、本当にもうさよなら。そんな風に、何もしないで、宇宙の流れに任せてみようと思いました。相手も自分もないのだから、全て流れに任せるで良い。そういう記事なのですよね?

    • いつもコメントをありがとうございます!

      >そういう記事なのですよね?

      はい&いいえ、です。

      はい、というのは、また出会う、出会わないはほんとうに分からないとい部分で、いいえは、すべて流れに身をまかせましょう、という提言をしているわけではないということです。

      何が良いことなのか、何をするのが良いのかを言いたいのではないんです。ですので、自由に解釈してくださいね。どんなふうでも良いんです。脳みそが焦げるほど悩んでも良いし、流れに身を任せても良いし。

      私でしたら、どうしてその人のことがそんなに心から離れられないのかをやはり見つめてみるとは思います。

  7. あゆかさんこんにちは また感想です

    われわれは真の自己の「空の透明な輝く知の光」で対象物を照らした
    自己の知の光の反射による知覚で対象物を知り体験する

    あなたが真に知覚し体験しているのは
    あなた自身であるあなたの真の自己の「空の透明な輝く知の光」である

    私達がこの世界の何かの有形無形の何かの対象物を「美しい」と体験した時
    その美しさはその対象物のそのものに付属している性質としての美しさであるかのように思える

    しかし本当に美しいのはその対象物ではなく
    その対象物を美しいと感じ取っている あなたの心が美しいのである

    もしその時 あなたの心に美しさがなければ
    どんな素晴らしいとされる対象物を知覚する体験も美しくないのである

    何かを「美しい」と言った時 
    本当に美しいのは
    あなたの真の自己の「空の透明な輝く知の光」そのものが美しいのである

    ルパート・スパイラ『プレゼンス第一巻』の5周目を読んでいます

  8. うーん、難しい~(;-ω-)ウーン

    二歳の子供のいる専業主婦です。
    実家が遠いのと保育園の空きがないのと
    夫の転勤の可能性があるので働けません。
    しかし日本は増税増税、配偶者控除もなくなるといいます。
    近隣諸国との領土問題や少子化問題、この国はどうなってしまうのだろう、と漠然と恐ろしいです。恐ろしい気持ちを押し込めて、花見に行ったりしています。
    中々「私という現象はないのだ」と言われてもぴんとこないのです。ハートが歌うように生きたいけれど…

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