原因と結果を超えた場所

写真:山村琴美

写真:山村琴美

おととい日本に到着しました。東京のほうが若干寒いですね♪ さて、なんだかとても忙しくなってきました。一つは、次の本の原稿の締め切りが目の前に迫っている・・・ためです。そこで、ブログの記事と本の原稿を別々に書く時間がない、そうだ、ブログに本の記事を書いてしまおう・・・ということにしました!ただし、1)没になるかもしれない、2)激しく編集される可能性大、です。

新刊は、悟りベースの癒しのような観点で書いております。ご意見、ご希望、大歓迎です!

さて、悟りの観点である意味一番分かりにくく、ある意味一番大切なことは、「主体と客体」がないということです。

インドのヒンズー教のヴェーダという古い教書には、これを「アドヴァイタ(二つではない)」という言葉で説いています。欧米では、それをそのまま「非二元(non-dualiy)と訳し、悟り(エンライトメント)という言葉よりも一般的に使われています。

通常の私たちの認識は、例えば「私が音楽を聴く」というように、主体の私が客体の音楽を聴いているというものです。つまり、私と音楽は分離した関係なんですね。

しかし、真実は「私」と「音」と「聞く」は、同一であって、決して分離していないのです。「私はいない」というお話をこれまでにしてきましたが、「私がいない」のであれば、誰(主体)が音楽を聴いているのでしょうか?

また、本当の自分はすべてであるというお話もしましましたね。それは、文字通りすべてなのですね。つまり、本当の自分は、音でもあり、聞くという行為でもあるんです。

でも、脳や耳が音楽を捉えて、聞こえるのではないか?と思う人もいるでしょう。では、その脳や耳を持っている主体はどこにいるのでしょうか?

どんなに探しても見つからないはずなのです。

分かりにくいでしょうか?

悟りの話の難しい点は、ある時点から頭で理解することは不可能になることです。逆に頭で理解しようとすればするほど、二元の自我の視点に陥ってしまうため、真実から離れてしまいます。

ですのでもし、分かりにくい場合は、

本当の自分は「無(空)であって、全体である」

そして、

世界をコントロールしている主体はいない。

と思ってみても良いかもしれません。

自我の視点では、ものごとは必ず誰かが起こしていることになります。自分か他者か、そうでなければ、神様や宇宙のなにかなど。

そして、この誰かが何かを起こしている、決めているという見方が、苦しみを生むことがけっこう多いのです。

たとえば、何かが起こると、私たちはつい“なぜ?”と考えてしまいますね。 “なぜ、こんなことが起きたのだろう?”、“なぜ私に?”などなど。自分が出来事や天の気まぐれの犠牲者のように感じてしまうものです。

もし、なぜ?の答えが分かれば、理由が分かって納得できて、前に進めるような気持ちになれるからなのかもしれません。または、どうしたら良いのか、方法が見えてくるかもしれないといった思いもあるでしょう。

例えば、交通事故の原因や洗濯機が故障した原因などは、原因が分かれば、方法も見えてきます。しかし基本的に、なぜ?というのは、主体と客体、原因と結果があるという自我がもつ二元的な考えなのです。

主体と客体が同一であるということは、時間と距離もないので、原因と結果という時間を含む事象もないわけですね。

悟りの一瞥体験をしたとき、なぜ「今まで何も起きたことはなかった」という感覚が強かったのか今ならとても分かります。

例えば、夜ベッドの中で見る夢の中で、私たちは場所をあちこち移動したり、まるで距離や時間があるかのような気がしませんか? でも、朝起きたとき、あの場所、あそこにあった空間はどこに行ったのでしょうか?

ある意味、私たちの人生も同じようなものなのです。なので、奇跡のコースには、「今まで何も起きたことはなく、あなたは夢を見ているだけである。あなたは一度も暖かいベッドを離れたことはない。」と書かれているのです。

さて、このような真実の観点からすると、“なぜ、こんなことが起きたのだろう?”という問い自体が成り立たなくなるでしょう。

そもそも、人生には答えがないということは、悟りの話を持ち出すまでもなく、実は私たちはうすうす分かっているはずなのです。

例えば、“どうして私はあのときあの場にいてしまったのだろう。もう一時間早く着いていたら、あの事件に巻き込まれなかったのに。”という思いに答えはありませんね。

もちろん、思考はあれこれ推測を搾り出すかもしれません。または、霊能者のような人が、“それは、先祖の○○代でこんなことがあって・・・”とか、前世のカルマ説などを、教えてくれる人もいるかもしれません。

しかし、どんなに答えを探し出しても、最終的には、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないのです。つまり、分からないのです。

こうやって見ていくと、人生には答えがないことばかりが溢れているのでしょう。“なぜあんなかわいらしい少女が、こんな悲惨な死に方をしなければいけないのか?”など、新聞やニュースにはそう思いたくなる出来事が報道されています。

しかし、悟りの観点からすると、犠牲者も加害者も出来事のタイミングも状況もすべて一つのソースが生み出し、またそこにそれを引き起こした主体はいないのです。

だから加害者には罪がないから許しましょうとか、そういう話ではありません。“なぜ?”という思いが有効ではないという話なのですね。

“なぜ?”は、私たちを犠牲者意識や加害者意識に閉じ込め、苦しみを長引かせます。また、自分が引き起こしたと思い込むことで、後悔や罪悪感にさいなまれることも多いでしょう。

“あのときなぜ気づけなかったのだ・・・”、“あのとき、なぜあんなことを言ってしまったのか・・・”

自我は、自分は気づけたはずだ、言わないでおけたはずだと責めてきます。これはとても苦しいですね。

しかし、主体がいないという本当の自分の観点からすると、“そのように起きる以外には、起きなかった”のです。

これはある意味、みもふたもない感じがするかもしれません。しかし、もしこれが単なる考えではなく、真実としてみえてきたら、そえはあなたを自分や誰かを責めるという苦しみから解放してくれるでしょう。

そしてもし、“なぜ?”という思いから、“どうしたら?”という思いに変えてみたらどうでしょうか?

“どうしたらこの感情から抜け出せるのか?”、“どうしたら、今楽しくやれるようになれるか?”など。これは、思いが“今”に向いているので、気持ちが前向きになっていきませんか?

私たちの思いが過去に囚われているとき、完全に思考の中にいるため、基本的に不安定になります。

でも、“今私がやることは、出来ることは何か?”という思いは、私たちを“今ここ”という創造の根源の場に戻してくれます。

実際、頭の中以外で過去を経験することはできるでしょうか? または、今、未来を経験することはできるでしょうか?いいえ、未来も頭の中にしか存在しませんね。

誰も、“今ここ”しか経験したことがないのです。思考は何も真実を指し示さないということを見抜けば、過去や未来に思いっきり連れて行かれることもなくなるでしょう。そして、常に今ここにある本当の自分の力と出会えますね。

聖書に放蕩息子の帰還というお話があります。父から財産をもらった息子が旅先で散財し、ついには一文無しになり、落ちるところまで落ちてしまうが、ふと我に帰ると、戻るところは父のところしかないと気づき、父のもとへ帰るというお話です。

そして帰ってきた息子を父は駆け寄り抱きしめてあげます。

この話は、いろいろな解釈がなされていますが、悟りの観点から見ると、私たちが頭の中の過去や未来に住み続け、本当の自分を忘れて苦しくなりにっちもさっちも行かなくなったとき、父(本当の自分)がいる今ここに戻れば、愛はあなたにかけより抱きしめてくれる・・・・・と読み取ることもできるでしょう。

起きたことに理由や意味を見出そうと頑張るよりも、今、自分が感じていること、今、自分が楽しくなれること、今、自分ができることを考えてみませんか?

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原因と結果を超えた場所」への10件のフィードバック

  1. あゆかさん、おかえりなさい^^
    今日は風が強いですね。やっと春一番が吹いたようです。今年はとっても寒い冬でした(≧≦)

    私という主体もないなら、何のために生きているのかと疑問に思います。
    これまで、生きるための方法を一生懸命身に着けてきたことも、まったく意味が無かったように感じます。
    ですが、あゆかさんの記事を読んでいると、自分が壮大なプロジェクト(?)の一員になって、未知なる世界を探検しているようなわくわくも感じます。
    本当は大丈夫なんだという安心感と一緒に。(安心感は、ルパートさんの本のおかげだったりもします^^)

    なんで「わたし」が、現実であって現実じゃないような、こんな仕組みになっているのかは、私のいまの知識ではまったくわからないし、わからないようになっているのかもしれません。
    でも「なぜ」ではなく「どうしたら?」に、問いかけ方法を変えるだけでも、気持ちが違いますね。
    今に力が集中できる感じがします。
    思考は「本当は大丈夫、なんてうまい話があるわけがない。騙されてるぞ。」とか、悪い方に考えようとしていますが、私は私が感じていることを、道しるべにしようと思います。
    新刊楽しみにしています!どうぞ、大幅編集されずにあゆかさんの魂が届く内容になりますよう、出版社さんよろしくお願いします。

  2. あゆかさん こんにちは
    主体と客体について・・のお話に通じるかどうか分からないですが
    私はずっと、なんで自分と他者がいるんだろう、とは思っていました。
    どうして自分と他者はこんなにも外見が違っているのに
    なんとなく通じ合ったり、または、
    わかりあえるはずと思っていたのに
    全然分からなかったりするんだろうと。

    で、前は、このことが、ちょっと苦痛だったのです。
    自分じゃない他者、を、より分かるために
    「どうすれば他人のようになって考えたり感じることが出来るのか」
    という視点になっていて、それってすなわち、
    自分じゃないものになるために
    どうすれば自分を全部消すことが出来るのか、
    (自分が自分じゃなくなるためにはどうすればいいのか)
    と考えているのと同じだから
    そりゃー苦しかったな、と、さっき気づいたのです。

    今は、なんとなく、全部他者になることはできない、
    それでいいや、と思っています。
    それよりも、全部自分になってしまう方がはやいかな、と。
    他者に近づくためにも。ああ、上手く言えない・・。

    例えば私は、あゆかさんが書かれていることの半分も理解できないのですが
    あゆかさんの文章を読んでいると、ぎゅっと凝り固まったどこかの筋肉がほぐれ
    何かが解放されて軽くなっていく感覚を味わうことが出来ます。
    前は、そういう現象の後に、
    「私の何が劣っていて(あゆかさんが優れていて)
     こういう現象が起きるのだ?
     あゆかさん(とか他のマスター)に近づくためには
     何をどう理解していけばいいのだ?」
    みたいに考えすぎちゃって苦しくなる、みたいなことがあったのですが
    (今も無くはないのだけど)
    私が解放されて楽になる感覚、うれしくなる感覚を味わっている
    というところで、私が私であることをしっかり確認していいのかかな、と。

    なんかその方が、自分と他者の境界が(いい意味で)
    薄れていくような感じがしたのです。

    コメントになってないかもしれないけど
    幸せな感じになったので書いてしまいました。

    いつも楽しみに読んでいます。
    中級講座に参加できることも、とても楽しみです。

  3. こんにちは。いつもあゆかさんのブログを楽しみにしています。お忙しい中、ブログの更新ありがとうございます :)。私も今までは何か起るたびに、なぜこれが私に起ったのか(または起らなかったのか)という理由を探し続けては、自分で良いように時に悪いように解釈しては無理に納得してみたり、自分を責めたりという事を繰り返していました。しかしあゆかさんのブログを読み続けるうちに、理由をこじつけて自分を無理に納得させたり、根拠の無い理由を考えて自分を責めるのはかなり不健康で意味がないことだという事がじわじわわかってきた気がします。何らかの事象が起っている事に、思考は勝手にそれに理由や意味や善悪の判断をつけたがるのだなと感じました。話が抽象的になりますが、宇宙の中で星が誕生したり、衝突したり、爆発したりが繰り返されてる中で、宇宙の星がいちいち、あの隕石が衝突してきたのは私の生まれた運が悪いからだとか、他の星の爆発のせいだ!とか、あの星より明るく光らないとダメだとか、悪い事だとか思ったりせず(あたりまえですが)、すべてがただ起っているだけで、それと同じく私たちの日常もすべてがただ起っていて(しかし実際は何も起ってないんですよね)、その事象に思考のラベルをべたべた貼る必要がないのだなーと思うと、気持ちが少し楽になりました。しかし時にまた思考が顔をだしますが、思考を全部排除することはもちろん不可能なので,思考に飲み込まれる前に、”思考がまたおしゃべりし始めたな” と気づけて観察できるだけでも違うのかなーと、思っています。いつも素敵でわかりやすいブログありがとうございます。今後も楽しみにしております。どうぞ日本を満喫してきてください。

  4. ルパート・スパイラ氏のこの本は精神世界系の本で今までで一番じゃないかなと思います

    ルパート・スパイラ『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス)』
    の3周目を読んでいます

    この本は精神世界系の本で今までで一番じゃないかなというくらいの内容です

    自己と分離した対象物である他者や
    自己と分離した対象物である世界や
    世界の中の極小さな対象物としての肉体の内側に自己が存在しているという 
    分離した対象物が真に存在していると信じることが不幸の根源で

    「それ自体が自己自身であり分離した対象物であると思いこんでいる
    『自分の思考を対象物として真なる自己だと信じていること』が不幸の源らしいです」

    真実として 「対象物というのは実在しない」 そうです

    脳が生み出す思考が対象物があると認識していて
    思考自身を対象物としての自己であると私たちは思いこんでいるが

    その思考が生み出す架空の自己が崩壊した時に 
    それとコインの裏表の関係にある 
    分離した対象物としての世界と他者も崩壊して 

    私たちの真なる存在に付け足されてて覆っていた対象物が存在するという私たちを隔てて分離させていた架空のカーテンが取り払われるそうです

    その時私たちは今までもずっとそうであったし そうでしかなかった真の無垢なる自己を知るそうです

  5. こんにちは。今回の記事は、私のまかの心のかたまりを溶かすきかっけになってくれました。愛する人のことで、ずっと苦しんでいました。今、別れて生きているのですが、「自分がもっと素直だったら、あのときもっと心を開いていたら。彼が心を開いて、気持ちを打ち明けてくれたのに、どうしてクールに対応したのだろう」と自分を責めていました。こうなるのは、自分の思考のパターンだ、カルマ、心の傷、女性としての魅力が足りない、愛されない運命、駆け引きできない・・・と自分に原因があると思いこみ、とても苦しんでいました。ですが、長い時間をかけて、「自分に原因がある」というのが思い込みであることに気がつき、すごく気持ちよく過ごしていたこのごろです。仕事がうまくいき、嘘みたいに夢が叶い始めました。他人のぱっかみや嫉妬も気にならず、世界が私を支援していると思えるくらいに安心して、家族からの愛も私が思う以上に、両親は私を愛していたのだと解ってきました。でも、どうしても、ある男性のことに関しては、毎日思い出しては、後悔する時間が消えずにいました。ですが、今日、この記事を読んでいて、ぶわーっと涙が出ました。「私たちは、出会うべくしてであったんだ。彼とは、今、離れるべくして離れている」そのことに理由はないんだと腑に落ちたのだと思います。そして、実は彼に、執着していながら、会うことで、執着したり苦しんだりするという恐怖から避けてきました。ですが、「彼に会い、執着して、他の女性に嫉妬して、苦しんでも良い」(←ある意味、自分が究極に否定していた自分、未来に起こりうる恐怖の思考)と受け入れてあげると、楽に成るんじゃないか、そう思えました。祈念の一日です。今日、こんな風に心が緩んでくれるタイミングだったのでしょうね。あゆかさん、素晴らしい記事を、ありがとうございました。どんどん、幸せを受け取ります!

  6. あゆかさん、もしできたら教えてください。
    私は今、ある潜在意識についての理論を学ぼうとしています。
    それは、思考が100%現実化する、という前提でそのしくみについてです。

    例えば、インナーチャイルドを癒し、自分の感情を変えていくと、不登校だった子供が学校に行き始めた、ということが起きるなど…。なので、私の潜在意識、思考がこの現実を作っているのだという強い思いがありました。

    けれど、今日の記事を読むと、そうじゃないのかもしれない、と書いてあります。
    そしてなんとなく私も自分の思考という、肩の荷が降りたような楽な気持ちにもなりました。

    なので、高いお金を出して学ぶのはちょっと違うのかな…という思いが…。
    どう思われるでしょうか…?

  7. あゆかさんこんばんは

    ルパート・スパイラ『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス)』
    の3周目を読んでいます この本は凄いです感想です

    私たちの真の自己とは心(マインド)身体 世界 といった対象物ではなく
    それらを体験し知る『気付いている存在 空の輝く透明な光』だそうです

    通常一般に認識されている身体の中の脳と胸に居る思考する私というのは
    それはアイデンティティと名前と肩書を背負った「分離した対象物としての架空の私」であるそうです

    夜空に輝く月を見たとして 私と月はどれほど遠いのかと言うのは思考で
    体験し知る『気付いている存在』としての私たちの自己の
    その月を知る私の知の体験のうちで 私と月の距離はゼロだそうです

    体験の内では体験し知る『気付いている存在』自身の放つ輝く透明な知の光の反射に照らされた月を見ているのであり
    その
    「月のビジョン(認知された月の映像)は 体験し知る『気付いている存在』自身の放つ知の光の反射でできている」
    そうです

    つまり夜空に見る月は私たちの自己の体験においては月と私の距離はゼロであり 
    月とされているビジョン(認知された月の映像)は私たちの自己自身の放つ知の光の反射であり 
    月を見る体験は私たちの自己自身の知の光でできている

    私たちの自己の体験の全ては私たちの自己の知の輝く透明な空の光に照らされた自己の知の光の反射であるそうです

    私たちの自己の放つ透明な光をより輝かせれば 
    思考では分離した対象物と認識される 
    私たちの体験する 世界 心(マインド) 身体 他者 も輝きを増すそうです

  8. あゆかさん おはようございます また感想です

    ルパート・スパイラ『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス)』
    の4周目を読んでいます

    物質世界は自分と分離した他者や対象物で構成されているかのように見えるが
    それは私たちが真実を見抜けるはずの自分の心の瞳に「目隠し」をして
    それが自己と分離した対象物としか見えなくするそうです  

    私はあれの本当のあれ自身を知らない 
    私はあの人の真意を知らない
    だからあれやあの人は私と分離した対象物だ

    もし私があれの本当のあれ自身を知ることができるのなら
    私があの人の真意を知ることができるのなら
    あれやあの人は私と分離した対象物ではなくなる 
    あれやあの人は私自身だ
    私の気づきそのものだ

    I feel you everything
    ‘Cause I love

    (愛しているので、私はあなたのすべてを感じます。)

    ということかもです

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