私が消えると、私が大きくなる?

イギリスに戻ってきました♪ 今回も、嬉しいコメントをいくつも頂きありがとうございます!写真は、久しぶりに座った私の机です。窓から見える木々の葉がすっかり落ちて、冬を感じさせます。ここで一人お茶をすすりながら、ぼんやりしているときが至福の時間です。

特に何もすることがないとき(IMG_0836エゴは、たくさんあると言っているけど)、ただ部屋の真ん中に立つすくみ、脱ぎ捨ててあるカーディガンや椅子やカーテン、花瓶、これからたたむ洗濯物、読みかけの本などなどを眺めると、すべてが“ある”ことの静けさ、優しさを感じます。

明らかに「溝口あゆか」は存在するけど、でも、それは真の自分ではなく、だから、「溝口あゆか」が現れ出ていることに創造の愛を感じます。そして、この感覚はずっと昔から知っていたような、なつかしい感覚で、おそらくすべての人の中にあるだろうと思うのです。

思考が減ると、私たちはすべての存在物に包まれ、やがてそれらのすべての存在物は私たちになります。私たちはミクロであって、マクロであり、次元もなく、あらゆることがただ起きて、でも、何一つ起きていない・・・、それはとてつもない愛、平和、静けさ、そして奇跡。

思考が忙しく動き、ストーリーの中に埋もれているとき、私たちは完全にこの奇跡を見逃していまいます。ストーリーの中で自分のストーリー(私の人生)を改善させることに必死になり、本当に求めているものが目の前にあることを見失ってしまうんです。

先日お昼にパートナーと買い物へ行ったときです。私が牛乳を買おうとすると、彼が一言“牛乳は体に良くないよ”と言いました。(日本人は驚くかもしれませんが、欧米の健康オタクのなかでは、それが常識になっています。)その言葉が私のボタンを押し、怒りが放出してきたのです。お腹にたまっていた怒りは、“あれは良くない、これは良くないとこれまで押し付けられ続けてきた。良い加減にして欲しい”、“そうやって健康への不安から頭で、あれこれ決めるべきではない。”、“彼はもっとハートに従うべきだ”とストーリーが一気に流れだします。

私は腹立たし気に、“私はそういう風に押し付けられて生きていきたくないの”というと、彼はあわてて“そ、そういう意味で言ったわけじゃないんだけど”と言い、私はさっさと牛乳をかごに入れました。

たまっていた感情があるとき、そこに触れられるようなことがあると、まるで化学反応を起こしたかのように感情が噴出します。感情は「私のストーリー」をリアルなものにし、「今まで押し付けられてきた」(←これ自体もいい加減な思いですが)という過去に基づいた思いを現在の彼に投影します。

もはや私は「今」に存在するのではなく、過去の住人となってしまい、相手は、過去の記憶でいっぱい彩られた投影に隠れ、真の姿はまったく見えなくなってしまいます。

こうやって私たちは過去に縛られ、多くのことを「今」に投影し、今を生きているつもりで記憶がたくさんたまったストーリーの中に生きてしまうのでしょう。

私の中で化学反応が起きて、怒りは出てきたけれども、一方で「押し付けられたくない」と思っている自分を守りたい感覚も薄く、私はすべてがただあることを感じ、ゆるぎない安らぎのなかに戻ります。

さて、私は過去に囚われるなとか、「今」に立ち戻れば、すべてが解決できるとか、そういった話をするつもりなのではありません。ストーリーに感情がどっさりついているとき、過去に囚われるなといっても、ほぼ不可能に近いでしょう。

感情に向き合わないまま、悟りや目覚めの教えを実践してみようとすると、たいてい感情の抑圧をしてしまうのがおちです。ときどき、悟りや非二元のセミナーで人生相談をしている人を見かけます。おそらく、覚者なら深い洞察力で優れたアドバイスがもらえると思っているからだと思います。

しかし、 話を聞いていると“その問題はカウンセリングをしてもらって、セラピーを受けたほうが早い”と思ってしまうものもそれなりに多いです。もし、カウンセリングやセラピーが、当人の苦しみを癒し、幸せへと導くツールであるとしたら、自分を癒していくということは、知らず知らずのうちに「目覚め」へと歩んでいると私は思っています。

念のため、自分を癒すということは、ネガティブを排除し、ポジティブだけになっていくということではなく、すべてを受け入れ、統合していくということです。というのも、自分が受け入れられない部分を私たちは周囲に投影するからです。

そして、周囲に投影すればするほど、つまり、見たこと、聞いたことをすべて自分のネガティブな解釈を通して眺めることで、自分を狭い思考の世界に追い込んでしまいます。

その狭い思考の世界で、活躍しているのが「個としての私」です。なぜ“私”はこうなんだろう、“私”は軽く扱われている、“私”は誤解されている、あの人は、なぜ“私”にあんなことをするのだ・・・、あの人の言動は許せない(“私”は傷ついた)、“私”は役に立っていない、“私”は生きていけない・・・などなど、“私”思考がぐるぐるしているでしょう。

一方、それなりに満ち足りた感覚でいるときや自分に優しい気持ちでいるとき、または溌剌としているとき、私たちは周囲ともっとつながりを感じているはずですね。思考としては“みんなと一緒にやったら楽しいかも”、“みんなも幸せになって欲しい”、などなど“みんな”思考が増えていくでしょう。

“私”から“みんな”へ移行することで、私たちは“私”から随分自由になっていきます。しかし面白いことに、“私”が消えていけばいくほど、生命の本質が顔を出し、現象としての私は、そのエネルギーで満たされ、存在が大きくなっていくのです。

人類が長年苦しんできた理由は、個としての自分が存在するという錯覚に陥っていたからでしょう。しかし、今人類が夜明けを向かえ、個としての自分から真の自分へと目覚める大きな流れが始まっている予感がします。

個としての私が目覚めるのではなく、「個としての私がいる」という錯覚から目覚めるのです。この二つには、大きな違いがあります。「私が目覚める」とか「私が分離感を感じなくなって、ワンネスを感じる」ということではなく、そう思っている「私」は存在しないと知ることです。

そして、真の自分は、すべてであり、すべてではない「空」であり、「大いなる意識」、「真我」(名称はなんであれ)であると知ることです。

このとき、「すべてがある」「すべてが起きている」ということが優しく、ゆるぎない安心感を持って迫ってくるでしょう。

ということで、皆様良いクリスマスをお過ごしください♪

私が消えると、私が大きくなる?」への14件のフィードバック

  1. あゆかさん、いつもためになる記事をありがとうございます。
    ブログのステキな写真がきっかけで、私も最近写真教室に通うようになりました。
    今回は不具合かなにかで写真が見られないとのことで、パソコンに疎い私はそんなこともあるんだなとまた1つ勉強になりました。早く復旧して、写真がアップされることを心から祈っています。

    今日の内容も、とても心にしみました。
    牛乳がからだに良くない、という話は以前友人からも聞いていて、私もあゆかさんのように反応したときのことを思い出しました。
    それと同時に、あゆかさんのパートナーさんの気持ちもわかるような立ち位置にも感情が反応しました。

    というのも、幼い頃から、なぜか私は自分が「素直に思っていること」や「ふと心に浮かんだこと」や、「自分が信じていること」の話をすると相手を不機嫌にさせてしまうことがよくあったからです。

    特に、小学校、中学校、高校大学と、それぞれの時代で、仲の良かった友人に突然距離を置かれることがありました。

    私は相手の気分を害するつもりではないので、なぜそんなに怒られるのかがわからず、わからないまま謝ったり、そのままその相手と疎遠になったり、そういうことを繰り返しました。

    今回、あゆかさんの記事を読んで気づいたのは、おそらく、私が発した言葉が相手にとっての「決めつけ」「押しつけ」に繋がっていたのだろうな、ということです。

    極端な話、私が「冬って寒いよね」と言った時に、相手が「そう?どこが?ぜんぜん寒くないよ」って返されるだけで、内心「しまった。余計なことを(決めつけて)言ってしまった」と自責する癖もあることに気づけたのは、収穫でした。

    あゆかさん、ステキなクリスマスをお過ごし下さい。

    • いつもブログをお読み頂きありがとうございます!

      長い記事でも書ききれないことはたくさんあり、私がパートナーの言葉に反応したのは、買い物に行くたびに「あれは良くない」「これは食べてはダメ」と長年言われてきたため、感情がたまっていたからで、それは100%完全に私の問題なんですね。

      また、長年そういわれていたからといって、「押し付けられた」と解釈する必要もないのですが、私がそう解釈し、感情をためていたんです。もし、感情がたまっていなかったら、私は特に反応もせず、あぁ、また言っているな・・・ぐらいで素通りしていたでしょう。

      もちろん、その人がどんなニュアンスで話しているのか(押し付けがましいのか)ということもありますが、おそらくマロンさんにはなんの罪もないと思いますので、あまり気にせず、自由にお話しても大丈夫かと思います♪

      それでは、マロンさんも良いクリスマス&年の瀬をお過ごしくださいね♪

  2. あゆかさん、初めまして。
    コチラのブログに出会えたこと、とても感謝しています。エゴの存在を知っただけでも随分と楽に過ごせるようになりました。
    今回のトピックとは関係ないのですが、機会があれば是非伺って見たいことがあります。
    いわゆるスピリチュアルジャーニー、と言われる人達やマスターの教えというよりは、マスターに依存対象が移っただけに見える人々達についてです。自身がそうだからなのか要素があるからなのか嫌悪感を覚えます。カルト信者と何が違うのかとの疑問も湧いてきました。
    とんちんかんな質問お許し下さい(*_*)

  3. あゆかさん、こんにちは。
    日本で非二元のティーチャーを探しているのですが、あゆかさんおすすめの方とかいらっしゃいますか?
    マスターといわれる人が、カリスマ的になっていない方を探すにはどうしたらよいのかわかりません。
    失礼な質問になっていたらご容赦ください。

    • コメントありがとうございます!

      私はあまり日本の事情に明るくないのですが、たとえば、私の先生、ルパート・スパイラさんのような私が好きなスタイルの方は今のところいないのかなと思います。

      二番目のご質問は、マスターがカリスマ的になっているかどうかよりも、自分が盲信しないスタンスがあれば、良いのかと思いますよ。欧米ではムージーがだいぶカリスマ的存在になっていますが、メッセージ自体はとても素晴らしく、上の方のご質問とかぶりますが、自分が依存しなければ良いのだと思います。

      • あゆかさん、早速のお返事ありがとうございます。
        理解を深めたいと思い、悟りについて語ったり、メッセージを発信していっらしゃる方のブログを読んだりするのですが、シンプルに理解できなくて。。。(泣)
        あゆかさんのブログと、また日本にいらしたときのお話を楽しみに待ちたいと思います。

        >マスターがカリスマ的になっているかどうかよりも、自分が盲信しないスタンスがあれば、良いのかと思いますよ。

        私もカリスマ的存在とその取り巻き?の方々のいる場所には違和感を感じるのですが、それも自分の中の「正しさ」が問題なのでしょうね。
        すべては自分次第、基本に戻ります。
        いつもありがとうございます。

  4. あゆかさん、こんにちは。
    今日も、示唆に富んだ投稿を有難うございます。

    “悟りや非二元のセミナーで人生相談をしている人を見かけます。”
    これは、まさしく、「悟りについて語ろう」であゆかさんに対して私が行った言動でした。
    また、上のamorさんの投稿にあった”マスターに依存対象が移っただけに見える人々達”も、私そのものであることも分かりました。

    対象がマスターであれセラピーであれ何であれ、対象に強度に依存執着をしてしまう自分自身の問題に気付き、自分の内面を見つめ、解決の糸口を見つけていきたいと思います。
    そして、非二元は非二元として、シンプルに取り組む姿勢が必要だと思いました。

    念のため確認ですが、人生問題の解決の糸口を非二元に求めることは、「求める場所が間違っている」という理解で宜しいでしょうか?
    人生上の問題解決はセラピー等に求め、非二元は非二元として切り離して取り組む、という姿勢でOKでしょうか?(このように白黒ハッキリ割り切ることができない問題であり、答えにくいかもしれませんが・・・)

    最後に質問の形で終わってしまって、申し訳ございません。
    宜しければ何かの折に触れてお答え頂けると幸いです。

    素敵なクリスマスプレゼントを送り届けて下さり、有難うございました。
    Merry Chrismass!

    • コメント&セミナーにご参加してくださり、ありがとうございます!

      これもとても良いご質問だと思います。記事の中でお返事させて頂きますね。

      All the best wishes for X’mas and New Year !

  5. あゆかさん、こんにちは。

    先日、初めて大阪セミナーに参加させていたいたのですが、おかげさまで、これまでの悩みを解決するヒントになりそうな良いお話をいろいろお聞きすることがました。
    勉強不足で、悟りのお話は哲学みたい(?)な気もしたけど、理屈ではなく心で「そういうものなんだろうな」と納得できた感じです。

    もっと、早く参加していれば‼
    でも、これが私にとって最適のタイミングだったのでしょうね。
    とてもとても、感謝しています。

    そこで、まだまだ知識不足なのですが、ひとつご質問させていただいてもいいでしょうか?

    過去の自分の、辛かったある経験についてです。
    今現在の自分は、「当時は自分の存在を消したいほど辛かったが、今は状況もなんとか収まっているし、その状況を引き寄せたのは、至らない部分を持った自分にも落ち度はあったのだから、今後は気をつけていこう」と思っています。

    でも、現時点では自覚のない、当時の自分自身が感じた辛い感情を解放するプロセスというのは、やはり必要なのでしょうか?

    心の中で当時の自分自身にアクセスしようとしても、存在が全く感じられないのです。(子供時代のことなどに関しては、大丈夫なんですが)

    自分自身の心の中から、マイナスな当時の記憶を消してしまっているから?
    (苦しみ、憎しみ、悲しみの感情を再体験したくないという意識は、確かにあります!怖い、というか、もう過ぎたことだから水に流そう(⁈)というか…)

    いろいろな思い込みや記憶をクリアして新しい自分になりたいのですが、人生最大のショックであちった出来事ときちんと向き合わなければ、また同じことの再現が起こるのでしょうか?

    • こんにちは!コメントをありがとうございます。

      今回は、記事にしたくなるご質問が多くて嬉しいです♪ これもぜひ記事のなかでお返事させてください。万が一、忘れてしまったら(←よくある)、催促してくださいね♪

      • あゆかさん

        返信メッセージ、ありがとうございました。

        他の方のコメントを拝見したら、私の当時の状況に似ている感じがして、ちょっと驚きました!
        (私のケースも、職場の人間関係に関してでした…)

        新しい記事、楽しみにしています。

        あと、さっき誤字脱字があったみたいで失礼しました。
        入力し直した際、ミスしたのを見落としてしまったみたいです。
        気を付けなくては(汗)

  6. あゆかさん こんにちは

    どうも、私の中の理解が十分ではないようで、矛盾が出てきて
    人間関係で混乱していることがあり、コメントしました。

    職場であからさまに辛くあたってくる人がいます。

    EFTをしたり、境界線を引いて相手の問題と考えて、同化しないようにしてはいます。

    とはいっても、傷つきますし、上記のような対応を毎日毎日するのも疲れてきました。

    一方で、こうして私に対してひどい態度をとったり、苦痛を与える人達も、
    実は、何かを気づかせるために、そういう役割を担ってくれていて、
    ただ憎い人、ひどい人ではないということもあるのかも…とも。

    そうすると、考えてもしかたがないことなのですが、
    他人を無視したり、悪口言ったりいじめたり、
    そういうことをする人達側の問題として
    線引きをしてしまうのは違うのかなと感じたりします。

    自己価値アップにフォーカスだけしていればOKなのですが
    やはり、いろいろやってみても楽になりきらないし、
    毎日緊張状態で職場にいることになっていてしんどくて
    どう手をつけたらいいのか
    どう捉えると、実感として楽になるのかと思ってしまいます。

    相手が恐怖を強く持っているのを感じるだけに、よくわからなくなってきています。

    • こんにちは!コメントをありがとうございます。

      なんとなく印象としては、意識上のレベルの感情をEFTし、頭の理解で境界線を引き、こうかな、あぁかなと頭でいろいろ解決方法を探している・・・のかなと感じます。なぜ本当に傷つくのかが掘れ切れていないというか。

      基本的に、同化しないようにする・・・というよりは、傷つく本当の理由を癒せば、自然と同化しなくなります。

      相手の言動の何に一番傷つくのか、どう思い、どう感じるのか、そして、そのように思い、感じたことが過去にもあったか・・・というあたりを見てみるとよいかもしれませんね。

      これからもブログをお読み頂ければ幸いです♪

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