ネガティブナルシズム

二週間のカウンセリングコースが終わりました!とても楽しかったです。非二元と心理学、カウンセリングとセラピーが融合したユニークなコースを良いと思って、来てくださる人たちがいることが、またとても嬉しいです♪

さて、今回もコメントにお返事させてください。コメントをありがとうございます!

以前にもコメント欄で出ていた被害者意識(ネガティブナルシズム?)がすごく気になり詳しく知りたいです。また 被害者意識について記事にとりあげてくださるとうれしいです^^

まず、ネガティブナルシズムと被害者意識は重なっていますが、ネガティブナルシズムに陥っていなくても、被害者意識を持ったりしますので、イコールというわけではありません。

ので、今回はネガティブナルシズムについて大雑把に書いてみますね。ちなみにこれは、インテグレイテッド心理学の中級で詳しくやります。

ネガティブナルシズムとは、ネガティブな思いにすっかり同化し、それがアイデンティティとなっている状態です。・・・・もう少しご説明しましょう。

例えば、「私だけ損をしている」と思うと、ほぼ同時に感情が沸いて、体が反応しますね。怒りや悲しみかもしれませんし、胸が締め付けられる感じ、おなかに力が入らない感じといった反応かもしれません。で、これらの感情、体感が、この思いをとてもリアルなものにします。真実味をアップさせるんですね。

私たちの経験とは、考える、見る、聞く、触る、感じる、味わう、匂うなどといった要素から構成されています。

また、私たちが見ているものは、基本的に私たちの思いを通した100%投影の世界です。椅子でさえも、椅子という知識を通して見ているので、ありのままには見ていません。なので、「私だけ損をしている」という思いを深く信じていると、どうしてもそんなふうにしか状況が見えなくなります。

つまり、「思う」、「感じる」、「見る」という経験の主要な部分が、この一つの思いに支配されてしまうので、本人にとっては生々しい現実そのものなんです。

ネガティブナルシズムに陥っている状態は、この思いと感情、そして体に100%深く同化し、周囲に深い投影をしている状態です。自分の思いと感情、体感に100%同化するということは、言い換えれば100%主観的な状態で物事を見ているということです。客観性が失われてしまうんです。

本人は、自分や他者、周囲の状況を分析しているつもりでも、100%主観に基づいた分析なので、結局自分の思いから抜け出せません。

またネガティブナルシズムの場合、思いは一つだけではなく、「私は無力だ」とか、他にいくつかもの思いに同化しているものです。で、同化するネガティブな思いが多いと、考えること、感じること、見ることのすべてがネガティブになり、ものすごく辛くなってくるんですね。

たとえば、「私は無力だ」という思いがあれば、必ず「私は被害者だ」という思いもあります。そんなとき、周囲のほうがうまくやっていて、自分より人生のうま味を味わっているように見えたり、または、周囲は冷たくて、気にかけてくれない人たち、自分をいじめたり、差別したりする人たちに見えてきたりします。なので、さらにネガティブな思考が沸いて、ネガティブ思考の沼に溺れてしまいます。

このようなお話をすると、ご本人は、“でも実際に起きているんです。そう見えるだけじゃないんです”と、具体的な例をいくつも出してきます。もちろん、自分が損をしたこともあるに違いありません。(何を損と定義しているかにもよりますが)が、損していないときもあったはずなんです。

私たちは、自分の思いにマッチしない経験は、おもいっきりスルーしてしまいます。記憶に残らないんですね。しかし、思いにマッチした出来事は、“ほら!やっぱり!”としっかり覚えているので、ここで証拠がまた一つ増えるわけです。

もちろんこの状態ではとても苦しいので、どうにかしたい!と思うのですが、問題は、この状態がアイデンティティになってしまっていることなんです。

アイデンティティとなってしまうと、ネガティブな思いを存在の源として生きてしまうので、その思いを手放すということは、イコール自分がいなくなるということになってしまいます。もちろん、これは潜在意識のレベルで思っていることで、本人は普通まったく気がついていません。ですので、無意識のレベルで手放せないんです。

ちなみに、思考の同化とは、「ただ考えている」状態のことです。ですので、私たちのほとんどが、常に思考に同化しています。なので、ネガティブナルシズムに陥ている人とそうでない人の違いは、同化度の強さの違いです。

ですので、ネガティブナルシズムの場合、苦しみの原因は「同化する癖」なんです。そのため、過去をいろいろ癒しても、すぐ何かしらのネガティブな思いと全身で同化してしまうため、変化が感じられないか、または、自己を失う恐れから、無意識のレベルでセラピーに抵抗してしまいます。

タイプとしては思考型で、かつエネルギーに敏感な人がなりやすいです。

ちなみになぜ、“ナルシズム”とつくかというと、この状態に陥ると自分のことばかり考えてしまうからです。たとえば、パーティーへ出かけたときも、幹事さんは、大丈夫かな?、あの人は、どんな人だろう?などといった思いよりも、“私は受け入れられているか”、“私はうまくやれているか”などといったように、どこにいてどんな状況でも、“私はどうか?”ということが思考の大半を占めるからです。

さてでは、どうやってネガティブナルシズムから抜けさせるのでしょうか? 鍵は、今までと反対のことをやることです。ということで、一つは、なんでも受け入れる。自分を受け入れられない自分も受け入れるといった、とにかく過激な受け入れ。または、過激に降参する。“損している私に降参します。そうなりたくないとか、もうあがきません。損する私をまっとうします”というようにすっかり降参する。そうすると抵抗がなくなりますので、苦しみもなくなります。結果的に、ネガティブナルシズムも弱まります。もう一つは、思考との分離をはかる、です。

「私だけ損をしている、って本当だろうか?」といったような突込みを入れられるようになったとき、思考との分離が少し始まります。自分の思いを無条件に信じるのではなく、疑問を持ち始めたとき、思考のトランスからの目覚めが始まるんです。

ここまで書いて、書き足りないことだらけだと感じています。が、このテーマをブログに書こうとすること自体が無謀なので、まっ、仕方がないです。

いずれにせよ、人生をあまり深刻に受け取りすぎると、自分のこともやはり深刻になってきます。わたし、わたし~~と緊張した思いを持って、小さな思考の世界に閉じこもっていようが、何も考えないでいようが、太陽は昇り、自然は移り変わり、物事は起きて、なるようになって行きます。なので、リラックスしていきましょう♪♪♪

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思考の催眠から目を覚まそう!

現在ロンドンでのカウンセリングコースの再中です。私のブログでしか募集しておりませんので、それぞれの個性、目的、課題は違っていても、似たような考えに共感している人々が集まっているのが、ものすごくありがたく、そしてとても楽しいです♪

さて、つくづく思考とはパワフルなものだなぁ・・・と思います。それは、思考が現実を生むという意味でのパワフルだということではなく、私たちを真実から眼をそらし、眠りに閉じ込めておくパワーがすごいという意味です。

たとえば、「私は他の人のように振舞えない」という思考は、何一つ真実を表していません。他の人って誰? 他の人はみんな同じように振舞っているの? などなどと突っ込んでいけば、一体何と比較しているのか、まったくあやふやになるはずなんです。

事実は、“いろいろな人がいろいろな振る舞いをしている、終わり”ですね。ところが、「私は他の人のように振舞えない」という思考を心底信じていると、だから、「自分はダメだ」、「そんな自分は、人から受け入れられない」、「他の人に迷惑をかける存在だ」、「変わらなくてはいけない」などなど、といったような思いのループに落ち込んでいったりします。

つまり、「私は他の人のように振舞えない」という思考の催眠に陥り、生き辛い~となるわけです。

「私は、人より劣っている」
「私は、無能だ」
「私は、つまらない人間」
「私は、みんなみたいに気軽に話ができない」→「私はダメだ」
「私は、無力だ」

などなど、私たちを思考の催眠に落し入れる思いは、いろいろとあるでしょう。それがどんな思いであれ、パワーがすごいという意味は、その人の一生を支配してしまうからです。

私の頭のなかでは、その人が1ミリも変わらなくても、ただ思いだけが変わり、「自分はいけている」と思って笑っている姿、または「優劣なんてどうでも良い」と思って、リラックスしている姿、どんな姿でもイメージすることができます。

ですので、“苦しい、いつになったらこの苦しさから抜け出せるのか?”と聞かれると、 “その思いを信じるのを止めたとき”と答えたくなります。(カウンセラーとしては、もちろんそうは言いませんが)

基本的に私たちの多くは、思考崇拝主義者です。思考は、感情よりもものごとを正確に捉えている、思考は、間違っていることもあるが、おおむね事実を正確に言い表している、何よりも自分が考えていることはほぼ正しい・・・、というように。

たとえば、「あれは雲です」、「これは犬です」といった思いは、思いというよりは事実だと誰もが思うでしょう。では、雲という言葉の代わりに「ぽこぽん」という名前にしたとします。「あれは、ぽこぽんです。」

みんながそれが何を指しているのかが分かれば、どんな言葉でも良いわけです。雲にしてみれば、自分が雲であろうが、ぽこぽんであろうが、名前がついていなかろうが、何一つ変わりません。そっちが事実です。思考のほうではありません。

この世からすべての概念を取り去っても、何一つ変わるものはないんです。思考が一切なくなっても、世界は消えないし、ただありのままの姿が見えてくるだけです。「空」という概念がなくなったからといって、空が消えるわけではありませんね。

何が言いたいかというと、世界は思考がなくても何の問題もなく存在できるということです。

で、私たちも同じなんです。男だとか女だとか、自分の名前とか、「私は人より劣っている」などなどといった思いがなくなると自分が消えてしまうわけではありません。これらのレッテルがない「ありのままの自分」がいるだけなんです。

「人より劣っている」自分がいるのではなく、「人より劣っている」という思いを持っている自分がいるだけです。「私の思い」と言うように、思いは持つもので、あなたではありません。

“いやいや、私は学校の成績が悪かった”、“仕事が下手で首になった”、などなど「事実」があるから、これは思いではなく、「事実」を語っているだけだと思う方もいるでしょう。

しかし、これらは何の証拠にもならないんです。では、質問です。“誰もが納得する「劣っている人」の定義をしてください。” どうでしょうか? もし何人かで話し合えば、みんなが主観的なものさしで言い合うだけになるということが、すぐに分かるでしょう。

もちろん、思考排他主義になろうと言っているのではありません。思考は、私たちが人生を創造するための優れたツールです。ただ、ツールではなく、絶対視(信じ込む)すると、苦悩が始まりますね~という話です。

一般的に癒しとは、「私は人より劣っている」という思いが出来た原因(出来事かもしれないし、育った環境かもしれません)を探し、感情を解放し、思いを変えていく作業です。これは、とても有効です。

しかし中には、何か分かりやすい原因があるわけではなく、たとえば「なにか自分は人と違う」という感覚から、こういったネガティブなセルフイメージを作り上げている人もいます。

いずれの場合にせよ、根本的な癒しを求めるのであれば、思考の催眠から目を覚ますのが一番です。それには、まず「レッテルや思いがなくても自分はいる」というところに目を向けて見るのはいかがでしょうか?

二つと同じ雪の結晶がないように、そこにあるのは、生命のエネルギーが生んだとてもユニークな「あるがままのあなた」です。二度と同じ形で現れることがない、あなたというエネルギーのダンス☆ 変わる必要がまったくないユニークな存在。人と同じステップを踏もうとするのではなく、自分らしいリズムとステップを楽しんでみませんか?

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「ままならない現実」は、真実への招待状♪

来週からロンドンでのカウンセリングコースが始まります。毎年ほんとうに素晴らしい魂たちに会えるのがとても嬉しいです。今年もまた、どんな出会いがあり、どんな旅を目撃し、お手伝いさせて頂けるのか、とても楽しみです☆

さて、今回はお知らせがあります。「マトリックス・リインプリンティング・ジャパン」のサイトが立ち上がりました! 何よりも嬉しいのは、登録セラピストさんたちのセッション例が素晴らしいことです。ぜひお読み頂ければと思います。

マトリックス・リインプリンティング(以下MR)については、過去に何度も書いてきましたので、今回は、「非二元(悟り、目覚め)とMR」という観点から書いてみます。

で、話は一見飛びますが、先月ダリル・ベイリーという非二元のティーチャーのリトリートへ参加してきました。知る人ぞ知るティーチャーなので、25人という少人数で満喫してきました。面白かったのは、参加者の半数以上が覚醒体験をしていたことです。

個人的には、覚醒体験をしてから、良い先生を選ぶことが大切だと思っています。というのも、覚醒体験後ほとんどの人が、自我と真我の間で混乱し、多くの人が自我に引き戻されてしまうからです。

私もそんな一人でした(です)。些細なことでとても恥ずかしいのですが、書いてしまいます。実は、私、部屋がちらかっているとものすごくストレスに感じる性質です。一方、パートナーは散らかすのが得意です。そこで、散らかす→片付ける→散らかす→片付けるということを何年も繰り返しているうちに、イライラがたまりにたまってしまいました。(沸騰点に達するまで、たまっていたことに気づいていませんでした。)

そこで、MRを使ってイライラを解放し、最後に私の潜在意識が、「私が苦しんでいることを理解して欲しい。でも、彼は絶対無理」というので、じゃぁ、誰に理解して欲しい?と尋ねると、なんと「テディベア」が登場しました。それも、ものすごく賢く、深い愛を感じさせるテディベアです。目を見つめると、そこから無限の空域が感じらるほどです。

良い年をした自分が、テディベアに癒されるとは! でも、心底すっきり。すっきりした目で見えてきたことは、彼も彼なりに散らかさないように気を遣ってはいたこと、また彼なりの恐れがあって、物が捨てられないことなどでした。

そして、「彼は、私の心地よい空間を壊す」「私の言い分を聞くべき」などとといったストーリーが、いかに自分の狭いあてにならないものだったのかが、よく見えてきたのです。

話を戻して、覚醒体験後、自我に引き戻されてしまう理由は、「私のストーリー」のエネルギーに引っ張られてしまうからなんですね。(アジャシャンティ著「あなたの世界の終わり」がお薦めです)

私たちのストーリー(通常、私たちはストーリーではなく、“現実”だと思っています)は、「思考+感情」で出来上がっています。「お母さんは、私の気持ちなどおかまいなしに押し付けてくる。悲しい、腹が立つ、愛されていない、不安だ・・・」など。そして、体感が思考と感情をリアルなものにします。この「思考+感情+体」が自我なわけです。

MRは、感情を癒し、思いや体感が自然に変わることで、この自我のストーリーをネガティブなものからポジティブなものへ変えるテクニックです。

もちろん、真我からすれば、ネガティブ、ポジティブという相対性は存在しませんが、「個としての私」という分離感を強めるのは、明らかにネガティブなストーリーのほうです。ですから、感情を癒していくことで、私たちは「私のストーリー」から解放されていきます。

私について、私の人生について・・・、必死にコントロールしたり、維持したり、変えたり、望んだり、絶望したり・・・といったストレスをどっと降ろすことができます。ちなみに、下記のコメントを頂きました。コメントをありがとうございます!

日々を生きていると、真の私なんてものはどうでもよく思えてしまいます。じゃあ結局、私には何ができるのだろうと、虚しくなります。年齢を重ねるにつれ、ままならない現実にぶつかることが多くなりました。うちひしがれてはあきらめることの連続です。なるようにしかならない現実に、身を委ねるしかないのですか。そうすると、行動する気力さえなくなってしまうのです。

ままならない現実にうちひしがれる・・・とのことですが、偉大な真実は、「現実は自分の思い通りにはいかない」なんです。多くの人が、私のストーリー(人生)をなんとか良いものにしたいと必死に頑張っています。

もちろん、あるときは夢が実現したりもするでしょう。しかし、人生のすべてを1から100まで思い通りにした人間は一人もいないはずです。

夢を求めても無駄だと言っているのではありません。夢を自分を幸せにするものとして執着してしまうのか、それとも、自分の創造性、自分らしさの表現として捉えるのかで、まったく違います。

前者の場合、すべての夢が叶っても、あれっ、私幸せじゃない・・となりがちです。または、失う不安のほうが大きくなったり、または幸せを感じたのは最初のうちだけで、何か欠けている感覚がまたしてきたり。そしてもちろんうまく行かなければ、自我は絶望します。

でも、この「ままならない現実」を少し視点を変えて見てみたらどうでしょうか? 「ままならない現実」が真に教えてくれていることは、絶望ではなく、自我のコントロールを手放して良いよということなんです。私のストーリーではなく、生命のストーリーに移行しませんか?という招待状なんです。

ただ、前述しましたように、私のストーリーに感情がくっついていると、手放すのはとても難しいです。なので、私はMRのようなツールが役に立つなぁと感じています。

「あるがまま」に真に降伏したとき、つまり、私のストーリーから解放されたとき、そして、真の自分は生命のダイナミズムそのものだったのだと見えたとき、やかんを沸かす音さえミラクルになり、生命のダンスに心が魅了されます。

そして、ハートから沸く思いをただ行動にしていくとき、結果については、なるようにしかならないからリラックスしよう・・・という気持ちでいられます。なので、失敗したとか、うまくいかなかったとか、実現できなかったとか、そういった現実は、自分の中に存在しなくなります。

あぁしておけば良かったという過去への後悔、実現しなかったらどうしようという未来への不安から解放され、「今」というときがクローズアップされます。そして、そこは生命の醍醐味、ハートの歌が聞こえる場所ですね♪

さて、最後に、もう一つお知らせがあります。11月に「被災地におけるメンタルヘルスプロジェクト」を気仙沼で開催します。MRのもとでもあるEFT(現地では、“つぼトントンセラピー”と命名)の講習会です。PTSDや日々のストレス緩和などに抜群の威力があります。

平日開催のせいか、応募がまだ少ないそうです。気仙沼に近い被災地にお住まいの方、またお知り合いがいらっしゃる方、または、ボランティアをしている方、ぜひご参加ください。詳細はこちらへ→ハートサークル (「ハートサークル」という、ロンドンカウンセリングコース卒業生セラピストたちによるボランティアグループを結成しました。)

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生と死、あるのはダンスだけ♪

天気予報通り、朝から雨がずっと降っています。さて、今回もコメントにお返事をさせてください。コメントをありがとうございます!(文章を多少修正しました)

こんにちは。初めてコメントいたします。死というものは、目覚めた意識にとってどのような位置付けなのでしょうか?私はここ3年あまりで、義父母と飼い猫を亡くしました。時間が解決してくれるだろうと、次第に悲しみは癒されてきましたが、ちゃんと介護出来ていなかったという罪悪感や後悔の念がふと浮上する事があります。もっとああしてあげればよかった、こうしてあげてたら…と。今まではそういう思考にはまっていましたが、最近はその思考を眺め、意識できるようになりました。

それでもやはり、根っこの部分ではまだ悲しみは、癒されてはいないのだと感じます。その悲しみに抵抗せずに、悲しみを認め悲しみと共に居ようと思い始めました。目覚めた人のブログ等に、死別した人の意識は生きている人の中にありありと存在し、永遠に一緒。いつでも会える。とありました。もしそうならば、もう一度会いたい、また楽しかったかつてのようにみんなで暮らしたい、などと思って涙が出ます。親しい間柄でなくても、人間や動物の肉体が滅んだあとの意識は、どこに在るのでしょうか?これについてはずっと疑問が晴れません。長々とすみませんでした。

もし、私が同じ状況にありましたら、喪失の悲しみ、罪悪感などをマトリックス・リインプリンティングで癒すかなと思います。感情が残っているうちは、どんな話を聞いてもすっきりしないからです。しかし、感情が癒されると、楽しかった過去を思い出して、喪失の涙ではなく、たとえば、感謝の思いでハートが暖まったり・・・と変化します。もちろん、必ずしたほうが良いということではありません。感情に抵抗せず、寄り添っていくというのも、とても良いと思います。

マトリックス・リインプリンティング(MR)で、亡くなった人と話をすることもできます。これは、イメージのなかでもちろん行うのですが、それでもとてもリアルです。MRでは、個人の意識(顕在意識&潜在意識)をローカルフィールドと呼んでいます。そして、ローカルフィールドは、もちろんマトリックスの中に存在しているわけです。

つまり潜在意識は、マトリックス(あの世など、個人の意識以外の全体のフィールド)に直結しているんですね。ですので、亡くなった人の意識にアクセスすることもできるんです。では、亡くなった人の意識(魂)は、どこにあるのでしょうか?

残念ながら、私には答えられません。ただ、私に日本という故郷があるように、魂にも必ず故郷はあると私は思っています。臨死体験で垣間見た世界が、きっと私の魂の故郷だろうと。そして、“まだだよ、まだだよ、戻りなさい”と私に言ったあの声が、今度は、“お帰りなさい”と言ってくれるのだろうなと思っています。(←現象レベルの話をしています

臨死体験に関しては、脳内のうんちゃらだ・・とか、懐疑的な科学者はいろいろ言っているようです。が、私はそういう論議にはまったく興味がありません。こういったテーマを経験ではなく、頭やデータで判断しても、結局推測で終わってしまうと思うのです。

東大病院の矢作直樹先生が「人は死なない」という本を書かれているそうですが、臨床医としてご経験から書かれているのが素晴らしいと思います。(拝読しておりませんのが)

現代社会は、経験よりも思考やデータを高く評価することで、思考崇拝に陥り、世界を機械的(白黒)に判断し、分離感を強めてきたと思います。そのため、感情をどう扱ったら良いか分からない人が山ほどいます。

ちなみに、「目覚めた人のブログ等に・・・」とありますが、目覚めを経験した=すべてのしくみが見えている、ということではありません。(そう思っていらっしゃらなかったらごめんなさいね)

目覚めや悟りを「この世(や宇宙やなんでも)しくみが分かること」というふうに捉えている人もいるようですが、理解するということ真実が分かるということは、まったく違うことです。これもある意味、思考崇拝なんです。思考も感情も、大海に沸いてくる波に過ぎません。

たとえば、「空」について理解しようとすることは、大海のなかの小波が“水って何だろう・・水について理解したい”と考えているようなものです。

私たちは、次にどんな思考が沸いてくるのかさえ知りません。思考は沸いてくるもので、真実を語るものではありません。また、「私が考えている」というのも幻想なんです。真実は、ただ考えが起きているだけです。主体は存在しません。

私たちが理解を手放したとき、 “私は何も知らない”という真実へ転がり込みます。しかし、それは、未知と驚異、そして奇跡の感覚をともなった“私は何も知らない”です。

少し前にBBCで世界でトップの量子学の科学者たちにインタビューをした番組が放映されていました。彼らが口をそろえて言っていたのは、研究すればするほど、実験すればするほど、「何も分からない」ということです。

もちろん、パラレルワールドの可能性など、実験による推察はいろいろあります。しかし、あるトップの量子学者は、BBCのインタビュアーに、“量子学が分かったと言わないように。もし、あなたがそう言ったとしたら、あなたは何も分かっていない証拠だ。”と言っていました。

話がめちゃくちゃ逸れました。

目覚めの観点からすれば、いえ、目覚めの観点でなくとも、私たちは、すべては移り変わることを知っています。すべての人は死を向かえますが、また形を変えて生き続けます。「溝口あゆか」というダンスは、また違うダンスへと移り、踊り続けます。変化があるだけで、生も死もありません。

ただ、一つだけ変わらないことがあります。それは、「ダンスは終わらない」という真実です。楽しみを分かち合ったダンス、苦しみをぶつけ合ったダンス、愛した人、憎んだ人、すべてがかけがえのないダンスです。

あなたという小波も、愛する人という小波も、大海の中でダンスをしながら、形を変え、大いなる生命のなかであらゆるダンスを続けます。次にあなたがどんなダンスを踊るのか、それは未知であり、驚異です。

愛する人を亡くして、悲しみがなくなることはないでしょう。セラピーは大きな助けになると思います。でももし、この壮大なダンスが感じられたら、あなたは、ある小波だけにしがみつくことはなくなるかもしれません。永遠にずっとその小波とだけいたいと思うよりも、その小波の次のダンスが楽しいものであるよう願うかもしれませんね♪

☆真のあなたは、あらゆるダンスだから、すべてのダンスを受け入れる。そして、すべてのダンスは幻だから、真のあなたは、一切影響を受けることはない☆

 

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