今回もコメントにお返事をさせてください。このところお返事をしたくなるコメントが続き、皆さん、ありがとうございます!(タイミングによっては、お返事したいものも書けないことも、多々ありますが)
私は最近、「すべて始めから決まっている」という感覚があります。そのあとで、「ならば何をしても意味がない」と思ってしまします。(おそらく思考の言葉) 私としては、「何をしても意味がない」の部分は真実ではないような気がするのですが、なかなか抜け切れない、煮え切れない感じで、何度も繰り返してしまいます。
いまこうしてあゆかさんのブログにコメントさせてもらっていることも、始めから決まっている気がするのだけど、では、次に私のなすことは?と問いかけると止まってしまいます。宇宙が主体だとすると、まるで決められた物語を見ているようでなんだかしんどい。。。けれど私が主体で、一秒先もわからない舞台の真ん中にいると思うと、また違って見える、そんな感じです。
このお返事をする前に、ちょっと明白にしておきたいのが、悟りの話とスピリチュアルな話の違いです。えっ!違いがあるの?という方ももしかすると多いかもしれません。
悟りの話は、主体と客体がない非二元の話です。一方、多くの人が描くいわゆるスピリチュアルな世界(魂の成長、宇宙とつながるなど)は、私と宇宙、私と神という二元の世界観です。
ですから、私が宇宙とつながるとか、私が超意識に入るとか、私が~~する、または、私の魂の旅とか、私の魂の成長・・・という話は、すべて二元の世界の話なんです。あくまでも、個としての「私」(それが魂であっても、“私の”魂)が主体で何かをするというは、現象の世界の話です。
つまり、人間ゲーム、または魂の成長ゲームという壮大で美しい幻想の世界の話です。美しく、あり得ないほど荘厳であるけれど、常に変化し、やがては夢のごとく消えていく世界です。
一方悟りとは、この世は主体がない世界なのだということを見抜くことです。「私」は存在しないんです。いつか自我を超越して、私がいない状態に到達する・・・のではなく、「私」(自我)は、今も昔もこれからも存在したことなど一度もなかったと見抜くことです。
ということで、今回は究極の真実ということで、悟りの観点からお話しさせてください。
ロンドン周辺は、このところ太陽が毎日拝め、昨日、庭のダリアが花を開きました。しかし、今日は朝から何度もどしゃぶりです。ダリアは、“あぁ、昨日咲けばよかった。”と思ったり、“咲いたと思ったら、どしゃぶりだ。でも、きっとすべてはベストのタイミングで起きている!”と自分を納得させたりするでしょうか?
では、ダリアが咲くタイミングは、すでに決まっていたのでしょうか? また、風が吹いて、木の葉が地面に舞い落ちたとき、木の葉は、“ちっ!、あと5センチ右に落ちたかった。”と思うでしょうか? また無数に落ちる木の葉が落ちる位置やタイミングは、あらかじめすべて決まっていたのでしょうか?
そして、これらの花や木の葉に主体はあるのでしょうか? それとも、全知全能の神が、万物の動きをすべてあらかじめ決めているのでしょうか? それとも、それは「ただ、そう起きた」のでしょうか?
もし、いやいや人間と花や木の葉は違う・・・と思ったら、それこそ分離の世界観なんです。また、人間には脳があるという人もいるかもしれません。では、脳に今日のお昼に何を食べるか、材料に何を選んで、どんな順番にどんなふうに切っていくかなど、私たちの一生の決断や思考がすでにがプログラミングされているのでしょうか? それとも、思いはただ沸いて来るのでしょうか?
自我は、基本的にすべてを自分中心に考えます。自我がないという悟りの話でさえも、「私の自我がなくなったら、私はどうなるのだろう」、「私が悟ったら、他の人との関係はどうなるだろう?」、「私が悟ったら、この苦しみから抜け出せて、それでやっと幸せになれるかもしれない」「私が悟ったら、今までのように日常生活を送れるのだろうか?、今の仕事は?なんでもどうでもうよくなってしまったりしないか?」などなど、個としての「私」への希望、期待、不安を抱き続けます。
かつて、私は悟り本を読み漁り、いろいろ瞑想や自己観察をしていました。ある日、そんな自己観察をしていたとき、「悟りたい、真実を体験したい」という思いの裏に「悟った人間になりたい」という思いに気づいたのです。お金とか名誉とか、そんなものじゃなくて、私は人間が得られる最も崇高なもの、「悟り」が欲しい、「悟った私」になりたい・・・という声を聞いたとき、究極のスーパーエゴに我ながらびっくりしました。
そして、私は真実を求めているのではなく、スーパーエゴを満足させたかったのだ・・・と気づいたとき、本も瞑想もしばらくやめてしまいました。話がどんどんずれそうなので戻しますが、書きたかったことは、どこまでも「個としての自分がいる」ことが前提になっていたりする、ということです。
しかし、自分がいない(主体がない)のなら、そもそも「すべて始めから決まっている」かどうかという問い自体が、どっちもで良くなってこないでしょうか。自分がすることに意味があるのか、起きたことがこれで良かったのかなどを、気にするのは自我だけです。
主体も客体もないことが見えてくると、音と音を聞く人は同じ(二つではない)で、さらにそこに聞いている人というのは、存在しないということが見えてきます。「私が音楽を聴いている」という幻想が崩れ、音、聞く、呼吸、体感、「私がある」という意識が、オーケストラのごとくすべてただ起きているという真実が現れてくるんですね。
そして、それらのオーケストラを深く見つめていくと、そこに見えてくるのは「空」なんです。空は、あまりに空で、あまりに透明だから、すべての色になれ、あらゆる形となって現れることができるんです。そしてそれが、真のあなたです。
つまり、この観点に立つと、私が決めているのか、宇宙(神)が決めているのか?という問いは成り立たないんです。ものごとを分離することしか知らない思考にとって、これはとても分かりづらく、退屈な話かもしれません。
でも、頭で理解できるできないに関わらず、単純に自分の体を眺めても、あり得ないぐらい緻密にできていると思いませんか? そしてこの宇宙も、銀河系も一体どんな知性が作り上げたのでしょう。誰か(主体)が、それら(客体)を創ったのかという二元の発想を離れてみれば、想像を超えた知性(空)が、ミステリアスに壮大なダンスを踊っているのが見えてきませんか?
あなたは、この現象のすべての創作者であり、経験者でもあり、人間という舞を踊ったり、魂という舞を踊ったり、と同時にただの一度も真の自分でなかったことはないんです。
ハートは私たちを真実に導き、思考は私たちの分離感を強めていきます。誰が主体かということを忘れ、あなたらしい人生のダンスを踊りたかったら、自分のハートの中心から沸いてくる思いを表現してみませんか?
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あゆかさん、素敵な記事をありがとうございます(*^^)
質問させていただいた、あきです。
この記事は昨日夜に一度拝見して、すぐにお返事をしたかったのですが、なんだかとても言葉にならず、一晩眠ってコメントしています。ちなみに私は大阪在住で、今は朝、今日はこの夏一番の暑さに(37度!)なるみたいです。
ダリアの話、木の葉の話。「ただ、そう起きた」。
あ~~~、そもそも思考で理解できないことを、文字で伝えるのがとてももどかしいけれど。
非二元。そうだった、と思いました。すぐにこれを忘れてしまう。
記事を読んで浮かんできたのは、「ただ、そこにあるだけ」と「口ずさむ」というワードでした。
私もダリアも木の葉も、ただ、そこにあるだけ。
そして、宇宙と私、という構図そのものが意味を成さない。
だって、宇宙=私だから。1=1、のような感じ。
ん~~~、理解しがたい、だけど、もう、いい!そう、「わからない」。
わからない、そして、それでいい。
小波は大海。
「自分のハートの中心から沸いてくる思いを表現してみませんか?」
この一文に、すごくどきどきします。
思考で理解しようとすることに降参して、ただ沸いてくる思いを表現すること。
あゆかさんのおっしゃる即興ダンス。
私は、次に何を口ずさもうか、って真剣な顔して悩んでたんですね(*^_^*)
わかるはずないや(笑)
だって口ずさむ、ってそういうことじゃないもの。
軽やかなステップ。
ああ、それを、踏んでもいいんだな~って。
とても言葉にならないけれど、ハートが開いている感じ、伝わるでしょうか?
あゆかさん、ほんとうにありがとう(*^^)
あきさん、お返事くださってありがとうございます!お返事を拝読し、とても嬉しくなりました。私のハートも温まりました♪ これからも、ブログをぜひお読みくださいね。
「悟り(非二元)」の世界と「分離」の世界の違い、大変よくわかりました!!
このブログの読者の中にクリスチャンの方がおられたら大変申し訳ないのですが・・・
ここ最近、ニーチェの「アンチクリスト」の日本語超訳版を読んだばかりということもあり、記事を読ませていただいて「キリスト教って究極の『分離思考』」なんだな」と思いました。
あゆかさん
いつもブログの更新、ありがとうございます!
どっぷりエゴ寄りになったときに、意識であることをすっと思い出せてくれる優しい記事ばかりで、いつも本当にありがとうございます。
私はプチ覚醒すらしたことはないのですが、私が私だと思っていた私は私ではなく、意識であるということを知った時、「あぁそうだったよね」と思いました。
動物と高次元の存在も、みな意識であると頭では理解しているのですが、家畜のことを考えてしまうと悲しいと思います。
その感情の一部は、投影であることに最近気づいたのですが、それを差し引いてもやはり悲しいと感じます。
また話は変わりますが、辛いことがあると天使などの高次元の存在に助けてもらうという友人がいます。
友人も天使も大いなる意識だとすると、何が起こっていることになるのでしょうか。
この辺りのことも、もし宜しければ記事にして頂けたら嬉しいです。
こんにちは!コメントをありがとうございます。これもまた面白いご質問で、近いうちのいつか(最近お返事をしたいコメントがたまっており、嬉しい悲鳴)にお返事させて頂きますね。
あゆかさま。
私もnana88474さまの質問に興味があります。
人により、天使だったり、ご先祖だったり、守護霊だったり、
または霊媒師を介して特別な存在に助けてもらったり・・・。
これは分離の世界で、私とあなたですよね。
私もnana88474さまと同じです。
記事にしていただけることを楽しみにしております。
横からのコメントで申し訳ございません。よろしくお願いします。
悟りの話は好きです。悟りはどのような感じなのだろうとやはり想像してしまうから。
>すべては始めから決まっている?
以前は、決まっていないと思っていました。選択次第で人生は変化するから。
でも、質問者の方のように決まっているというか、「起こることが起こる」。ただそれだけだと思います。
思考は答えを求めますが、答えは真実かどかなどはわかりません。見つけてもそれもいずれ消えます。
なのでやはり空なんですよね。
幻であり、ゲーム。
ただ、普段生きているわけですから、ありのままに生きるだけです。
悟りたいとは思いますが、悟りは勝手に起きるので、今を生きるだけですね。
あゆかさん、お久しぶりです。今回の記事、大変興味深く読ませて頂きました。
人生は真我のプログラミング通りで、起こる事すべては寸分違わず進行しているだけ、だから、全託、自動操縦、イマココのハートに湧き上がる感覚を思う存分楽しんで体験したらいいんですね。
その体験は、即興表現を通して、数え切れない位して来たんですよね〜
気がつけば。だから、後悔って余り経験が無いです。
初めてあゆかさんのブログにコメントして、取り上げて頂いた頃、去年10月あたりから、アッブダウンしながら、かなり全託寄りになり、楽になってます。あとは、長年の染み付いた思考の癖の大元を、しっかり観て、受け入れて癒して行く、パターンからの開放、認められたい、無視されたくない…の元は、自分の内側に在る事を、しっかり観て手放していける事、やります。
だって、そんな自分と言う存在なんて無いんですもんね〜
凄過ぎる幻想ですね。その事に、感動、驚嘆します。いつも、有難うございます!
お久しぶりです♪ ブログを読み続けてくださっていて、ありがとうございます!
>人生は真我のプログラミング通りで、起こる事すべては寸分違わず進行しているだけ、
↑
私はそういうふうには体験していないんです。ただ、計り知れない知性が、即興ダンスをしていると感じています。「すべてはプログラミングされている」というのを、新しい自分の思想にして、それに基づいて人生を生きようとしないでくださいね。
でも、自分の思い込みを手放していくことは、必ず自分を楽にしてくれますので、ぜひ続けてください!
返信頂いて有難うございます!
思想になって仕舞っては、また新しい罠にハマル事になりますね。
計り知れない知性が即興ダンスを踊っている…素晴らしい表現と言うか体験ですね。
イマココを感じて、瞬間、瞬間を丁寧に観て行きます。
適切なご指摘、感謝です!