思考の裁判官、ハートの裁判官

今回もコメントにお返事させて頂きます!今回は二つです。コメントありがとうございます!

傷つく言葉を言われたとき、傷ついた自分に原因があるんだ…だから、相手は悪くないと思って、悲しみをこらえてしまう癖があります。かといって相手を許せている訳ではなく。この気持ちはどこに納めればいいのだろうと思うことがよくあります。結局はいつも、私が悪かったから仕方ないか。なかったことにして笑顔でいるか。となってしまいます。これでいいのかなと不安も抱きながらですけど。

原因は自分にあるんだ・・で終わってしまうと苦しいでしょう。原因を探し、それを癒して始めて楽になれますね。

さて、私たちの中には二人の裁判官がいるようです。一人は思考の裁判官。もう一人はハートの裁判官。でも、私たちはつい思考の裁判官ばかりに従っていがちです。この方の場合、

裁判官:“判定を下します!傷ついたのはあなたの中に原因があるせいです。よって相手は悪くありません。従って、あなたは悲しむ権利も、相手を悪く思う権利もありません。”

裁かれた人:“ははぁ!仰せの通りです。これから、私は悲しみをこらえて生きていきます。相手にも決して何も言いません。”

思考の裁判官が仕切る社会は、とても厳しい社会です。「悪い」というレッテルを貼られたとたん、感情を出してはいけないし、思っていることを口にしてもいけないんです。基本的人権がない状態です。

一方、ハートの裁判官はどうでしょうか?ハートの裁判官は、すべての人の言い分をしっかり聞きます。悲しみの声、相手を責める声、言いたいことをぜんぶ聞くんです。そして、話を聞くだけではなく、もっと深いところにどんな思いや感情があるかもちゃんと探り出します。

もし、なにか問題が発生したとき、誰かが事実を隠していたら、真の解決はできないでしょう。すべての事実を明るみにしてこそ、根本解決ができますね。同じように、自分の深いところに抑圧されていた思いや感情がきちんと明るみに出されたとき、やっと真の癒しが起きます。

厳しい思考の裁判官が役に立つときも人生にはあるでしょう。しかし、ここでのポイントは、誰が原因を持っているか、誰に落ち度があるかなどではなく、「今、自分の中で何が起きているか?」なんです。

今まさに自分の中で起きている出来事(感情が沸いてきている、感覚が起きている、思いが走る、など)にきちんと目をむけずに、それを思考で抑圧しても先へ進めないんですね。

もし、怒りが沸いていて、お前なんか大嫌いだ!という思いがあったとしたら、体を使ったり、頭の中でのイメージを使ったりしながら、きちんと表現していくうちに、その下にあった真の思いや感情が出てくることはとても多いです。

私は、セラピーのテクニックを使いますが、ご自分でもできるかなと思います。(ただし、体の感覚に慣れていないと難しいかも) 感情は、原因を教えてくれるメッセンジャーです。ですので、感情の声をちゃんと聞いてあげてくださいね。(感情の声の聞き方やなど、関連記事を最後にリンクしました。他にもあるぞと覚えていらっしゃる方、コメント欄に記事のリンクを貼ってくださると嬉しいです。)

さて、関係しているようで、していないような・・・お次のコメントです!

私の父は、ある哲学者の教えに従っていて、なんでもポジティブに捉えろ!!といつもクチうるさく言ってきます。一緒に暮らしているおばあちゃんも、いつも来る叔母も、私も、私の父がとーっても自己中心的な生活態度をとっているとクチをそろえて言うときがあるのですが、私たちがそこは直してと頼んでも、それはお前たちがネガティブにとらえてるカラだ、もっとポジティブに考えろ、と、自分の自己中心的な行動までもポジティブにとらえ、反省しません。<省略>何か父に言える、アドバイスがあったらくださいm(_ _)m

ふ~む、お父様は、“そこは直して”というみんなのお願いをポジティブに捉えていらっしゃらないように見受けられますねぇ。ポジティブに受け取っていれば、“忠告してくれてありがとう”といったような返事になるはずですから。なんでもポジティブに捉えるということは、自分への批判や悪口も入らないと、“なんでも”ではないですよね。

“お前たちは、私の言動まるごとポジティブに捉えなければいけないけど、私はあなたの口から出る言葉を、必ずしもすべてポジティブに受け取るわけではない”では、言動不一致です。

ということで、お父様に“なんでもポジティブに捉えるという、お父さんの考えを実践してみようと思う。だから、お父さんが私のやることや言う事のすべて、例えば、ときにはお父さんに対してネガティブな言動をしている私もまるごと含めて、心の底からなんでもポジティブに受け取ってくれたら、私はやり方が見えてくると思う。”

というのはいかがでしょうか? で、反応に関しては一切責任を持ちません。(笑)

セッションでは、こういうアドバイスはまずしませんが、ブログなのでわざと書いてみました。どんな教えや思想も、真摯に深く自分を見つめなければ、結局、思考の遊びになってしまいます。

単純に、これはポジティブ、これはネガティブと頭で判断し、“あっ、ネガティブに捉えている!ポジティブに考えなくちゃ・・”というのは、すべて頭の中でごちゃごちゃやっていることです。これは、裁判官ならず、監視人ですね。

せっかく、ポジティブになろうとしていても、監視人が仕切っている限り、厳しいエゴ(思考)社会のなかでの管理されたポジティブな私です。ちょっとでもネガティブな思いが沸いてくると、叱責が飛ぶ社会です。

このコメントの方のお父様だけでなく、私たちは基本的にネガティブ打倒の思いで生きているでしょう。ネガティブな感情や不快なこと、苦しいことは、早く自分から取り除きたいし、ポジティブなこと楽しいことだけ人生に起きて欲しいんです。

そして、私たちは、どうして世の中にはこんなひどいことが、どうして私の人生にこんなことが起きるのか?と嘆きます。しかし、目覚めの意識は、どんな“いわゆる”ネガティブなことでも、それが起きることを許しているんです。ネガティブの存在をまるごと許し、批判したり、変えようとしたりしないんです。

これが、無限で無条件の愛です。

ただ、こう書くと、じゃぁ、戦争も飢餓も原発問題も許されているのだから、何もしなくて良いのか?という思いを持つ方がいつもいますが、そのとき、自分のハートはどう感じているでしょうか? 思考の判断ではなく、ハートが感じていることをしてみると良いかなと思います。

いずれにせよ、私たちはすべてが許されるという無条件の愛のなかに存在しているんですね。そして正確には、存在しているのではなく、それが真の私たちの姿なんです。

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思考の裁判官、ハートの裁判官」への7件のフィードバック

  1. ひいらさんのリンク、有難うございます。犠牲者意識、被害者意識、罪悪感、そこをとことん見て行く事は、シンドイですが、進化や深化にとって、必要な事なんですよね。
    今のわたしは、あゆかさんのブログに出会った九月位からもう、本当に地球以前のトラウマ迄遡る気づきや、浄化が始まっていて、
    愛の反対は憎しみでは無く、罪悪感だと聞いたことがありますが、まず、やっぱり罪悪感が、あって、そのバランスを取る為に被害者意識があるのかな〜と、思ったりします。
    わたしは、即興舞踊家で、全く志向性も無くうたうたが、98年からやって来て、うたのライブ活動もしていますが、活動はほんとに食べるのがやっとですが、百匹目の猿現象で有名な幸島へ引っ越して素晴らしい楽曲を幸島で授かり、このうたが広くうたわれるビジョンもはっきり持っていて、しかも5DK広い畑付きの素敵な古民家家賃1万円! で住み、仲間もいて、幸せで感謝一杯なのです。
    ですが、一方では、楽曲のメッセージなど、
    ほんとに作ったものでは無く、授かったものと思っていて、沢山の人々と共有したいし、そうなっているビジョンもはっきりあるのに、中々、ビジョンとはかけ離れた現実にへこんで、何故どうして、とそれこそ犠牲者意識になってしまうのです。すみません、長くなりましたが、今年始め、古代ギリシャか何処か昔で、沢山の人々の前でうたを歌っている時、喉の真ん中に矢を射られ即死した過去のトラウマの記憶が蘇り、肉体を離れた魂が、人々の混乱と悲しみとショックを目の当たりにして、強烈な罪悪感を抱えたのだと思います。また、沢山の人々の前で歌うような立場に成れば、また人々を苦しめると言うまた強烈な思い込みがあるのでしょう。
    不思議と矢を放たれた事についての怒りなどは、罪悪感や畏れが強く残り、殆どありません。こういう罪悪感は、とても私の現実に反映していると思うし、乗り越える方法が有るのであれば、是非お教え願えればと思います。

  2. あゆかさん、はじめまして。いつも本当にいろいろ気付かせていただいています。
    今ひとつ、ずっと自分の中ですっきりしないことがあります。
    なぜかこの街に引っ越してきてから近隣住民の騒音などの迷惑行為に悩まされてばかりで不思議で仕方ないのです。(諸事情あって今住んでいる所で3つめです。この街に来る前に暮らしていたときはそんなことはありませんでした)
    夜中に騒がれる→寝ていて目が覚めるとかなると、やはり腹立たしくって…。
    管理会社に相談するなどしてだいぶ静かになっていますが、なぜそういう人が現れるのか?
    なんでこんなに気になって(音には敏感なんです)腹が立つ自分がいるのか?
    怒り→何かの恐れがあるんだな、ということはわかるのですが、じゃあ何を恐れているのか?
    と突き詰めていくとわからないのです。
    「自分を癒す」(←常に私の人生で大切なことと言われることが多いです)ということもなんとなくはわかるものの、具体的に何をどのようにすればいいのかわからないです…。
    もし過去の記事などで参考にできるものがあれば教えていただければ幸いです。

  3. あゆかさん、取り上げてくださりありがとうございます。嬉しかったです。
    ひいらさん、リンクありがとうございます。

    感情の行き場は、絶対にないと思っていましたが、ハートの裁判官がいると思うと泣きそうに嬉しかったです。もう、何でも言っていいんだと思って、
    私は悲しい悲しい悲しい。今とっても悲しい。といっぱい言っちゃいました。被害者意識があることも、また被害者意識があってはいけないと思ってしまうこと、まるごとはなし、他人を憎む気持ちがあることもはなしました。自分を癒すことがいつまでたってもできないことに未熟さを感じていること、未だに自分を好きになれないし、自信ないことをダメだと思っていて、また、ダメだと思ってしまう自分もダメだと思ってしまうのだということ。 それでいいんだと、ハートの裁判官は、受け入れてくれました。

    人から何か傷つくことをいわれたとき、受け取らないのはまだ難しくてできないけれど、
    ハートの裁判官に、「悲しい、悲しい、悲しい」と伝えつづけることができます。
    そのうえで、振る舞いを選んで実行するだけでも(私の場合、笑顔でいること)、楽に感じます。
    (今までは、悲しんではいけない、笑顔でいなくては。でしたけど、今は、悲しいし、ムカつくよね。でも、笑顔でいたいからそうしてよう。)という感じです。

  4. あゆかさん、アドバイスありがとうございました☆
    なるほど、ネガティブに捉えてると思うコト事態、ネガティブだったのですね。分からなかった私も、怒りにまみれていました。そしてその怒りの下に眠っているのは、父の言っていることが万が一正しかったらどうしよう、間違っているか合っているか判断してもらいたい、などという恐怖心がありました。
    私も父も、ポジティブにいたいって思いが最初なのに、色んなエゴが絡んでネガティブにしてくれて。でもそのエゴも、今回、私と父とで違うように、人それぞれ違うんだなぁと思いました。そう思うとなんだか私にしかないエゴの声を一番身近で聞いてあげられるのは私なんだと思って、突き放したりせずにもっと優しく声を聞いてあげたいと思いました。
    目に見えないもの、分からないものがこんなにも怖いってエゴの叫びが聞こえます、それはつまり外側ばかりの世界で生きてるからなんだろうな、それでも突き放さず寄り添いながら、いろんな恐怖をエゴとともに乗り越えて行きたいなと思いました☆きっとそうしている内に、エゴも私を信頼してくれて、私に任せてくれるようになるかもしれません。今回私のエゴに向けて愛のメッセージを送ったので受け取って信頼し始めてくれたらいいな、と思いました☆ありがとうございました☆

  5. こんにちわ
    いつもお世話になります^^
    怒りの開放は 参考になりました ありがとうございます。
    私は自分以外の人に対してというより 自分を責めることが多いのです。
    自分を責めることから早く解放されたいと思うことが抵抗になるのでしょうね。
    それを許すとは なかなか勇気がいりますが ちょっと やってみようと思います。
    なににしろ出てきたものには 逆らわずに そうですか~と まず 受け入れることからなんですね。
    人といると比較して 言われてもいないのに どんどん自分を責め始めます。
    よくもまあ こんなに自分を責めるものだと。
    そのあとは 決まって 自分が寂しくなったり 居場所がなくなったような気がします。
    そういうのも 「ほんとにお前って最低 殺してやる~~~」ってところまで 行き着けば そのエネルギーは消えていくのでしょうね。

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