心の風景、外に見える風景

ロンドンのカウンセリングコースが終わりました。私のパッションと経験と知識とスキルをフルに使った二週間でした。今年は、新しい先生も迎え、参加者の皆さんも大いに学び、楽しんで頂いたかなと思います。ちなみに、このコースでは、私を入れて5名がコースの講師をしていますが、近いうちに、彼らのプロフィールをカウンセラー養成講座のコーナーにアップしますね。(6年間これをどうして思いつかなかったのか!)

さて、今回もコメントにお返事させて頂きます。コメントありがとうございます!

素朴な疑問なのですが、スピリチュアルではよく「自分の内面が外側に反映される」と言いますよね。自分を愛せるのならば、その反映として自分を愛する人が表れるや、自分が満たされていれば満たされた状況が表れるなどなど。でも、いわゆる悟りを開いた覚者でも人生で健康面、人間関係、経済状況などで困難に立たされている場面を度々目にするのは何故なのでしょう。悟ると、状況が変わることではなくて、状況に対する自分の反応がかわるのです、とはよく聞く言葉ですが、だったら内面の反映とかいう話はどこへいくのだろう?と疑問に思います。

良いご質問です!そして、このへんは、混乱している方も多いのではないかなと思います。一番の混乱は、「自分の内面が外側に反映される」という意味を、外面=状況だと思ってしまっている、またはそう教えている人もいることにあるのかなと思います。

または、「自分のなかに愛が増えれば、生きることが快適になる」と書くと、状況が良くなるから快適になると解釈する人も多いかもしれません。

しかし、スピリチュアル心理学を受けてくださった方は、お分かりかと思いますが、外面に反映されるという意味は、「内面の心の状態を通して周囲、社会を見る」(投影)という意味ですね。

とりあえず、自分を愛するとは、どういうことでしょうか? そうです。自分の中に愛がたくさんあるということですね。で、愛とは、すべてのポジティブな感情の総称です。なので、自分の中に信頼、勇気、共感、つながり、思いやり、強さ、優しさ、感謝、健康な警戒心、安心感などなど、いろいろな愛から生まれるクオリティーが増えるわけです。

自分を愛しているけど自信がないとか、自分を愛しているけど感謝の気持ちが持てない、または、自分を愛しているけど世間が怖い、などなどという状態は、ありえないんですね。

例えば、潜在意識のレベルで「私は力がない」と強く信じていれば、恐れのレベルが高まるので、世間は怖いところに映るでしょう。道を歩いていても、人が冷たく見えたり、自分に無関心に見えたり。また、誰かが大声で怒鳴っていたりすると、怖いと思うかもしれません。

または、人が不親切に見えるので、ときには、自分はいじわるされたと思うかもしれません。自分をネガティブに見ている分だけ、周囲や社会もネガティブに解釈し、また、ネガティブな面ばかりに意識が行きます。

ところが、「私には力がある」と潜在意識のレベルで思っている人は、道を歩いていても、人が親切そうに見えたり、気軽に友達になれそうに感じたり、みんなそれぞれ一生懸命生きているなぁ、素晴らしいなぁと感じたりなど、世間は温かい風景として見えるでしょう。

同じ道を歩いていても、見えている風景、経験していることが違うのは、心の風景(状態)が違うからですね。

つまり、自分の中に愛があれば、周囲と社会の中にたくさん愛を見るわけです。これが、「自分の内面が外側に反映される」という意味です。

私たちが思い、感じ、そして行動したことが、結果となりますので、もちろん、心が愛ベースであるほうが、結果もポジティブになることが多いでしょう。ただ、いつもすべてが100%ポジティブな結果というわけではありません。

ただ、例え何が起きても、そこに愛(ポジティブな要素)を見ることが出来るので、苦しみの度合いはうんと低いでしょう。病気という状態のなかで愛が見え、経済的な困難な中でも愛が見えたら、心は幸せですね。

反対に、完璧な状況になっていても、心に愛を感じなければ、幸福感はゼロでしょう。

さて、いわゆる悟った人への誤解もあるかなと思いますが、悟った人(覚者)の私の定義は、「個としての自分はいない」「この世には誰もいない」という目覚めた意識で現実を生きている人です。

真の自分の姿は、個でも、事象でもなく、起きることのすべてに気づいている無限のエネルギー、覚醒意識、知的意識(呼び名はなんでも)であるという意識で生きている人です。

決して、心の隅々まで癒して、ネガティブゼロ、ポジティブ100%のエネルギーで生きている人ということではないんです。

プチ覚醒体験直後、左側の腰が非常に痛み、歩き辛かったことがありました。しかし、そのときの私は、痛みは自分のものではない(私はいないから)とはっきり分かっていたので、無からこんなふうなふうに感覚(痛み)が生まれるんだなぁ~、すごいなぁ、ミラクルだぁ~と感じていました。

痛みはありましたが、苦しんでいなかったんです。そこで初めて、今まで自分がどれだけ「痛み=苦しみ」という強いエゴの刷り込みで生きていたかを思い知りました。

起きた出来事を「これは、良い出来事」、「これは悪い出来事」というように判断するのは、エゴ(思考)のお仕事です。

ということで、どの人の人生にもいろいろな出来事が起きます。しかし、幸せを状況に委ねなくて良いという真実は、大きな救いだと私は思っています。つまり、誰も状況の犠牲者ではないからです。

真の愛ベースの生き方とは、自分の中の不安や恐れを受け入れ、場所を与えてあげ、ポジティブもネガティブもすべて受け入れた状態で生きることでしょう。

「打倒、ネガティブ!」ではなく、しっかり受け入れたとき、恐れに振り回されずに恐れを感じることができます。そのとき、ポジティブかネガティブかという二極を越えた無限のスペースが自分の中に広がるのでしょう。

心の風景、外に見える風景」への10件のフィードバック

  1. あゆかさん、沢山の貴重なメッセージいつも有難うございます‼
    ポジティブとか、ネガティブとか、最近何だかわたしも解らなくなって来ました。
    この間、何故か 野田総理の顔が、うかんで来て、あのひとも、私と同じ大いなるふところの光の一部なのに、あんなにうそでこころを汚して突っ張って大変だな〜ご苦労様。
    なんて思ってしまったりしていました。
    友達の理不尽な態度にも、反射的反応をするものの、すぐにまてよ、この不快のメッセージは…と思い返すと、タイムリーなキーワードが読み取れたり。
    わさわさする胸のざわつきも、色々な不信感も、不安も、基本生かされている有難さと、幸せに頬がゆるむ今この瞬間の掛け替えの無さを揺るがすことは出来ません。

  2. こんばんは!
    私はこの間、自分の中にフツフツと沸き上がるエゴの罠に、あえて乗っかってみました(笑)
    みごとに外に見える風景、その人 違ってました。状況は何も変わってないのに・・・
    気持ちはどんどんエスカレートして・・・ でも今まで蓋をしてきたであろう思いが解放された気がしました。
    気持ちが荒れ狂っている時にでも、心の片隅にちっちゃな何か(?)がいて 「そこまで行っちゃうの?」
    みたいな冷静な部分もあって・・・・ {うん! 今日はやってみる!}って感じで (笑)
    きっと こういうのは誰にでもあると思うのですが。。 あえて逆バージョンでやってみるとすごくわかりやすいと思いました。
    でも心の深いところで この人は大丈夫! って思いがあったからできたのかな?とも思います。

    そしてあゆかさんの本やブログを読んで、いかに自分がいろいろな色や形の <べきボタン> をコレクションしていたのかがわかりました。ありがとうございました。

  3. あゆかさん、こんにちは!!
    相談させてください。
    私の父は、ある哲学者の教えに従っていて、なんでもポジティブに捉えろ!!といつもクチうるさく言ってきます。
    一緒に暮らしているおばあちゃんも(父のお母さん)、いつも来る叔母(父の妹)も、私も、私の父がとーっても自己中心的な生活態度をとっているとクチをそろえて言うときがあるのですが、私たちがそこは直してと頼んでも、それはお前たちがネガティブにとらえてるカラだ、もっとポジティブに考えろ、と、自分の自己中心的な行動までもポジティブにとらえ、反省しません。
    これを自己愛が高いと言うのでしょうか?
    自分のした、誰が見ても人の心を傷つけている行動を指摘されたとき、本当に気づかされたときはすごくショックを受け、反省し、学び、そして成長するものだと思うのですが、この反省→学び→成長にいけるのが自己愛かなと思うのですが、言われたことを相手のネガティブな捉え方の意見だカラと変にポジティブに捉え、俺のようにものを見れば人生楽しくバラ色だー早くみんなもそうなれーと豪語する私の親父を、あゆかさんはどう思われますか?、私はすごく危険な罠にハマってしまっているように見えて、親父が心配だし、私たちがとても困っています。何か父に言える、アドバイスがあったらくださいm(_ _)m

  4. ユーリさんの質問、私も確かに気になります。
    傷つく言葉を言われたとき、傷ついた自分に原因があるんだ…だから、相手は悪くないと思って、悲しみをこらえてしまう癖があります。
    かといって相手を許せている訳ではなく。この気持ちはどこに納めればいいのだろうと思うことがよくあります。
    結局はいつも、私が悪かったから仕方ないか。なかったことにして笑顔でいるか。となってしまいます。これでいいのかなと不安も抱きながらですけど。

  5. >痛みはありましたが、苦しんでいなかったんです。そこで初めて、今まで自分がどれだけ「痛み=苦しみ」という強いエゴの刷り込みで生きていたかを思い知りました。

    いつも拝読し、学ばせていただいております。
    このたびの記事がアップされる直前に、ちょうど父とガンで亡くなった母の末期の苦しみについて、話していたところでした。
    意識が無くなるほど大量のモルヒネを投与された母でしたが、意識が無いにも関わらず、脳死に至るまでの1週間ほどはまるで鬼の形相でした。般若の面そのものでした。
    モルヒネで痛みは緩和できる、意識がないので痛みは感じないというのが通説のようですが、この母の様子を見て、人にはよりけりと思うのですが、やはり末期のガンには耐え難いほどの痛みがあるのではないだろうかと思いました。

    そして偶然、今日はじめてお会いした方のご友人も、昨年ガンで亡くなられたとのことでした。そのご友人はガンとの告知を受けてはおらず、面会に行けばいつも笑顔で気丈に振る舞っておられたとのことでした。しかし、最後の数日間は周囲が見ていられないほどの激痛に苦しんでおられたとのことでした。

    そういえば、私も、二人目の出産のときは経産婦でしたので、きっと陣痛の痛みも軽く済むだろうと勝手に思い込んでいたのですが、実際には耐えられないほど痛くて、陣痛の間ずっと「うそ~っ!」って思っていたのを、思い出しました。
    しかし、その一方で、本人が期待するしないに関わらず、覚者でないにも関わらず、ほとんど陣痛や痛みを感じないまま出産する人もまれにいるようです。

    痛み=苦しみとは限らないとのことですが、本当に、実際に、耐えられないほどの痛み、避けられない痛みを感じたとき、苦しまないこともできると言い切れるのでしょうか?本当に、エゴの刷り込みだけなのでしょうか?

    死ぬことは怖くなくても、もし死までに強い痛みや苦しみがあれば、やっぱり辛いと思います。当事者でなければ、その痛みや苦しみは分かりません。誰も代わってくれません。そして、周囲の誰も代わってあげられません。
    意識が無いままの母が亡くなったとき、般若の面から元の母の顔に戻りました。やっと激痛から母が開放されたと、私たち家族は心底ホっとしました。今日、ご友人の闘病について語った方も、苦しむご友人が亡くなったときは正直ホっとしたそうです。その話をしながら、屈強な男の方でしたが、目に涙が浮かんでいました。
    真に末期ガンの苦しみを避ける方法があれば知りたいと、ずっと思っています。

    • コメントありがとうございます!

      家族が体の痛みで苦しんでいるのを見るのは、誰にとっても辛いことです。私もいてもたってもいられない気持ちになります。それだけに、「痛み=苦しみ」ではない、という言葉に反応されたのだと思います。ただ、「私がいる」が前提の話と、「私がいない」という話は、一緒にできないんです。

      なので、「個としての自分はいない」というのが私の悟りの定義と書きましたが、そこをもっと強調させていただきますね。

      「個としての“わたし”がいる」「これは、“わたしの体”」「“私”が癌になった」「“私”が出産している」「“私”が死ぬ」という「私がいる」ことが前提になっている限り、または、「私がいる」という感覚、思いがある限り、痛みは苦しみになります。

      私がいて、私の中にエゴがいるのではなく、私=エゴです。わたしがいない、ことを前提に考えてみることはできますか?これが目覚めのレベルの話なんです。

      とはいえ、とてもこんな狭いスペースにはこれ以上書けませんので、とりあえずカウンセラー&セラピストとして、心の痛みも体の痛みも、悟るのだ!と頑張るよりも、セラピーや何らかのツールで緩和したり、癒すすることをお薦めします。

      痛みを和らげ、苦しみを避けられる方法がどんどん出てくることを祈って!

  6. こんにちは。いつも楽しみに拝読しています。

    私もうさぎさんの質問に同感でしたので、コメントさせていただきました。
    痛いことや、病気=苦しみというエゴの刷り込み、私にも確かにあるなーと今回の内容で気づきました。
    でも今の私の想像力では、実際に耐えがたい痛みが長時間続くと、絶望的な気分になったり怒りがでてきたりすると思うのです。これらの感情(苦しみ)が出てくるのではないかと。

    あゆかさんが以前の記事で、「今ひどい頭痛がしていますが、それもOK。」というような事を書いていらっしゃったと思います。(正確な文章でなくてすみません)
    覚醒した方は、肉体の痛みを気分と切り離してとらえられるようになるものなのでしょうか。

    私は痛みへの恐怖心があるので、このような疑問がでていると思うのですが、まずこの恐怖心を見ていくのが必要なのかな?とも思いますが・・・。

    またそのうちブログで触れていただければ嬉しいです(*^_^*)

  7. > 今まで自分がどれだけ「痛み=苦しみ」という強いエゴの刷り込みで生きていたかを思い知りました。

    うさぎさんのコメントとあゆかさんの返信を読んで、私もここを勘違いしていたことに気付きました。「目覚めた意識状態では」という前提をすっかり忘れたまま、「へぇ、それじゃエゴの刷り込みさえ外せばいいんだ、でもエゴの刷り込みってそこまで外れるものかしら」と受け取ってしまいました。

    確かに前提は書かれていますが、内容のインパクトが強すぎて前提が吹っ飛んでしまったのですね。

    ほとんどの人は「私」がある状態で生きており、この状態でたとえば痛みと苦しみを「意識的に」分離するのはかなり難しいと思います。(多分不可能? 逆に言えば分離できたときは「私」という個がなくなているとき?) あゆかさんもたまたま覚醒体験をなさって、普段は経験できなかったことをたくさん経験されたのだと思います。で、その経験をシェアしてくださっているのはわかりますが、読み手の側の多くはそのような経験がないために「頭で」「理解」しようとしてしまいます。

    「痛みがある」のと「痛みに苦しむ」のは別物ということかなと思いますが、覚醒体験がないので「痛みの反応が苦しみ」としか思えません(激痛に苦しむのは自然なことと思ってしまうのです)。

    私もたまたま、ガンで亡くなる直前の方の断末魔に似た悲鳴を耳にしたことがありますが、覚醒していればどれほどの痛みが襲ってきても悲鳴を上げることもなく安らかに旅立てるのでしょうか。あるいは痛みの反応として悲鳴があっても、苦しむことはないということなのでしょうか。

    頭で理解するものではないとは理解していますが(変な日本語ですが)、現状は頭で理解するしかなく、???状態です。

  8. ミントさんのコメントにありましたが,
    私は怒り方,怒っていい時がわかりにくくなっていることに気付いています。
    自分自身の中の何かが原因で,この怒りが沸いている。私の癒されるところはどこだろう?と思考が動くようになりました。と,以前は相手に対し,むかつく,ひどい奴らだと攻撃的なエネルギーを出していました。

    今それは少なくなり,少しは怒りに飲み込まれ過ぎることは減っています。
    でも,腹がたつのは,私の原因と思い過ぎているのか,むかつくと相手にうまく伝えることができず,自分自身の傷,怒りの原因もそんなにすぐにわからず,抑圧してしまっているように感じます。

    カーッときた時,相手を責めては「いけない」と思ってしまっているような気がします。決していけない訳ではなく,責めても何も変わらない,解決しないということなのですが,前みたいにパーッと怒っていた時の方が楽だった気さえしています,最近…。

  9. あゆかさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
    私は今、自分の人生なのに、上司の采配でいかようにもなる仕事に振り回されているようで、とても苦しんでいます。私の上司は、人柄は良いのですが、年齢もうんと離れた「無敵のおばさん」のような人です。天然でマイペースすぎるのです。仕事が無計画だから、部下である私に降りてくる仕事も無計画なのです。私は、元々、予め自分の仕事量や責任の範囲を確認して着実にこなすタイプです。そこで頑張って努力して、空いた時間をプライベートの楽しみにあてていました。それなのに、上司が変わってから、どうして良いのか分りません。無計画に、残業がなだれ込むように起こり、雑用ばかりがやってきます。最初は、それについて行こうとしていましたが、夜遅くに会議等の後には、一気に退職してしまいそうな程怒りを感じます。上司の都合で、休むはずだった予定が返上になったりします。会議前になると、急に残業がおこります。予め言ってくれれば良いのにと、思います。長くは、ここで仕事をしてはいないと今から思っています。さらに、新しく異動してきた主任の先輩はは、私より良い待遇です。主任の先輩ですが、ポジションが違うだけで、仕事量や貢献も私の方が多いのです。上司から降りてくる雑用も少なく、休みも多くとれます。とっても理不尽に思っています。
    私は、仕事量が嫌というのではなく、自分で仕事の内容をコントロールできないのが苦しいのです。頑張る時期と休息の時期等、自分で調整したいのです。それができない今の環境に、(過労の時は特に感じます】どうやって、快適さを見つけて、労働時間や上司の管理下から逃れる方法があるのか、考えても分りません。こういう過労や、仕事のシステムや、上司の質や性格も目覚めると負担に感じなくなるものでしょうか?とても困っています。是非とも教えてください。

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