スピリチュアルにはまりすぎたらマズイ?

今年のイギリスの冬は、100年ぶりの寒波がきた昨年と比べるととてもマイルドです。さて、今年一発目のコメントへのお返事です!下記のコメントです。ありがとうございます!

コメントは長かったので省略しました。この文章の前に、クリシュナムルティ(スピリチュアル・ティーチャー)が、美人な未亡人と不倫をしていたと知ってショックを受けた、また「神との対話」(私お薦め図書)も著者の妄想という批判を読んだ、という前段階があります。

<省略>冷静に考えると、なにについても真偽はわからないものであり、自分がショックをうけるという過程にこそなにかあるもので(←これに気がついていらっしゃるのが素晴らしい!!)、あゆかさんの言うとおり自分のココロに従えばいいのでしょうが、、、。もし嘘だったら?もしわたしが無知ゆえに騙されていたら?深みにはまってぬけだせなくなったら?という不安がじわっとわいてきました。いきなり信じていた明るい世界が恐ろしい顔つきになりキバをむいたみたいです。<省略>どれだけ自分がいわゆる「教え」に頼っていたのか、マスターに期待していたのか思い知り、だったら何を支えにしたらいいのか?自分?自分だって疑わしい、何を心の拠り所にすればいいのか?それともなにもしないほうがいいのか?など思いめぐらせています。

これはいろいろな角度からお返事ができるなぁと思いますが、まず、スピリチュアルな教えを、ものすごく大雑把に乱暴にまとめてしまうと、

「真のあなたは、愛という質を持った覚醒した意識です。」というものです。

そしてすべては、この一つの源から生まれ、だから、私たちはみなつながっています。(私たちはみな兄弟)

で、

生み出されたものはすべて幻想、幻影(バーチャルな世界)だから、そこに執着しないで、真のあなたである永遠の平和と愛を自分の中に見出しましょう。というものですね。

では、これがぜんぶ真っ赤なウソだったら? そして、そのウソを信じてしまったら、どんな深みにはまって、どんなふうにまずくなるのでしょう? 毎日仕事へ行かないで、瞑想ばかりしてしまう? どうせ幻想なんだからいいやと人殺しをしてしまう?(愛は人を殺しませんし、兄弟なら尚更殺しませんが)

また、騙されているのかもと不安に思うということは、誰かが自分を騙そうとしていると思っているということです。スピリチュアルマスターたちはどんな目的で私たちを騙したいのでしょう?「真のあなたは愛です」という騙しの手口は、何が目的なのでしょう?

不安の思いを具体的によ~く見ていくと、必ずウソが見つかります。(ネガティブな思いにはウソがある)

さて、私たち人間の性として、どうしても物事を「考えて」理解しようとしてしまいます。考えて「良いなぁ~」と判断したり、考えて「それは悪いことだ」と判断したりしますね。で、問題は、 – ここで前回の記事のたとえ話を思い出してみてください – 真実は考え(金魚鉢)を超えたところにあることなんです。外が見えない金魚鉢のなかでいくら真理を理解しようと思っても、見えないことだらけです。

ちなみに、神との対話のメッセージは妄想だといっている人たちは、このたとえ話でいくと「イソギンチャクを敵とみなし、他の金魚たちをイソギンチャクに感化されたと言って非難」している金魚たちかもしれませんね。

話を戻して、“信じてきた、心のよりどころにしてきた”というとき、たいていは「思考」で信じるとか信じないとか判断しているはずです。例えば、“太陽が東から昇る”ことは、信じなくても、考えなくても良いですね。私たちは、それを体験として分かっています。

スピリチュアルな教えも知識ではなく、体験となったとき、「信じる、信じない」の振り子状態から抜け出せ、真実がなにかがおのずと見えてきます。

「思考」は、疑うという性質と、安心をくれるものに「妄信する」という性質があります。両方とも頭の作業です。しかし、ハートは、疑うこともしないかわり、妄信することもありません。なぜなら、ハートは何かするというよりも状態だからです。

ちょっと分かりにくいかもしれません。例えば、“愛さなくては”というのは思考ですね。ハートは、そういった思考がある前に、すでに愛の状態です。“あぁ、穏やかに過ごしたいなぁ”というのは思考ですが、ハートはすでに穏やかです。

なので、ハートは言葉を持っていませんが、同じものに呼応します。例えば、赤ちゃんの無邪気な笑顔を見たとき、思考よりもハートが反応しますね? または、水の音を聞くと、心が休まりますね。

そして、不安から出てくる思考と、愛や平和から出てくる思考は、どちらが私たちに力をくれるでしょうか? また、どちらが、私たちの足をしっかり地につけてくれるでしょうか? また、どちらが私たちを幸せにしてくれるでしょうか? おそらく皆さんお分かりでしょう。(新刊の2章に細かく書いたし)

ということで、スピリチュアルな教えは真実なのだから、そんな批判に逆に騙されないようにねというような、多くの人が求める分かりやすいお返事はしませんので、ご自分で選んでくださいね。

で、スピリチュアルマスターが不倫?!という部分ですが、

以前のブログにも書きましたが、私たちは誰かにポジティブな投影もよくします。芸能人などもされがちですね。昔は、スターはうんちをしないと思っていた人もいたそうです。で、私たちが誰かにポジティブな投影をしているとき、何が起こってるかというと、「それは自分にはない」と思っているのです。私には、智恵がない、私には、高潔さがない、などなど。

何ども書いてきましたが、私たちは自分が持っていない(否定したり、抑圧したり、ないと信じていたり)と思っているものを他者がもっている(投影)と見てしまいます。

なので、持っているように見える人からもらわなければ、と思ってしまいます。自分は持っていないから当てにならない、当てにならない自分は不安定だ、だから、なにかを寄り処にしなければ・・・というサイクルになります。そして、投影していた相手が自分と同じようにエゴがある人間だと知ったとき、よりどころにしていたポジティブな投影さえも崩壊し、ますますよりどころがなくなります。

真のスピリチュアルマスターは、「私は智恵があるから、私の話を聞きなさい」とは言わず「あなたにも神と同様の智恵があります。そのことに気づいてください。」と言っていますね。

ハートは真実への智恵、力、愛、平和へのパイプです。セルフ・ラブが高まれば、自然と思考中心からハート中心へ移行します。そして自然になにが真実か分かり、それが体験となっていきます。どんなに知っていることでも、体験となったとき、まったく違うものとなります。

ということで、とりあえず、私の場合スピリチュアルな教えに深くはまって、「好きなことをして食べている」というのが今の状態です。悪くないですよん。♥♥♥

スピリチュアルにはまりすぎたらマズイ?」への2件のフィードバック

  1. (日本時間では)こんばんは。

    今回の記事、

    >投影していた相手が自分と同じようにエゴがある人間だと知ったとき、よりどころにしていたポジティブな投影さえも崩壊し、ますますよりどころがなくなります。

    の部分を読んで何だかストーンと腑に落ちてしまい、気持がスッと楽になりました。

    今の私はまさに、好きな男性に対して「ポジティブな投影」をしてしまっていると思います。
    それがつい最近、私が送ったとあるメールにすぐに返事が来なかったことがありまして、
    「普通だったらああいう時は(私に余計な心配をさせないように)すぐに返事を送るものじゃないのか?あの人、私のことが大切じゃないからああいうメールも平気で返事せずにいられるんじゃないの?なんか最近、前に比べて素っ気ない気がするし」
    などと悶々としていた所へ今回の記事を読ませていただいて、
    「あ、そうか。彼もまた『自分と同じようにエゴがある人間だ』ってことなんだな!!彼がすぐに返事をくれなかったのも結局そういうことなんだ」
    と気付きました!!

    何だか、自分の中で彼を妙に理想化してしまっていたんでしょうね。
    「彼は素敵な人なんだから、もしそんな彼が私を大切に思ってくれているのだとしたら当然、こういう風に振舞うだろう」みたいなイメージを勝手に持っていたんだと思います。

    「相手も自分と同じようにエゴがあるのだ」と思えば、色々な人間関係が楽になりそうですね!

    ありがとうございます。

  2. こんばんは。
    毎週、あゆかさんのブログを拝見して『ふんふん。なるほどぉ~。』と思いながも、時間の経過とともに、エゴワールドに戻りがちな私を引っ張り出してもらってます。

    あゆかさんのスピリチュアルのお話は、私のハートに響きます。
    しかし、昔からの祭祀については、私のハートに響かず、どう折り合いをつけたらいぃのだろうか?と思うのです。
    旦那さまの実家へ行くと、『霊媒師さまに、御先祖のさんの供養をしなさい。息子さん(私の旦那さま)の為になりますと言われた』とか『ずっとこのような形で御先祖をお祀りしてきたので、今後もずっと・・・。』『お祀りしないと、御先祖さまの中に災いをもたらす人もいる』『(決まった期間に)お墓参りへ行かなくちゃ』とか、自分の実家では『長男が仏壇を見るべき』『改宗すると先祖が迷う』『供養をしてあげないと上の世界へ行けない』とか、どれもこれも私のハートに響きません。
    続けてきた祭祀は尊重すべき(←“べき”だと思っているので、ハートトークではないですね。)と思うし、御先祖を蔑ろにしようとは思わないのですが、祭祀の度に気持ちが重くなります。そう思うのは、エゴトークなので、探っていくと何かがわかるのでしょうね。
    こう言った祭祀の考えに対して、どう対処していこうか、見えずモンモンとし、今後、自分の子供には(私もですが・・(笑))、祭祀に縛られず、自分のハートにしたがって生きて欲しいと思い・・。

    あっ!
    書きながらわかりました。ハートは言ってます。
    『自分を含め、子供にも、祭祀に縛られずに生きたい』と!!
    けど、両親や義理の両親に、そんな考え方を伝えたら、どう思われるのか不安になる私がいて、私のハートトークをどう伝えればいぃなかわからない私がいました。
    何だか、自分の整理のようなコメントになってしまいました。すいません。

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